其の二十一、靡く獣
ある山奥の村。そこには一人の少年がいた。
俗に穢され、生きる気力を失いかけていた少年の心を清めたのは、ただ遠くの崖を走り抜けただけの白い妖怪の姿だった。
十数年の時を経て、青年となった少年と白い妖怪は再会する。
思い出と出会った青年は、自らの弱さに苦悩する妖怪に力を授けた。
少年を知らずの内に救った妖怪と同様に、青年もまた、妖怪を助けた事に気付いていない。
◆ 靡く獣
嫌な夜だと霊夢は思った。
紅白の巫女装束を身に纏い、萃香を神社に留守番させて、霊夢は満月の空を飛んでいた。
ふと隣を見れば紫が並行して飛んでいる。
紫が浮かべる微笑の意味を、霊夢はまだ知らなかった。その妖しさを怪しみながら、霊夢は目的を再度確認した。
「川上龍泉、だっけ。退治する妖怪」
「そうよ」
「よく分からない男の妖怪?」
「覚えていたのね」
「あと少しで忘れるところだったけどね」
印象が混沌としていた龍泉の事を霊夢は殆ど覚えていなかった。辛うじて、顔を覚えている程度だ。
「なんかしたの、あいつ?」
「色々とね」
「どうせ、妖怪同士の揉め事なんでしょう。人間を巻き込むとか勘弁願いたいわ」
博麗の巫女は人間の味方だ。今回のように妖怪の味方となる事は霊夢の本意ではなかった。
妖怪と妖怪が争い、それによって幻想郷の人間に多大な被害があれば動く。しかし、表面化さえしていない事にまで手を出せば妖怪社会への内政干渉となり、互いの領域が曖昧になってしまうからだ。
尤も、厳密に言えば、被害自体は既にあった。
外来人の急増は妖怪から逃げ延びる外来人の数をも増やしており、彼等の多くは人間の里に避難している。その数が里の許容量を超え始めており、里の人間達の生活に少なくない負担を掛けていたのだ。
ここ最近は帰りたがる外来人の相手で忙しくしていた霊夢は、里の状況についてまでは把握していなかった。
霊夢は紫との距離を縮め、憚るように訊ねた。
「スペルカードルールじゃない退治なんだから、結構やばい事でしょう。黙っておくから言いなさいよ」
「それは駄目よ、絶対にね」
「どうしてよ?」
「霊夢は人間だから、きっと龍泉を許せなくなるわ」
人間を人間と正しく認識し過ぎて、それ以上の価値を龍泉は見出だしていない。だから、存在するだけで外来人を殺している事にも頓着しないし、里が彼等によって圧迫されている事にも関心を示さない。
それを許せる人間は少ない。ましてや、人間側の霊夢はそれを許してはならない立場なのだ。
しかし、彼女の性格は立場から求められる性格とは異なっていた。
「そんな事無いわ。どんな妖怪でも退治した後には大抵仲良くなってるじゃない。……まあ、立場的には不味い気もしているけど」
「そう。だからこそ、教えるのは無理なのよ。聞きたいなら龍泉から直接聞きなさいな」
知らずに仲良くするならともかく、知っていて仲良くするのは誉められたものではない。
そういった建前はあるが、紫の本音を言えば、自分の発言で龍泉を誰かに嫌わせたくないだけだった。
勿論、明かす事は無い。紫はそっと笑みを深くするだけに留める。
霊夢は呆れて溜め息を漏らし、紫から距離を取った。
こうなった紫から口を割らせるのは至難の技であると、霊夢は承知していた。
「――興味深い話だな」
月夜に唸るような声が響く。霊夢と紫は空中で急停止し、地上の森から飛び上がった妖怪と向き合った。
月の色に似た長髪と麻の着流し。
威圧するように腕を組む女の妖怪は、薄だ。
「龍泉を退治するとはな」
「誰よ、あんた」
余裕を見せながら、しかし警戒は充分に払って霊夢は訊ねた。
「初見となる、博麗の巫女。俺の名は薄」
「俺? もしかしてそれは男装のつもり? 変わった奴」
「気にするな。張り子の虎という奴でな、只の威嚇でしかない。まあ、俺は豺だが」
「それで? ぶっちゃけどうでもいいから、ぱぱっと話しなさい」
霊夢は急いでいる訳ではないが、だからといって邪魔されたくもなく、面倒そうに言った。
その隣で紫は怪訝に薄の姿を見遣る。
紫が薄に施した呪いは未だに効果を発揮しているので基礎の成長は見られないものの、不足していた経験を補ったのか、薄の風格は保有する力に見合ったものになっていた。
「そう急ぐなと言いたいが、今日は満月だ。無駄な時間を稼ぐと不味いので簡単に言おう。……あいつを倒したいなら、まずはこの俺を倒していけ」
薄は腕を解き、堂々と自らを親指で指した。そのまま腕を緩やかに落とし、僅かに身を屈める。その姿は獲物に飛び掛かる寸前の獣を想起させた。
「やる気満々ね。結構。遊んであげるわ」
「待ちなさい霊夢。無駄な消耗は避けるべきよ」
「倒さないほうが無駄よ。どうせ、無視したところで背中を襲われるわ。そのほうが獣には向いているし、正面から来たいならさせておくに越した事は無いわよ」
何でもないように言いながら、それは確かに薄の脅威を認めていた言葉だった。
背中を見せれば、やられる。
百戦錬磨の巫女の勘が、そのように囁いていた。
決め込んだ表情で霊夢は御払い棒と札を構える。
紫は何も言わなかった。自らの消耗を抑える為に半身ほど下がり、観戦の立場を示す。
その姿を薄は咎めた。
「そちらは戦わないか。リベンジといきたかったが、それでもいいだろう。巫女の次だ」
「黙ってなさい駄犬。大体、霊夢に簡単に勝てると思わない事ね」
「勝負に易しいも難いもあるものか」
紫の言葉に薄は牙を見せて笑う。
それきり、霊夢だけを眼中に収める。
ぴりりとした敵意を楽しむように吐息し、薄は満月に向かい、開戦の雄叫びを上げた。
◇
雄叫びは、攻撃でもあった。
近距離で大音響の衝撃を受けた霊夢は、眩む視界の中で高速で飛び回る薄の姿を追う。
素早い動きだ。霊夢の知る中でも十本の指に入ろうかという速さであり、緩急を織り交ぜ、鋭角に動き回ると工夫も凝らしてある。
その上で驚くほどの精密射撃を薄は仕掛けてくる。薄との相対速度を下げる為に追随していた霊夢には、待ち伏せるように発射されたそれらへの回避は著しく困難なものだった。
寸前で身を捩らせる強引な回避を続けながら、霊夢は今まで薄を知らなかった事に疑問を抱いた。
霊夢を知っているのだから薄は新参者ではない。単に実力を隠していたとしても、幻想郷は全て巻き込む厄介事が時折発生するのだ。その中でも無名で居続けるには、薄が今見せている実力はあまりに高過ぎる。
ただの妖怪ではない。そう判断し、霊夢が思考を深めた瞬間、先程の雄叫びによる耳鳴りが頭をつんざいた。それで固まる霊夢の元へ、薄は素早く肉薄する。
「しまっ――」
後悔の言葉は風に紛れた。
足を掴まれ、霊夢の体が今までの進行方向とは真逆に持っていかれた。慣性が彼女の体を傷付け、千切られそうな痛みが襲いかかる。全身の血が頭に偏る。肺の空気が抜け出ていく。
ただ、そこは百戦錬磨の博霊の巫女。歯を食い縛って意識を繋ぐと、捲れるスカートを足に巻き込みつつ、猛烈な向かい風を吸い込もうと上体を起こす。それと同時に、薄へ向けて札を投げ付けた。
風で失速するも、どうにか札は薄の棚引く髪や腕に命中した。痛みを堪えて強まる薄の握撃に対し、霊夢は掴まれていない方の足で蹴りを返して放り捨てさせた。
そして、仕切り直すように大きく距離を取り、霊夢は考える。
これが本気の戦いなのか。こんな事を今夜、何度もしなければならないのか。
怖い訳ではない。命懸けの戦いなら今まで何度もしてきているのだ。怖いと思う訳がない。
しかし、霊夢の心の内には恐怖とは異なる何かがあった。
――これは、違和感か。
その結論に達した時、薄のほうで変化があった。
最大限の霊力を込めた札と蹴りは妖怪に激しい痛みと痺れをもたらす。本気の勝負だと判断した霊夢は先程間違いなく全力でそれらを薄に叩き付けた。事実、薄の体からは治療の為に発散された妖力が煙のように立ち上っている。
その姿が微睡みに見る夢のようにぼやけ、移り変わっていく。
形成されたのは大きな白い豺の姿。四つん這いだと言うのに、頭の高さは大男に匹敵する。牙はまるで木を削った杭のように太く、薄の気性を示すかのように荒々しい。
「それが本来の姿ね」
その言葉への返答は、洞穴を抜ける暴風の響きを持っていた。
薄は風を蹴りあげて飛ぶ。人型の時よりも速い上、全身を覆う体毛が輪郭を曖昧にし、最早、白いという事しか分からない。反射される月光が薄の後に残影として残されていく。
霊夢は知った。薄が獣らしく背後を襲わなかった理由とは、いつでも背後を取れるからだと。
一瞬だ。一瞬で薄は噛み付かんと、霊夢の背後で大口を開けていた。
生温い吐息に首を撫でられ、総身に鳥肌が立つ。
霊夢は振り返り様に御祓い棒を薄の顎の付け根に差し込み、噛まれる事だけは回避した。結界術による硬化により、その棒が砕ける恐れはない。しかし、猛獣の口の中に両腕を突き入れている状態なのだ。非常に危険である事には変わらなかった。
――慌てたら、食い千切られる。
霊夢はその状況においても、冷静にそう分析した。手詰まりに見えるものの、実際には拮抗している状態だと見抜いた霊夢は、特に抜け出す事もせず、ただ待った。
それにより、却って薄の心中はかき乱された。
今まで噛み付いた獲物はいずれも暴れたのだ。それで更に傷が深まり、口の中で死を自ら加速させているのを薄は何度も見てきた。
しかし、この巫女は違う。今まで食ってきた生き物とは何かが違う……。
焦りは隙を生む。
我慢比べに耐えかねた薄は一息に噛み砕こうと、ほんの僅かに口を開いた。そして、それを閉ざしていく瞬間、霊夢の体は顎から素早く抜け出していた。
牙と牙を激しく打ち鳴らしてしまい、薄は自らの行動ながら、それに怯んでしまう。
それを逃す霊夢ではなかった。
全身全霊を込め、薄の体を覆い尽くさんばかりの札を投げ付ける。
後を考えての速攻策ではない。ここ以外に勝機はない。そう判断しての全力だった。
全身を札に包まれ、薄はまるで布に巻かれたミイラのようになっていた。飛ぶ力も既に失っているようで、声を上げる事もせず、辺りに煙を巻き散らしながら落下していく。
その巨体は生い茂る森の中に落ち、大地を揺らす。
霊夢はその様子をただ眺め、疲れた顔で紫に近付いた。
「……今の奴より龍泉は強いっての?」
霊夢の知る限り、馴れない勝負であったとはいえ、薄は間違いなく強者であった。その薄が龍泉の前に自分を倒していけと言った。
「いや、まさか……」
言いながら、紫は不安になる。
龍泉の本気が紫には分からない。彼が争ったところを紫は殆ど見たことが無かったのだ。大量発生したキョンシーの頭を幾つも落とし、砕く姿なら見た事はある。しかし、それが指標になるとは到底思えない。
龍泉の性質に阻まれ、詳しい性能を知る事が出来ないながらも、龍泉を自らの劣等種だと決め付けていた認識を紫は僅かに改めた。
「龍泉が私よりも弱いのは確かよ。でも、それがどのくらいなのかは分からないわ。もしかしたら吸血鬼よりも強いかもしれない」
「なにそれ。洒落にならないわよ、そんなの」
スペルカードルールに基づいた戦いなら幻想郷で最強格であり、それ以外でも並外れて強い霊夢ではあったが、思わず悪態を吐いていた。
紅魔館の連中と戦う事は事前に予想されていたが、思わぬ強敵が追加されたのだ。吐くのも仕方無い話である。
「私と紫と魔理沙ともう一人。それだけの人数で紅魔館を攻めるのは無謀だったんじゃない? 今みたいに、関係なさそうな妖怪も仕掛けてくるなら体力が持たないわよ」
「出来るだけ戦いを回避するしかないわね」
「……スキマで瞬間移動とか出来ないの? 場所は分かっているんでしょう?」
「いや、それがね……。出来ないのよ。ハリネズミになりたいなら出来るけど」
紫は苦々しく言った。
出発前に紫は紅魔館を偵察しようと小さなスキマをそこら中に開いたのだが、どうやら気付かれているらしくナイフが無数に飛んでくるので、とても通路としては使えないのだ。
しかも、その偵察の結果、龍泉が何処に居るのか分からなかった。時間を操る事で空間を広げた紅魔館の事だから、見ただけでは分からない隠し部屋に潜んでいる可能性も高い。そうなると最低でも一人から情報を引き出さなければならず、戦わずに逃げ回る事も出来ないだろう。
霊夢は深い溜め息を吐くと、自らの頬を叩いて気合いを入れた。
「正面から行くしかないなら、そうするしかないわね。たとえ、そうされているとしても」
霊夢は遠くに見える紅魔館を睨んだ。夜だというのに離れた場所でも見えるのは、周囲を篝火か何かで照らされているからだろう。それが霊夢には何故か、建物自体が獲物を求めているように見えた。
「……何か、気に食わない」
霊夢は何気無く呟く。そう言いたくなった気持ちの正体を知らないまま、何の脈絡も無く。
まだ、夜は始まったばかりだった。




