第五章「真実の代償」
二月十四日、バレンタインデー。
潤子は、透と静かな公園で会った。冬の冷たい空気の中、二人はベンチに座った。
「大切な話というのは?」
透が尋ねる。彼の表情は、いつも通り穏やかだった。
だが、潤子の手は震えていた。
「清明さん、私には……ずっと隠してきたことがあります」
潤子は、深呼吸をして、言葉を続けた。
「私は、人の心が読めます」
透は、驚きの表情を見せた。
「心が、読める?」
「はい。人が考えていることが、声として聞こえるんです。幼い頃からずっと」
潤子は、自分の能力について、すべてを話した。
どのように機能するのか。どれほどの範囲で聞こえるのか。どうやってフィルタリングしているのか。
そして、最も重要なこと——透の心も、ずっと読んでいたこと。
透は、黙って聞いていた。その表情からは、何を考えているのか分からなかった。
潤子は、透の心の声を聞こうとしたが、今は雑音が多すぎて、明確には聞き取れなかった。自分の不安が、能力を妨げている。
「だから……」
潤子は、涙をこらえながら続けた。
「私は、ずっとあなたを騙していました。あなたの秘密を、許可なく覗いていました。それは、プライバシーの侵害です。裏切りです」
「ごめんなさい」
潤子は、頭を下げた。
沈黙が流れた。
永遠にも感じられる数秒間の後、透が口を開いた。
「顔を上げてください」
潤子が顔を上げると、透は複雑な表情をしていた。
「正直に言うと、驚いています。そして、少し混乱しています」
《心が読める? それは、科学的に説明できるのか? それとも、超常現象なのか?》
透の心の声が聞こえる。彼は、状況を理解しようとしている。
「でも、一つだけ確かなことがあります」
透は、潤子の目を見た。
「あなたが、今、真実を話してくれたこと。それは、とても勇気のいることだったはずです」
《彼女は、自分を犠牲にしてでも、誠実でいようとした》
「そして、もう一つ確かなことがあります」
透は、微笑んだ。
「僕の気持ちは、変わりません」
潤子の目から、涙がこぼれた。
「どうして……? 私は、あなたを騙していたのに」
「騙していた、とは思いません」
透は、穏やかに言った。
「あなたは、自分の能力を隠していた。それは、自己防衛のためだったんでしょう? もし公表したら、周囲から異常者として扱われる。実験の対象にされるかもしれない」
《彼女は、生きるために、秘密を守る必要があった》
「そして、僕の心を読んでいたことについて……」
透は、少し考えてから続けた。
「それを『侵害』と呼ぶなら、視覚や聴覚も侵害です。僕たちは、他人の表情を見て、感情を推測する。声のトーンから、本心を読み取ろうとする。あなたの能力は、それがより正確なだけです」
潤子は、透の言葉に救われる思いがした。
だが、同時に、新たな罪悪感も湧いてきた。
「でも、あなたはそれを知らなかった。私だけが、一方的にあなたの心を知っていた。それは、フェアじゃない」
「確かに、フェアではないかもしれません」
透は認めた。
「でも、完全にフェアな関係なんて、存在するのでしょうか? 人は皆、何かを隠している。完全に透明な人間なんて、いません」
《僕だって、彼女に言っていないことはある。小さな恥ずかしいことや、不安なこと》
透は、潤子の手を取った。
「大切なのは、お互いを理解しようとする努力です。そして、相手を尊重すること。あなたは、今日、僕を尊重して、真実を話してくれた。それで十分です」
潤子は、号泣した。
これまでの人生で、誰かにこれほど受け入れられたことはなかった。
透は、潤子を抱きしめた。
「宿儺さん、僕はあなたが好きです。あなたの能力も含めて、すべてのあなたが」
《この人を、守りたい。支えたい。一緒にいたい》
潤子は、透の胸の中で、心の底から安堵した。
だが、まだ話すべきことがあった。
「清明さん、もう一つ、伝えなければならないことがあります」
潤子は、顔を上げた。
「牟田口香織さんのことです」
---
潤子は、香織について知っていることをすべて話した。
彼女がサイコパスである可能性。両親の死についての疑惑。透に対する計画的なアプローチ。そして、潤子への脅迫。
透は、真剣な表情で聞いていた。
「牟田口さんが、サイコパス……」
《信じられない。でも、宿儺さんは嘘をつかない》
「証拠はありません」
潤子は正直に言った。
「すべて、私の観察と推測です。彼女の心は、意図的に制御されていて、本当の思考が読み取れない。それ自体が、異常です」
「分かりました」
透は、深く考え込んだ。
「正直に言うと、牟田口さんには少し違和感を感じていました。完璧すぎる、というか。でも、それが『演技』だとは思っていませんでした」
《僕は、人を疑うことが苦手だ。それが弱点なのかもしれない》
「これから、どうしますか?」
潤子が尋ねる。
透は、しばらく沈黙した後、答えた。
「まず、牟田口さんと直接話します。そして、真実を確かめます」
「危険かもしれません」
「でも、確かめないことには、何も始まりません」
透は、誠実に言った。
「もし彼女が本当に危険な人物なら、適切な機関に相談します。警察や、専門家に」
《宿儺さんを、守らなければ》
潤子は、透の決意を感じた。
二人は、一緒に立ち向かうことを決めた。
---
翌日、透は香織にメッセージを送った。
「牟田口さん、少しお話ししたいことがあります。お時間よろしいですか?」
返信は即座に来た。
「もちろんです。今日の夕方、私のオフィスでいかがですか?」
透は、潤子と相談した上で、公共の場で会うことを提案した。
「カフェではいかがでしょうか?」
「承知しました」
夕方、透と香織は、駅前のカフェで会った。
香織は、いつも通りの完璧な笑顔で透を迎えた。
「お久しぶりです、清明さん。お元気でしたか?」
「はい。牟田口さんも」
二人はテーブルに座った。
透は、どう切り出すべきか考えた。直接的に尋ねることが、自分らしいやり方だ。
「牟田口さん、率直に聞きます」
透は、香織の目を見た。
「あなたは、僕に何を求めていますか?」
香織は、一瞬だけ、表情を変えた。だが、すぐに笑顔を取り戻した。
「何を、とは?」
「宿儺さんから、いろいろと聞きました」
透は、慎重に言葉を選んだ。
「あなたが、僕に近づいてきたのは、計画的だったと。そして、あなたには何か、隠していることがあると」
香織は、数秒間、透を見つめた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「宿儺さん、やはり話しましたか」
香織の声は、冷たくなっていた。
「では、清明さんも知っているんですね。彼女の『能力』を」
透は、驚かなかった。潤子から、香織が能力に気づいていることは聞いていた。
「はい、知っています」
「そうですか」
香織は、コーヒーを一口飲んだ。
「では、私も正直に話しましょう」
香織は、仮面を脱ぎ始めた。
「清明さん、あなたは優秀で、誠実で、社会的信用のある男性です。私にとって、理想的なパートナーです」
「パートナー? 愛しているから、ではなく?」
「愛、ですか」
香織は、まるでその概念が理解できないかのように首を傾げた。
「私は、おそらく愛というものを感じることができません。共感も、罪悪感も、恐怖も。私の脳は、そのようにできていないようです」
透は、息を呑んだ。
香織は、自分がサイコパスであることを、公然と認めた。
「でも、それは問題ありません」
香織は続けた。
「私は、あなたに必要なものを提供できます。知性、効率性、社会的成功。そして、完璧な『妻』の演技。あなたは、何一つ不満を感じないでしょう」
「それは……」
透は、言葉を探した。
「それは、本当の関係とは言えません」
「本当の関係、とは何ですか?」
香織は、哲学的に問いかけた。
「感情に基づく関係が『本当』で、合理性に基づく関係が『偽物』なのですか? むしろ、私の方が誠実だと思いませんか? 私は、自分の本性を隠さずに、今、あなたに提示しています」
透は、反論しようとしたが、できなかった。
香織の論理は、ある意味で正しい。
だが、何かが根本的に間違っている。
「牟田口さん」
透は、ゆっくりと言った。
「あなたの論理は理解できます。でも、僕が関係に求めるのは、効率や合理性ではありません」
「では、何ですか?」
「つながり、です」
透は答えた。
「心と心がつながること。互いを理解し、支え合うこと。それは、感情がなければ成立しません」
「つまり、私を拒絶するんですね」
香織の表情は、変わらなかった。
「はい」
透は、明確に言った。
「あなたとは、パートナーになれません」
香織は、数秒間、透を見つめた。
そして、立ち上がった。
「分かりました。あなたの選択を尊重します」
香織は、バッグを手に取った。
「一つだけ、忠告させてください」
「何ですか?」
「宿儺さんは、あなたの心を読み続けます。あなたがどう思っていても、彼女の能力は変わりません。それは、あなたにとって心地よいことですか?」
透は、即座に答えた。
「はい。なぜなら、僕は彼女を信頼しているからです」
香織は、わずかに眉をひそめた。
それは、彼女が初めて見せた、「理解できない」という表情だった。
「信頼、ですか」
香織は、その言葉を反芻するように繰り返した。
「興味深い。それが、あなたたちの強さなんですね」
香織は、カフェを出て行った。
透は、その背中を見送った。
何か、大切なものが終わったような気がした。
だが同時に、何か新しいものが始まったような気もした。
透は、スマートフォンを取り出し、潤子にメッセージを送った。
「終わりました。今から会えますか?」
---
その夜、潤子と透は、夜景の見える展望台にいた。
「香織さんは、どうでしたか?」
潤子が尋ねる。
「自分がサイコパスだと、認めました」
透は答えた。
「そして、僕を拒絶されました。いや、僕が拒絶したんですが」
《彼は、私を選んでくれた》
潤子の心は、喜びと安堵で満たされた。
「これから、彼女はどうすると思いますか?」
「分かりません」
透は正直に言った。
「でも、彼女は合理的な人間です。もう、僕に近づいてくる理由はありません」
潤子は、それを願った。
だが、心のどこかで、不安も感じていた。
サイコパスは、予測不可能だ。
特に、自分の計画が失敗した時、どう反応するかは分からない。
「清明さん」
潤子は、透の手を握った。
「これから、どうなるか分かりません。でも、一つだけ約束してください」
「何ですか?」
「もし、危険なことがあったら、すぐに逃げてください。私のことより、自分の安全を優先してください」
透は、微笑んだ。
「それは、できません」
《僕は、彼女を守りたい》
「どうして?」
「だって、僕はあなたが好きだから」
透は、シンプルに答えた。
「好きな人を、守りたいと思うのは、当然のことです」
潤子は、涙をこらえながら微笑んだ。
「私も、あなたが好きです」
二人は、夜景を見つめながら、しばらく沈黙した。
世界は、複雑で、予測不可能で、時に残酷だ。
だが、この瞬間だけは、二人にとって完璧だった。
真実を共有し、信頼し合い、つながっている。
それが、二人の強さだった。
だが、物語は、まだ終わっていなかった。
香織は、まだ諦めていなかった。
彼女の計画は、失敗した。
だが、サイコパスは、失敗から学ぶ。
そして、新しい戦略を立てる。
香織の次の一手は、誰も予想できないものだった。
それは、三日後に明らかになる。
そして、すべてを変える。




