不発弾と呼ばれた特攻兵〜名もなき兵の戦死報告書〜
母機の腹から、空が見えた。
吊り下げられたまま、ソラは前方を見据えていた。
乗っている機体には、自力で離陸するための車輪も、引き返すための燃料も見当たらない。突撃し、突き刺さるためだけの、鉄の棺桶だった。
風防越しに雲が流れ、遠く、目標の輪郭が霞んでいた。高度。速度。切り離しまでの秒数。三点だけを頭に置き、それ以外を削ぎ落としていた。削ぎ落とすほど、胸の奥で何かが小さく燃えているのが分かった。消えない熱だった。今は必要のないものだった。
衝撃が来たのは、その時だった。
鈍い破裂音が上層から響き、母機が激しく揺れた。被弾の振動が骨を揺さぶるのと同時に、固定具が金属の悲鳴を上げて弾け飛ぶ。
予定より早い。位置が違う。身体がそう判断した瞬間、機首が下を向いていた。
風切音だけが異常に高かった。推力を得る余裕はなかった。迫る草原が鮮明に見えた。次の瞬間、天地が激しく反転した。
顎が胸にめり込み、視界が白く爆ぜる。機体は地表を跳ね、引き裂かれ、轟音を立てて停止した。
目を開けると、空があった。
灰色の雲が流れる、どこまでも続く空が。
鼻腔に、青臭い草の匂いが突き刺さった。むせ返るほど濃く、肺の奥まで入り込んできた。生きているものの匂いだった。それが、拒絶したくなるほど鮮明だった。
死ねなかった。
目を覚ました瞬間に、言葉はすでにそこにあった。
機体は野原に転がっていた。胴体に亀裂が走り、機首の先端が地面にめり込んでいた。操縦席の風防は砕けて消えていた。ソラは座席に縛り付けられたまま、空を見上げていた。
シートベルトを外し、機体から這い出た。膝が地面についた。冷たい土が手のひらに触れた。立ち上がり、自分の足で立った。膝が震えた。恐怖からではなかった。
その時、腹が鳴った。
小さく、しかし静寂の中でそれは確かに聞こえた。ソラは動きを止めた。死にそこない、仲間のいない野原に一人立っている。身体は何も知らなかった。ただ、次を求めた。
機体を見た。
残骸は、思ったより小さかった。機首が潰れ、金属の端が草の中に刺さっていた。
ソラは歩み寄り、胴体の側面に手を当てた。自分がここにいるということを、この冷たい金属に確かめさせたかった。
飛んでいたものの温度は、もうどこにもなかった。
指先でなぞると、亀裂の縁が皮膚を浅く切った。細い痛みが走り、指の腹に赤い線が滲んだ。
風が吹いた。草が波打ち、金属の破片が一つ、乾いた音を立てて転がった。ソラの髪が頬にかかった。払う気になれなかった。
ソラはただ立っていた。泣くことも、叫ぶことも、しなかった。そのどちらも、今の自分には大きすぎた。
風が草を鳴らした。その音が、見送った朝の風に似ていた。
訓練所の仲間は、順番に旅立ち、二度と戻らなかった。出撃の朝、笑い、抱きしめ、振り返らずに機体へ乗り込む。正しく死ぬ者の作法であるかのように。最後に見送った背中が、一度だけ空を仰いだ。何を確かめようとしたのか。答えを聞く前に機体は飛び立ち、ソラの元には順番だけが残された。
怖くなかったと言えば嘘になった。それでも、あるのは果たすべき順番だけだった。
それが、また先送りになった。
耳の奥で高く細い音が鳴り、口の中に砂と鉄の味が混じっていた。首を動かすと、視界がゆっくりと傾いた。
大きく息を吸い込み、歩き始めた。
◇◇◇
回収の車が来たのは、歩き始めて間もなくだった。砂埃を上げて停まり、幌の奥から兵士が二人降りてきた。
「乗れ」
一人が言った。それだけだった。ソラは乗り込んだ。
車内は砂埃と沈黙に満ちていた。
運転手は、顎を引いたまま窓の外の一点を見つめ続けていた。もう一人は両手を膝の上で固く握りしめ、白くなった関節を睨みつけている。
二人とも、ソラと視線を合わせようとはしなかった。
基地が見えてきた頃、運転手がミラー越しに、目線があった。気まずそうに、目を逸らされた。
門をくぐると、空気が変わった。車が停まり、ソラは降りた。兵舎の壁が左右に迫り、空が狭くなった。
噂はすでに広まっていた。廊下を歩くと、声が聞こえた。
「不発弾だ」
壁際に立つ二人の兵士のうち、片方は吐き捨てるように視線を床に落とした。もう片方は、値踏みするような冷ややかな目をソラに注ぎ続けた。
その目に同情はなかった。死ぬべき場所から生きて戻った者を凝視する、静かな異物感だけがあった。
ソラは立ち止まらなかった。顔を上げたまま歩き続けた。しばらくして、手が小さく強張っていることに気づいた。野原で切った指の血が、袖口に薄く滲んでいた。
不発弾。言葉は正確だった。
兵舎の角を曲がったとき、炊事場から湯気が流れてきた。米と塩の香り。足が、一瞬だけ止まった。腹の底が、音もなく収縮した。
ソラはすぐに歩き出した。個室の扉の前に立ち、ドアノブに指をかけてから、自分の手が微かに震えていることに気づいた。
中に入り、扉を閉めた。
狭い部屋だった。寝台と小さな棚。壁は染みだらけで、端の塗料が浮いていた。窓は一つ、曇りガラスで、外の輪郭は何も映らなかった。
棚の端に、小さな手鏡があった。出撃前に使ったものだった。ソラは手に取り、自分の顔を見た。額の切り傷に乾いた血がこびりつき、頬に土がついていた。髪が乱れていた。
手が動いた。乱れた髪を直そうとして、止まった。
鏡を伏せて棚に置いた。壁に背をつけ、膝を抱えて座った。
耳鳴りだけが響いていた。
静寂の中で、ソラは自分の内側にあるものに気づいた。薄く、しかし確かにそこにあった。
生きていてよかった。
その気持ちが浮かんだ瞬間、外側から刃が差し込まれた。先達たちは死んだ。死ぬべき番が来て死んだ。自分だけが生き残り、草の匂いを肺に入れ、指から血を滲ませ、鏡の中の自分を見た。空腹さえ覚えた。
許されないことだった。
指先を噛み、壁の染みを数えた。
一つ、二つ、三つ。
消えていった機体の数を数えるように、丁寧に取りこぼしなく。
すべてを数え終えたとき、部屋は完全に光を失っていた。何時かはどうでもよかった。
横になったが、眠れなかった。喉が渇いていた。水は飲みたくなかった。それでも渇きは消えなかった。身体だけが、要求し続けた。
目を閉じると、顔が浮かぶ。一人ではなかった。右の靴紐だけいつも二重に結んでいた者がいた。笑うと片方の目だけ細くなった者がいた。語尾が掠れる癖があった者がいた。出撃前夜、飯を半分残した者がいた。食えよ、と言ったら、笑って首を振った。それぞれの方法で翌朝を迎え、振り返らずに歩いていった。
みんなはもういない。自分だけが今夜も息をしている。
その息が、苦しかった。胸の上に夜の重さが居座り、退かなかった。夜が、鉛を流し込んだ彫像のように静止していた。
乾いた音が、静寂を裂いた。
拳が木板を叩く、三度の音だった。
ソラは鍵を開けた。廊下の薄明かりの中に、伝令が立っていた。
「明朝、再出撃。輸送機にて最前線まで移送。以上」
返事を待たず、軍靴の音だけを残して去った。
扉を閉めた。
胸の中で、何かが静まった。また順番が来た。今度こそ果たせる。先達たちのいる場所へ、向かえる。
「やれる」
誰もいない部屋で、自分だけに向けて言った。壁に吸い込まれた。
胸の奥深く、ごく小さな場所で、火がまだ燃えていた。消そうとするほど確かにそこにあった。名前のない火だった。
気づかないふりをした。気づいてしまえば、明日、飛べなくなる。
窓の外には、ぼやけた月が見えた。ソラは目を開けたまま、夜明けを待った。火を胸の奥に押し込み続けた。押し込めるたびに、確かにそこにあると分かった。
ソラはまだ、その言葉を自分に許していなかった。
◇
「また乗るのか、不発弾」
振り返らずに歩いた。
輸送機は、格納庫の端に押しやられるように停まっていた。胴体の塗装は剥げ、継ぎ当ての跡が幾筋も走っていた。翼の付け根に染みがあった。油か、血か。古い刃物だった。刃がまだ立っているかどうかは、使うまでわからない。
ソラは荷物を抱えたまま、しばらく機体に目をやった。自分は戻らない。機体の新旧は、関係なかった。
格納庫の天井は高く、鉄骨が剥き出しのまま組まれていた。光の届かない梁の上に、鳥の巣があった。戦争より先にそこにあったのか、戦争の隙間に作られたのか。巣は静かで、鳥の姿はなかった。床には油と土が混じった染みが広がり、踏むたびに靴底が微かに粘った。どこかで金属を叩く音がした。規則的で、返事を求めない音だった。
タラップを上がると、数人の男たちがいた。くたびれた軍服を着て、整列も敬礼もしなかった。一人は機材に寄りかかって目を閉じ、一人は床に直接座って地図を広げていた。地図を広げる男の手の甲に、古い火傷の痕があった。引き攣れた皮膚が指の第二関節まで伸び、彼はそれを気にする様子もなく地図の上をなぞっていた。
誰も何も求めなかった。
積み荷であれば楽だった。だが身体は覚えていた。前の飛行を、そして生きて降りた地面の感触を。
機長は操縦席の近くに立っていた。無精髭で、目だけがひどくくたびれていた。肩から腕にかけて、右側だけが妙に落ちていた。古い負傷か、長年同じ姿勢で操縦桿を握り続けた結果か。ソラを一瞥し、顎で奥を示す。声は使わなかった。ソラは示された、壁際に座った。
整備員が来たのは、しばらくしてからだった。がっしりした体格で、手が大きく、指の節が目立った。酷使された顔は年齢を読み取れなかった。
彼はソラの前に立ち、機体の不備を点検する目つきで、全身を見回した。最小限の動きだった。それから、無造作にポケットから小さな包みを放った。
目の前に落ち、甲板を滑った。
チョコレートだった。包み紙は擦れ、端が破れていた。
「食っとけ」
そう言って、背を向けた。首だけ、後ろに捻った。
「目標まで運ぶ」
そう言い残し、機材の向こうへ消えた。工具を手に取る音がした。仕事に戻った音だった。
落ちた包みを、ソラはしばらく放置した。拾えば、今日という日が変わる。そういう予感だけがあった。
拾い上げた。包み紙の角が指に当たった。指は細く、皮膚はまだ滑らかだった。整備員の無骨な手とは、似ても似つかなかった。
包み紙を剥くのに、少し手間取った。端が湿気で貼りついていた。
一口、口に入れると、安っぽい甘さが来た。奥歯に溶けきらず残り、舌の上で少しずつほどけた。甘さは、錆びた鍵だった。胸の奥で、開けてはいけない扉が軋んだ。
喉の奥が、細い棒で押されるように痛んだ。飲み込もうとしたが、消えなかった。ソラは膝の上で手を握った。爪が掌に食い込んだ。
隣に、人が座った。気配は薄く、音もなかった。一瞬、互いの手が触れた。
軍服の襟が、首に対して大きすぎた。支給されたまま着ているのだろう。喉仏がまだ小さく、嚥下のたびに頼りなく動いた。髭の痕がなく、頬の稜線だけが鋭く削れていた。飢えか、成長の途中か。軍服の袖がわずかに余り、手首の骨が浮いていた。贅肉のない体躯は、ソラとさして変わらぬ年頃に見えた。少年は壁にもたれ、窓の向こうを凝視していた。
「晴れてきた」
誰に聞かせるでもなかった。ソラは窓の外へ目を向けた。垂れ込めていた雲の切れ間から、鋭い光の束が地上へ差し始めていた。
少年がソラを見た。
「あの雲、さっきまで低かった」
少年は小さく笑い、また窓の外へ視線を戻した。膝を抱えるように体を縮め、窓枠に額をわずかに近づけた。祈っているようにも、眠っているようにも見えた。
ソラは少年の横顔から、視線を外した。窓の外を見た。光は光のままそこにあった。
少年が立ち上がり、機内の点検を始めた。指先が微かに急いでいた。
「緩んでます、左の第三」
「増し締めしろ」
ソラは前を向いたまま、その一部始終を視界の端で追った。
しばらくすると、エンジン音が変わり、機体が震え始めた。
ソラは膝の上の手を、静かに握った。
高度が上がり、地上の色が薄くなった。エンジンの振動が骨に伝わり、座席の金属が細かく鳴った。
—-
日が傾く頃、機体は中継地点の格納庫に収まった。何時間飛んだか、ソラには測れなかった。眠れず、窓の外を見続けた。地上の色が変わり、川が見え、線になり消えた。
出発した格納庫より小さく、天井が低かった。壁に沿って燃料缶が並び、その一部は空だった。照明が一箇所切れていて、床に四角い影が落ちていた。
整備員は、一度だけ機体の壁を手の平で叩いた。その後、座席に深く沈んで腕を組み、寝息を立て始めた。その寝顔は昼間と変わらぬ仏頂面だった。少年は床に直接横になり、毛布もかけずに目を閉じた。
ソラは眠れなかった。毛布を膝に掛け、壁にもたれた。目を閉じると、顔が浮かんだ。笑っている顔と、黙っている顔が、順番もなく現れた。責めてはいなかった。
ソラは毛布を畳み、音を立てないように立ち上がった。靴紐を結び直した。必要はなかったが、手が勝手に動いた。
格納庫の外に出た。夜気が肌を刺した。 地平の一角が滲むように明るかった。夜の縁で、塞がりきらずに滲んでいた。戦線はそこまで来ていた。
大きく息を吸い込み、目をつむった。背後で、枝の割れる音がした。
機長が外壁に背をつけて立っていた。煙草を指に挟んでいたが、火はついていなかった。ソラに気づいた。一瞬、目が止まった。子供を見る目ではなく、兵を見る目でもなかった。すぐに視線は地平へ戻った。ソラも黙って、少し離れた場所に立った。
風が草を鳴らした。
ソラは、なびく髪を片手で押さえた。
機長は地平を見たまま、煙草を一度だけ口元へ運んだ。それから、また指に戻した。
「眠れないのか」
「はい」
「初めてか」
「いいえ」
沈黙が続いた。機長は火のない煙草を指に挟んだままにしていた。
「ずっと前から、火を切らしてるんだ」
「そうですか」
「習慣でね」
機長の横顔は遠くの光に向いたままだった。煙草の煙を吸うように、頬の筋肉が小さく動いた。指先は、動作を正確に覚えているようだった。
「私は、死に損ないました」
声に出してから、ソラは自分が言ったことに気づいた。夜気が冷たく、口の中に残った。
機長は動かなかった。慰めず、遠くを見たまま黙っていた。沈黙は、重くなかった。
「座標通りに飛ぶ」
ソラは大きく夜気を吸い込んだ。視線が、地平の先に引き寄せられる。任務の言葉だった。感情を持たない言葉だった。なのに、掌の爪の跡が、じわりと熱を持った。
地平を見ると、光が揺れていた。揺れるたびに、輪郭が少し大きくなった。近づいているのか、火が広がっているのか、判断できなかった。
「あの光まで」
「ああ」
風が一度、強く草を鳴らした。
目に塵が入り、涙が出た。横から遠ざかる足音が聞こえた。目を拭くと、機長の背が格納庫へ消えるのが見えた。足音は聞こえなかった。
ソラは一人、夜の中に立った。使命は変わらなかった。ただ、胸郭の内側に、異物が一枚挟まったような重さがあった。この人たちと飛ぶ。護衛もなく、古い機体で、あの光の向こうへ。その飛行を、無駄にしたくなかった。
ソラは格納庫へ向かって、一歩踏み出した。
格納庫へ戻ると、少年がまだ起きていた。毛布もかけず、天井を見上げていた。ソラが入っても視線を動かさなかった。自分の場所に戻り、毛布を引き寄せた。
「明日も晴れるかな」
天井に向かって言った。
「そうですね」
ソラは答えた。
少年が寝返りを打った。唇が、一瞬だけ動いた。声にならなかった。名前か、数字か、ソラには届かなかった。
月明かりが差し込んだ。舞い上がった塵が、その中で星のように明滅した。その白い輝きの中で、少年の顔は無防備だった。眠っている者だけが持てる顔だった。
ソラにはその顔が遠かった。どれほど目を閉じても、自分にはあの顔が来なかった。ソラは視線を天井へ移した。
隣から、寝息が聞こえた。
目を閉じた。空に散った者たちの顔が現れた。追い縋りたかったその背中に、今は何も言わなかった。答えの出ない問いを抱えたまま、仲間たちの輪郭だけを、記憶の底へ沈めていった。
どこかで鳥が鳴いた。一声、それきり静かになった。
目を開けた時、朝日が差し込んでいた。 壁の継ぎ目から差し込んだ夜明けの光が、床まで一本の線を引いていた。細く、まっすぐだった。
ソラはその線を目で追った。線と交差して、自分の手があった。線が細く、白い手だった。掌には、爪の跡が赤く残っていた。そこに残る痛みが、チョコレートの味を思い出させた。
その傷をしばらく見つめた後、ゆっくりと手を握った。
◇
指を順番に曲げた。右手、左手。全部動く。当たり前のことなのに、そう思えなかった。
鳥の声が一つした。
軍服を手に取り、袖を通した。釦を一つずつ、丁寧に留め、外へ出た。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
空気が頬を打った。霜が降りていた。草の上に白く薄く積もっていた。東の空の縁が、金属の色をしていた。踏み出すと、霜が割れるかすかな音がした。ソラは立ち止まり、音を確かめるように、一歩を踏み出した。
身体が温まるまで、格納庫の周囲を歩いた。
格納庫に戻ると、クルーたちは無言で機体の点検をしていた。整備員がエンジン周りを拳で叩き、数値を読んだ。機長は翼の付け根を指でなぞっていた。何かを測るような、静かな手つきだった。ソラを見ると、目線だけで奥を示した。
ソラは搭乗前に、一度だけ地平を見た。昨夜、光が揺れていた方角だった。今は霞の中に沈んで、何も見えなかった。あの向こうへ行く。それだけを確かめて、機体に乗り込んだ。
離陸した。
護衛機は、最初からいない。そういう任務だった。捨て駒であることは、乗り込む前から全員わかっていた。それでも機体は飛んだ。エンジンが唸り、高度が上がり、霞を抜けた。
しばらくは静かだった。
少年が小窓の外を見ていた。昨日と同じ横顔だった。今日は何が見えているのか、ソラにはわからなかった。聞こうとして、やめた。
雲の切れ間から地上が見えた。焼けた地面。動かない物体。戦線はすでにそこまで広がっていた。ソラは窓から目を逸らした。
深く息を吸い込み、まぶたを閉じた。
瞬間、わずかな静寂を狙い澄ましたかのように、世界が反転した。
機体が弾かれるように揺れ、金属の悲鳴が胴体を走った。敵の迎撃機だった。雲の陰から、複数機が現れた。
「来るぞ」
機長が言った。
一撃が胴体を掠め、内壁に火花が散った。火薬と焦げた金属の匂いが鼻を突いた。
少年が後部の銃座へ走った。
狭い通路を、身をかがめて駆けた。機体が揺れるたび、壁に肩をぶつけながら、それでも止まらなかった。銃座に滑り込み、両手で機銃を引き寄せた。細い指が、台座をしっかりと掴んだ。
ソラは息を止めた。
返撃の音が響いた。敵機が一度離れ、間を置かず再び現れた。護衛のいない輸送機など、的でしかなかった。
二度目の攻撃は、角度を変えてきた。胴体の下を抉るように掠め、床が一瞬浮いた。少年の上半身が大きくぶれた。銃口は動かなかった。標的を追い、食らいついていた。
敵機が旋回した。三度目が来る前の、わずかな間だった。
少年が一度だけ、こちらを見た。
目が合った。何も言わなかった。ソラも言えなかった。一秒か、二秒か。青年は前を向いた。引き金に、指が戻った。
十秒か二十秒、ソラは銃座に収まった背中を見ていた。激しい振動に揺れるその背は、ひどく細かった。華奢な肩が機銃を支え、踏ん張っていた。
「明日も晴れるといいな」と呟いた、あの声。その声の主が、引き金に指をかけていた。ソラは目を逸らせなかった。息の吸い方を、忘れていた。
敵機が再び近づいた。今度は二機だった。左右から挟むように降りてきた。少年の銃口が左へ振れた。右からの一撃が、胴体を縦に走った。
音が、変わった。
金属を貫く、くぐもった音が鳴り、消えた。
刹那の後、衝撃が来た。背骨の芯まで届く鈍い震動、それに続いて何かが引き裂かれる長い音が胴体を走った。機体が大きく傾き、ソラは壁に叩きつけられた。視界が歪んだ。焼けた布の匂いがした。
後部を見た。
銃座があった場所に、空があった。機体の側面が大きく裂け、風が吹き込んでいた。破片が床に散らばっていた。軍服の切れ端が一枚、風に揺れていた。袖のあたりが、少し余っていた。
ソラは動けなかった。風が髪を打ち、冷気が肌に刺さった。
闇の中で隣り合っていた気配は、もうどこにもなかった。
整備員が舌打ちをした。一度だけ、裂けた側面へ目をやった。それから銃座の残骸へ向かい、大きな手で銃を引き寄せ、引き金を引いた。
ソラは自分の手を見た。握ろうとしたが、指が言うことを聞かなかった。
敵機は離れなかった。
機体の下から突き上げるような衝撃が走り、ソラは座席から浮いた。計器盤のどこかが弾け、右翼が大きく傾いたまま戻らなかった。壁を赤い液体が流れていた。続けて一撃が胴体後部を抉り、くぐもった唸りが一度だけ響いた。それきり、静かになった。
ソラは立ち上がり、銃座へ向かおうとした。足が壁を踏んでいた。
機長の声がした。
「まだ飛ぶ」
額から血が流れ、顎を伝っていた。右腕はシートに押しつけられたまま動かず、左手だけが操縦桿を握っていた。声に力があった。折れていなかった。
「切り離して」
ソラは言った。叫びではなかった。
「今すぐ私を切り離して。これ以上は」
機長は振り返らなかった。
「タイミングは俺が決める。黙って座ってろ」
静かな声だった。操縦桿を握り直す音が聞こえた。
ソラは動けなかった。血が機長の顎を伝い、床に落ちた。左手だけが操縦桿を握り続けていた。
前方に光点が見えた。
小さく、しかし確実にそこにあった。
古い機体が、傾きながら、燃えながら、まだ前へ向かっていた。
煙が充満する機内で、ソラの指先だけが動いた。
ロック解除、点火回路の接続、高度設定。
訓練所で何千回と繰り返した動作だった。手は震えていた。指は止まらなかった。
機体が水平を失いつつあった。
左翼の付け根から火が出ていた。煙が胴体を舐め、風圧で後ろへ流れた。傾き、揺れ、高度を削りながら、輸送機はまだ飛んでいた。
機長の滴り落ちる鮮血が、床にたまりを作った。
右腕は脇に垂れ下がったままだった。油と血で滑る左手だけで操縦桿を死守し、機体を水平に保とうとしていた。割れた計器盤の数字はもう読めなかった。炎が前方に広がっていた。
計器が限界を示した。
機長が一度だけそれを見た。それから顔を上げ、視線が止まった。切り離し地点だった。
機長の左手が操縦桿から離れた。
傍らのレバーに伸びた。古い金属のレバーだった。指が触れ、一瞬だけ止まった。
ソラは機長の背中を見ていた。広くくたびれた軍服が、肩のあたりで皺を作っていた。
「行け」と機長が言った。
金属が弾かれる音がした。次の瞬間、床が消えた。
身体が宙に投げ出され、背中から空気の壁に叩きつけられた。胸の空気が一度に絞り出され、声にならない呻きが出た。目が開いたまま、何も見えなかった。
それから、風が来た。
顔の皮膚を削るような風だった。鼻の奥に煙と焦げた金属の残滓が入り込んだ。目が乾いた。涙が横に流れた。
高度が低かった。
眼下に大地が広がっていた。緑も茶も、境目なく混ざり合っていた。戦線の色だった。道らしきものが一本、細く伸びていた。
まばたきをした。視界が一度滲み、戻った。
手が動いた。風の流れに逆らって機体を押さえた。身体が、まだ任務を覚えていた。
震える機体を修正した。雲が薄く広がり、その隙間から、光が斜めに落ちていた。
背後で、何かが爆ぜた。
振り返った。
左翼の付け根から火柱が上がっていた。胴体が黒く煤け、炎が風圧に引き伸ばされて尾を引いていた。それが傾き、頭を下げ、落ちていった。地面に吸い込まれるように、小さくなった。赤い閃光が一つ、膨らんだ。それきり、何もなかった。
向き直すのに、時間がかかった。首が重かった。瞼が熱かった。それでも、前しかなかった。
操縦桿を両手で握りしめた。
前方に標的があった。まだ遠く、しかし確実にそこにあった。
加速が始まった。
身体が座席に縫いつけられた。背骨が軋んだ。首が動かなかった。腕が鉛になり、指だけがかろうじて操縦桿にかかっていた。
胸が内側から押し潰されていく感覚があった。吸おうとしても空気が入らなかった。
視界の端が暗くなり、中心だけが赤く滲んだ。奥歯を噛んだ。歯の根が痛んだ。口の中に鉄の味が広がり、舌の上に溜まった。
記憶が押し寄せた。
甘さが戻った。安っぽい甘さが奥歯に残る感触。なぜあのとき目が熱くなったのか、まだわからなかった。ただ甘かった。
先達たちの顔が現れ、追いつく、と思いかけた。
指が、操縦桿を握り直した。反射だった。思考より早く、手が動いた。
目が前を向いていた。
標的が近づいていた。最初は点だった。それが形を持ち、輪郭が揺れながら迫ってきた。
凄まじい風圧で機体が震え、計器は割れ、高度計も速度計も、何も表示されていなかった。右翼の付け根からは、細い煙が流れた。
空気は熱を帯び、皮膚が、目が、喉が焼けた。
ソラは歯を食いしばった。
皆の顔が、光の中へ溶けた。
意識が薄くなった。端から白くなるように、少しずつ消えていった。肩が、腕が、歯が震えていた。怖かった。それでも、握る形が、そこにあった。熱いのか冷たいのか、もうわからなかった。
構造物が、視界を塞いだ。
表面の継ぎ目が見えた。錆が筋を引いていた。涙が出た。目を開いたまま、閉じられなかった。
名前のない火が、一気に喉元までせり上がってきた。ソラは、ひと言つぶやいた。声にならなかった。
光が、満ちた。
静かだった。
衝撃も熱も、跡形もなかった。白くも暗くもない光の中に、ソラはいた。速度が消え、音が消え、指だけがまだ曲がったままだった。
甘さがあった。舌の上にあるのか、記憶の中にあるのか、区別がつかなかった。そこにあり、消えなかった。
顔が現れた。笑っていた。
特別な笑い方ではなかった。何でもない朝に見せてくれる、あの顔だった。
特攻に向かった朝、みんな笑っていた。
怖かったはずだった。自分と同じように。それでも笑っていた。あの笑顔が何だったのか、ずっとわからなかった。
今は、わかる気がした。
光が、色を失った。
◇
任務完了の報告書は、翌朝に提出された。
【報告書第百二十四号】
「特攻機。目標への直撃を確認。戦果、甚大。輸送機乗員三名、特攻搭乗員一名、戦死」
名前は、どこにも記されていない。




