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【短編小説】透明な悪意 ~心を読む者と心を持たぬ者~  作者: 霧崎薫


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終章「残された問い」

 三日後の夜、潤子のマンションに、一通の手紙が届いた。


 差出人は、牟田口香織。


 潤子は、警戒しながら封を開けた。


 手紙には、手書きの文字が並んでいた。


---


宿儺潤子様


あなたに、最後の手紙を送ります。


私は、負けを認めます。清明透という男性を、あなたに譲ります。


これまで、私は自分の合理性を信じてきました。感情を持たないことが、優位性だと思っていました。


でも、あなたたち二人を見て、気づいたことがあります。


私には、決して手に入らないものがある、と。


信頼。つながり。愛。


それらは、合理性では説明できません。効率では測れません。そして、演技では作れません。


私は、一生、それを理解することはないでしょう。なぜなら、私の脳は、そのようにできていないからです。


でも、一つだけ分かったことがあります。


私は、孤独だ、ということ。


そして、その孤独は、決して埋まらない、ということ。


あなたは、私を恐れているでしょう。当然です。私は、両親を殺しました。それは事実です。


でも、安心してください。もう、誰も殺しません。


なぜなら、目的がなくなったからです。


私が清明さんを求めたのは、社会的適応のため、「正常」を偽装するためでした。


でも今、それが無意味だと気づきました。


どれだけ完璧に偽装しても、本物にはなれません。


どれだけ演技しても、心は生まれません。


私は、もう疲れました。


演じ続けることに。


だから、すべてを終わらせます。


この手紙が届く頃、私はもう、いないでしょう。


自殺、というわけではありません。ただ、消えるだけです。


新しい場所で、新しい名前で、新しい人生を始めます。


二度と、あなたたちの前には現れません。


最後に、一つだけお願いがあります。


清明さんに、伝えてください。


「あなたは、正しかった」と。


感情は、非合理です。でも、それこそが人間らしさなのだと、私は理解しました。


私には、それがありません。


だから、私は人間ではないのかもしれません。


ただの、壊れた機械です。


どうか、幸せになってください。


二人で。


牟田口香織


---


 潤子は、手紙を読み終えた後、複雑な感情に襲われた。


 安堵。香織が去ってくれることへの安堵。


 悲しみ。彼女の孤独を思うと、胸が痛んだ。


 罪悪感。もっと何かできたのではないか、という思い。


 そして、疑問。この手紙は、本当なのか? それとも、新たな策略なのか?


 潤子は、すぐに透に連絡した。


 二人は、警察に手紙を持っていった。


 警察は、香織の両親の死について再調査を開始した。だが、物的証拠は何も見つからなかった。


 そして、香織は本当に消えた。


 彼女のオフィスは閉鎖され、住んでいたマンションも引き払われていた。


 SNSアカウントも削除され、クライアントたちにも連絡がつかなくなった。


 まるで、最初から存在しなかったかのように。


---


 それから半年後。


 潤子と透は、静かな関係を育んでいた。


 潤子は、透の心を読む能力を持っているが、今はあまり使わないようにしていた。


 なぜなら、透は自分から、すべてを話してくれるからだ。


 考えていること。感じていること。不安なこと。嬉しいこと。


 すべてを、言葉にして伝えてくれる。


 それが、彼の誠実さだった。


 ある日、二人は海辺を散歩していた。


「宿儺さん、あの時のこと、考えることがあります」


 透が言う。


「牟田口さんのこと」


「私もです」


 潤子は答えた。


「彼女は、本当に不幸だったのか」


 透が問いかける。


「感情を持たないことは、本当に『欠陥』なのか」


 潤子は、しばらく考えてから答えた。


「分かりません。でも、一つだけ言えることがあります」


「何ですか?」


「彼女は、孤独だった」


 潤子は、波の音を聞きながら続けた。


「つながりを持てないこと。誰とも、本当の意味で理解し合えないこと。それが、彼女の苦しみだったんだと思います」


「でも、彼女は苦しみを感じることができたのでしょうか?」


 透の問いは、深かった。


「感情がない人間は、苦しむことができるのか?」


 潤子は、答えを持っていなかった。


「分かりません。でも、彼女の手紙を読む限り、何かを『失った』という認識はあったと思います」


「認識はあっても、感情はない」


 透は、その矛盾を言語化した。


「それは、どれほど孤独なことでしょうか」


 二人は、しばらく沈黙した。


 海は、変わらず波を打ち寄せている。


 世界は、複雑で、答えのない問いに満ちている。


「清明さん」


 潤子が言う。


「もし、私が能力を失ったら、あなたはどう思いますか?」


 透は、少し驚いた表情を見せた。


「能力を失う?」


「はい。もし、明日から、人の心が読めなくなったら」


 透は、微笑んだ。


「何も変わりません」


 《僕が好きなのは、能力じゃない。彼女自身だから》


「僕が好きなのは、宿儺潤子という人間です。能力は、その一部でしかありません」


 潤子は、温かい気持ちになった。


「ありがとう」


「逆に、質問してもいいですか?」


 透が尋ねる。


「もし、僕が誠実さを失ったら? もし、言葉と心が乖離し始めたら、あなたはどう思いますか?」


 潤子は、即座に答えた。


「それでも、あなたを愛します」


 《なぜなら、完璧な人間なんていないから》


「人間は、矛盾する生き物です。言葉と心が完全に一致することは、むしろ異常かもしれません。あなたが、もし矛盾を持つようになっても、私はそれを受け入れます」


 透は、少し安心したような表情を見せた。


「実は、最近、少しだけ、言葉にできない感情が増えてきました」


「どんな?」


「あなたへの愛情、かな」


 透は、照れくさそうに笑った。


「言葉では表現しきれないほど、大きくて、複雑で。だから、心と言葉が完全に一致しなくなってきた気がします」


 潤子は、微笑んだ。


「それは、悪いことじゃありません。むしろ、成長です」


「成長?」


「愛は、言語化できないものです。だから、詩や音楽や芸術が生まれた。言葉を超えたものを表現するために」


 潤子は、透の手を握った。


「あなたが、言葉にできない感情を持つようになったのは、あなたがより深く感じるようになったということです」


 透は、潤子の手を握り返した。


「ありがとう。あなたといると、世界が広がる気がします」


 二人は、海を見つめた。


 遠くに、船が見える。


 どこかへ向かう船。


 香織も、どこかで新しい人生を始めているのだろうか。


 彼女は、幸せになれるのだろうか。


 それとも、永遠に孤独なのだろうか。


 答えは、誰にも分からない。


---


 世界の別の場所で、一人の女性が新しい名前で生活を始めていた。


 彼女は、もう牟田口香織ではなかった。


 新しい街、新しい仕事、新しい人間関係。


 すべてを、ゼロから構築していた。


 だが、何も変わっていなかった。


 彼女は、今日も完璧な笑顔で人々に接し、完璧な演技を続けていた。


 なぜなら、それしかできないから。


 ある夜、彼女はバルコニーで星空を見上げていた。


 美しい、と思う。情報としては。


 だが、感動はない。


 心が動かない。


 彼女は、ふと考えた。


 もし、もう一度人生をやり直せるなら、どうしたいか。


 感情を持って生まれたかっただろうか。


 共感を感じられる脳を持ちたかっただろうか。


 答えは、分からなかった。


 なぜなら、比較対象がないから。


 持っていないものは、想像することすらできない。


 彼女は、部屋に戻り、机に向かった。


 そこには、心理学の本が積まれていた。


 『感情の科学』『共感の神経基盤』『愛の生理学』


 彼女は、持っていないものを、理解しようとしていた。


 知識として。


 データとして。


 もし感情を持てないなら、せめて理解しよう。


 もしつながれないなら、せめて観察しよう。


 それが、彼女なりの生き方だった。


 孤独な、しかし諦めない、生き方だった。


 彼女は、本を開いた。


 そして、学び続けた。


 いつか、何かが変わるかもしれない。


 いや、何も変わらないかもしれない。


 だが、それでも、生き続ける。


 それが、彼女の選択だった。


---


 物語は、ここで終わる。


 だが、問いは残る。


 人間とは何か。


 心とは何か。


 つながりとは何か。


 そして、愛とは何か。


 潤子は、心が読める。だが、それは本当に「理解」なのか。


 透は、誠実だ。だが、完全な透明性は可能なのか。


 香織は、感情を持たない。だが、それは本当に「欠陥」なのか。


 これらの問いに、簡単な答えはない。


 だが、問い続けることが、人間らしさなのかもしれない。


 答えを求めて、もがき続けること。


 完璧ではなくても、誠実であろうとすること。


 つながりを求め続けること。


 それが、私たちにできることだ。


 潤子と透は、これからも共に歩んでいく。


 時に迷い、時に傷つき、時に喜びながら。


 完璧ではない、だが真実の関係を築きながら。


 そして、どこかで、香織も生きている。


 孤独だが、諦めずに。


 三つの視界は、もう交わらない。


 だが、三人とも、それぞれの道を歩んでいる。


 それが、人生だ。


 答えのない問いを抱えて、それでも前に進む。


 それが、生きるということだ。


【了】

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