第二章「完璧な擬態」
牟田口香織は、ターゲットの行動パターンを完全に把握していた。
清明透は、毎週土曜日の午後、あの書店を訪れる。滞在時間は平均九十分。主に哲学と環境科学のコーナーを回り、必ず一冊は本を購入する。その後、書店近くのカフェで読書をする。これが彼の週末のルーティンだった。
だが、先週の土曜日、そのパターンに変化があった。透は書店で見知らぬ女性と会話し、その後、女性と一緒にカフェへ入り、閉店時間まで過ごした。
香織は、少し離れた位置から、その一部始終を観察していた。
女性の名前は、会話から「宿儺潤子」と分かった。年齢は二十代後半。服装からは、知的職業に従事していると推測できた。そして最も重要な情報——透と非常に良い雰囲気だった。
香織は、自室のデスクで潤子について調査した成果を眺めていた。
宿儺潤子。二十八歳。某大手IT企業のデータアナリスト。東京大学心理学科卒業。優秀な成績で修士号取得。論文テーマは「共感の神経基盤と認知的プロセス」。SNSはほとんど使用しておらず、プライベートな情報は少ない。友人も少なく、恋愛関係にある男性の痕跡もない。
表面的には、平凡な高学歴女性だ。だが、香織の直感が警告を発していた。
この女性は、何かを隠している。
香織は、人間の「演技」を見抜く能力に長けていた。なぜなら、自分自身が完璧な演技者だからだ。他人の不自然さ、微細な緊張、隠された意図——それらを読み取ることは、香織にとって呼吸するように自然だった。
そして潤子には、明らかに「不自然さ」があった。
カフェでの会話中、潤子は時々、まるで何かを「聞いている」ような仕草を見せた。透が話していない時にも、彼女は何かに集中しているようだった。そして、透の言葉に対する反応が、異常に的確だった。まるで、彼の考えを先読みしているかのように。
直感的予測、観察力の高さ、それとも……何か別の能力?
香織は、より詳細な調査が必要だと判断した。だが同時に、計画の修正も必要だった。
当初の計画では、「偶然の出会い」から始まり、数ヶ月かけて透との関係を構築する予定だった。だが、潤子の存在は、その計画に変数を加えた。
選択肢は三つ。
選択肢A:潤子を排除する。物理的、あるいは社会的に。
選択肢B:計画を延期し、二人の関係が自然消滅するのを待つ。
選択肢C:計画を加速させ、潤子よりも先に透との関係を確立する。
香織は、それぞれの選択肢のリスクとメリットを計算した。
選択肢Aは、最も確実だが、リスクも高い。潤子の社会的つながりは少ないが、彼女が消えることで警察の捜査が入る可能性がある。そして、もし透が潤子に強い感情を抱いている場合、彼女の消失は透を遠ざける結果になる。
選択肢Bは、最も安全だが、時間がかかりすぎる。そして、二人の関係が深まる可能性もある。
選択肢Cは、バランスが取れている。リスクは中程度だが、成功すれば最も効率的だ。
香織は、選択肢Cを選んだ。
そして、完璧な「偶然の出会い」を演出するための準備を始めた。
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翌週の月曜日、透の勤務先である環境技術研究所に、新しいクライアントが訪れた。
牟田口香織。企業コンサルタント。彼女のコンサルティング会社が、研究所の新プロジェクトに助言を提供することになった。
これは「偶然」ではなかった。香織が、自社の営業チームに働きかけ、この案件を獲得させたのだ。研究所側は、実績のある香織の会社を喜んで受け入れた。
初回ミーティング。会議室に、プロジェクトメンバーが集まる。その中に、透がいた。
香織は、完璧な「初対面の驚き」を演じた。
「あら、清明さん? 先週の環境セミナーでお会いしましたよね」
透は一瞬考え、思い出したように頷いた。
「ああ、はい。確か、企業の環境戦略についてお話しされていた……」
「牟田口香織です。これからお世話になります」
握手を交わす。香織の手は、適度な温かさと適度な圧力——「誠実さ」と「親しみやすさ」を演出する完璧な握手だった。
「こちらこそ。プロジェクトは、太陽光発電システムの効率化と、環境への影響評価です」
「承知しています。資料を拝見しましたが、非常に革新的なアプローチですね。特に、設置による生態系への影響を最小化する設計思想が素晴らしいと思いました」
香織の言葉は、完璧に計算されていた。透の仕事への情熱を理解していることを示し、彼の専門性を評価し、そして彼の倫理観(環境への配慮)に共鳴する。
透の表情が、わずかに明るくなった。
「ありがとうございます。まさにそこが、このプロジェクトの核心なんです」
会議は順調に進んだ。香織は、専門的な質問を適切なタイミングで投げかけ、メンバーの意見を引き出し、建設的な議論を促進した。会議の終わりには、プロジェクトチーム全員が、彼女を有能で協力的なパートナーとして認識していた。
会議後、香織は透に話しかけた。
「清明さん、少しお時間よろしいですか? プロジェクトの技術的な詳細について、もう少し詳しくお聞きしたいことがあって」
「もちろんです」
二人は、研究所内のカフェテリアに移動した。
「実は、私も環境問題には個人的に関心があって」
香織は、用意していた「個人的な物語」を展開し始めた。すべて嘘だが、検証不可能な形で構成された完璧な嘘だった。
「子供の頃、祖父母の家が田舎にあって、よく夏休みに訪れていたんです。そこは本当に自然が豊かで、川で泳いだり、森で虫を捕まえたり。でも、十年ほど前に行ってみたら、その川は汚染されていて、森の一部は宅地開発で消えていました」
香織は、目に涙を浮かべる演技をした。扁桃体の機能不全により、彼女は本当の悲しみを感じることはできない。だが、涙腺の制御は訓練で習得した。
「それ以来、環境問題を仕事として扱うことに意味を感じるようになったんです。企業の利益と環境保護を両立させる方法を見つけることが、私の使命だと思っています」
透は、共感的な表情で頷いた。
「分かります。僕も、似たような経験があって。自然を守ることと、人間の発展を両立させることは、決して矛盾しないはずだと信じています」
「同じ志を持つ人と一緒に仕事ができるのは、本当に嬉しいです」
香織は、最高の笑顔を作った。それは、百回以上練習した、「純粋な喜び」を表現する笑顔だった。
それから数週間、香織は透との接触頻度を慎重に増やしていった。
プロジェクトミーティング、技術的な相談、そして「偶然の」ランチ。香織は、透の興味、価値観、習慣を詳細に観察し、それに合わせて自分を調整した。
透が哲学に興味があることを知れば、香織も哲学書を読んでいると言った(実際に読み、内容を完璧に記憶し、議論できるように準備した)。
透が誠実さを重視することを知れば、香織は「嘘をつくことが嫌い」だと言った(最大の嘘を、最も誠実な顔で)。
透が家族を大切にすることを知れば、香織も家族の思い出を語った(すべて創作だが、感情的なディテールで満たされた物語)。
そして、最も重要なこと。
香織は、透が最近、ある女性と親しくしていることを知った。名前は、まだ明かされていなかったが、「哲学について話せる友人ができた」と透は嬉しそうに語った。
香織は、その情報を注意深く記録した。そして、次の段階に進む時期だと判断した。
関係を、仕事上のパートナーから、個人的な友人へ。そして、最終的には恋愛関係へ。
すべては計算通りに進んでいた。
透は、香織の「演技」に、まったく気づいていなかった。
なぜなら、透は人を疑わない。嘘を見抜こうとしない。相手の言葉を、そのまま信じる。
それが、彼の美徳であり、同時に弱点だった。
香織にとって、透は「操作」ではなく「誘導」で動かせる理想的なターゲットだった。
だが、香織が予測していなかったことが一つあった。
宿儺潤子という変数の、本当の性質を。
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十二月下旬、潤子と透は四回目のデートをしていた。
クリスマスイルミネーションが輝く街を歩きながら、二人は哲学と科学の話題で盛り上がっていた。
「意識のハードプロブレムって、結局解決不可能なんじゃないかと思うんです」
透が言う。
「クオリアの主観的経験を、客観的な物理現象として完全に説明することは、原理的に不可能かもしれない」
「でも、それは説明のフレームワークの問題かもしれません」
潤子は答える。
「還元主義的なアプローチではなく、創発主義的なアプローチなら、意識の説明は可能かもしれない。複雑系理論が示すように、システム全体の性質は、要素の単純な総和ではない」
《この人と話していると、本当に楽しい》
透の心の声が聞こえる。そしてそれは、彼の表情からも明らかだった。
潤子は、この一ヶ月で、幸福というものを初めて知った。誰かと一緒にいることの喜び。自分の考えを共有することの充実感。そして、相手を信じることができるという安心感。
だが、同時に、罪悪感も募っていた。
潤子は、透に自分の能力を明かしていない。彼の心が読めることを、隠し続けている。それは、フェアではない。透は自分を完全にさらけ出しているのに、潤子は最も重要な秘密を隠している。
この関係は、本物なのか? それとも、欺瞞の上に築かれた幻想なのか?
「宿儺さん、大丈夫ですか?」
透の声で、潤子は我に返る。
「すみません。また考え事を……」
「何か、悩んでいることがあるなら、話してください。力になれるかもしれません」
《彼女は何か抱えている。でも無理に聞き出すのは良くない》
透の心の声は、彼の言葉よりも複雑だった。彼は心配しているが、同時に潤子のプライバシーを尊重しようとしている。
潤子は、決断した。
この人になら、話せるかもしれない。
「清明さん、話したいことがあります。でも、信じてもらえないかもしれません」
「何でも聞きます」
《真剣な話だ。ちゃんと聞かないと》
潤子は深呼吸をして、口を開こうとした。
その時、背後から声がかかった。
「清明さん!」
二人が振り返ると、一人の女性が笑顔で近づいてきた。
牟田口香織だった。
「偶然ですね! こんなところで」
香織の笑顔は完璧だった。驚きと喜びが適切に混ざり、親しみやすさと上品さのバランスが取れていた。
だが、潤子には分かった。
この「偶然」は、偶然ではない。
そして、この女性は、何かを隠している。
潤子の能力は、香織の心にも向けられた。
だが、聞こえてきたのは——
何もなかった。
いや、正確には、聞こえてはいるが、それは表面的な思考だけだった。まるで、意図的に「聞かせるために用意された」思考のように。
《清明さんと偶然会えて嬉しい。お連れの方は誰だろう?》
その心の声は、あまりにも「正常」すぎた。あまりにも「自然」すぎた。
人間の心は、もっと混沌としている。矛盾し、揺れ動き、複数の層を持つ。だがこの女性の心は、まるで台本を読んでいるかのように整理されていた。
潤子の直感が、警報を鳴らした。
この女性は、危険だ。
「牟田口さん、こんにちは」
透が答える。
「紹介します。こちらは宿儺潤子さん。友人です」
《友人、と言っていいのか? もっと特別な関係だけど、まだそう言う段階じゃないかもしれない》
透の心の声には、迷いがあった。彼は、潤子との関係をどう表現すべきか、慎重に考えていた。
「初めまして。牟田口香織です」
香織が手を差し出す。潤子は握手に応じる。
その瞬間、二人の視線が交わった。
そこには、言葉にならない認識があった。
潤子は理解した——この女性は、普通の人間ではない。
香織も理解した——この女性は、普通の観察者ではない。
二人とも、表情には一切出さなかった。
「清明さんとは、仕事でご一緒させていただいているんです。とても優秀な方で、プロジェクトが順調に進んでいます」
香織が言う。その声は、温かく、親しみやすかった。
「そうなんですね」
潤子は、慎重に言葉を選ぶ。
「清明さんからは、仕事の話をよく聞いています」
《この人は敵だ》
潤子の直感が、明確に告げる。
《この女性は、何かを隠している。そして、透に近づこうとしている》
だが、証拠はない。ただの直感だ。そして、香織の表面的な心の声は、完璧に「無害」だ。
「お二人は、お付き合いされているんですか?」
香織が、さりげなく尋ねる。その質問は、好奇心と友好的な関心を装っていた。
だが潤子には分かる。これは、偵察だ。
「僕たちは、友人です」
透が答える。
《まだ、付き合っているとは言えない。でも、そうなりたいと思っている》
香織は、透の答えを注意深く聞いた。そして、微かに微笑んだ。
《まだ確定していない。つまり、介入の余地がある》
潤子は、香織のその「思考」を聞いた。いや、聞かされた。
この女性は、意図的に、自分の思考を「聞かせている」のだ。
まるで、宣戦布告のように。
三人は、しばらく雑談を交わした。表面的には、和やかな会話だった。
だが、潤子と香織の間には、目に見えない緊張が走っていた。
やがて、香織が言った。
「それでは、私はこれで。お二人とも、良い夜を」
香織は去っていった。その背中は、優雅で、自信に満ちていた。
潤子は、透を見た。彼は、何も気づいていない様子だった。
「牟田口さん、感じの良い人ですね」
透が言う。
《仕事でも、とても協力的で、優秀な人だ》
潤子は、何も言えなかった。
どう説明すればいい? あの女性は危険だと、どう伝えればいい?
根拠のない直感だけで、人を非難することはできない。それは、潤子の理性が許さない。
だが、確信はあった。
牟田口香織は、何かを企んでいる。
そして、その標的は、透だ。
潤子は、初めて、誰かを守りたいと思った。
同時に、自分の能力の限界も理解した。
心が読めても、読めない心がある。
完璧に擬態する者の心は、読むことができない。
戦いは、始まっていた。
三つの視界が、交わった。
だが、その先に待つものを、誰も予測できなかった。




