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東方朧観簿  作者: 庶民
第一章
36/59

章間、人妖魔

 龍泉が幻想郷から姿を消し、それから時間は過ぎて、今は夜。

 不眠不休で丸二日も結界の維持を続けた霊夢は博麗神社の玄関で靴を脱ぐと、そのままそこに倒れ込んだ。

 水を飲む余裕はあったが、食事は取れない。風呂に入る事も体を拭く事も出来ず、肉体の疲労は既に限界に達しつつあった。


「……これ、死ぬかも」


 冗談とはいえ不吉な言葉を口にして、空腹と疲労で何も感じなくなった腹を擦りながら、霊夢は仰向けになる。

 もう少し達成感があると思っていたが、存外、そのようなものは感じられなかった。

 無茶をして、くたばった。

 その言い方が今の状態を最も如実に表していると霊夢は思う。

 結局、自分は何をしたかったのだろうか。結果的に何が出来たのだろうか。

 働かない頭で曖昧にそんな事を考えながら天井を見詰め、その視線が天井の染みを探す頃になって、霊夢は玄関の戸が叩かれる音を聞いた。


「どうぞー。開いてるから勝手に入っていいわよー」


 応答すると、直ぐに戸が開かれる。

 訪ねてきたのは咲夜だった。

 彼女は玄関で大の字になって客を迎え入れる霊夢に怪訝な顔を見せる。

 気を取り直してそのまま上がり込もうとすると、霊夢がむくりと上体を起こして、足元を指した。


「うちは土足禁止よ」

「玄関で寝ているのは許可しているの?」

「それはそれ。これはこれ。上がるなら靴を脱げ」

「あら、残念ね。蹴り起こそうと思っていたのに」


 咲夜は靴を脱ぎ、玄関の端に礼儀よく揃える。

 その時、霊夢には咲夜が提げている籠の中身がちらりと見えた。

 酒や米や肉や野菜。それらが、恐らくは咲夜の能力で拡張された籠の中に大量に詰められている。


「迷惑料? 現金のほうが良かったわ」

「それだと三途の川の渡し金になってたかもね。サービスよ。台所を貸してくれたら調理するわ」

「ああ……、それなら頼むわ。包丁の場所分かる?」

「多分ね」


 そう言うと、咲夜は霊夢に手を差し伸べた。


「立てる?」

「そんな気分じゃないけど、ね」


 咲夜の手を掴み、霊夢は体を引き起こす。

 浮遊感と吐き気に頭を揺らされて呻き、その勢いで壁へ寄り掛かった。


「大丈夫?」

「大丈夫じゃなくないのかもしれない」

「どっち?」

「……ごめん、自分でも分からなくなったわ。テーブルに付いているから、簡単な物で良いし、ぱぱっとやってちょうだい」


 蝸牛のような鈍重さで霊夢は壁伝いに歩いていく。

 不安そうに見ていたが、やがて咲夜は台所に向かい、調理に取り掛かった。

 その背中へと、テーブルにへばりついた霊夢は問い掛ける。


「全部さ、綺麗に終わった?」

「愛し合う二人は幸せなキスをした」

「……なにそれ?」

「でも、大体その通りだったわ。全部じゃないけど、龍泉さんは色々と整理してから紅魔館を出ていった。ちなみに私が此処に来て霊夢の為に料理しているのは、彼に頼まれたからよ」

「ふうん……」


 ぼんやりと霊夢は龍泉の事を思う。

 しかし、疲れているからか上手く思い出せない。


「龍泉さんからの伝言よ。ありがとう、ですって。礼金も預かっていたけど、それは寂しそうな賽銭箱のほうに入れといたわ」

「ああ、そうなの? 野暮だけどいくら入れた?」

「紅魔館で彼に今まで給与された額の四割。魔理沙にも同額。あと、お金だけで済ませたくないからって、食料代も彼の給料から全額出たわ」

「……景気の良い事ね」

「彼にとっては払うに足る二日間だったのよ。当然の報酬として受け取りなさい。返す相手も居ないから」

「……そうね」


 居ない、という事が何となく、霊夢には重く感じられた。

 仲が良かった訳ではなく、それどころか何度も殺されそうになったというのに、霊夢は龍泉が居なくなった事に不思議な虚しさを覚える。


「……咲夜は、あまり何も思ってないみたいね」

「まあね」

「共闘するくらいだったのに」

「関係無いわよ。だって、何年かすれば一度は戻ってくるらしいから」

「はあ?」

「そういえば言ってなかったわね」


 咲夜は料理の片手間に二日間の事を掻い摘んで霊夢に教えた。

 一人だけとはいえ、死んだメイドが蘇った事。紫が一時的な帰還を許すと約束した事。

 それを聞いて、霊夢は虚しく思っていた事自体が虚しく思えて、テーブルの上に頬を押さえ付けた。

 なんだ、それは。

 龍泉は結構上手くやっているではないか。


「紫と上手くやれるかは心配だけど、正直そこだけよ。まあ、攻撃的な妹様を素直になるまで可愛がっていた事から考えると、それも心配ないと思うけどね。――はい」


 霊夢の目の前に料理を盛られた皿が幾つか置かれる。 

 妙に出来るのが早かったが、それは咲夜が途中で時間を効率的に操っていたからだろう。

 普段使っている紅魔館の厨房とは色々と勝手が違う筈だが、それでも咲夜は何品もテーブルに揃え、霊夢の向かい側に座った。

 そこでふと、辺りを見回す。


「あの小鬼は? ほら、牛のような角が生えた」

「ああ、萃香なら今は居ないみたいよ。常に一緒って訳でもなかったけど、最近は少し嫌がらせしたから珍しくもないわね」

「嫌がらせ?」

「禁酒よ、禁酒。誰が目の前に居ても酒を飲むから、たまには相手の事を考えて控えろって言って、暫くさせていたのよ。でも、最近は切羽詰まった様子の外来人が多く来て慌ただしかったし、しかも酒は飲めないしで、あまり気が休まらなかったみたいでね。私が帰ってきて急に気配が薄れたところからすると、留守番が終わったと判断して、今頃は何処かの居酒屋にでも行ってるんじゃない?」


 台所でお茶を淹れるように咲夜を顎で使い、霊夢は啄むように一口ずつ料理を口に運び始める。

 疲れすぎて味がよく分からない事に顔をしかめ、霊夢は渡された煎茶の入った湯飲みを受け取り、それを一息に呷る。

 そして、噎せた。

 茶の違和感が舌に残る。

 僅かに塩辛い。


「ちょっと咲夜。何混ぜたのよ」

「混ぜてなんかないわ。食塩水で茶を淹れただけよ。疲れた体に良いでしょ?」

「良いかもしれないけどさ……。もしかしてあんた、私にボコボコにされた事を根に持っているんじゃないでしょうね?」

「お代わり入れてくるわね」

「あ、こら、逃げるな」


 遠退く咲夜の背中に憤然としながらも、霊夢は普通の茶を要求して、再び箸を進めた。

 疲れすぎていたというより、長時間使われていなかった味覚が上手く機能していなかったのだろう。

 俄に感じ始めた味に霊夢はますます納得のいかない顔になった。


「私はね」


 戻ってきた咲夜は湯飲みを霊夢の前に置くと、そう前置きしてから、言った。


「――結末が、これでよかった、って思えた」


 霊夢の手が、ぴたりと止まる。

 恐る恐る、疑うように咲夜を注視する。


「私達の思い通りには何もかも上手くいかなかった。屋敷は散らかされたし、メイドは何人も死んでしまったし、龍泉さんも結局は連れて行かれてしまった。……それでも、これはバッドエンドにはならなかった。皆が互いを救おうとして、それらが形になった二日間があったから、私達は笑顔で別れる事が出来たのよ」


 咲夜は笑顔を見せる。

 憂いの見えない、本当に素敵な笑顔で。


「ありがとう、霊夢。あなたは見事に解決してくれたわ」


 告げられた感謝の言葉に、霊夢は頬が緩むのを感じる。

 良かった。

 助けられた。

 何も出来ていないなんて、そんな事はなかった。


「どういたしまして」


 誇らしそうに、霊夢も笑う。

 遅れて訪れた幸せな達成感が、彼女の体を温かく包んでいった。





 粘り気のある血溜まりが、血塗れになった薄の姿を妖しく映していた。

 閉じる事を忘れたように顎はだらしなく開き、引き摺り出された腸をどうにか納めた腹は歪に膨らんだままである。

 妖怪の自然治癒力で治るには後一週間は必要だと考えながら、薄は夜の森で腰を下ろした。

 目の前にある血溜まりは薄のものではない。手負いの彼女に目を付け、不意を突いたつもりで襲い掛かった弱小妖怪の群れから溢れたものだ。

 薄は慣れない人間姿ででも、それらをいとも容易く皆殺しにしてみせた。

 いつもの事だった。

 薄からすれば、下顎が無く、前足が手であり、腸が少し邪魔だっただけでしかない。

 何度も繰り返した日常の風景。

 懐かしい血生臭さが疲れた体を慰めて、薄は肺一杯に詰め込んだそれを吐き出す。

 明日もある。明後日もある。

 奪った命に感謝しながら、薄は眼を閉じる。


 ――お前の口は、誰かに思いを伝えるものではなく、ただ誰かを殺すだけのものだ。


 突如、閉じた瞳に静かに怒る龍泉の姿が映り、理解の及ばなかった言葉が蘇る。

 それが今夜はあまりに強く頭に響いて、薄は閉じた瞳を開いた。

 どれだけ龍泉に激しく詰られても、薄はただ、それを当然だと思うだけだった。

 自分は獣。獣は邪魔者や餌は食い殺す。

 それが自然の摂理に則った、恥じる事も憚る事も必要無い、正しい生き方の一つ。

 薄は本気でそう思っている。

 その上で、龍泉の主張も間違っている訳ではないと理解もしている。

 どちらも間違っていない。

 ただ、合わなかった。

 それだけの話だ。


 ――しかし。


 薄は納得出来ず、声なき声を月へ向かって呟いた。


 ――間違っていないのなら、どうして龍泉を恐れて、彼から離れようとしているのか。


 今の薄は紅魔館からひたすら距離を取った場所にいる。

 次に会えば殺すとまで言われた以上は離れるしかなかったのだが、それでも肌が粟立つ程の恐怖を感じる理由は何なのか。

 分からない。

 分からないまま、薄は自らを抱いた。

 薄は今まで出会った人間や妖怪の大半から殺意を向けられ、実行されてきた。

 龍泉もその一つでしかなくなった。

 それだけに、過ぎない筈なのに。


 ――見つけた。


 龍泉の声が響く。

 近い。

 薄は出せない声を振り絞り、土を掴んで背後に投げ付けた。

 手負いの人間の姿では勝てる筈が無い。逃げ切れるかも分からない。

 息を荒くして薄は土煙と夜闇の向こうに眼を凝らして、そこに何も居ない事に愕然とした。

 ただの幻聴。

 そうと分かった瞬間、薄は腰を抜かし、血溜まりに倒れ込んだ。

 跳ねた血飛沫が目に当たったが、瞬きする気力さえ、今の薄には残っていなかった。

 しかし、得体の知れない何かに精神を侵される感覚を唐突に感じて、薄は振り払うように血の海を激しく転がり始める。

 掠れた息を荒げて、肉と骨片混じりの血を全身に浴び、やがて、それらから嗅ぎ慣れた血の匂いを感じ取ると、薄はそのまま動かなくなった。


 その時の薄に何が訪れたのか、それは誰にも分からない。

 しかし、それが薄へ、平穏をもたらしたのだけは確かだった。





 魔理沙は夜の人里の上空で、何気無く実家を見下ろしていた。

 彼女の実家は人里では割かし目立つ大きな店であり、夜になって灯りが点いているので、空の上でもよく見える。反面、魔理沙は黒を基調とした服を着ているので、あちらからは全く見えない。

 わざと、魔理沙はそうしていた。

 親と派手な喧嘩をして、魔理沙が家を飛び出したのはもう十年近く昔の話だ。そろそろ、家を飛び出してからの人生のほうが長くなってくる。

 それほどの年月が経てば流石にほとぼりも幾らか冷めており、一年に一度、店に立ち寄るくらいは無言で許されている。おそらく今行っても、それなりに穏便に話せるだろう。見に来ただけと言えば、用事も無いのに来るなと言われてしまいそうだが。


「……家族か」


 魔理沙は郷愁を遮るように口を固く閉ざす。

 ふと、幼い頃に病気で亡くした祖父母の事が頭に浮かんだ。

 いつか、魔理沙の両親もその時が訪れるだろう。

 一人娘である魔理沙が家出した後、両親が養子を取ったという話は聞いていない。

 衰えていくしかない肉体で、支えてくれる子供も無く、ただただ毎日働き続ける両親の姿を魔理沙は思い出す。

 いずれ――。

 そこから先について考える事を、魔理沙は慌てて止めた。

 罪悪感で、吐きそうになっていた。


「……やれやれ、とんだ親不孝者だな、私は」

「気付いているなら仕送りでもすれば?」


 突然の声へ、魔理沙はゆっくりと体を向けた。

 気心の知れた、見慣れた友人が視線の先に浮かんでいた。


「なんだ、アリスか。何の用だ?」

「なんだとは随分な物言いね。人形作りに必要になりそうな物があって、それで色々な店を見て外に出たら、魔理沙の気配がして何となく気になったから来てみただけよ」

「……いつから見ていた?」

「さあ? いつからでしょうね」


 アリスは真面目に答える気が無さそうに肩を揺らした。


「そう言えば、あんたの父親見たけど、元気そうだったわよ。隠居する気があるのかってくらい」

「そうか」

「そうか、じゃないでしょう? 娘なら」

「私は一般的な娘じゃないから、そうか、で大丈夫なんだよ。向こうだって同じさ。生きていたら生きていたで良いし、死んでいたら死んでいたで良い。そういうものだ」

「自分への言い訳よね、それ」

「問題あるか?」

「無いわよ。……一応は」


 何処か含みのある言い方で、アリスはこの話題を強制的に終わらせた。

 そして、思い付いたように自分の興味について話し始める。


「魔理沙。龍泉とかいう奴が何処に消えたか分かる? 彼に直接聞きたい事があるんだけど」

「知らないな。少し前に咲夜とも会ったが、あいつも詳しい行き先は聞いてないらしい」

「そう……。もう少し早く出会っておけば……」

「何か用があったのか?」


 魔理沙の質問にアリスは悩ましそうに指を弄ぶ。

 暫くして決心が付いたのか、アリスはスカートのポケットに手を突っ込み、あるものを摘まみ出した。

 それは、半分に欠け、煤けた人形の頭部だった。

 何となく魔理沙は顔を近付けたが、顔を顰めて小さく仰け反った。

 明らかに壊れているそれが、作り物の目玉をぎょろりと魔理沙へ向けたからだ。


「アリス。お前、趣味悪過ぎるぞ」

「私の悪戯ではないわ。これが勝手にそうしただけ」

「……何?」

「暴走した人形があったでしょう? これがあれよ。爆破処理したのにまだ勝手に動いて暴れるの」

「怨霊に取り憑かれた、のか?」

「そういう訳じゃないみたいなのよね」


 落ち着いた仕草でアリスは人形の頭部を握りこむ。


「魔理沙、悪いけど八卦炉を貸して」

「何に使うんだ?」

「これはもう直せないから壊すしかない。でも、もしもこれに意思というものがあって、中途半端に壊しただけではまだ意思が存在し続けられるとしたら……、ちょっとね」


 中途半端な破壊では、人形は微動だに出来ない破片のまま、存在が終えるのを待つしかなくなるかもしれない。

 もしかしたら、その終わりも訪れず、永遠に破片のままで居続ける事になるかもしれない。

 それは不幸や絶望といった言葉では言い表せない、想像を絶する生き地獄だろう。


「ああ、それなら分かった。滅ぼしてやれ、確実にな」

「察してくれて助かるわ」


 魔理沙から八卦炉を受け取り、アリスは拳を解く。

 人形の頭部は自らの尖った断面でアリスの手のひらを傷付けようと首だけでもがいている。

 生き足掻こうとするそれに言い聞かせるように、アリスは顔を近付けて囁き掛けた。


「ごめんなさい。もう、あなたは私の人形ではなくなってしまったの」


 人形からは表情も知性も感じ取れない。

 しかし、それは暴れる事を止め、無機質な瞳でアリスを見詰めていた。

 懇願、期待、切望。

 見ている者にそれらを想起させる見事な芸術性を、今のこの人形は秘めている。

 美しい、とアリスは思った。

 それでも、アリスは人形の頭部を空へと投げ上げる。

 もう、これはアリスの人形ではない。

 だから、持っていても意味が無い。

 くるくると回る人形と目が合う。

 アリスは、そっと微笑んだ。


「だから、死んでくれる?」


 一瞬の後、アリスが掲げた八卦炉から山をも焼き尽くすような業火が放たれる。

 人形の頭部は断末魔の叫びを上げる事も出来ず、炎に包み込まれ、一房の髪を残して消滅する。

 その最後の一欠片も、アリスの隣を燃えて灰になりながら落ちていき、そして、風と共に消え去っていった。


「……盛大な荼毘だな、おい。お陰で里の自警団に見付かったぜ」

「そう。なら、面倒な事になる前に逃げるとするわ」


 不満げな魔理沙にアリスは八卦炉を投げ渡し、それを受け取った事を確認して踵を返す。


「なあ、アリス」

「なーに?」


 別れる前に魔理沙はアリスへと声を掛けた。

 何処か危うく、無邪気さを感じさせるアリスの背中へ。


「お前、龍泉と会ったら何を聞くつもりだったんだ?」

「誰にも話さない、と約束する?」

「ああ、誰にも話さない」

「だったら教えるわ」


 里から人間が飛んできている。

 騒ぎを起こした以上、ここで見付かる事は魔理沙にとって決して好ましい事ではない。

 しかし魔理沙は、振り返るアリスの表情に完全に気を取られていた。

 愛嬌に溢れていながら、それは何処か魔性を感じさせる、実に妖怪染みた表情であった。


「友達の作り方、よ」


 何の変哲も無い筈の言葉が、激しい違和感を伴って、魔理沙の傍を通り過ぎていった。

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