第六話:供物の揺り籠
王都の喧騒から少し離れた丘の上に、その「楽園」は存在していた。
『リネット孤児院』。
白壁に這う色鮮やかな蔦、手入れの行き届いた花壇。だが、その色彩はあまりに彩度が高く、網膜を刺すような不自然さを孕んでいる。風に乗って聞こえてくる子供たちの笑い声は、ドップラー効果すら無視して一定のピッチを保ち、汚れを知らぬ聖歌のように響いていた。そこは、聖王アルベルトの慈愛が最も純粋な形で結晶化した場所であると、誰もが疑わずに信じている。
だが、その門を潜った瞬間、俺の視界には「異常」を示す警告ログが溢れ出した。
庭を駆け回る子供たちの動きが、あまりにも統制されすぎている。
一人が笑えば、周囲の数人もまた、全く同じデシベルと周波数で笑い声を同期させる。一人が転べば、近くの年長者が、脚本に従う役者のような淀みのない所作で駆け寄り、教科書通りの「優しさ」でその手を引く。
そこには、子供特有の身勝手な怒りも、理不尽な泣き喚きも、予測不能な混沌も存在しなかった。
「……気持ち悪いわ。この子たちの目、まるで中身が空っぽみたい」
俺の背後で、リラが嫌悪を隠さずに呟いた。
見上げるほどに背の低い彼女の身体が、本能的な拒絶で微かに震えている。バグによって「個」の執着を手に入れた彼女にとって、この無機質な全肯定の世界は、かつての自分を縛っていた檻そのものに見えるのだろう。
メイド服を内側から強烈に押し上げる彼女の豊かな肉体――その重量が衣類をきしませる、物理的な摩擦音が静寂の中で不気味なほど鮮明に響く。布地が肉の熱量に負けて、じっとりと湿り気を帯びていく。この無菌の空間では、彼女が放つ生々しい生命力の匂い、その脂ぎった「実存」そのものが、致死性の毒物のように浮き上がっていた。
「いらっしゃいませ、カイン様。皆様をお待ちしておりましたわ」
孤児たちの中心から、一人の少女が歩み寄ってきた。
第三聖天女、リネット。
彼女はこの場にいるどの子供よりも幼く見えるほどに小柄だが、その薄い衣に包まれた肢体には、聖職者特有のストイックなまでに削ぎ落とされた、しかし確かな女性の輪郭が潜んでいる。その可憐な貌には、一片の曇りもない「献身」の輝きが宿っていた。
だが、俺のデバッガーとしての視界には、彼女の頭上に浮かぶ膨大な数の「不可視の糸」が見えていた。その糸は彼女の手指から伸び、孤児院のすべての子供たちの項へと繋がっている。
「リネット。随分と『効率的』な運営をしているようだな。この子たちの笑顔、一秒たりとも無駄がない。……前任者は、よほどリソースの無駄遣いが嫌いだったらしい」
「ふふ、お褒めいただき光栄です。アルベルト様の御心に応えるため、この子たちが常に幸福の中にいられるよう、私が心を込めて調律しておりますから」
リネットは誇らしげに、その小さな胸を張った。
彼女自身は、自分が最悪の搾取に加担しているという自覚が微塵もない。彼女にとっての「愛」とは、管理者が定義した「幸福なデータ」を子供たちに強制的に流し込み、彼らから「負の感情」という名のノイズを去勢することと同義なのだ。
「調律、か。……リネット、お前はこの子たちが笑うたびに、この王都の防壁の出力が安定し、世界が美しく上書きされることに、疑問を抱いたことはないのか?」
「それは……聖王様が、子供たちの純粋な祈りに応えてくださっているからでは?」
「祈り? 違うな。それは祈りなんて高尚なものじゃない。……『演算』だ」
俺は一歩、リネットへと詰め寄った。彼女の幼い視線が、俺の冷徹な言葉に揺らぐ。
「子供の脳は、成人に比べて可塑性が高く、純粋な『幸福感』を生成しやすい。アルベルトはそこに目をつけた。この孤児院は、孤児を救うための場所じゃない。……世界を維持するための演算リソースを、最も安価に、かつ安定的に回収するための『養殖場』だ。人件費を極限まで削った、24時間稼働のデータセンターだよ」
「……何を、おっしゃって……」
「お前が子供たちに与えているのはパンや絵本じゃない。彼らの脳を常時接続させ、その生命活動をエネルギーに変えるための『接続許可証』だ。この子たちが幸せを感じるほど、お前たちが守る『美しい世界』の処理速度は向上する。……だが、その代償に、この子たちの自我は日々、擦り切れて消失しているんだよ。お前が抱きしめるたびに、この子たちの寿命が数時間ずつ削られているとしたら? その『献身』は、一体誰のためのものだ?」
「嘘よ……そんなの、嘘ですわ! 私は、私はただ、この子たちの幸せを……っ!」
リネットの叫びに呼応するように、周囲の子供たちが一斉に動きを止めた。
静寂。
先ほどまでの賑やかな笑い声が嘘のように消え、数十人の子供たちの喉が同時に震え、鼓膜を削り取るような高周波の合成音が空間を支配した。それは「声」というより、劣化した磁気テープが高速で逆回転する際に生じる不快なノイズに近い。
「エラーを検知。……リソースの回収に支障あり。……障害を、排除します」
子供たちの口から、同時に、無機質な合成音声が発せられた。可愛らしいはずの童顔が、表情筋の限界を無視した角度で吊り上がり、固定される。その隙間から覗く歯列は、管理者が用意した「清潔な白」という名の、無機質なセラミックの輝きを放っていた。彼らの瞳が不気味なデジタルノイズで明滅し始める。
「見てみろ、リネット。これがお前の愛した子供たちの、本当の姿だ。……中身はとっくに腐り落ちた、生体端末の残骸だよ」
俺は冷笑を浮かべ、自身の内の『削除データ』を、血管を焼くような苦痛と共に解き放った。
――全演算、停止。
――定義置換:『幸福の養殖場』を『地獄の揺り籠』へ。
刹那、楽園を彩っていた花々が真っ黒な廃液へと溶け落ち、美しい孤児院の校舎が、血管のような赤いケーブルが剥き出しになった「生体サーバー」へと変貌していく。焼けたシリコンの臭いと、肉が焦げるオゾン臭の混じった悪臭が、立ち込める霧を侵食した。
子供たちは、その場に崩れ落ち、あるいは糸の切れた人形のように痙攣し始めた。その項からは、肉を食い破って光り輝くコードが露出し、空中に散逸していく。
「あ……あ、あああああぁぁっ……! そんな……私の、私の孤児院が……っ!」
リネットは膝をつき、自らが育ててきた「幸福」の正体が、ただの醜悪な配線の塊であったことを突きつけられ、絶叫した。
彼女が慈しんできた孤児の頬に触れる。だが、その肌は今や冷たいシリコンのような質感に変貌し、触れた場所からデジタルノイズが伝染していく。彼女が与えていた「愛」は、今や子供たちを物理的に破壊する毒物へと反転していた。
「リネット、お前が救ってきた子供たちの総数だけ、お前は彼らの魂を磨り潰してきたんだ。お前の手のひらには、彼らの消滅した未来がこびりついている。……その『献身』という名の罪を、どうやって償う?」
「やめて……もう, やめて……っ! 私、私は……知らなかったの……!」
「『知らなかった』で済むのは、システムの利用者だけだ。……管理側に立つお前には、その責任を引き受ける義務がある」
俺は、震える少女の髪を乱暴に掴み上げ、その濁り始めた瞳を覗き込んだ。
彼女の脳内では、アルベルトが敷設した「聖女の使命」と、目の前の「地獄」という名の現実が衝突し、処理不能な論理爆弾となって炸裂していた。
「……ねえ、カイン様。私、この子たちを……私の手で、壊していたのね?」
リネットの声から、一切の感情が消え去った。
彼女の瞳に宿っていた「聖なる光」は完全に退色し、代わりに、底の知れない、粘着質な「自己処罰」の熱が灯る。
「……そうだ。お前の善意が、この子たちの自我を殺し、魂を演算資源に変換した。……お前は、史上最も効率的に『純粋な魂』を殺害した虐殺者だよ」
「ああ……あああ。……なんて、なんて素晴らしいのかしら」
リネットの口角が、不気味に吊り上がった。
極限まで圧縮された罪悪感は、臨界点を超え、自身の破壊と主人への依存という形で再定義されたのだ。
「私を……私をもっと呪ってください。この汚れた手を、貴方のバグで焼き尽くして。……私はもう、この世界の『正しさ』には戻れない。……カイン様……貴方だけが、私の犯した罪を……理解してくれる唯一の神様だわ……」
リネットは俺の足元に縋り付き、その幼い顔を俺の脚に擦り付けた。
彼女の指先から伸びていた子供たちへの糸が、今度は彼女自身の首を締め上げるように巻き付き、彼女の存在を俺のシステムへと強制的に繋ぎ止めていた。
――ッ!?
その瞬間、俺の脳内を、高圧電流が駆け抜けるような激痛が突き抜けた。
視界の半分が砂嵐のようなデジタルノイズに塗り潰され、鼻腔からは、生暖かい鉄の味が滴り落ちる。聖女という名の「基幹サーバー」を三つも同時に掌握し、その演算負荷をこの十五歳の脆弱な肉体にバイパスさせた代償だ。
俺は膝を突きそうになるのを、奥歯を噛み締めて踏みとどまった。
視界の端で、崩壊した孤児院の残骸から、行き場を失った「純粋な幸福」が、薄気味悪い燐光となって空へと散逸していくのが見える。それは美しく、そして救いようのないほど無機質な光景だった。
「……リラ、クラリス。この廃品を回収しろ。……帰るぞ」
絞り出した声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
リラが、小柄な身体からは想像もつかない力強さで、虚脱したリネットの脇を抱え上げる。クラリスは、俺の指先に付いた血を、祈りを捧げるような手つきで自身のハンカチで拭い取った。
俺は背後の惨状を二度と振り返らなかった。
孤児院の跡地には、ただ、冷たいデジタルノイズの残響と、壊れた人形――かつて子供と呼ばれていた生体端末たちの、物言わぬ沈黙だけが堆積していく。
管理者の作り上げた「読み心地の良い平和」という名の物語。その一ページを、俺は確かに、黒いインクで塗り潰した。
だが、喉元まで出かかった皮肉な台詞は、溢れ出した鼻血の熱さに押し戻された。
今はただ、この狂った無菌室の空気を、一刻も早く吐き出したかった。
沈黙。
夕闇に包まれ始めた丘の上で、俺たちは一筋の影となって、ジークハルト家の屋敷へと続く帰路を、ただ無言で歩き続けた。




