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東方朧観簿  作者: 庶民
第一章
1/59

其の一、博麗神社



 山を歩いていた。

 手を傷付けながら茂みを掻き、足を滑らせながら斜面を進む。

 道は無く、標も無い。

 ふと、獣道という言葉が頭に浮かんだ。

 まさしく、そうである気がした。

 私は人の形をした獣かもしれないと考えると、僅かに唇の端が吊り上がる。

 数日振りの笑みは、あまり綺麗に出来なかった。


 この放浪に目的は存在しない。

 歩く事自体が目的のようなもので、今となっては、その理由を思い出す事も億劫だった。


「――――」


 だから、山中では珍しい甲高い少女の声が聞こえた時、私は思わず足を止めた。

 木立の先に、背中に羽の生えた少女が三人程見えた。

 どうやら遭難者では無いらしく、彼女達は危機感の無い声で和気あいあいと飛びながら話している。

 緩やかな羽ばたきで宙に浮く姿は随分と非科学的だったが、それは私にはどうでもよい事だ。身を低くし、彼女達の会話へ耳を傾ける。


「なにか面白い事無いかな……」

「そう言えば、今夜は博麗神社で宴会があるらしいよ」

「また?」

「今日って何かの日だっけ?」

「知らない。大安吉日とかじゃない?」

「よく集まるよね、神社なのに」

「人間は少ないけどね」


 言語は日本語。知能は人間並み。衣服に人間のそれと多くの共通点が見られるので、似た文化を持っている事は伺えるが、彼女達は人間では無いようだ。

 彼女達は雑談を交わしながら飛んでいき、私はそれを木陰から見送った。

 知らない内に、どうも私は妙な場所へと迷い込んだようだ。どうせなら人間が全く居ない場所だと気楽だったのだが、残念ながらそうではないらしい。

 暫く森を掻き分けて進むと、やや道らしき物がある場所に出た。長く伸びており、一方は草木で隠れて分からないが、もう一方には神社仏閣に繋がっていそうな石段が見える。その先には、もしかしたら博麗神社とやらがあるのかもしれない。


「神社か……」


 ご利益に興味は無いが、私は神社が持つ非現実さを好んでいる。寂れた神社であれば尚良いが、さて。


「行ってみるか、博麗神社」


 服や髪の毛に付着した木っ端を払い、そう呟く。

 宴会が催されるのなら、博麗神社は全くの無人でも無いだろう。誰かが準備しているに違いなく、その人達に今の無残な姿を見せるのは申し訳ない。

 あらかた取り払い、人前に出られるようになった事を確認してから、私は石段へ歩き始めた。

 足取りは不思議と軽い。

 人間と会う事が楽しみなのか、それとも、神社に向かっているからなのか。

 それとも、明確な目的を見つけられたからか。


 二度目の笑みは、上手く出来た。





 その日、博麗神社の巫女である博麗霊夢は一人で宴会の準備に追われていた。

 食器類や飲食物は参加者が各自持ち寄るので、霊夢がする事は場を整えるだけだが、一人でするには少々重労働だった。とは言え、ただで飯と酒にありつけるのであれば、霊夢に頑張らない理由など無い。

 そして、どうにか夕暮れの前に準備を終えた霊夢は苦労して引っ張り出した食卓に突っ伏していた。

 もう暫くすれば参加者が来る。それまで少し休んでいるつもりだったのだが、境内に侵入した見知らぬ気配を感じ取り、だらけていた体を起こす。


「厄介ねえ……」


 招かれざる客に霊夢は良い記憶が無い。ただ、放っておいた方が面倒になるとも分かっていたので、霊夢は仕方無く外へ出た。

 そこで見たのは、複数の幽霊を周囲に浮かべた一人の青年。

 只者では無い、と霊夢は直感した。

 それは脅威と言う意味では無い。

 まるで別次元に居るかのような雰囲気を持っている彼の正体を、様々な種族と接触した事のある霊夢ですら見抜けなかったからだ。


「いらっしゃい。誰だか知らないけど、その周りの連中。祓ってあげましょうか?」


 霊夢はまず不自然な要素を排除し、青年の正体を見定めようとした。しかし、言葉の意味が分からなかったのか、青年は首を傾げる。


「幽霊の事かな?」


 自信無さげに、それでいて試すような言い方だった。


「そうよ、その幽霊達。それだけ居たら肩が凝るでしょ?」

「……いや、別に」


 遠慮しただけに思える口調から、霊夢は全く別の意思の存在を感じていた。からかわれている気はしないが、どうにも釈然としない。


「ところで、名前を聞いてもいいかな?」

「博麗霊夢」

「この神社の巫女さん?」

「見れば分かるでしょ」

「変わった巫女装束だから自信が無くてね」


 服の袖が胴と完全に分離し、更には袴ではなくスカートを穿いている姿が変わっているのだと霊夢は知らない。此処ではこれが普通なのだ。

 と言う事は、つまり。


「ああ、あんた、外の世界の人間ね?」

「……あー、まあ、大体そうだね」

「自覚してるんだ。珍しい外来人ね」

「外来人……」

「外の世界から幻想郷に来た人間の事よ」

「幻想郷?」

「妖怪がまだ元気で宜しくやってる世界よ。つまり、この辺一帯。分かった?」

「一応」


 曖昧な反応だが、青年に動揺は無い。ただ、幽霊をあえて引き連れている変わり者なのだ。霊夢は気にせず続けた。


「で、あんたの名前は?」

「わ……、僕の名前?」

「あんた以外に誰が、って一杯居るわね、そう言えば。とにかくあんたよ。会話の流れで察しなさい」


 相手をするのが面倒になってきたが、名前くらいは聞いておかないと霊夢は気が済まなかった。

 青年は沈思する。

 何を悩んでいるのかと霊夢は怪しんだが、急かさずに待つ事にした。明らかに奇妙で浮わついた雰囲気の相手だが、悪事を働くような気配は何も感じなかったからだ。

 青年は大きく頷いて、それから答えた。


「川上龍泉、だよ。僕の名前」 





 神社の境内を散策していると、紅白の装束を纏った少女に出会った。少女と言っても、私と歳の差は殆ど無さそうに見られる。二十歳前後だろうか。

 怪訝そうな顔をしたので何を言うのかと思っていると、彼女は私の周囲を指差し、祓うと言い出した。

 そこに何があるかは知っている。私に付き纏う幽霊達だが、見た事は無い。今の私では感じるのが関の山だったからだ。

 この少女は果たして幽霊が見えている上で言ったのだろうか。確認の意味を兼ねた言葉に、彼女は迷い無く頷いてみせた。

 彼女の名前は博麗霊夢。自称巫女。

 そして、この場所は幻想郷。妖怪がまだまだ元気で暮らしている世界だという。

 特に驚きは無かった。

 妖怪の存在は霊夢が言う外の世界でも見た事があるのだし、ついさっきの少女達を見た後では寧ろ驚くほうが難しい。

 そうして一人で幻想郷の事について色々と考えていると、霊夢が私の名前を訊いてきた。

 さて、どうしたものか。

 当然だが、私に本名を明かす気は無かった。色々な義務を放り投げて彷徨い歩いていたのだ。一族や社会との縁は疎遠だが、捜索されている可能性ならあるだろう。

 私は周辺の景色を一瞥する。電話線やアンテナの類いは見当たらない。交通手段も獣道だけという貧弱さ。外の世界には目撃情報さえ届かないと思うが、念のためだ。

 私は印象を誤魔化す為に使い古した「僕」を使い、川上龍泉と名乗った。


「随分と名乗るのに時間がかかったわね」

「呼ばれてなかったから忘れかけてたんだよ」

「自分の名前を?」

「そうそう、えーっと……」

「私は霊夢よ」

「そっちじゃなくて、僕の名前は?」

「龍泉でしょうが。名札でもぶら下げておきなさいよ」

「そうだったそうだった。ちょっと本気で名札の件は考えておくよ」


 苛々と頭を掻く霊夢に私は人の好い表情を使う。あからさまに呆れられた。


「まあ、名前なんてどうでもいいわ。外の世界に帰りたいのなら今すぐに送ってあげてもいいけど、どうする?」

「いや、出たくなったら自力で出ていくよ。普通に歩いていたら来れたんだしね」

「妖怪に襲われるわよ?」

「背中に羽の生えた女の子達にはもう出会ったけど、あんな子達かな?」

「それは多分妖精ね。そういう可愛げのあるのとは別で、何て言ったら良いかな……」


 霊夢が考え始めた、その時である。

 彼女の隣の空間に切れ目が入り、広がっていく。

 そこから覗く、漆黒の背景に無数の目が浮かぶ異空間から一人の女性が歩みでた。

 派手な紫色のドレス。その背中に自然な金髪が豊かに流れている。


「霊夢。今夜の宴会の事だけれど――、あら、お客様?」


 悩む霊夢を見て、その女性は初めて私の存在に気付いたようだ。

 何処か、あからさまにも感じる笑みを向けられる。


「幻想郷にようこそ。私は八雲紫と申します」


 幻想郷にようこそ、か。

 霊夢と違い、私が外部からの来訪者だと即座に見抜いたのは慧眼と呼ぶべきか。見るからに並みの人間ではない彼女は、しかし、私を正視するなり、微笑みの仮面を若干崩す。


「……そちらのお名前は?」

「川上龍泉です」


 出来る限り名乗りたくなかったが、仕方なく告げると、彼女は眼を細めた。

 彼女も霊夢と同じように、私の正体を測りかねている。私も相手の出方を伺いながら正体を探ると、隣に霊夢が近付いてきて、紫さんを指差した。


「こういうのが妖怪ね」

「へぇ……、なるほど」


 私は気付かされたかのように装ったが、内心ではやはりか、と思っていた。

 外の世界ーーと言うか、故郷で見てきたものとは雰囲気が違うものの、彼らと同じく、紫さんからは人間らしさをあまり感じない。


「ちょっと霊夢。耳を貸してくれる?」

「別にいいけど?」


 自力で結論を出すのは諦めたらしく、紫さんは霊夢を呼んで相談を始めた。しかし、どのみち正確な答えは出ないだろう。何せ、私自身でさえ私の事を完璧には把握していないのだ。


 考えてみれば普通に分かる事だ。

 私が普通では無い事くらい。

 では、何者なのか。


 実は、既に私は自らの分類作業に飽きていた。とは言え、今までの経験から人間以外のほうが私らしいとは考えている。

 人間がそこまで嫌いという訳でも、限界を感じて人外に成りたい訳でもない。ただ、人間としての矜持が私には一切無かったのだ。

 原因は私が生きてきた二十年にある。

 その間に人間達から受けた数々の対応が明らかに常軌を逸していたのだ。

 家畜、玩具、導師。

 他にもある。数えるとキリがない。

 私の扱いには生物無生物の境は無く、向けられる感情は氾濫した川のように激しく変化し、どれ一つとして安定しなかった。

 時に軽んじ、時に重んじ。

 人間の姿であっても、人間でない。

 それが人間達から見た私である。


 ――これ以上は面倒だ。


 折角答えを探してくれているのだし、鳥居の柱に背中を預けて何も考えずに待つ事にした。

 その行動を馬鹿にするように空高くで烏が喚く。

 私は心の中で、黙れと呟いた。





 八雲紫は境界を操る幻想郷最古参の妖怪である。

 その特性と明晰な頭脳をもってしても正体が判然としない川上龍泉に対して、彼女は少なからず警戒を覚えていた。

 単純に正体が分からないだけなら構わない。古今東西を問わず、正体が分からないというのは妖怪の最も普遍的な性質だ。その性質が強い妖怪なら大妖怪である彼女の目を誤魔化せなくも無い。

 だが、龍泉は違った。

 言ってしまえば、彼は全だった。

 様々な性質を内包し、それらを区別する無数の境界が彼を構成している。何者でもあるが故に、何者であるかが分からない。

 その為、紫は霊夢を呼んだ。勘の鋭い彼女なら正体を見抜いているのではないかと考えたのだ。

 しかし、駄目だった。少なくとも、幻や死体では無い事しか霊夢は分かっていなかった。


「あまり気にする程の相手じゃないと思うわよ。幽霊にあれだけ集られて平気なのは外来人にしては変だけど、それでも居ないって訳じゃないんだし」

「……ええ、そうね」


 紫は言葉を返しつつ、自らの警戒心を宥めていく。

 とりあえずは自然の成り行きに任せるしかない。

 いざとなれば幻想郷の外に放り出せば良い。

 そう心に決め、鳥居に凭れかかっている龍泉に声をかけた。


「龍泉さん。今後の予定はどうなさるおつもりですか?」

「特に無いです」

「でしたら、今夜この場所で宴会が行われますので、参加してみては如何でしょう?」


 今夜の宴会は複数の大妖怪や神々も参加する事になっている。その者達の知恵を利用すれば、さすがに手掛かりの一つくらいは掴めるだろう。

 それに龍泉は食料を持っていない様子。彼にとっても渡りに船の申し出であるはずだった。


「遠慮しておきます。騒がしいのは苦手なので」

「しかし、失礼ながら、今晩の宿や食事の用意が出来ておられないように見えますが……」

「予定は無いと言いましたが」


 その一言に紫は眉を顰める。

 幻想郷には妖怪がいる。その妖怪の一部は外来人を積極的に襲い、より弱い妖怪を食らって強くなろうとする者もいる。

 龍泉は明らかに弱そうな見た目である。その上、周囲の幽霊達のせいで相当目立つ。このまま野に放ってしまえば、今夜にでも妖怪の餌となるだろう。


「まあ、遠慮しないで」


 少し慌てた様子で霊夢が言った。このまま死なれたら折角の酒が不味くなる。龍泉の性格では場の盛り上がりを悪くする事があるかもしれないが、それでも死なれるよりはマシだ。

 しかし、龍泉はその好意に泥を掛けるように、じっとりとした視線を返す。


「そっちこそ遠慮して欲しい。遠回しに嫌だと言ってるって分からない?」


 その瞬間、霊夢のこめかみに青筋が浮き出た。

 分かっている。分かっている上で、それでも身を案じたからこそ、わざわざ無理に誘ったのだ。

 それで会話を打ち切るならまだしも、龍泉は彼女達に背を向けて、いかにも気安そうに手を振った。


「まあ、参加しないんだから此処に居ても迷惑だろうし。じゃあね」


 その生意気な態度が、少しは心配していた霊夢の神経を一気に逆撫でした。

 宴会の準備でそれなりにストレスが溜まっていたのもある。

 それからの霊夢の動きは迅速だった。


「……待ちなさい」


 声で龍泉の足を止めつつ、霊夢は懐から一枚の札を取り出した。本来ならば妖怪退治に使われる拘束用の札だが、人間や神にも多少は効果が見込める。それに自らの霊力を送り、振り返る途中の龍泉へ不意打ち気味に投げ付ける。


「うわっ、と」


 しかし、龍泉はあっさり躱した。

 その結果、霊夢の札は彼の真後ろにあった鳥居の柱に貼り付く。

 興味本位でそれを剥がそうとした龍泉だったが、札から発せられる霊力の濃さを感じ取り、寸前で止めた。

 はたして、それは正解であった。

 もしも触れていれば溜められた霊力が稲妻の如く放出され、悪くて数時間、良くても数分間、片手が痺れて使い物にならなくなっていただろう。

 龍泉が躊躇った隙に霊夢は札を何枚も手に持ち、先程と同じように霊力を込め、一斉に投げ付けた。

 それを龍泉はまたもや回避してみせた。

 驚きはあれど、動揺は無い。その姿に霊夢はますます躍起になり、無闇矢鱈と札を投げ続ける。

 その隣で、紫は純粋に感心していた。

 龍泉はひ弱な見た目に反し、身のこなしが優れていたのだ。反撃する方法があれば、どんな相手とも渡り合えそうである。

 徐々に目が慣れたのか、龍泉は庭を歩くかのような気軽さで札を避け始めていた。

 途中で霊夢は足下を狙って逃げ場を埋め尽くす方針に変えたが、特に効果を表さないまま、とうとう残り一枚。


「なんだか、負けた気分だけど」


 今までは全て直線に進む物だったが、最後の一枚は目標を追尾するように霊夢は術を仕組んだ。

 振りかぶり、投げる。

 龍泉は回避しようとして、その動きを不意に止めた。

 折角の追尾札は真っ直ぐに進み、体を庇うように掲げられた龍泉の左手に命中する。

 その左手が腕ごと大きく後ろに流れた。

 札自体の質量や速度は小さなものだが、込められた霊力による衝撃がそうさせたのだ。

 左腕は振り子のように揺れ、真下で止まる。

 龍泉は何を考えているか分かりにくい目線をそれにやった。

 そして。

 持ち上げようとして、正しく持ち上がる。

 指を曲げようとして、正しく曲がる。

 その事実を確認した龍泉は左腕を単なる物体のように、肩からぶら下げた。





 どうやら少しふざけすぎた。

 私は飛来する札から濃厚な霊気を感じ取り、咄嗟に上体をずらした。

 真後ろにある柱の、ちょうど私の頭の高さに札が貼り付く。

 近いとはいえ、触れてもいない距離で肌が痺れる。

 試しに手を札に近付けると、その刺激はより強くなった。

 危険だ。

 背中を見せていた迂闊さに気付き、更に飛来する札の数々を横に跳ねて回避する。

 この瞬間、私の中に余裕が生まれた。

 少々反応が遅れても、充分な対処が取れている。

 それに、こんな紙切れ。故郷で散々撃ち込まれた銃弾と比べれば驚くに値しないのだ。

 途中から地面に撒かれ出したが、無駄である。霊気が濃いので見なくても足下の様子は分かる。砂利で滑る距離を念頭に入れて動けば、後は簡単だった。


「なんだか、負けた気分だけど」


 霊夢が一枚だけを持って呟いた。

 何かを仕掛けるつもりなのは分かる。

 だが、それが何にせよ、当たらなければ良い話だ。

 もう既に私は遊び感覚だった。

 油断していた。

 その油断を払拭したのは、他ならぬ私自身だった。


 ――あの札は強力な追尾性能を有する。私では不可避。


 天啓のように浮かび上がったその情報に私は迷わず従った。

 利き手では無い左手を差し出し、札を受ける。

 衝撃。

 擦り傷塗れの手で随分と痛覚は鈍っていたが、単なる打撲とは違う、焼けるような痛みが肩まで駆け抜けた。

 その痛みも消失し、腕が揺れる。

 おぞましい恐怖が体を貫いた。

 腕を失ったのか。

 しかし、取り乱す前に感覚が復帰する。

 衝撃の余韻が残り、動きは鈍いものの、思い通りに腕は動く。

 とは言え、荷物になってしまった腕を下ろし、貼り付いた札を捨てて動きを止めた。


「なんか、滅茶苦茶痛いんだけど」

「……それだけ?」


 罪悪感を煽ろうとしたが、霊夢には通用しなかった。どうやら、本来ならば痛いどころでは済まない筈の代物だったようだ。

 演技不足に気付かされ、私は反射的に左腕を右手で絞った。

 血流が止まる感覚に自然と嫌な汗が額を流れる。

 その状態で恨みがましく霊夢を睨む。

 暫くの沈黙があり、やがて、霊夢は気まずそうに顔を背けた。


「……安心なさい。痛みは数分で取れるわ」


 それを聞いてから私は腕から手を離し、解すように指の曲げ伸ばしを繰り返した。まだ鈍いが、この調子だと一分も経たずに回復出来そうだ。


「……どうして避けなかったのよ」

「はあ?」

「最後の、わざとよね」


 顔を背けていた霊夢が私を睨む。

 嘘を許さない態度であったが、どのみち、私の答えは変わらない。


「動いても当たるなら避けようとしたところで無駄だからね」

「その当たる確信は何処から来たのよ」

「霊夢の自信からだと思うよ」

「……紫、パス。こいつの相手、無駄に疲れる」


 酷い扱いに私は苦笑する。

 きっと、霊夢は誰にでも態度を変えない性格なのだろう。

 それに比べ、紫さんはその区別を徹底しているらしい。

 そうでなければ、厄介な性格を演じる今の私の相手を引き受けられる筈が無い。ただ、私の事を不気味に思ったのか、先程までの愛想はもう見えなかった。


「訊きたい事は沢山ありますが、一つだけ答えていただきます。貴方は一体何者なのですか?」

「残念ながら、興味の無い質問に答える気はありません」

「では別の事を。貴方はどのような方法で幻想郷に辿り着いたのでしょうか?」

「山を転々としていたら偶然に」

「自らの意思で遊山を?」

「遊山ではありませんでしたが、山を歩いていたのは完全に僕の意思ですよ」

「山歩きが趣味なので?」

「いえ。装備を見ていただければ分かりますように、趣味ではありません。山奥の小さな村で暮らしていた時期がありまして、それで少し慣れているだけです」

「では――」

「もう三つも答えましたよ?」


 殆ど間を置かずに質問を重ねる紫さんを止める。


「用事はありませんが、だからと言って用事を作る気はありません。今度は邪魔しないでくださいね」


 私は石段を下りていく。背中から決して友好的では無い二つの視線が刺さるが、さすがに殺意は込められていないので、注意の必要は無いだろう。

 彼女達の対応から、幻想郷という世界の性質は垣間見えた。

 人間か、妖怪か、または……。

 そんな風に、この世界では種族という価値観が深く根付いているらしい。

 外の世界のように人間単体での社会が構成されているのでは無いようなので、さしずめ多種族社会か。

 妖怪と人間の共生という単語が咄嗟に浮かんだが、恐らく違うだろう。妖怪は外来人を襲うと霊夢が言っていたのだし、人間は単体で何不自由無く社会を築ける事が外の世界で実証されている。人間にとって妖怪は不要なのだ。


 だとすると、妖怪は?

 妖怪にとって人間は不要か?


 不思議にも、それはかつての私が故郷でも抱いていた疑問の一つであり、そして、故郷では最後まで答えを見付けられなかったものだった。


「あれは……」


 不毛な推測を中止し、石段を下りながら目線を心持ち空へ向けると、遠くに白い煙が立っているのが見えた。山火事にしては不自然なので、炊煙だろう。どうやらあの真下に人間の集落か、もしくは妖怪の集落があるらしい。

 どちらにしても、この世界について知る為の手掛かりとなるのは間違いない。

 私は自らに対する興味は殆ど失っていたが、この世界に対する興味は徐々に増していた。

 ここはまるで昔の故郷だった。妖怪等が居て、山紫水明だった私の故郷。文明の光も法の光も滅多に照らされなかったが、『僕』が必死で生きたあの故郷に。

 私が最後に故郷を見た時は、老いた人間だけが取り残され、死が近付く気配に満ちていた。

 そして、それに誘われるかのように何処から来たのかさえ分からない人間がやってきて、次の日には自然死を遂げる。そんな事が故郷では珍しくなくなってしまっていた。

 もう、外の世界に私の故郷は無い。

 良い思い出は少なかったが、それでも私は故郷が好きだった。


「感傷だな……」


 私は世を捨てた。何を思ってかは忘れた。飽きたから、とでもしておこう。そのほうが格好が付く。

 さあ、石段が終わる。私の郷愁も終わりだ。


 この世界は私が捨てるのを惜しむ程の世界か。

 じっくり、観察するとしよう。

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