第四章「見えない戦場」
二月に入り、状況は加速し始めた。
透は、潤子に告白する決意を固めていた。バレンタインデーを待とうかとも思ったが、それは彼らしくないと思い直した。特別な日を待つ必要はない。今日が特別な日になればいい。
週末の土曜日、透は潤子を美術館に誘った。現代アートの展覧会があり、哲学的なテーマを扱った作品が多いという。二人にとって、理想的なデート先だった。
美術館の静謐な空間で、二人は一つ一つの作品について語り合った。
「この作品、認識の相対性を表現しているんですね」
潤子が、抽象画の前で言う。
「同じ現実を見ていても、観察者によって異なる意味が生まれる。まるで、クワイン=デュエムのテーゼのような」
「テーゼ?」
「理論は、経験によって決定的に反証されることはないという考え方です。なぜなら、観察自体が理論に依存しているから」
《この人と話していると、世界が広がる》
透の心の声が聞こえる。それは、純粋な喜びに満ちていた。
だが、潤子の心は複雑だった。
香織との対決以来、潤子は自分の秘密の重さを痛感していた。この関係は、欺瞞の上に成り立っている。透は自分をすべてさらけ出しているのに、潤子は最も重要なことを隠している。
それは、フェアではない。
だが、もし明かしたら……
潤子は、様々なシナリオをシミュレートしていた。
シナリオA:透は驚くが、受け入れてくれる。(確率:20%)
シナリオB:透は動揺し、距離を置く。(確率:50%)
シナリオC:透は恐怖し、関係を断つ。(確率:30%)
いずれにせよ、リスクは高い。
だが、香織の言葉が頭から離れない。
《真の信頼関係は、完全な透明性の上にしか築けない》
展覧会を見終わり、二人は美術館のカフェに座った。
「宿儺さん」
透が、真剣な表情で言った。
「話したいことがあります」
潤子の心臓が、速く打ち始めた。
「僕は……」
その時、潤子のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号からだった。
「すみません、ちょっと失礼します」
潤子は、電話に出た。
「もしもし?」
「宿儺さんですね。牟田口です」
香織の声だった。潤子は、緊張する。
「どうして、この番号を……」
「それは重要ではありません。今すぐ、一人で来ていただけますか? 清明さんについて、重要な話があります」
「何の話ですか?」
「電話では言えません。場所は、メッセージで送ります。三十分以内に来てください。でないと、清明さんに、あなたの『秘密』について話すことになります」
電話は、一方的に切れた。
潤子の手が、震えていた。
香織は、何を知っているのか? どこまで気づいているのか?
「大丈夫ですか?」
透が、心配そうに尋ねる。
「ごめんなさい。急用ができてしまって……」
潤子は、苦しい嘘をついた。
「今日は、これで失礼させてください」
「分かりました。何かあったら、いつでも連絡してください」
《何か、深刻な問題があるのかもしれない。心配だ》
潤子は、透の優しさが胸に突き刺さるのを感じた。
彼は、こんなにも自分を心配してくれているのに、自分は彼を欺き続けている。
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香織が指定した場所は、人気のない川沿いの公園だった。
冬の夕暮れ時、公園には誰もいなかった。
ベンチに座っている香織を見つけ、潤子は近づいた。
「来てくれて、ありがとう」
香織は、穏やかに微笑んだ。
「何の用ですか?」
潤子は、警戒を隠さなかった。
「単刀直入に言いましょう。宿儺さん、あなたには特殊な能力がありますね」
潤子の血が、凍りついた。
「何を……」
「心が読めるんです。違いますか?」
香織は、確信を持って言った。
潤子は、否定することも、肯定することもできなかった。
「どうして、そう思うんですか?」
「観察です」
香織は答えた。
「あなたの反応速度、予測精度、そして何より——あなたが私を見る時の目。まるで、何かを『聞いている』ような」
香織は、冷静に分析を続けた。
「最初は、異常な共感力だと思いました。でも、それだけでは説明できない。あなたは、相手の『心の声』を、直接聞いているんです」
潤子は、反論できなかった。
「安心してください」
香織は言った。
「私は、この秘密を誰にも言いません。条件付きですが」
「条件?」
「清明さんから手を引いてください」
潤子は、予想していた要求だった。
「もし断ったら?」
「清明さんに、すべてを話します。あなたが彼の心を読み続けていたことを。彼の秘密を、許可なく覗き見ていたことを」
香織は、冷たく微笑んだ。
「清明さんは、どう思うでしょうね? プライバシーの侵害だと感じるかもしれません。裏切りだと思うかもしれません。少なくとも、あなたへの信頼は失われるでしょう」
潤子は、香織の言葉の正しさを認めざるを得なかった。
透は、誠実さを何よりも重視する。そして、潤子が秘密を隠していたことは、彼にとって誠実さの欠如に映るだろう。
「あなたは、それを告げることに罪悪感を感じないんですか?」
潤子は尋ねた。
「罪悪感?」
香織は、首を傾げた。
「それは、目的達成を妨げる非合理的な感情です。私は、必要なことをするだけです」
潤子は、改めて確信した。
この女性は、本物のサイコパスだ。
「でも、疑問があります」
潤子は言った。
「なぜ、そこまでして清明さんを手に入れようとするんですか? あなたにとって、彼は何なんですか?」
香織は、少し考えてから答えた。
「有用なリソースです。社会的信用、経済的安定性、そして最も重要なこと——彼は、私の『正常性』を保証してくれます」
「正常性?」
「サイコパスにとって、最大の課題は社会的適応です」
香織は、学術的な口調で説明した。
「私たちは、感情を持たないことを隠さなければならない。そのためには、『正常な関係』を持っているという外見が必要です。清明さんのような誠実で社会的信用のある男性と結婚すれば、私の『正常性』は完璧に偽装されます」
潤子は、吐き気を感じた。
この女性は、透を「道具」としてしか見ていない。
「清明さんが、その事実を知ったら?」
「知ることはありません。私の演技は完璧です」
香織は、自信に満ちていた。
だが、潤子は気づいた。
香織には、一つの盲点がある。
彼女は、自分が「演技」をしていることを自覚している。だが、その演技が「不完全」である可能性を考慮していない。なぜなら、彼女には比較対象がないからだ。
本物の感情を経験したことがない人間が、どうして本物の感情を完璧に演じられるだろう?
だが、それを香織に指摘しても、意味はない。彼女は、聞く耳を持たないだろう。
「一週間、時間をください」
潤子は言った。
「考えさせてください」
「三日です」
香織は譲らなかった。
「三日後、あなたの決断を聞かせてください。清明さんから手を引くか、それとも彼に真実を知られるか」
香織は立ち上がり、去っていった。
潤子は、ベンチに座ったまま、夕暮れの空を見上げた。
どうすればいい?
透を守るために、自分が身を引くべきか?
それとも、すべてを賭けて、透に真実を明かすべきか?
潤子のIQ160の頭脳は、無数のシナリオをシミュレートした。
だが、どのシナリオにも、確実な答えはなかった。
人間の心は、数式では解けない。
確率では予測できない。
潤子は、初めて、自分の知性が無力だと感じた。
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その夜、潤子は自室で、ある論文を読んでいた。
『サイコパスの神経科学的基盤』
扁桃体の機能不全、前頭前皮質との結合性の低下、共感の欠如のメカニズム。
潤子は、香織の脳内で何が起きているのかを、科学的に理解しようとしていた。
香織は、生まれつき共感を感じることができない。それは、彼女の「選択」ではなく、脳の構造的な問題だ。
ならば、彼女を責めることはできるのか?
サイコパスは、「悪人」なのか、それとも「患者」なのか?
潤子は、その問いに答えを出せなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。
香織が透を傷つけることを、潤子は許せない。
科学的理解と、倫理的判断は別だ。
脳の構造が行動を説明しても、それが行動を正当化するわけではない。
潤子は、決断した。
透に、すべてを話そう。
自分の能力も、香織の本性も、すべて。
そして、透に判断を委ねよう。
それが、潤子にできる唯一の誠実さだった。
たとえ、透が自分を拒絶しても。
たとえ、すべてを失っても。
真実を隠し続けることは、透への裏切りだ。そして、自分自身への裏切りでもある。
潤子は、スマートフォンを手に取り、透にメッセージを送った。
「明日、お会いできますか? 大切な話があります」
数分後、返信が来た。
「もちろん。何時でも大丈夫です」
潤子は、深呼吸をした。
明日、すべてが変わる。
良い方向に変わるのか、悪い方向に変わるのか、それは分からない。
だが、少なくとも、真実に向き合うことはできる。
それが、潤子の選んだ道だった。
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一方、香織も、自室で次の一手を計画していた。
潤子は、予想以上に手強い相手だった。
能力を隠し持ち、高い知性を持ち、そして何より——透への感情が本物だ。
感情。それが、潤子の強みであり、弱みでもある。
感情は、人を強くする。だが同時に、判断を鈍らせる。
香織は、感情を持たないことを、常に優位性だと考えてきた。
冷静に、合理的に、最適な選択をする。それが、香織の生存戦略だった。
だが、ふと疑問が浮かんだ。
自分は、何のために生きているのか?
目的達成? 社会的成功? 生存?
すべて手に入れた先に、何があるのか?
香織は、その問いを即座に排除した。
無意味な問いだ。人生に意味など必要ない。ただ、生き延び、繁栄すればいい。
感情は、そのための障害でしかない。
香織は、計画を続けた。
三日後、潤子が降伏しなければ、透に真実を告げる。
そして、潤子と透の関係を破壊する。
その後、傷ついた透を、香織が「癒す」。
完璧な計画だ。
だが、香織は一つだけ、計算に入れていなかった。
透自身の「選択」を。
誠実な人間は、予測しにくい。
なぜなら、彼らは利益ではなく、原則に基づいて行動するからだ。
そして、原則は時に、合理性を超える。
香織の計画は、完璧に見えた。
だが、その完璧さの中に、致命的な亀裂が存在していた。
それは、まもなく明らかになる。




