其の三十五、親愛
一頻り泣き終えた龍泉は大人気なく泣き喚いていた事を恥じ、妖精に顔を見られないよう、彼女に背中を向けてベッドに腰掛けていた。
じりじりと鼻の奥に感じる熱を堪え、彼は遅れて、更にもう一つの恥を思い出す。
――何が子育てだ。もうそんなものが必要ないくらい、彼女は成長しているではないか。
「えっと、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。こう、なんと言いますか、考えが先走って馬鹿を見ただけです」
ベッドの上から這い寄る妖精を手で制して、龍泉は深呼吸した。
恥じるのは、もう別に良い。
涙の跡を袖で拭い、ベッドから立ち上がる。
そして振り向き、笑みを作った。
「改めまして、お帰りなさい」
「ただいま。……その」
妖精も笑顔で応え、それから何か言いたげに口篭もる。
その様子を見て、龍泉は溜め息を溢した。
「『お父さん』ですか?」
「え――?」
「あなたが家族に憧れていたのは聞いていましたし、それに、先日のフランから同じ態度で同じような事を言われましたから」
龍泉の答えは正解だったようで、妖精は「そうですか……」と呟き、自らの胸元に視線を落とす。
先約があるなら、龍泉を父と呼ぶのは諦めたほうが良いかもしれない。ましてや、相手がフランドールなら尚更だろう。
そんな悩みを見抜いたのかは分からないが、龍泉は妖精を安心させるように言った。
「ただ、それは断りましたよ。私の能力不足と、何よりレミリア様の御気持ちを考えれば、そう呼ばれる訳にはいきませんから」
「でしたら――」
「ですが、父親とはあまり呼ばないで下さい」
「どうしてです?」
不思議そうに妖精が問い掛けると、龍泉は誤魔化すように力無く笑う。
「私はレミリア様やフランの使用人です。その忠誠心が家族愛に負けるとは思いませんが、絶対の自信はありませんので。酷い話かもしれませんが、分かって頂けませんか?」
「でも、一緒に紅魔館に暮らしているのなら家族みたいなものじゃありませんか。今更、関係が少し変わったところで……」
龍泉を説得しようと妖精は語り続けるが、彼の顔に陰りが増していく事に気付いて、話すのを止める。
その間隙を縫うように、龍泉は素早く言った。
「すみません」
「……何を、謝るんですか」
「私は紫に負けました」
妖精は息を呑んだ。
死んでから何日経ったのか知らないが、龍泉が紅魔館に居るのだから、彼女は龍泉が紫との対決に勝ち残ったのだと思い込んでいた。
「約束……」
茫然とした妖精の呟きで、龍泉は申し訳なさそうに顔を伏せる。
謝罪や弁明は出来なかった。
龍泉はレミリア達の為に雨雲を払った。
その時、妖精の遺言を意識出来ていなかった。
今更どのような言葉を並べても、意味があるとは思えなかった。
「いえ、あの、構いませんから。思っていたのとは違いますけど、また会えましたから」
妖精は気を取り直し、龍泉へ慰めの言葉を掛ける。
予想とは違っていたが、妖精は龍泉を責めたいとは欠片も思っていない。
龍泉が妖精を発生させたのは確実で、しかもどういう原理が働いたのか、記憶を持ったまま生まれ変わらせてくれたのだ。
「えっと、負けたのなら、龍泉さんは此処を離れる事になっているんですよね?」
なるべく平静を装って訊ねると、龍泉は幾らか落ち着いた声音で応じた。
「はい。明後日には紫が迎えに来るそうです」
「何処へという事は分かっていますか?」
「分かりません。隔離と言っていましたから幻想郷の外かもしれません。少なくとも、そう簡単に紅魔館と交流出来る場所ではないでしょう」
「なるほど。……では、一つ御願いがあります」
「何でしょうか」
「私も連れて行って下さい」
今度は龍泉が息を呑む番だった。
妖精の真剣な眼差しに彼は少し気圧された。
「レミリア様に仕えようとは思わないのですか」
「それ以上に龍泉さんの近くに居たいのです。間違っていますか」
「……いいえ。親元が良いと言うのは一般的な考えです。私も提案だけならするつもりでした。ですが、戻ってこられる保障が確実にある訳ではありませんし、隔離先が過酷な環境である可能性も否めません」
「それがどうしたというのです」
あまりに力強い妖精の物言いに龍泉は閉口する。
記憶があるなら、提案だけで終わると彼は思っていた。曖昧な返事をされて、結局は紅魔館に残る選択をすると思っていた。それが妖精の為になるならと、少しばかり願ってさえいたのだ。
「本気ですか」
「当たり前です」
龍泉は決意の強さを探ろうとし、素早く言い返される。
これでは何を言っても無意味だろう。
甘い考えなら矯正しようと考えていたが、龍泉は諦め、短く吐息する。
「分かりました。しかし、あなたの妖怪化を防ぐ為の術を紫が掛けるならです。……私のせいで何度も死なせたくありませんから」
「龍泉さんのために死ねるなら本望です」
「でしたら、私のために生きてください。私がどれだけ悲しんだと思っているのですか」
「……良かったです」
「何が?」
「私達が妹様に何度殺されても、龍泉さんはいつも悲しんでくれませんでしたから。私が妖怪になってから死ぬときも少しだけ、あまり悲しんでくれないのかなって思ってました。……それでも、良かったんですけどね」
笑顔でありながら、妖精はそれを切なげに伝える。
龍泉は何も言えなかった。
気不味い雰囲気になりかけ、それを誤魔化すように妖精は続けた。
「ちょっと悪戯が過ぎましたね。大丈夫ですよ。気にしていません。生き返れるという保障があるのとないのとでは大分違うって分かってますから。それでも見た目には同じなので、慣れてしまわないか心配だったんですよ。でも……、悲しんでくれたんですね。ありがとうございます」
「感謝される事ではありません。それに妖怪化の原因は私です。私が、あなた達を死なせたのです」
「そんな事、言われなくても分かっていましたよ?」
「……そうでしたか」
死の遠因である事が些細な事であるように言われ、龍泉は言葉とは反対に、拒絶するように口を噤んだ。
死なせたからには恨まれるのが当たり前だと考えながらも、同じくらい、嫌われたくないとも考えている事を自覚した龍泉は、その考えを振り払うように言った。
「これ、返しておきます」
腰に提げていたナイフを一つ掴み、その柄を妖精へと向ける。
「メイド長から渡され、帰ってきたら直接返そうと思っていた品です。どうぞ受け取ってください」
それは紛れもなく、妖精の記憶にあるナイフと同じだった。
彼女にとって、他者に自己を証明する唯一の道具。
龍泉に存在を認められた事に深く安堵しながら、妖精はそれに手を伸ばす。
しかし、その途中で龍泉の腰に提げられた残りの四振りのナイフを見付けて、手を戻した。
一緒に死んだ仲間達が戻ってきていない事を、龍泉はどう思っているのだろうか。
「その、私以外に死んだ皆の事……」
「忘れていません。覚えています」
「……それなら、どうして私だけ」
特別だから、とは妖精は思わない。
死んだ場所が偶然龍泉の腕の中だっただけで、他の誰ともそこまで変わらなかった筈なのだから。
「分かりません。私が選んだのかも分かりません。再会を約束出来たのが、あなただけだったからかもしれません」
「でも、皆もきっと――!」
「分かっています。私も会って、謝りたくて仕方ありません。ですが、それは出来ません。どう足掻いても願っても、死者は生き返らない。それが普通なのです」
「……でも、私は違いました」
「そうですね」
深刻な表情の妖精とは異なり、龍泉は気軽に応じる。
言外に一人だけ生き返らせた事を責められ、それを苦しく思っていても、自然に笑ってみせた。
「普通でなくて良かったです。特別であっても良いんです。普通が一番なんて言いますけど、だからといって特別が悪いという訳ではありません」
龍泉は妖精にナイフを握らせる。
持ちたがらない彼女を諭すように、その手を両手で包み込む。
「私はあなたが帰ってきてくれて嬉しかった。ですから、そんな辛そうな顔はしなくて良いんですよ」
「他の皆は、でも……」
「どうにか出来た事なら後悔しても構いません。でも、違いますよね?」
「……はい」
「だったら、楽しみましょう。誰も責めたりなんかしませんから、安心して笑っていましょう。もし何か言われても、その時は必ず助けに行きますから。それで、どうですか?」
龍泉は無言の妖精を暫く眺めて、彼女の頭が僅かに上下したのを確認する。
そして、彼女が抱いている罪悪感を全て拭い切れていないだろう事を確信する。
きっと、取り去るには長い年月が掛かるだろう。もしかすると、何百年も思い煩い続けるかもしれない。全ては龍泉と妖精の努力次第だ。
「ねえ、……お父さん」
手を繋いだまま、妖精は龍泉の事をそのように呼んだ。
不愉快とも擽ったそうとも取れる複雑な表情を見せて、龍泉は応じる。
「何ですか?」
「……新しい名前が、欲しい」
「前の名前があるでしょう。もしかして、生前とは完全に別人として生きたいのですか? 別にそれも一つの選択肢として悪い訳ではありませんが……」
「違う。普段お父さんって呼ばせてくれないなら、せめて同じ苗字を名乗りたいだけ。でも、前の名前だと意味が被って嫌だから」
「前の名前の意味って、確か……」
妖精には基本的に苗字が無く、名前も大抵は自称である。そして、その名前は自らのルーツを意識してか、発生源の自然を様々な言語に訳して用いる場合が多い。
目の前の彼女は元々は川の妖精であり、前の名前はルチェ。これは川という意味を持つ単語であり、もし日本語に訳して龍泉の苗字である川上に繋げた場合は、川上川となる。
成る程。名前の意味を知っている彼女からすれば、これは変えたいと思う事もあるだろう。
「そうですね。では……」
しかし、その動機が分かっても名前を考える事は難しく、龍泉は片手を顎に当てて考え込む。
様々な案が浮かんでは消えていく。
顎に当てていた手が額に向かい、髪を掻き上げながら、龍泉は尚も考え続けた。
「川上……、凛華でどうでしょう?」
「……リンカ?」
「よろしいですか?」
「リンカ、凛華……」
馴染ませるように妖精は何度もその名前を繰り返す。
やがて、それを飲み下したように深く頷いた。
「分かりました。私は今日から川上凛華です。よろしくお願いしますね、龍泉さん」
凛華と名付けられた妖精は龍泉の手を解くと、渡されたナイフを傍らに置き、いかにも他人行儀な仕草で龍泉との握手を改めて求める。
それは父と呼ばせてくれない事に対する精一杯の皮肉だった。
そして凛華の思惑通り、あからさまな他人の振りをされた龍泉は少しだけ寂しそうな顔を見せる。
結局、親を得た凛華同様、子を得た龍泉も新しい関係を少なからず喜んでいたのだろう。
その確信を得た凛華は余所行きの愛想笑いをより柔和なものに緩め、悪戯だった事に気付いた龍泉は、軽く笑ってから彼女の手を握る。
「いえ、こちらこそ、凛華さん。頼りない不束な親ですが、よろしくお願いします」
「……はい!」
純粋に喜ぶには、今はまだ心に余裕が無い。
しかし、凛華は元気よく返事をする。
親とは呼ばせてくれなくても、龍泉が親として生きてくれると確信出来たからだ。
繋いだ手を勢い良く振り回し、それだけでは収まりきらず、凛華は龍泉へと飛び付いた。
突然の事に慌てて受け止めた龍泉の耳の傍で、凛華は恥ずかしがらずに言った。
「お父さん大好き」
龍泉は再び、あの何とも言えない複雑な表情を浮かべる。
しかし、それは一瞬だけ。
「私もですよ」
龍泉はぽつりと漏らすように伝えると、証明するかのように娘の髪を優しく撫で付けていた。
◆
娘が出来た。龍泉はそう言ってから、生まれ変わりである事も含めて、凛華を紅魔館の皆に紹介した。
勿論、多くの者は最初からそれを信じなかった。
しかし、咲夜は龍泉から凛華にナイフが渡された事を知ると、そういう事だと素直に納得した。
その理解は他の者達へも緩やかに浸透していき、奇跡的に大きな反発も無く、凛華は紅魔館に受け入れられていった。
「――で、娘の荷造りを手伝わずに何の用かしら?」
紅魔館の地下。本棚が立ち並ぶ図書館の片隅で、龍泉とパチュリーは密かに話し合いの場を取っていた。
「気になる事が一つと、頼みたい事が一つあって参りました」
「それで? 回りくどい説明で時間を掛けるとレミィに変に思われるかもしれないから、早く話してくれるよう頼むわ」
「……凛華の、いえ、ルチェの亡骸の事です。あれは凛華の復活に全く関係ないのでしょうか。現状、同一の肉体が二つ存在しておりますが、はたしてこれは正常な状態であり、亡骸が凛華の存在に何も影響を与えないと安心してよろしいのでしょうか」
「あなたは完全に生まれ変わりだと信じているのね」
「親ですので。しかし、いずれ明確に白黒を付けたいと思っております。証拠はありませんが、今は生まれ変わりであるという前提で御考え願います」
厳かな態度で龍泉はパチュリーに質問する。
その真剣な眼差しを躱すように、パチュリーは顔を背けた。
「……分からないわね。記録が無いもの」
「それでは困ります」
「困ると言われても困るわ」
最初から全て知っている者は居ない。
ましてや、一度も観測されていない事象では、永遠を生きた賢者でさえも分かるまい。
「ただ、簡単に無関係と決め付けるのは早計でしょうね。世の中には亡霊という種族が居るけど、彼等は自らの死体を供養されると此岸に留まれなくなる場合があるそうだし、あなたの娘も幾つか類似点があるから気にするべきかもしれない」
「その亡霊。もし、死体が朽ちた場合は……?」
「関係無しに存在し続けるわ。でも、きちんと土地ごと供養すれば成仏する。そもそも霊夢が確実に供養した筈だから、亡霊と全く同じ影響は無いかもね。あなたには悪いけど、この事について私から教えられる事は無いわ」
「……分かりました」
「次。頼みたい事は何?」
「はい。念の為、墓には結界だけでなく、墓守りを常駐させておきたいのですが、その墓守りを私と契約した式神か使い魔にさせたいのです。可能でしょうか?」
予想外の提案にパチュリーは目を丸くした。
「奇抜な発想ね。理由は?」
「仮にそれらが倒された場合、契約主にも倒された事が何処に居ても知らされると聞いております。これを利用すれば、いざという時には私が亡骸を守りに向かう事が出来ると考えました」
その知識は間違っていない。
しかし、パチュリーは厳しく追及する。
「あなたは明日から隔離されるのよ。その事はきちんと考えているの?」
「はい」
「監視も付くでしょうね。それでどうするの?」
「実力では敵わなくとも、私になら紫を出し抜く事か説得する事が充分に可能でしょう。ここ暫く、彼女との言葉の争いでは常に圧倒してきた自信があります」
「……確かに」
紫が龍泉に対して強い負い目を感じているという事を、最近の出来事でパチュリーも感じていた。
その事を踏まえれば、幻想郷の害悪として龍泉を隔離した後でも、要請を完全に無視するような事は無いと考えられる。
「分かったわ。式神は複雑な依代が必要だけれど、使い魔なら魔界から呼び出すだけでいい――小悪魔」
パチュリーが呼ぶと、彼女の使い魔が作業を止め、本棚の上からふわりと舞い降りる。
その手には一枚の羊皮紙。魔術的な幾つもの紋様が幾何学的に記されている。
「それに血を一滴落とせば見張り用の下級悪魔なら呼び出せる。知識が殆ど無い代わりに知能が非常に高いから命令は口に出さなくてもいい。複雑な手順も要らない。本当に血を垂らすだけで終わるわ」
パチュリーの説明を受けながら、龍泉は小悪魔からその紙を受け取る。
しかめ面でそれを暫く眺めてから、龍泉は言った。
「刃物を御貸しください」
「形見のナイフがあるでしょう?」
「血で汚したくありません」
「……その考えは分からないわね」
ぼやきながらもパチュリーは魔法で氷のナイフを造り出した。
それを受け取ると、龍泉は袖を捲って腕を浅く切り、手首を伝う血を羊皮紙の上に幾つか落とす。
紋様が光り出した。
そして、羊皮紙の表面から何かが迫り上がり、それは体全てが出るや否や、重力から逃げるように羽ばたいて龍泉の腕に飛び乗った。
その使い魔は烏の姿をしていた。
龍泉が視線を向けると、その烏は何度か首を傾げ、暫くすると命令を理解して飛び立った。
閉じられた扉や窓を魔力で自動的に開き、直ぐに視界から消え去る。
「慣れたものね。実は初めてではなかったのかしら?」
「同じ湧き水を動物達と一緒に飲んで育ちましたから、それらには慣れています。悪魔の召喚は初めてでした」
「初めての感想は?」
「割と可愛かったですね」
真面目な顔で答える龍泉に、パチュリーと小悪魔は声を抑え、くすりと笑った。
◆
その日の夜、レミリアの発案で紅魔館では館を上げての送別会が開かれた。
本当は派手で豪華な夜宴にしようとレミリアは考えていたのだが、メイド達の葬儀の二日後であり、大騒ぎを嫌う龍泉の意見で、行われたのは実に慎ましやかなものであった。
メイドを含めた全員と会食し、一つ二つの余興を適当に執り行い、誰かが欠伸をしたら自然と解散していくような小さな宴。
その緩やかな時間を満喫し終え、自室に戻ったレミリアは凜華を部屋に呼び出した。
今のレミリアの部屋の中には、彼女達の他には誰も居ない。
龍泉は周囲に合わせて飲んだ酒が原因で頭を痛め、宴が終わると早々に部屋へ向かい、他の者も各々何かしらの用事で忙しくしていた。
「あの、何の御用でありましょうか?」
内心、凜華は青ざめていた。
レミリアは龍泉に恋愛感情を抱いている事を知っているし、そんな彼女と見た目の年齢があまり変わらない凜華は龍泉の娘として扱われている。
二人の恋愛の邪魔をしているとは凜華も思っていた。陰口の一つくらいなら、と覚悟もしていた。
しかし、まさかこのような逃げ場の無い場所で対面する事になるとまでは、流石に考えていなかった。
「お前、龍泉に付いて行けるのよね」
「最終的には紫次第ですが、龍泉さんから許可が下りていますけども……」
「そうよね。……ところで、何をそんなに恐縮しているのかしら? お前に嫌がらせをした覚えが私にはないのだけど」
「あの、泣いてもいいですか?」
「駄目」
「ううっ」
「――泣きたいのは、私のほうだもの」
辛うじて凜華にも届く程の微かな声でレミリアは呟いた。
やりきれなさに凜華は黙り込む。
「私は一緒に行けない。必要性が無いから、きっと同行は認められない。大人しく我が家で帰りを待つわ。――だから、お前は絶対に龍泉を連れて帰ってきなさい」
「えっと、それはつまり?」
「長い時間の中で目的を忘れるなんてよくある事よ。龍泉も紅魔館に戻る事ではなく、能力を制御する事だけを目的としてしまうかもしれない。……そんなの、悲しすぎるのよ」
一度、レミリアは堪えるように息を止める。
それから直ぐに、凜華から顔を背けた。
「分かったら出ていきなさい。身勝手だけど、お願いするわ」
数分前とは違う面持ちで、凜華は暫く佇んでいた。
本当に、レミリアは龍泉が好きなのだ。
「畏まりました。必ず、連れ帰って参ります」
凜華の答えを聞き届けた瞬間、レミリアの緊張の糸が切れた。
安心から溢れ出る涙を手で掬いながら、彼女は言った。
「……ありがとう」
当主の姿ではない。それは置いていかれる子供のようで。
凛華は傍に残り、レミリアの涙をハンカチで拭いた。
その姿に龍泉の面影を見て、レミリアはもっと泣きたくなったが、それを堪えて微笑む。
「お前はやっぱり、あの人の子供なのかもね」
慈しみを込め、レミリアは凛華を抱き締めた。
◆
遂に別れの時が訪れた。
約束通り、紫は紅魔館へ現れた。
待ち構えていた龍泉は紫にも凜華を見せて紹介し、連れていきたいので術を施して欲しいと伝えた。
あくまで希望という形だが、実際には紫にそれを拒む選択肢は無かった。
妖精は本来自然現象の具現である為、龍泉と同じ性質を受け継いでいる可能性がある事。引き離したところで、何らかの拍子に凜華が妖精でなくなれば新たな妖精が現れ、結局は同じ状況になる事。それと、凜華の姿が、紫が助けてやれなかった妖精の姿と同じだった事が決定打だった。
「凜華に訊ねるわ。この術に掛かっている間は変化と成長を失うけど、病気や怪我は防げない。龍泉の隣に居られる事を除けばデメリットしか存在しないわ。それでも構わないのね?」
「はい」
「そう、分かったわ」
最終確認を済ませた紫は凜華の額に一瞬だけ手を触れる。
その一瞬で、紫は術を掛け終えた。
見た目に大した変化は無く、掛けられた本人も困惑する程の鮮やかな手並みである。
凜華の困惑を収めようと龍泉は彼女の頭へ手を伸ばし、その手を紫が強く叩いた。
「触らない。……あなたなら、触っただけで術を壊す恐れがある」
「いつまでだ?」
「二日ね。愛でたい気持ちがあるのは汲むけど、そのくらい我慢しなさい」
「……仕方無い」
潔く龍泉は腕を引き、しかし不満気な顔で黙り込む。
それを咎めるような気力も無く、紫は先程から敵意を遠慮せずに向け続けてくるレミリア達へ視線を寄越す。
「では、龍泉を暫く御借りしますわ。伝えておきたい事が御座いましたら、その程度の時間は設けますが、如何でしょう?」
「いつ頃になれば返すんだ?」
提案を食い気味に遮り、剣呑な態度でレミリアは訊ねる。
既に膨大な精神的負荷を背負っている紫は、特に気分を害する様子も見せず、演技染みた慇懃さで答えた。
「さて、早くて十年……、遅ければ百年以上は掛かると見ておりますわ。ああ、念のために申しておきますが、今回のように特別に龍泉を幻想郷へ短期間留め置く事は、彼が私の元で模範的に修業を励む限り、数年に一度の頻度で実施する事を約束しておきましょう」
紫を囲んでいた警戒心と敵意が、その一言で戸惑いに変化した。
互いの了解の上だったとはいえ、紫は龍泉を死の一歩手前まで追い込んだ妖怪であり、今もいざとなれば龍泉を殺せるように身構えている筈なのである。
「何故だ? ……いいのか?」
期待を隠せない声で、レミリアが訊ねた。
「勿論ですとも。龍泉から幻想郷へ復帰する意欲が失われると困るのは私も同じですので。具体的な数字は教えられませんが、早期に良好な結果が表れた場合は頻度を高める事も考慮しております」
「なら、どうして先に言わなかった」
「単純にそれが可能か分かりませんでしたから。それと、必要が無いとも思っていました」
「必要が無い?」
「詳しく存じ上げませんが、龍泉は私とは別の要因――恐らく、貴女達の誰かによって、声を失う程の大怪我を負っておりました。そのような危険な場所に残りたがるだなんて、普通は思わないでしょう?」
レミリアは何も言い返せない。
終わった事であるが、蒸し返されて平気な話ではなかった。
それに、なまじ正論なだけあってタチが悪い。
気掛かりになってフランドールのほうを見てみれば、予想通り、見捨てられる恐怖に肩を震わせ、近くに居た美鈴に宥められている。
こうまでされて黙っていられず、レミリアは怒鳴り返そうとして、それを龍泉に止められた。
彼女の代わりに、龍泉が僅かに怒気を込めて喋り出す。
「なあ、紫」
「何?」
「私に口で勝てないからって、レミリア様達に八つ当たりするのはやめてくれないか」
「そんなつもりではないわよ?」
「申し出や気遣いには感謝している。お前のお陰で私は今も生きられているようなものだ。でも、もう良いだろう。そろそろ黙ってくれ。今後、私との会話で常に手加減されるなんて屈辱的な経験をしたいのか?」
「……はいはい、分かったわよ。どうせ龍泉の事だし、話したい事をまだ残しているんでしょう? 五分あげるから、とっとと済ませなさいな」
紫はスキマを開くと、その内側に入り込み、不機嫌そうに縁へ凭れ掛かった。
龍泉に付けられた傷が癒えてないのか、左腕は動かさず、その肘を抱くようにして腕を組んでいる。
目敏く気付いた龍泉は何か謝りたげに口を開きかけるが、紫が焦らせるように残り時間を数えた為、会釈だけに済ませてレミリア達と向き直った。
畏まって話すような事は、もう昨夜の送別会で済ませてしまっている。
だから、もう特に話す事は無いのだが――。
「些か拍子抜けでしたね。上手く行って数年に一度会えるのなら、色々と杞憂だった気がします」
龍泉は先程までの雰囲気を払拭するかのように、朗らかに言った。
数年も確かに膨大な時間ではあるが、龍泉は最低でも二十年は会えないと考えていたので、それと比べたら遥かに短い。
「大袈裟な別れの言葉なんて私には似合いませんし、少し味気無いかもしれませんが、暫くの別れです。また何年か経てば必ず会いに来ますから、それまで御元気で。それでは――」
「待って」
下手に心変わりしてしまう前に素早く立ち去ろうとする龍泉を、レミリアは呼び止めた。
「……宣言するから、待って」
レミリアは何度か深呼吸を繰り返し、意を決して、伝える。
「私は龍泉の事、何年経っても忘れない。あなたと一緒に暮らして経験した事も感じた事も、全部覚え続けていく。だから、御願い。私の事を忘れないで」
言い終えた後、レミリアは龍泉の顔を正視出来なくなり、懇願するように頭を下げた。
途端に、見返りを求めた事が浅ましく思えた。
勝手に好きになったのだから、向こうの勝手で忘れられたとしても、それは仕方無い事なのだから。
返事も動きも無く、レミリアにとっては永遠とも思える沈黙が続く。
「……残り、二分」
その沈黙を、紫のカウントダウンが強引に破る。
二人を引き離そうとする彼女の宣告が、躊躇していた龍泉の体を動かした。
龍泉は何も言わないまま、レミリアの前に立った。
レミリアがおどおどとした動作で顔を上げる。
その頬へ、龍泉は優しく手を添えて。
大勢に見守られながら、レミリアの唇を奪った。
触れるだけの短い口付けで、されたとレミリアが気付いた頃には、もう龍泉は顔を離していた。
「すみません。言葉だけでは信用されないと思いましたから」
「え、え……」
「私はどんな時でも、貴女様の事を大事に考えております。忘れる事なんて絶対に有り得ません」
「龍泉……」
「全部覚えているなんて大変でしょうから、どうかこれだけは覚えていて下さい。――貴女は私の幸せです。傍に居られなくても、私は貴女を愛し続けています」
感極まって、レミリアは涙を流していた。
思い返してみれば、龍泉はずっと同じ事を言い続けていたのだ。
それを本当に心の底からは信じていなかった事に、今更になってレミリアは気付いた。
馬鹿な自分を叱り付けるように頭を殴る。
龍泉に優しく腕を止められて、レミリアは口を開いた。
「私も、だから……。私も、龍泉の事を愛しているから……」
泣き腫らした顔で、言った。
「いって、らっしゃい……っ」
掴まれた腕を離させ、レミリアは龍泉の体を押した。
そのレミリアの腕が別れを受け入れるように左右へ振られるのを見て、龍泉もまた、本当に決心が付けられたようだ。
同じように龍泉も、しかし彼は涙を見せず、笑顔で手を振り返す。
「いってきます」
レミリアだけではなく、その場に居た紅魔館の皆にも龍泉は手を振られ、応えるように振り返して。
そして、龍泉は別れた。
もう一度、彼女達と一緒に過ごす為に。
龍泉は凛華を連れて、スキマの中へと消えていった。




