其の三十四、妖精
衝撃的な情報を前にして、レミリアは目眩を覚えていた。
足下がふらつき、非現実的な感覚が彼女を襲う。
しかし、彼女はその場に踏ん張って堪える。
混乱するのは後で良い。
今は龍泉の話に耳を傾けていなければならない。
その彼女の覚悟を見届けてから、龍泉は再び口を開いた。
「私が本当に自然現象であるのか、正確には分かりません。それよりは、それに必要な要素をも充分に備えている、と考えるほうが適当でしょう」
「……どうして、そんな事になっているの?」
「私見ではありますが、見当は付けております。詰まらない話です。それでも、よろしいですか?」
「今更隠し事が何よ。話してみなさい」
「では――」
龍泉はそっとフランドールの耳を手で覆う。
聞かせたくないのだろう。声を落とし、淡々と口にする。
「私は物心が付いた子供の頃から頻繁に殺されかける過酷な環境で育ちました。子供は誰もが無限の可能性を持っており、何にでもなれる存在だと私は考えております。ですが、私にあった無限の可能性は様々な手段によって悉く砕かれ、その結果、その破片が無数の要素として私の中に残されたのだと思います」
「待って。……殺されかけたって、一体誰に?」
物心が付く頃と言えば、人間なら早くて三歳、遅くても五歳だろうか。
そのような、自らの命の価値も知らない無力な幼い子供を殺そうとするのは異常だ。口減らしならともかく、龍泉の口振りからそうでない事は何となく分かる。
それに、ただ殺されそうになっただけでは、ここまで特異な性質を得る筈が無い。
一体どれだけ凄惨な過去を送ってきたのか。
当の本人である龍泉はしかし、どうでもいいとばかりに気怠げに首を横へと振った。
「レミリア様が気になさる事ではありません。私の中では既に終わった事です」
「終わったと言っても……」
「良いのですよ、もう。清算は既に済ませましたし、それで私は満足していますから。御気遣い痛み入ります」
嫌な事を思い出させたと気に病むレミリアへ、龍泉は笑顔を返した。
何の事は無いのだ。
何者にもなれず、死ぬ事も出来ず、目的も見付けられず、さ迷う事しか出来なかった自分が、唯一「レミリア達の川上龍泉」にだけはなれた。
それが出来たのなら、忌々しい過去も全て、無駄では無かったのだと思える。
その清々しさがレミリアには輝いて見えて、それ以上の追及を彼女から控えさせた。
「私の事より、その少女の処遇について話しましょう」
龍泉は笑顔を消すと、真面目な顔付きでベッドの上の妖精を見詰める。
もし、いや、恐らく、彼女は龍泉の妖精だろう。
その事が周囲にどのような印象を与えるか龍泉には分かっていたが、あえて口にした。
「彼女は実質、私の娘のようなものです」
「……そう、なるわよね」
激しい落胆を、レミリアは誤魔化す事が出来なかった。
龍泉によって具現したのなら、それは親が子を作ったのと大差は無い。過程が違うだけでしかない。
しかし、祝福する気にはなれなかった。
龍泉を愛しているレミリアには、その妖精が龍泉の愛情を独占してしまうのではないかという不安が付き纏い始めていた。
「ただ、私の傍に居させては妖精ではなくなり、そして新たな妖精が私から発生する可能性があります」
「……家族が増えるわね」
「冗談は止して下さい。全く笑えません」
妖精なら育てる事も養う事も不要ではあるが、かといって、放置するのは許されないと龍泉は考えていた。
過程はどうあれ、命を造ったのだ。
何もかもを知らない、新しい命を造ったのだ。
それなら、どれだけ自らが未熟でも、異常でも、覚悟していなかったとしても、愛情をもって育てるべきだろう。
「一応、紫と交渉して私の傍に居られるように術を掛けさせた上で引き取ろうと思います。しかし、それが上手く行かなかった場合は紅魔館に置いて頂けませんか? 妖精なら余程の事でも無ければ大丈夫でしょうが……、まるで生き写しなので、あまり死なせたくないのです」
「思い出すのね」
「忘れる事はありません。ですが、思い起こされるのは、やはりまだ辛いです」
「……分かった。いざというときは預かってあげる」
レミリアも鬼では無い。
最終的には妖精次第だが、紅魔館での滞在を希望するなら、その通りにさせようとは思っている。
「ありがとうございます。その時は出来る限り、温かく迎え入れて下さると幸いです」
龍泉はレミリアの好意に深々と頭を下げ、それから妖精へと視線を移す。
彼女が自分の娘かと思うと、感慨深いものがあった。
「まさか、私に娘が出来るとは思いもよりませんでした」
「そうね。一人から命が生まれるなんて普通なら考えも付かないわ」
「そうではなく、出来た事自体です。妖精が生まれつき何処まで出来るか分かりませんが、私は上手く育てられるのでしょうか……」
珍しい、龍泉の弱音だった。
彼にとって、生まれて初めての育児。しかも状況は彼のよく知る一般的な育児からあまりにもかけ離れている。
二日後に龍泉は何処かに隔離される身なのだ。
連れて行こうとするのは、間違っているのかもしれない。
「大丈夫よ。あなたなら出来るわ。もし無理だと思ったら、その時はこちらに預けてくれていいから」
「出来る限り、そうなりたくありませんね……」
気休めに弱々しく応じる龍泉は俯いて、それから膝の上のフランドールの事を思う。
家族で無くても、フランドール達の事は見捨てない。
龍泉はそう言ったのだ。
その場凌ぎの嘘ではなく、本気でそう言ったのだ。
ただ、その時の龍泉は自分に家族が出来ると思っていなかった。
今なら、どう言えるのだろう。
「ん、うぅ……」
その時だった。龍泉は妖精がうなされている声を耳にした。
彼が傍に行くにはフランドールを下ろす必要がある。
しかし、龍泉はフランドールを離すのは駄目だと思った。
約束はしていないが、そうされたくないというフランドールの気持ちが、龍泉には分かっていた。
予想外に早く訪れた決断の時間。
龍泉は椅子から立ち上がり、そこへフランドールを座らせる。
倒れないように体を安定させると、龍泉はフランドールの頬に手を宛てながら、顔を覗いた。
「すみません、フラン。今はまだ、あの子には私しか居ませんから。納得するのは、まだ難しいかもしれませんが……」
聞こえているかは分からない。
しかし、何も言わずに離れる事が龍泉には出来なかった。
龍泉はレミリアへ視線を投げる。
二人の間に言葉は不要だった。
何も言わずにレミリアがフランドールの傍に来て、龍泉の代わりに彼女の体を支える。
龍泉は感謝を込めて頭を下げると、そのまま静かに妖精のベッドの近くに立った。
見れば見る程、その妖精は龍泉が看取ったメイドと同じ姿をしていた。
苦しそうにしている姿も、まるで同じだった。
悪夢でも見ているのだろうか。
妖精の横顔を、一粒の涙が伝っていく。
思わず、龍泉は彼女に手を差し伸べていた。
どうやれば安心させられるのかという事を、龍泉は直感していた。
「……大丈夫ですよ」
妖精の手を、そっと軽く握る。
すると妖精の涙が止まり、彼女は寝返りを打って龍泉へ体を向け、素早い動作で彼の手を両手で握り返す。
それは、まるで祈りのようだった。
祈る相手さえ、この子にはまだ私しか居ないのだろう。
ぼんやりとそんな事を考えながら、龍泉は乱れた上掛けを片手で整えると、その場に留まり続けていた。
◆
朝が近付き、咲夜はレミリア達の様子を見に彼女達が居る部屋の扉を叩いた。
一つ二つと、数えるように叩いてみたが、反応は無い。
部屋に居ないのかと思いながら、念の為に暫く廊下で待っていると、その扉はゆっくりと部屋の中から開けられた。
「はい」
現れたのは妖精であった。
寝癖が整えられていないあたり、起き抜けのようだ。
「ごめんなさいね。起こしてしまったかしら?」
「え、いえ、そんな事はありませんけど……」
「御邪魔しても構わない?」
「はい、どうぞ」
妖精は扉を開け放ち、咲夜を部屋に招き入れる。
そこではレミリアとフランドールが二つある内の一つのベッドの上で眠っており、龍泉は絨毯に敷かれたシーツの上で毛布を掛けられて眠っていた。
妖精が起きる前に疲労で眠りに落ち、その後で妖精が気を利かせて寝床を整えた、という所だろう。
レミリア達はそのままにしておいても構わないと考えてから、咲夜は床で眠る龍泉を揺り動かした。
「起きて下さい、龍泉さん。そんなところで眠っていたら傷に障りますよ」
揺すってみたものの、龍泉は起きる兆しを見せず、泥のように眠っている。
心労を考えれば熟睡は当然の事だが、やはり、怪我の事を考えればこのままでは不味い。
咲夜は空のベッドを見て、妖精に訊ねた。
「あなたが使っていたベッドにこの人を寝かせてもいいかしら? 骨に罅が入っているらしいから床に眠らせる訳にはいかないのよ」
「え……、大丈夫ですが、そんな怪我を?」
「そうよ。だからとりあえず、持ち上げるの手伝ってもらえる? 一人では難しいから」
「分かりました、メイド長」
「……メイド長?」
その瞬間、咲夜は強い違和感を覚えた。
何かが擦れ違っているかのような、独特の感覚。
龍泉の足を持とうとそちらへ回った妖精へ向け、咲夜は思い切って生じた疑問をぶつける。
「私の事、メイド長だって誰から聞いたの?」
「はい? 誰って、そんなのメイド長からですよ」
「それはいつの事? 初対面よね?」
「……あれ、十六夜咲夜さんであってますよね?」
「そうよ。十六夜咲夜さんよ」
妖精は首を捻る。咲夜も首を捻る。
咲夜の認識では、目の前の妖精は偶然にも亡くなった妖精メイドによく似た全くの別人である。
だとするなら、咲夜は彼女と話した事も出会った事も記憶に無い。
「私には記憶があるのですが……。あれ、私、どうして生きて……?」
その瞬間、妖精の様子が一変した。
ある種の錯乱状態と言ってもいい。
記憶を無理矢理掘り下げようと頭を抱えて、彼女はその場に蹲る。
「私、死んで……。生まれ変わるって龍泉さんと約束して……。いや、もしかして死んでなかった……?」
「待ちなさい。――これを飲んで、少し落ち着くのよ」
咲夜は慌てず、冷静に時間を止めて、その最中に温めた牛乳を妖精の前に差し出した。
突然目の前に現れたそれに妖精は動揺する事なく、おずおずと牛乳を口に含む。
瞬間移動には全く驚いていない。
これはおかしい。
龍泉のように驚かなかった者は極一部の例外で、普通、目の前に物体が突然出現すれば驚くものなのだ。
ここまでくると、咲夜も疑わざるを得なかった。
「あなた、もしかして――」
――死んだ妖精メイドの記憶があるのか。
咲夜は質問を全て言い切る事が出来なかった。
妖精が突然、合点が入ったように手を叩いたからだ。
「ああ、私、龍泉さんの妖精として生まれ変わったんですね!」
子供が本能的に自らの親に気付くように、妖精もまた、龍泉が自らの発生源だと直感する。
その事に疑いの一つも持たない。
無垢に喜んでいる。
しかし、完全に置いてけぼりの咲夜は納得出来なかった。
「待って。とりあえず訊くわ。どうして――」
「そんな事より、龍泉さんをきちんと寝かせてあげましょうよ。後からでも話は出来ますよ?」
無傷の妖精の正体を探るより、怪我人をベッドの上に寝かすほうが優先しなければならない。
何処か釈然としない気分ではあったが、ひとまず咲夜は脇を抱え、妖精は足を持って、龍泉を持ち上げた。
小柄で軽いとはいえ、龍泉の体重は咲夜と同程度にはある。
二人で苦労しながら龍泉をベッドの上に乗せると、妖精はその隣に座り込んで、龍泉の寝顔を見詰めた。
「もっと酷い怪我をしていた時を思い出しますね。あの時の龍泉さんは今にも死にそうな感じでしたけど」
「知っているの?」
「はい。家出された妹様を連れ戻しに一人で向かって、帰ってきてからの事でした。メイド長は妹様を預かっていたので知らないかもしれませんが、全員で交代しながら夜通し看病していたんですよ」
咲夜は自らの記憶と照らし合わせ、それが当たっている事を確認する。
ここまでくると、この妖精は本当に記憶を持った生まれ変わりなのかもしれない。
「……どうして、知っているの?」
咲夜は質問の矛先をやや変えた。
遺体を直接確認し、別人という説が濃厚に頭に残る咲夜はもう一つの可能性を考えていた。
この妖精には、死んだ妖精メイドの記憶がある。
だが、それだけだ。
その記憶が誰かから聞いただけのもの、もしくは誰かに刷り込まれたものではないとは言い切れない。
妖精は龍泉から目を離し、少し困惑しながら咲夜を見上げる。
「すみませんが、自信を持って、どういう理屈か説明する事は出来ません。何と言っても、私は一度死んでいますし」
「まあ、たとえ言われても私じゃ理解出来る自信無いけどね。……とりあえず、パチュリー様の所へ一緒に行きましょうか」
「何故ですか?」
「眠っている御嬢様達の近くに置いておく訳にはいかないの。記憶があるのなら、その理屈は何となく分かるでしょう?」
疑惑を隠し、無表情で咲夜は妖精と接する。
言葉は建前に過ぎず、本音では信用ならないからだった。
妖精は邪な事を考えているようではなく、レミリア達よりも龍泉に固執しているように見えるが、それでも何をしでかすか分からない。
無防備な彼女達の周りに置いておくのは少し不味いのだ。
「い、いやです……」
何度か龍泉と咲夜の間で視線を往復させ、妖精は唇を震わせながらそう告げると、龍泉が眠るベッドへ体を寄せ、シーツをひしと掴んだ。
明らかに、龍泉から離される事を怖れている。
「その理由は?」
窮地に追いやって暴れられても困るので、咲夜は無表情のまま質問した。
「ダメなんです。一緒じゃなきゃ、怖いんです……!」
しかし、恐怖に染まりつつある妖精からまともな返答が返される事は無い。
咲夜は溜め息を吐き、肩を竦めた。
龍泉達が全員寝てしまっていたのは少し意外だったが、妖精一人の働きでは眠っている彼等を脅かせない事は分かりきっている。
放置しても、特に問題は無いだろう。
「なら、念のために所持品を改めさせてもらうわ。変なものが出なければ居てもいい」
「あっ、ありがとうございます!」
「安心するのはまだ早いわよ。服は脱がなくていいから、腕を上げなさい」
「はい!」
万歳する妖精に近付き、咲夜は服の上から体を触る。
擽ったそうに身を捩る妖精に微笑みを返しながら、咲夜は妖精が何も持っていない事を確認した。
「はい、おしまい。何も持ってないみたいだし、後は自由にしなさい。くれぐれも御嬢様達に迷惑を掛けないようにね」
「分かりました」
「それと関係無いけど、髪に寝癖付いてるから。直しておいたほうがいいわよ」
「あ、これはその……、大丈夫ですから」
「そう? 実は新しい髪型だったりするの?」
「いえ、そういうのでもないですけど……。教えて頂き、ありがとうございました」
ばつが悪くなったのか、妖精は誤魔化すように頭を下げる。
深く追及しようかと咲夜は一瞬考えるが、たかが寝癖。大した事でも無いと考え直し、気にせず扉へと向かう。
それへ手を掛けたところで、咲夜は思い付いたのだろう。振り返って、自分の考えを妖精に言った。
「調子が良くないみたいだし、メイドの仕事は暫く休みなさい。復帰はいつでも構わないわ。ただ、そういうのは龍泉次第だけどね」
「え……?」
「彼には生前のメイドが持っていたナイフを渡してある。それを貰えたなら、あなたを本当の生まれ変わりだと考えてあげるわ。まあ、渡されなくても別人として扱うだけで、特に悪いようにはしないけど」
「信じてくれて――?」
「そうだといいな、くらいには思っているわよ? 悪そうには見えないし、龍泉にとってはその方が良いもの。とにかく頑張る事ね。あなたが本物だったら、彼には必ず分かると思うから」
それじゃあね、と最後に付け加えて、咲夜は部屋から出ていった。
残された妖精は呆然とするしかなかった。
暫くしてから彼女は無性に悲しくなって、涙を流した。
誰からどのように見られようと、彼女には生前の記憶がある。自分が生まれ変わりだという確信も、説明は出来ないが、持っている。
これでもし違うのなら、自分は何なのか。
何の為に生まれてきたのか。
それが分からなくなりそうで、彼女は龍泉の眠るベッドの上に座った。
「龍泉さん。私は本当に、生き返って良かったんですか? 私を生き返させて、本当に良かったんですか?」
何となくだが、彼女には分かっていた。
龍泉の妖精は一人だけ。他に死んだ妖精メイド達は死んだままで、龍泉の腕の中で最期を迎えられた自分だけが生き返った。
その事を思い出すと、果てしない罪悪感と恐怖心が妖精の心を覆った。
理不尽に殺された他のメイドではなく、幸せに死ねた自分に再び命が与えられた罪悪感。その寸前まで抱いていた、死の恐怖。
「いや……!」
彼女は頭を掻き毟り、ベッドの上で縮こまる。
早く忘れたい。何も考えず、幸運にも得られた二度目の生を謳歌したい。
思って、それは駄目なのだと、何度も繰り返して。
「龍泉さん。助けて……」
喉を絞るように声を発して、妖精は龍泉と同じベッドの中に潜り込み、彼に触れる程の近くで体を丸める。
そんな彼女の肩に、寝返りを打った龍泉の腕が触れる。
龍泉はまだ眠っていて、その動きは完全に無意識からきた行動なのだろう。
それでも、不安定な妖精の精神を揺らがすには充分過ぎた。
妖精は迷惑を省みず、龍泉の腕の中へ入り込む。
窮屈だとは思わなかった。
その場所は何もかもを受け入れてくれるかのようで、温かだった。
「……おとう、さん」
涙を流したまま、妖精は二度目の眠りに付く。
安住の地を見付けたかのように、その寝顔は安らかなものだった。
◆
龍泉の意識が覚醒し、それが鮮明に現実を認識するまで、暫くの時間を要した。
懐に感じる温かみは何だろうかと暢気に考えて、それから床で眠っていた筈がどうしてベッドで眠っているかに考えが及び始めて、そこで漸く最初の疑問の答えを得る。
この温もりは妖精で、知らない内に抱いていたのだ、と。
「……うん、そうか。私の、娘か」
起こさないように身動ぎ一つせず、龍泉はぼそりと呟いた。
不思議な気分になっていた。
結婚もせずに子供のようなものが出来た。それなのに、その存在を自らの子供のようなものだと理解出来ていた。
案外、そういうものは心構え次第という事かもしれない。
夜泣き等で困らせてくる可能性が少ない、ある程度成長した妖精が相手だから、というのも少なからず影響しているだろうが、龍泉は間違いなく、妖精への愛情を持っていた。
龍泉は顎を引き、妖精の様子を確かめる。
涙の跡が幾つか見えるが、既に落ち着いたのだろう。呼吸も安定している。気になるのは、龍泉の服を強く握っているくらいだ。
「レミリア様は……」
思い出し、龍泉は首を伸ばして室内を見回す。
いつの間にか、レミリア達は居なくなっていた。
二人を寝かし付けた記憶が龍泉にはあるので、恐らく彼女達は先に起きて部屋から出ていったのだろう。太陽も上がっているようであるし、昨日は忙しい日だったので、自室で寝直しているのかもしれない。
そこで龍泉は今日の自らの予定を考え始めて、憂鬱な気分になった。
何もする事が無いのだ。
包帯を巻かれた手では仕事をさせてもらえない。紅魔館を去る為の荷造りも直ぐに終わる。世話になった皆への別れの挨拶は、今日より明日に回した方が未練が残らずに済むだろう。
「とにかく、今日はこの子の性格や知能に大まかな見当を付けて、それから教育方針を考えるか。いや、それより名前を先に付けないと。……名前、か」
名前は本来なら一生モノだ。それ故に親は深く考え、意味を込めた名前を子供に付ける事が多い。
龍泉はその親から貰った名前を隠し、新たな名前を自らに付けていたものの、それでも名前を無価値なものだとは捉えていなかった。
妖精の将来を考え、どんな風に育って欲しいか真剣に悩み出す。
やはり優しい子になって欲しいな、とか。たまには親を甘えさせてくれるようなしっかり者になって欲しいな、とか。
レミリア達と別れる現実を忘れるように、平凡で幸せに満ちた悩みに龍泉は没頭する。
すると、腕の中の妖精はもぞもぞと動き始めた。寒さでも感じたのか、より深く龍泉の懐へと入り込む。
「……これが、親の特権なのかもね」
自らの言葉に何度か頷き、龍泉は妖精の体を優しく抱き締める。
このまま、一緒に眠ろうか。
そう考えて、龍泉が意識を蕩けさせようとした時だった。
妖精が目を覚ました。
起き上がるというより、浮き上がるという表現が似合う、穏やかな目覚めだった。
布団に包まれ、龍泉に包まれ、仄暗く、仄温かい。
光を求めて妖精は上を向き、そこで彼女は龍泉と顔を合わせて、夜の間に自らがしでかした事を思い出した。
「ひゃっ」
恥ずかしさのあまり変な声を出して、妖精は龍泉から離れようともがきだす。
しかし、その姿が龍泉の悪戯心を刺激したのか、彼は妖精を抱き締めたまま離さない。
離れられない事を妖精は悟ったのだろう。徐々に動きを止めていき、やがて完全にそれを止める。
満足したのか、そこで龍泉は腕を緩めた。
「おはよう」
「……おはようございます」
不貞腐れた妖精は素っ気なく挨拶を返す。
しかし、その仕草は龍泉を楽しませる結果しか生み出さない。
妖精は溜め息を吐きながら、くすくすと笑う龍泉へ真面目な顔で向き直った。
「どうしました?」
「おはようより先に、言っておかなければならない挨拶を思い出しました」
「何でしょうか?」
「――ただいま、龍泉さん。約束通り、戻ってきましたよ」
その瞬間、龍泉から笑みが引いた。
今度は妖精のほうが笑ってみせ、あの時には出来なかった抱擁を交わす。
何度も揺さぶられてきた龍泉の確信が、再び定まりを見せていく。
「まさか、嘘でしょう?」
乾いた声で、龍泉はそれだけをどうにか絞り出した。
最悪の答えが返ってきても耐えられるように、期待しないように自分を騙そうとする。
「嘘ではありません。本当です」
しかし、その必要が無いと知った瞬間、龍泉は欺瞞も我慢も全て捨て去った。
「そうですか。そうですか……!」
嗚咽を噛み殺して、龍泉は妖精を強く抱き締める。
死なせた事。会いに来てくれた事。
それぞれに抱いていた思いが徐々に形を失い、抑え切れなくなり、龍泉は涙を流す。
息苦しさを覚える彼の腕の中、妖精は生き返った意味を噛み締めていた。




