第五話:断絶の箱庭
ジークハルト家の朝は、いつも「完璧な幸福」から始まる。
窓から差し込む陽光は、空気中の埃一つさえもが管理者の意向に沿って整列しているかのように澄み渡り、庭園からは調律された小鳥たちの、情緒を欠いたさえずりが規則正しく聞こえてくる。この庭の芝生も、おそらくはミリ単位でその丈を管理され、枯れることも伸びすぎることも許されていない。自然という名のカオスは、この敷地内において一抹の存在も許容されていないのだ。
食卓に並ぶのは、湯気を立てる焼きたてのパンと、香草を添えた肉料理。それらは視覚的にも嗅覚的にも「理想的な朝食」のテンプレートを体現しており、一点の曇りもない微笑みを浮かべた「両親」が、その光景を完成させていた。彼らの座る位置、カトラリーを持つ角度、そして交わされる挨拶。そのすべてが、前任の転生者が書き上げた「幸福な貴族の朝」というスクリプトに従って、一フレームの誤差もなく進行している。
「おはよう、カイン。今日もアルベルト様の光が、この家を優しく包んでいるわね」
母が、陶器のティーカップを置きながら、慈母の象徴のような顔で俺を見る。その瞳の奥には、濁りも、疑念も、そして「思考」の痕跡さえも見当たらない。その美しく整えられた貌が、感情の起伏というノイズを一切持たない滑らかな陶器の質感に思えて、俺は微かな寒気を覚える。それは生身の人間というより、精巧に作られた自動人形に近い。
「ああ。いい朝だね、母さん」
俺は無機質に答え、泥水の味から解放された紅茶を啜った。
この男と女は、俺を生んだ。この世界のカイン・ジークハルトという少年のハードウェアを形成した、親という名の「ソースコード」だ。だが、俺は彼らと一度も、心を通わせたという自覚がない。
彼らは人間ではなく、アルベルトが敷設した「善意のOS」に人生の全リソースを預け、自己というファイルを完全に上書きされた、精巧な背景オブジェクトに過ぎないからだ。
例えば、俺が今ここで、隣に座る聖女クラリスの手を握り、彼女を汚すような言葉を吐いたとしても。あるいは、俺を慕うはずのリラに冷酷な命令を下したとしても。彼らの脳内にある『洗脳フィルター』は、そのすべての異常を「若者たちの微笑ましい交流」という、都合の良いデータに自動変換してしまうだろう。
俺は、彼らをデバッグしようとは思わない。人格がシステムと癒着しすぎている彼らを解除すれば、自己という殻を失った、崩壊した「肉の塊」が残るだけだと分かっているからだ。だから, 俺は彼らを「透明な存在」として扱う。救う価値もなく、殺す理由もない、完璧な断絶。
「カイン様、おかわりはいかがですか?」
背後に控えていたリラが、恭しく首を傾げた。
俺の視界を遮るように身を乗り出した彼女の身体は、見上げるほどに背が低い。しかし、その小柄な体躯には、管理者が「奉仕者」として用意した、過剰なまでの肉感が凝縮されている。 薄い生地のメイド服を内側から強烈に押し上げる曲線――いわゆる「乳袋」が、俺の膝に触れるほどの間近で不自然に揺れる。彼女が動くたび、その肉の重量に抗いきれない布地が悲鳴のようなきしみを上げ、逃げ場を失った熱が俺の肌に伝わってくる。
前任者が読者に媚びるために用意した、あまりに安直で記号的な造形。かつての彼女も、両親と同じ「人形」だった。だが、俺がそのOSを強制的にバグらせたことで、彼女は「主人への執着」という醜くも生々しい魂を手に入れた。今の彼女が放つ、僅かに上気した体温と、執着という名の粘り気を帯びた吐息だけが、この凍りついた朝の中で唯一の「生きたデータ」として俺の肌に触れる。
「……いい。それより、あいつを連れてこい」
俺が顎で示すと、リラは「承知いたしました」と艶やかな笑みを浮かべ、食堂の扉を開いた。
入ってきたのは、かつて「規律」の権化だった第一聖天女、シルヴィアだ。
彼女は、重厚な騎士の法衣を脱ぎ、肌の露出の多い訓練着に身を包んでいた。女性としてはかなり恵まれた体躯を持つ彼女が、俺の前に立つと、そのスレンダーで鍛え上げられた肢体がいっそう際立つ。 訓練着の薄い布地は、彼女の激しい呼吸に合わせてしなやかに波打ち、甲冑を脱ぎ捨てたことで露わになった肉の輪郭を、生々しいまでの実在感を持って主張している。長く伸びた脚が描く曲線は、もはや規律ではなく、一人の男への隷従を誓った雌としての熱量を孕んでいた。
だが, かつての鋭い眼光は消え、その瞳には、俺の許可なく呼吸することさえ恐れるような、病的で、狂おしいまでの隷属の色が宿っている。
「……おはようございます、ご主人様。昨夜は……一歩も、門から離れず、貴方をお守りいたしました……」
シルヴィアは俺の足元に膝をつき、震える指先で俺の靴に触れた。
かつて聖騎士団で何百という兵を率いた彼女が、今や小柄な俺の顔色一つで体温を激変させる「番犬」に成り下がっている。彼女が発する、屈辱と快楽が混ざり合った荒い呼吸が、静かな食堂に場違いなほど官能的に響く。彼女の長い指が、俺の靴底についた汚れを愛おしむように撫でるのを見て、俺は支配の優越感に似た吐き気を覚えた。
「あらあら、シルヴィア様。今日もカインと仲良しで何よりですわ」
母が、平然とした顔でそう言った。足元で女騎士が俺の靴をなぞっているその光景が、彼女には「高潔な騎士と、立派に育った息子の友情」に見えているのだ。
この「話の通じなさ」こそが、アルベルトが作り上げた『平和』の究極形。誰もが都合の良い物語に閉じこもり、他者の痛みも、世界の歪みも、すべてを「善意」というオブラートで包み隠す。
「……カイン様。私、もう耐えられませんわ」
隣に座るクラリスが、震える声で呟いた。アイドルを思わせる貌が、今は恐怖に歪んでいる。 彼女の薄い法衣の下で、恐怖に震える肢体が小刻みに波打ち、そのしなやかな輪郭が俺の腕に押し付けられる。彼女は、両親のその無自覚な「善意の毒」に、俺以上に耐え難い拒絶反応を示していた。
「この屋敷に満ちている光が……あの人たちの微笑みが、まるで私の魂を、一文字ずつ消去していくようで。……怖いのです。早く、私を壊してください。あの不気味な『正しさ』が届かないほど、深い、深い闇へ連れて行って」
クラリスが、食卓の下で俺の手を強く握りしめた。彼女の指先は氷のように冷たく、その震えは止まらない。彼女にとっての救いは、俺が注入する「残酷な真実」という名の毒だけ。俺は彼女の細い指を握り返し、静かに立ち上がった。彼女の依存は、アルベルトの支配に対する唯一の、そして絶望的な抵抗の形なのだ。
「安心しろ、クラリス。この屋敷の二階、俺の書斎から先は、管理者の監視は届かない。そこならお前は、いくらでも絶望していいし、いくらでも自分を呪っていい。……そこだけが、この狂った無菌室における唯一の『現実』だ」
「……はい。ありがとうございます、カイン様」
両親の「いってらっしゃい、カイン。今日も世界のために貢献するのですよ」という祝福の声を背に、俺は背後に従うリラ、クラリス、そして床を這うシルヴィアを引き連れ、屋敷の二階へと階段を上る。
一階は、アルベルトの支配する「美しい偽物」の世界。
二階は, 俺が管理する「醜悪な本物」の揺り籠。
階段の途中で、俺は一度だけ振り返り、明るい光に満ちた一階のフロアを見下ろした。
そこには、幸せそうに後片付けをする両親の後ろ姿がある。
彼らは、自分たちが死ぬまで、自分が「プログラムのパーツ」であることに気づくことはないだろう。その無知を幸福と呼ぶなら、俺が彼らにしてやれる唯一の親孝行は、この断絶を維持し続けることだけだ。
「……正義なんて残業は、もうこりごりなんだよ」
俺は書斎の重い扉を閉めた。
カチリ、と鍵がかかる音が響く。ここから先は、管理者のルールが通用しない、俺たちの「地獄」だ。
俺はデスクの前に座り、膝元に縋り付いてくるリラの頭を無造作に撫でながら、次の「デバッグ対象」へと意識を向ける。
「リラ。シルヴィアを調律台へ。クラリス、お前は解析を手伝え」
「「「はい、カイン様」」」
三者三様の、しかし一様に歪んだ忠誠の声が、書斎の静寂に響き渡った。
アルベルト、お前の作った『読み心地のいい物語』を、俺がこれから一枚ずつ、修復不能なまでに破り捨ててやる。
次なる標的は、第三聖天女・リネット。彼女が守る孤児院という名の「偽善の貯蔵庫」を、俺のバグで溢れさせてやる。その時、彼女が浮かべる絶望の顔。それこそが、俺がこの世界に見出す唯一の「救い」になるだろう。




