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【短編小説】透明な悪意 ~心を読む者と心を持たぬ者~  作者: 霧崎薫


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第三章「三角形の成立」

 新年が明けた。


 潤子は、年末年始の休暇を、ほとんど調査に費やしていた。


 牟田口香織。企業コンサルタント。二十七歳。表面的には、非の打ちどころのない経歴だ。有名大学を優秀な成績で卒業し、外資系コンサルティングファームで実績を積み、三年前に独立。クライアントからの評価は極めて高く、業界内での評判も良い。


 だが、潤子のIQ160の頭脳は、そこに「不自然さ」を見出していた。


 香織の経歴は、あまりにも完璧すぎる。失敗がない。挫折がない。すべての選択が、最適化されている。まるで、人生を「プログラム」したかのように。


 潤子は、香織の過去を深く掘り下げた。


 香織の両親は、彼女が十五歳の時に亡くなっている。無理心中として処理された。父親がアルコール依存症で、母親が精神的に不安定だったという記録がある。そして、香織は「悲劇の被害者」として、親戚に引き取られ、大切に育てられた。


 表面的には、納得できるストーリーだ。


 だが、潤子は疑問を持った。


 なぜ、香織はトラウマの痕跡を一切見せないのか? 十五歳で両親を失うという経験は、人格形成に深刻な影響を与えるはずだ。PTSDの症状、愛着障害の傾向、何らかの心理的な影響があるべきだ。


 だが香織は、まるで何事もなかったかのように、完璧に機能している。


 それは、異常だ。


 潤子は、さらに調べた。当時の警察記録、新聞記事、関係者の証言。


 すべてが、「無理心中」という結論を支持していた。


 だが、一つだけ、奇妙な点があった。


 事件の数週間前、香織は学校のカウンセラーに相談していた。内容は記録されていないが、カウンセラーのメモには「家庭環境への不安」とあった。


 そして、事件の直前、香織は図書館で、ある本を借りていた。


 『薬物学入門』。


 潤子の脊髄を、冷たいものが走った。


 これは、偶然だろうか?


 それとも……


 潤子は、自分の推論を論理的に検証した。


 仮説:香織は、両親の死に関与している。

 

 証拠1:彼女の心の声は、意図的に制御されている。これは、隠すべき何かがあることを示唆する。

 証拠2:彼女はサイコパス的な特徴を示している。共感の欠如、表面的な魅力、完璧な演技。

 証拠3:彼女の行動パターンは、高度に計算されている。偶然を装った透との接触は、明らかに計画的だ。


 だが、これらはすべて状況証拠だ。決定的な証拠ではない。


 そして、最も重要な問題——潤子は、この情報をどうすればいいのか?


 透に伝えるべきか? だが、どう説明すればいい? 「あの人の心が読めないから怪しい」と? それは、自分の能力を明かすことになる。


 警察に通報すべきか? だが、何の証拠もない。十年以上前の事件を、今更蒸し返すことができるのか?


 潤子は、自分の無力さに歯がみした。


 膨大な知識、高い知能、特殊な能力。それらすべてを持っていても、目の前の問題を解決できない。


 なぜなら、社会は証拠に基づいて動くからだ。直感や能力ではなく、客観的な事実に基づいて。


 潤子は、別のアプローチを考えた。


 香織を監視し、彼女が何か違法なことをする瞬間を捉える。そして、それを証拠として警察に提出する。


 だが、それには時間がかかる。そして、その間に、透が香織の罠にはまる可能性がある。


 潤子は、直接対決することを決意した。


 香織と会い、自分の存在を明確に示す。透は自分の大切な人間だと、はっきりと伝える。


 それが、最善の戦略かどうかは分からない。だが、何もしないよりはマシだ。


---


 一月中旬、潤子は香織のオフィスを訪れた。


 受付で名前を告げると、香織は快く面会を受け入れた。


 高層ビルの一角にある、洗練されたオフィス。白を基調とした内装は、清潔感と透明性を演出していた。皮肉だ、と潤子は思った。


「いらっしゃい、宿儺さん。お会いできて嬉しいです」


 香織は、完璧な笑顔で迎えた。


 《さて、何の用だろう?》


 香織の表面的な思考が聞こえる。


「お忙しいところ、すみません。少し、お話ししたいことがあって」


「もちろん。どうぞ、座ってください」


 二人は、応接スペースに座った。香織が淹れたコーヒーが、目の前に置かれる。


「清明さんのことですか?」


 香織が、率直に尋ねる。


 潤子は、驚かなかった。この女性は、すべてを予測している。


「はい」


「予想していました。宿儺さんは、清明さんに特別な感情を抱いていますよね」


 《この女は、私を警戒している。面白い》


 香織の「思考」が聞こえる。だが潤子には分かる。これは、本当の思考ではない。演技の一部だ。


「牟田口さんも、清明さんに興味がおありのようですね」


 潤子は、直接的に切り込んだ。


 香織は、一瞬だけ、表情を変えた。驚きではなく、評価するような表情だった。


「率直な方ですね。好感が持てます」


 《この女、ただ者ではない。慎重に扱う必要がある》


「お互い様ですね。あなたも、かなり計算高い方だと思います」


 潤子は、自分の観察を述べた。


「清明さんとの出会いは、偶然ではありませんでしたよね?」


 香織は、数秒間、潤子を見つめた。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「鋭いですね。確かに、完全な偶然ではありません。ビジネスチャンスとして、清明さんの研究所に営業をかけました。そして、プロジェクトを通じて、清明さんという人物に惹かれました。それは、おかしなことですか?」


 《言い訳は完璧だ。反論できないはず》


「いいえ、おかしくはありません。ただ、あなたの『惹かれ方』が、あまりにも……戦略的だと感じました」


 潤子は、慎重に言葉を選んだ。


「まるで、清明さんを『ターゲット』として選んだかのような」


 香織の笑顔が、わずかに深まった。


「興味深い表現ですね。宿儺さんは、心理学がご専門でしたよね? 私の行動パターンを、どう分析されているんですか?」


 これは、挑発だ。潤子は理解した。


 香織は、潤子がどこまで知っているかを探っている。


「正直に言えば、あなたのことがよく分かりません」


 潤子は、真実を述べることにした。


「あなたは、非常に知的で、魅力的で、社交的です。だが同時に、何かを隠しているように感じます。まるで、完璧な仮面をかぶっているような」


 香織は、コーヒーを一口飲んだ。


「誰でも、社会的な『仮面』をかぶっていますよね? 本当の自分をすべてさらけ出すことは、むしろ無責任だとも言えます」


「それはそうですが……」


 潤子は、次の言葉を慎重に選んだ。


「あなたの『仮面』は、あまりにも完璧すぎます。まるで、その下に何もないかのような」


 沈黙が流れた。


 香織は、じっと潤子を見つめていた。その視線には、何の感情も読み取れなかった。


 そして、香織が口を開いた。


「宿儺さん、あなたは何か、特別な能力をお持ちですか?」


 潤子の心臓が、激しく波打った。


「……どういう意味ですか?」


「あなたの観察力は、異常です。初対面の人間の『仮面』を見抜くなんて、普通はできません。まるで、人の心が読めるかのような」


 香織は、探るように言った。


 潤子は、必死に表情を制御した。


「心理学を専門に学んでいれば、人の行動パターンから、ある程度のことは推測できます」


「そうでしょうね」


 香織は、あっさりと引いた。


「では、質問を変えましょう。宿儺さんは、清明さんと、どのような関係になりたいと思っていますか?」


「それは……」


「恋人ですか? それとも、ただの友人として、彼を守りたいだけですか?」


 潤子は、答えに窮した。


 自分でも、まだはっきりとは分かっていない。透のことが好きだ。それは確かだ。だが、自分の秘密を抱えたまま、本当の関係が築けるのか?


 香織は、潤子の迷いを見透かしたように言った。


「宿儺さん、あなたは優しすぎます。そして、誠実すぎます。だからこそ、自分の秘密が重荷になっている」


 潤子は、息を呑んだ。


「一方、私は違います」


 香織は、冷たく微笑んだ。


「私は、目的のためなら、どんな手段でも使えます。秘密を隠すことにも、罪悪感を感じません。そして、清明さんという男性を、私は必要としています」


「必要? 愛しているのではなく?」


「愛、ですか」


 香織は、まるでその概念自体が理解できないかのように首を傾げた。


「感情的な愛というものが、どれほど不合理で、非効率的か、宿儺さんならお分かりでしょう? 私は、清明さんを『パートナー』として選びました。合理的な基準に基づいて。それが、最も誠実な選択だと思います」


 潤子は、背筋が凍る思いだった。


 この女性は、本当にサイコパスだ。


 愛を理解せず、感情を持たず、すべてを計算で割り切る。


「清明さんが、それを望むと思いますか?」


 潤子は、反論した。


「彼は、誠実さを何よりも重視する人です。あなたのような『計算』は、彼が最も嫌うものです」


「でも、彼は私の『計算』に気づいていません」


 香織は、勝ち誇ったように言った。


「彼は、人を疑いません。言葉を額面通りに受け取ります。だからこそ、彼は操作しやすい。いえ、『誘導しやすい』と言うべきでしょうか」


「あなたは、彼を騙すつもりですか?」


「騙す? いいえ、違います」


 香織は、首を振った。


「私は、彼に『最適な選択肢』を提示するだけです。彼が自分の意志で、私を選ぶように。それは、彼の自由意志を尊重することです」


 潤子は、反論したかった。だが、言葉が見つからなかった。


 なぜなら、香織の言っていることは、ある意味で正しいからだ。


 誘導と説得の境界は、曖昧だ。情報を選択的に提示し、相手に特定の結論に導くこと——それは、マーケティングでも、政治でも、日常的に行われている。


 だが、それが倫理的に正しいかどうかは、別の問題だ。


「もし、清明さんがあなたの本性を知ったら?」


 潤子は、最後の切り札を切った。


「あなたが、完璧に演技をしていることを知ったら、彼はどう思うでしょう?」


 香織は、冷たく笑った。


「彼が知ることはありません。なぜなら、証拠がないからです。そして、もし誰かが私を告発しても、その人物の信憑性が問われるだけです」


 香織は、潤子を見つめた。


「例えば、宿儺さんが『牟田口さんはサイコパスだ』と言ったとして、誰が信じますか? 証拠もなく、ただの直感で人を非難する女性を、清明さんは信頼するでしょうか?」


 潤子は、答えられなかった。


 香織は、すべてを計算している。潤子の弱点も、透の性格も、社会のシステムも。


「宿儺さん、あなたは賢い方です」


 香織は、立ち上がった。


「だからこそ、分かるはずです。この勝負、あなたに勝ち目はありません。あなたは、自分の秘密を守りながら、清明さんとの関係を深めることはできない。なぜなら、真の信頼関係は、完全な透明性の上にしか築けないからです」


 香織は、ドアに向かって歩き出した。振り返って、最後に言った。


「諦めてください。清明さんは、私のものになります」


 潤子は、その場に座ったまま、動けなかった。


 香織の言葉が、脳内で反響していた。


 《真の信頼関係は、完全な透明性の上にしか築けない》


 皮肉だった。


 サイコパスが、潤子の最も弱い部分を、正確に突いていた。


 潤子は、透に自分の能力を明かすべきか?


 だが、もし明かして、彼が自分を恐れたら? 「心が読まれていた」ことを知って、裏切られたと感じたら?


 潤子は、初めて、自分の知性と能力の限界を痛感した。


 論理では解決できない問題がある。


 計算では予測できない結果がある。


 そして、人間の心は、最も複雑な謎だ。


 潤子は、オフィスを出て、冷たい冬の風の中を歩いた。


 決断しなければならない。


 透を守るために。


 そして、自分自身を守るために。


 だが、どうやって?


---


 その夜、透は自室で、奇妙な違和感を感じていた。


 最近、二人の女性が、彼の人生に入り込んできた。


 宿儺潤子と、牟田口香織。


 どちらも、魅力的で、知的で、興味深い女性だ。


 だが、透の心は、明確に潤子に傾いていた。


 理由は単純だ。潤子と話していると、自分が本当の自分でいられる。哲学的な議論も、沈黙の時間も、すべてが心地よい。


 一方、香織とは、どこか緊張する。彼女は完璧すぎる。いつも適切なことを言い、適切に反応する。それは素晴らしいことのはずだが、どこか不自然に感じる。


 透は、自分の直感を信じることにした。


 次に潤子に会った時、自分の気持ちを伝えよう。


 「好きです。付き合ってください」と。


 単純で、率直で、誠実に。


 それが、透の流儀だった。


 だが、透はまだ知らなかった。


 自分が、二つの異なる知性の戦場になっていることを。


 そして、その戦いの結末が、誰にも予測できないものだということを。



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