Crack05:絶望と希望
その光景は、あまりに凄惨だった。
村はずれの泥濘の中で、小さな少年が一人、冷たくなった母親の骸に縋り付いていた。あの一連の事件の後、村人たちはみんな、自分たちだけが助かろうと、罵声を浴びせ合いながら各々の家へ逃げ帰り、固く鍵を閉めて息を潜めてしまったの。
嵐のような騒動が去った後、静まり返った泥濘の中に、たった一人で立ち尽くしている子がいました。冷たくなったお母さんの体に、必死にしがみついて。
私は、震える肩を抱いて立ち尽くすその子に、そっと歩み寄りました。
「……君、お名前は?」
少年は弾かれたように顔を上げました。
その瞳は、この世の悲しみをすべて凝縮したように黒く淀み、鋭い警戒の色を宿しています。
少年は何も言わず、ただ、亡き母を守るようにその前に立ちはだかり、私をじっと見つめました。
お母様の亡骸を見ればすぐに分かったわ。
「お母さんはあなたのことが、本当に、本当に大切だったのね。ちょっと、頑張りすぎちゃったんだね。」
私が優しく語りかけると、あの子の瞳が大きく揺れた。
ひどい「飢餓と衰弱」……。自分は何も食べず、手に入れたわずかな食べ物をすべてこの子に与えていたのね。最期まで自分を犠牲にして、この小さな命を守り抜こうとした……その無償の愛の跡が、あまりに痛々しく残っていた。
私の言葉に嘘がないことを感じ取ったのか、張り詰めていた糸が切れたように、少年の目から大粒の涙が溢れ出しました。
「あ……ああ、う、うわぁぁぁぁん!!」
少年は母の亡骸に顔を埋めて、壊れた人形みたいに泣きじゃくった。
「……僕、アーク……。今日、僕の、たんじょうびだったんだ……! なのに、お母さん、死んじゃって……! 悪い奴らが、お母さんにあげる鏡を……!」
しゃくり上げながら、今日あった人生で初めての悲しい出来事を一生懸命に話してくれました。私は泥と涙で汚れた小さな体を、壊れ物を扱うように優しく抱きしめました。
「大丈夫だよ、アーク。もう大丈夫。……今日はもう、お休み。たくさん泣いて、疲れたでしょ…」
亡くなったお母様になったつもりで、優しく優しく頭を撫でてあげると、アークは安心したように、私の腕の中で小さな寝息を立て始めました。
翌朝、アークは私の家で目を覚ましました。飛び起きたあの子が最初に口にしたのは、やっぱり自分よりも大切なお母さんのことでした。
「お母さんは!? お母さんはどこ!?」
「安心なさい。アークをここまで運んだあと、お母さんをちゃんと埋めてあげたわ。……一緒に行こうか」
案内したのは、村の騒がしさから離れた、静かな丘の上でした。小さな土盛りの前で、アークはお母さんにプレゼントするはずだった、ひび割れた手鏡をじっと見つめて立ち尽くしました。
「……お母さん。僕を産んでくれて、ありがとう。守ってあげられなくて、ごめんね……。
僕、強くなって……僕みたいな子がもう現れないように、この世界を変えたいんだ。」
そう強くお母さんに誓いを立てました。ですが、アークの心には周りからの悪意が刻まれていました。
「……でも、僕は『マオウの子』だから……無理かな…?。みんな、そう言ってたんだ……」
その瞬間、アークの手の中にある鏡に、バチバチッと紫色のノイズが走りました。その中に写るものに驚くアークに、私は膝をついて目線を合わせ、その小さな手を強く握りしめました。
「アーク。あなたは魔王の子なんかじゃないわ。……お母さんのことを思い出してごらん。お母さんがあなたにかけた言葉だけを信じるのよ。周りの無責任な言葉に耳を貸しちゃダメ。あなたには、何が『本物』か、ちゃんと分かるでしょう?」
アークはハッとしたように顔を上げました。そう、この子はとても目がいい。そして…力がある。
「……うん。お母さんは、僕がマオウって言われるたびに、優しく頭を撫でてくれた。『あなたは、勇者の子よ』って。……みんなが何を言っても、僕はお母さんの誇れる子になる!」
アークは、形見の手鏡を土の中に深く埋めました。まるで、弱かった自分をそこに置いていくかのように。
「いい子ね。あなたを育てたお母さんは、本当に強くて優しい方だったのね」
「うん! 世界で一番強くて優しくて…かっこいいお母さんだよ!」
力強く肯いたアークに、私は預かっていたものを差し出しました。
「これは、お母さんが最期まで手に握りしめていた指輪よ。……きっと、アークに渡したかったのね」
「……お母さんのゆびわ……」
五歳の小さな指には、その銀の指輪はあまりにぶかぶかでした。私はそれを紐に通して、ネックレスにして首にかけてあげました。
「これで、いつでもお母さんと一緒ね」
「……うん! ありがとう!」
アークはお母さんが眠る大地にそっと手を当てて、向日葵のような、けれどどこか大人びた笑顔で告げました。
「お母さん、大好きだよ。……僕、頑張るからね。また来るね!」
丘を降りる少年の背中は、昨日よりも少しだけ大きく、逞しく見えました。
お母さんの眠る丘を後にして、お家に連れて帰ると玄関先でうちの息子が地面を這い回っているのを見て、アークが目を丸くして叫んだの。
「あ! 昨日、石食べてたやつだ!」
もう、見られてたのね。いつものがでちゃったのよね…
「あちゃー、見られちゃってた? この子、すぐ何でも口にしちゃうのよね。ほら、自己紹介しなさい」
うちの鼻たれ息子は、顔を上げると鼻をすすりながらニカッと笑ったわ。
「僕の名前はロイ。アークだよね? 昨日の石、おいしかったよねー」
「えっ、なんで僕も食べたの知ってるの!?」
「見てたからね!」とニやりと笑った。
「アークも食べたの!? ロイもアークも、石なんて食べちゃダメよ!」
私が叱りつけると、二人は揃って縮み上がっちゃって。
「だってお腹空いてて、つい……」
アークが俯いて、消え入りそうな声で白状したとき、私の胸はぎゅっと締め付けられた。……そうよね、この子はずっと、そうやって命を繋いできたのよね。
「……そうよね。さあ、朝ごはん食べましょ!」
食卓に並んだ料理を見て、アークはまるで石像みたいに固まってしまったわ。
今まで一日……いえ、数日かけて食べていた量よりずっと多いごはんが並んでいるんですもの、驚くわよね。
あの子、食卓から目を背けるようにして、深々と頭を下げたの。
「あ……あの、ありがとうございました! 僕はもうお家に帰ります。お母さんを助けてくれて、本当にありがとうございました」
本当にお利口な子。でも、その遠慮が切なくて、私はわざと明るく言ったわ。
「アーク、どこへ行くの? これ、アークの分も準備したのよ。アークが食べないと、全部捨てなきゃいけなくなっちゃうわ」
「え? 僕の……?」
迷惑をかけたくないって葛藤しているのが丸わかりだったけれど、あの子のお腹が正直に「グゥ~」って鳴ったの。
私は可笑しくて、わざと意地悪な言い方をしてみたわ。
「ほら、お腹が呼んでるじゃない。私もお腹空いちゃったな。アークが一緒に食べてくれないと、私、寂しくて食べられないわ」 「アーク早く! 僕、もうお腹ペコペコだよ!」
ロイに急かされて、アークは震える声で「……うん! ありがとう」って、やっと椅子に座ってくれたの。
「お母さんと、一緒に食べたかったな……」 そう呟くあの子の瞳から涙が溢れたけれど、温かいごはんを一生懸命に口に運んでいる姿を見て、私は「この子を絶対守ろう」って心に決めたわ。
食後、あの子は昨日の今日なのに「ゴミ山」へ行こうとしたの。
村人の目が心配で止めたら、アークは困ったように眉を下げてこう言ったわ。
「でも……さっきのご飯のお金、稼がないと……」
母親を亡くしたアークには頼れる人がいない。それは一目瞭然だったわ。だから私はアークを見たときから決めていた。
「アーク。あなたはもう、うちの子よ。お金のことなんて気にしなくていいの」
「でも……でも……!」 どうしても引かないあの子に、私は腰に手を当てて言い聞かせたわ。
「いい? あなたは子供なんだから、大人に気を使わないの! 子供を守るのは大人の役目なんだから! そんなにお礼がしたいなら……そうね、私の家事を手伝ってくれる? それで十分よ」
ようやく落ち着いたアークに、家事の手伝いを頼んで家の中に留まらせたわ。
そして夕暮れ時、自警団の仕事に行っていた私の旦那が帰ってきたの。岩のように大きな体をした旦那を見て、アークはビクッとして反射的に身を隠したけれど、旦那は優しく目を細めて、あの子の前に膝をついたわ。
「ああ、目が覚めたんだね。昨日は大変だったな。……でも、お母さんを守って、偉かったな」
大きな手がアークの頭に置かれたとき、あの子は驚いたような顔をしていたわね。旦那の手は、お日様のような暖かい色をしていたから。
「おじさん……昨日の、見てたの?」
「ああ。騒ぎになっていたからな。あの魔物が逃げていったから……君を助けることができなくて、すまなかった」
初めて大人から頭を下げられたアークは、戸惑いながら、ずっと気になっていたことを聞いたわ。
「僕が……魔王の子だってことも、知ってるの?」
「君は、魔王から生まれたのか?」
「違う! お母さんは魔王なんかじゃない!」
必死にお母さんを庇うあの子に、旦那は豪快に笑いかけたの。
「じゃあ、お母さんが『お父さんは魔王だよ』って言ったのか?」
「……ううん、言ってない…」
「はっはっは! じゃあ君は、アークは魔王の子じゃないな!」
わしゃわしゃと頭を撫でられて、アークの顔にようやく子供らしい光が戻ったわ。
「さあ、解決したところで晩御飯にしようか!」
「え、またごはん食べるの!?」
あの子のその一言に、旦那も私も胸を突かれる思いだったわ。一つのパンで何日も食いつないで生きてきた子にとって、「一日三食」は未知の世界だったのね。
「でも僕、その…朝も昼もいっぱい食べたから、お腹いっぱいで……」
「そうかそうか! アークのペースでいいんだぞ」
「……ありがとう、おじさん。僕、食べられないけど、一緒にここにいていい?」
「ああ、もちろんだ! アークがいてくれると、ごはんがもっとおいしくなる」
食卓ではアークが疑問に思っていたことを聞いてきたわ。
「おじさんは、何のお仕事をしてるの?」
「俺か? そうだな……みんなを守る仕事だ!」
「え! すごい!! おじさん、勇者なの!?」
なんて聞くものだから、旦那も照れちゃって。
「はっはっは、勇者か! そうかもしれないな!」
「何言ってるのよ。ただの自警団でしょ」
「じけいだん?」
「村や町を、悪い人や魔物から守っているのよ」
「すごいすごい! かっこいいな!!」
ロイが「僕のパパすごいでしょ」って自慢するのを、アークは本当に羨ましそうに見ていたわね。
あの子、少し離れた町から仕事で来ている私たちの事情を聞きながら、おしゃべりしてはしゃいだからかお腹がなっちゃって、「お腹がすいちゃった」って照れて笑ったの。
「ちょうどよかった! ちょっと待っててね」
私がキッチンから持ってきたのは、急いで用意した小さなケーキ。
「アーク、昨日は誕生日だったでしょう? 急だったからこんなに小さいけれど……」
「僕のために……買ってきてくれたの?」
「そうよ。誕生日は、特別な日なんだから」
「せーの」
「「「お誕生日おめでとう、アーク」」」
アークは涙をこらえながら、最高に綺麗な笑顔で「……ありがとう!」って言ってくれたわ。
初めて食べるケーキ。
泣きながら食べていたから、きっと少しあまじょっぱかったはずだけど……あの子にとっては、世界一幸せな味だったんじゃないかしら。
【ノイズログ:005-A】
……アーク。私の、愛しい子。 あの日、冷たい泥の中であなたを一人にしてしまって、ごめんなさいね。 私を必死に守ろうとしてくれたあなたの小さな手、ちゃんと感じていたわよ。
あなたが私にくれようとしていた、あのひび割れた手鏡……。 あれはね、世界で一番綺麗なプレゼント。 鏡に映るノイズは、あなたがこの世界の『嘘』に負けない、強い目を持っている証拠なの。
でもね、アーク。 あなたが温かいごはんを食べて、泣きながらケーキを頬張る姿を見て、お母さんはやっと安心できたの。 あのおばさんも、おじさんも、はなたれ小僧のロイくんも……みんな、とっても温かい色をしていたわね。
『あなたは、勇者の子よ』
私が何度もあなたに伝えたこの言葉は、決して嘘じゃないわ。 これから先、どんなに世界があなたを『魔王』だと決めつけても、自分を…私を信じて。 あなたの胸で光る銀色の指輪が、いつも私と一緒にあなたを守ってくれるから。
……おや、ロイくんのお母さんが、またあなたを呼んでいるわよ? 『アーク、早く来ないとロイが全部食べちゃうわよ!』って。 ふふ、早く行ってあげて。 今のあなたには、お腹いっぱい食べて、たくさん笑って、泥だらけになって遊ぶ……そんな『当たり前』の幸せが一番必要なんだから。
……あ、そうだわ。 アークを応援してくれる心優しい皆さんも、下にある【☆☆☆☆☆】を、アークの瞳のようにキラキラ光らせてくださるかしら? それと、ブックマークも……。 皆さんの想いが、この子の歩む暗い夜道を照らす星明かりになるんです。
それじゃあ、またね。 おやすみなさい、愛しのアーク。大好きよ。




