第三話:聖女の落日
王都中央に鎮座する『純潔の大聖堂』。
そこは、世界で最も「清潔」が義務付けられた場所だ。
一分の隙もない大理石の床は、光を鏡面のように反射し、汚れを知らぬ白銀の燭台が、死者の骨のような冷たい輝きを放っている。そして、管理者の調律によって「不浄な思考」を去勢された信徒たちが、墓標のような沈黙を守っていた。
その最奥、陽光がステンドグラスを透過して七色の檻を作る礼拝堂に、彼女はいた。
第二聖天女、クラリス。
誰もが憧憬を抱くような、しなやかで均整の取れた肢体を純白の法衣に包み、祈りを捧げるその姿は、偶像としての完成度を極めている。アイドルを彷彿とさせる整った貌に宿るのは、人間らしい迷いではなく、システムが保証する「絶対的な正しさ」への確信だ。
俺と対峙した際、彼女の頭頂部は俺の視線とほぼ等しい位置にあった。その「正しさ」を体現したかのような立ち姿こそが、俺には致命的なバグの塊に見えた。
「――カイン・ジークハルト様。お会いできて光栄です。バルト執行官の件、胸を痛めておりますわ」
彼女が振り返り、慈愛に満ちた微笑みを向ける。その声は鈴を転がすように清らかだが、俺の鼓膜には耳障りなノイズとしてしか響かない。
俺の背後には、昨日デバッグを完了したばかりの侍女、リラが控えている。
かつての「人形のような奉仕」を捨てたリラは、濁った瞳で俺の背中だけを凝視していた。そのはち切れんばかりの胸元から放たれる、執着という名のどろりとした気配が、聖域の無菌の空気を一滴の黒インクのように汚していく。
「光栄なのはこちらだ、聖女様。……いや、アルベルトの『最高傑作』と呼ぶべきかな」
俺の言葉に、クラリスの眉が微かに動く。
プログラムの「例外処理」が走った証拠だ。
「ふふ、面白い方。聖王様を呼び捨てになさるなんて、よほどお疲れなのですね。さあ、こちらへ。貴方の魂に蓄積した『不浄』を、私の祈りで浄化して差し上げましょう」
彼女が差し出した白い手。
その指先は、塵一つ、罪一つ触れたことがないほどに「無菌」だ。
「不浄、か。……クラリス、お前はその『不浄』が具体的に何を指すか、思考を巡らせたことはあるか?」
「ええ。人々の心に芽生える利己的な欲望、怒り、そして……悲しみですわ。アルベルト様がこの世界から取り除こうとなさっている、不要なノイズのことです」
俺は一歩、彼女との距離を詰めた。
俺の肺から吐き出される、毒を孕んだ呼気が、彼女の纏う聖なる静寂を侵食していく。
「違うな。お前が『ノイズ』と呼んで切り捨てているのは、人間が人間であるための『生命活動』そのものだ」
「……何をおっしゃっているのですか?」
「お前たちが管理しているこの平和な王都。その地下に流れる下水道を見たことはあるか? 毎日, この美しい都から排出される排泄物、汚水、そして……『処理しきれなかった人間の感情』がどこへ行くか、想像したことは?」
俺は指先に、前世の社畜時代に叩き込まれた「論理的デバッグ」の概念を集中させた。
クラリスという高潔なソフトウェア。その根幹にある「潔癖」という脆弱性を、言葉という名のウイルスで突く。
「この世界は、ゴミ箱のないサーバーだ。お前たちが『浄化』と称して消去したデータは、消えてなくなるわけじゃない。ただ、不可視の領域に蓄積され、腐敗し、世界の根底を蝕んでいるんだ。……お前が今、その清らかな肺腑に吸い込んでいる空気も、実は死んだデータの腐臭で満ちているとしたら?」
「やめて……ください。そんな不潔な妄想、アルベルト様が許しませんわ……」
クラリスの微笑みが、剥落し始める。
彼女の脳内にある「全肯定プログラム」が、俺が提示した「不潔な真実」という非論理的なデータを処理できず、致命的なエラーを吐き出している。
「想像してみろ、クラリス。お前が毎日口にしている聖水も、実は死者の涙を濾過したものだ。お前が踏みしめているこの美しい床の下には、管理者に背いた者たちの断末魔が『ログ』として敷き詰められている。お前のその白い肌も、実は数え切れないほどの『汚れ』を、薄い洗脳の膜で覆い隠しているだけに過ぎない。……お前という存在そのものが、排泄物の上に咲いた造花なんだよ」
「……あ、う……あ……」
彼女の瞳が激しく左右に揺れる。
俺はさらに、自身の『削除権限』の一部を解放し、彼女の視覚野に干渉した。
――視覚情報の強制書き換え。
――『美』を『腐敗』へと定義置換。
彼女の目には今、輝くステンドグラスがドロドロの膿汁に、美しい礼拝堂が、蠢く赤黒い肉塊の山に見えているはずだ。
「お前の『純潔』という設定そのものが、世界で最も汚らわしい嘘なんだよ。……さあ、吐き出せ。お前の中に溜まった、その『正しさ』という名の膿を。その胃袋に収めた偽善を、すべて曝け出せ」
「お、おえぇっ……!? あ、あああああぁっ!」
聖女の喉から、およそこの世のものとは思えない絶叫が漏れた。
彼女は膝をつき、汚れ一つなかった大理石の床に、自身の胃の内容物をぶちまけた。
嘔吐。
管理された世界では存在してはならない、酸っぱく、鼻を突く胆汁の臭いを放つ「拒絶」の生命反応。
「クラリス様!」
周囲の神官たちが駆け寄ろうとするが、俺の背後にいたリラが、鋭い一歩でそれを遮った。
小柄な身体を弾ませ、不自然なほど豊かな胸を揺らしながら、リラは狂気に満ちた笑顔で言い放つ。
「邪魔をしないで。……カイン様が今、この方を『救って』いらっしゃるのですから。不浄なのは、貴方たちのその綺麗な手の方よ」
リラの放つ異様な威圧感に、神官たちがたじろぐ。
床に這いつくばり、涙と吐瀉物でアイドル風の顔を無残に汚したクラリスは、震える手で俺の裾を掴んだ。
「助けて……カイン様……。世界が、世界がこんなに汚いなんて……! 私の……私の中が、真っ黒に染まって……っ。もう、何を信じればいいのか分からないの……!」
「いいざまだな, クラリス。……それが『現実』の手触りだ。お前が守っていたのは、ただの綺麗な梱包材に過ぎない。中身はとっくに腐っていたんだよ。……だが、安心しろ。その汚れを知ったお前だけが、俺の隣に立つ資格を得たんだ」
俺は、無様にのたうつ聖女を見下ろし、冷徹に「システムの上書き」を開始する。
――権限譲渡。
――第二聖天女クラリスのオーナーを、アルベルトからカインへ変更。
――思考回路:『純潔』を『真実への恐怖と依存』へ。
「……あ。ああ……。カイン……様……。貴方だけが、この汚泥の中で……本物の光に見える……。私を……私をもっと汚して、貴方の色で塗りつぶして……」
クラリスの瞳から「偽りの光」が消え、底なしの暗淵が宿った。
彼女は俺の靴についた自らの吐瀉物を、救いを求めるように指でなぞり、頬を寄せる。
――ッ!?
瞬間, 俺の脳内を、鋭利な刃で抉られるような激痛が突き抜けた。
視界がホワイトアウトし、心臓が一度、完全に停止したような衝撃。聖女というシステムの基幹パーツをハッキングした代償は、この貧弱な少年の肉体に過負荷を強いている。
鼻腔に鉄の味が広がる。だが、ここで倒れるわけにはいかない。
「正義なんて残業は、もうこりごりなんだよ」
俺は、意識が遠のくのを感じながらも、足元で崩れ落ちた聖女の髪を乱暴に掴み、無理やり引き寄せた。
「クラリス。今日からお前は、俺の『解析端末』だ。その綺麗な頭で、アルベルトの支配構造を内側から食い破れ。……分かったか?」
「……はい、私の……主……。貴方の望むままに、世界を……壊しましょう……」
聖女の落日。
それは、この狂った無菌室が音を立てて崩壊し始める、終わりの始まり。
俺は、冷たくなった指先で彼女の唇をなぞり、そこに宿った「絶望」という名の新たなバグを、勝利の証として刻みつけた。




