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【短編小説】透明な悪意 ~心を読む者と心を持たぬ者~  作者: 霧崎薫


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第一章「出会いの透明性」

 十二月の寒い土曜日、潤子は再びあの書店を訪れた。


 金曜の夜、会社で後輩の心の声を聞いて以来、ずっと気分が沈んでいた。表面的な言葉の裏にある無数の本音。それらを整理し、分類し、適切に対応する。高いIQは、その作業を高速で処理することを可能にするが、同時に、その矛盾を鮮明に認識させる。


 認知的不協和。心理学の用語だ。人間は矛盾する情報に直面すると、不快感を覚える。だが潤子の場合、矛盾は日常の全てに満ちていた。人々の言葉と心の乖離。社会の建前と本音の乖離。そして何より、「このままでいい」と自分に言い聞かせる自分と、「何か足りない」と感じる自分との乖離。


 書店の自動ドアが開く。温かい空気と、紙とインクの匂い。この空間だけは、潤子に安らぎを与えてくれた。


 心理学のコーナーに向かう。最新の共感研究の本を探していた。扁桃体と前頭前皮質の機能的結合性について、新しい知見があるはずだ。自分の能力を科学的に理解することは、それを受け入れるための助けになる。


「すみません、この本についてお聞きしたいのですが……」


 背後から声がかかる。振り向くと、先週見かけた男性が立っていた。書店員だと思って声をかけたらしい。


「あ、すみません。私、店員じゃないんです」


「失礼しました」


 男性は軽く頭を下げ、去ろうとする。だが潤子は、奇妙なことに気づいた。


 彼の心の声が、聞こえない。


 いや、正確には、聞こえているのだが、それが彼の言葉とまったく同じなのだ。


 《失礼しました》


 言葉と心が完全に一致している。


 潤子は思わず声をかけていた。


「あの、もしよかったら、私でよければお手伝いできるかもしれません。何の本をお探しですか?」


 男性は少し驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。倫理学の本を探していて、特にメタ倫理学について、初心者向けの入門書があればと思ったんです」


 《倫理学の本を探していて、特にメタ倫理学について、初心者向けの入門書があればと思ったんです》


 また、完全に一致している。


 潤子の心臓が、不規則に波打った。これは何だ。この感覚は何だ。


「メタ倫理学ですね。それなら……」


 潤子は棚を見渡し、一冊の本を取り出した。


「これがいいと思います。『メタ倫理学入門』。道徳的事実の存在論的地位について、様々な立場を公平に紹介していて、読みやすいです」


「詳しいんですね」


 《詳しいんですね》


「哲学は趣味で読んでいるので」


 男性は本を受け取り、目次をざっと確認する。


「まさに探していたものです。助かりました。僕は清明透といいます」


 《本当に助かった。この人は親切だ》


「宿儺潤子です」


 潤子は自己紹介しながら、自分の中で起きている異変を分析しようとした。なぜこの男性だけ、心と言葉が一致しているのか。


 仮説1:彼は心の声が小さい、あるいは存在しない特異体質なのかもしれない。

 仮説2:彼は完璧な自己一致を達成している、極めて稀な人格の持ち主なのかもしれない。

 仮説3:何らかの理由で、潤子の能力が彼に対してだけ機能していないのかもしれない。


「あの、もしよかったら」


 透が言う。


「この本について、少しお話を聞かせていただけませんか? コーヒーでもいかがですか?」


 《この人と話してみたい。哲学について話せる人に会えるのは嬉しい》


 潤子は、二十八年の人生で初めて、自分が誰かに誘われることを心から嬉しいと感じた。


 それは、彼の言葉が嘘ではないと、完全に確信できたからだ。


「はい。喜んで」


---


 書店近くのカフェ。窓際の席に二人は座った。


「メタ倫理学に興味を持たれたきっかけは?」


 潤子が尋ねる。


「仕事で、環境倫理の問題に直面することが多くて。例えば、太陽光パネルの設置で自然環境を改変することは、本当に『環境に優しい』と言えるのか。そういう問いを考えているうちに、そもそも『良い』『悪い』という価値判断は何に基づいているのか、根本的なところを知りたくなったんです」


 《環境倫理は本当に難しい。単純な善悪では割り切れない》


 透の心と言葉は、やはり完全に一致していた。


「それは、メタ倫理学が扱う中心的な問いですね」


 潤子は答える。


「道徳実在論者は、道徳的事実は客観的に存在すると主張します。でも反実在論者は、道徳は人間が構築したものだと考える。どちらの立場も、それぞれ説得力のある議論を持っています」


「宿儺さんは、どちらの立場ですか?」


 この質問に、潤子は少し考えてから答えた。


「私は……条件付き実在論に近いかもしれません。道徳的真理は、完全に主観的ではないけれど、完全に客観的でもない。人間の認知構造と社会的文脈に依存して出現する、という立場です」


「面白い」


 透は身を乗り出した。


「それは、道徳が『発見される』ものではなく、『創発する』ものだということですか?」


「そうです。複雑系理論の創発概念と似ています。個々の要素(人間の認知、社会的相互作用、文化的文脈)が相互作用することで、還元不可能な性質(道徳的真理)が生まれる」


 《この人、すごく頭がいい。話していて楽しい》


 透の心の声が聞こえる。そしてそれは、彼の表情とも完全に一致していた。彼は本当に、楽しそうだった。


 潤子は、長い間忘れていた感覚を思い出していた。誰かと対話することの喜び。自分の考えを共有し、相手の考えを理解することの充実感。


「清明さんは、どう思いますか?」


「僕は、正直に言うと、まだ確信が持てていません」


 透は率直に言った。


「でも、一つだけ確信していることがあります。それは、自分の言葉と行動を一致させることが、自分にとっての倫理だということです」


 《言行一致。それが僕の生き方の基本だ》


「なぜ、それが重要なんですか?」


 潤子は尋ねる。この質問は、彼女自身の人生を問う質問でもあった。


「言葉と行動が乖離している状態は、自己欺瞞だと思うんです。そして自己欺瞞は、他者への欺瞞に必ずつながる。逆に、自分に正直でいることは、他者にも正直でいることの土台になる」


 《これは、僕の生き方の核心だ》


 潤子は、胸の奥で何かが動くのを感じた。


 この男性は、本当に嘘をつかない人なのだ。社交辞令も言わない。建前も使わない。自分の思考と発言が完全に一致している。


 そして、その一致が、潤子にとってどれほど稀で、どれほど価値があるか。


 世界中を探しても、こんな人には会えないかもしれない。


 だが同時に、潤子は自分の能力の限界も理解していた。彼の心が読めるということは、彼が嘘をついていないことを確認できるということだ。しかし、もし彼が潤子の能力を知ったら? もし彼が、自分の心が筒抜けだと知ったら?


 その関係性は、対等と言えるのだろうか。


「宿儺さん?」


 透の声で、潤子は現実に引き戻される。


「すみません。少し考え事を」


「何か、気に障ることを言いましたか?」


 《もしかして、失礼なことを言ってしまった?》


「いいえ、全然。とても興味深い話でした」


 潤子は微笑む。それは、久しぶりの本心からの笑顔だった。


 二人は、閉店時間まで話し続けた。哲学、科学、社会、人生。話題は尽きなかった。そして何より、透の言葉と心は、一度も乖離することがなかった。


 カフェを出る時、透が言った。


「また、こうして話す機会をいただけませんか?」


 《もっとこの人と話したい。こんなに話が合う人は初めてだ》


「私も、ぜひ」


 潤子は答えた。そして、自分が今、この瞬間、確実に恋に落ちつつあることを理解した。


 二十八年間、誰にも心を開かなかった女性が、初めて、誰かに惹かれていた。


 それは、彼の心が「見える」からではなく、彼の心を「読む必要がない」からだった。


 透明な心。偽りのない言葉。


 それが、潤子が探し続けていたものだった。


---


 その夜、潤子は自室のベッドで天井を見つめていた。


 心臓がまだ、不規則に鼓動している。これが恋なのか、と思う。これまで読んだ無数の恋愛小説や心理学の論文では理解できなかった感情。ドーパミンとオキシトシンの分泌による神経化学的反応、という説明では説明しきれない何か。


 だが同時に、恐怖もあった。


 もし、透が自分の能力を知ったら。もし、自分の心が常に読まれていると知ったら。彼は、どう思うだろう。


 潤子は、自分の能力を誰にも明かしたことがなかった。幼少期、一度だけ母親に打ち明けたことがある。母親は最初信じなかったが、次々と母親の心の声を当てていく潤子を見て、青ざめた。


「お願いだから、誰にも言わないで。あなたが変な子だと思われたら困るの」


 それ以来、潤子はこの能力を隠し続けた。大学で心理学を専攻し、脳科学や認知科学を学んだのも、自分の能力を科学的に理解しようとする試みだった。だが、既存の科学では説明できなかった。


 ミラーニューロンの過剰活性? 扁桃体と前頭前皮質の特殊な結合性? いくつかの仮説は立てられるが、証明はできない。そして、証明しようとすれば、自分を実験台にする必要がある。それは、能力の公開を意味する。


 潤子は、自分が「普通」に生きることを選んだ。能力を隠し、適切にフィルタリングし、社会に適応する。それが、最も合理的な選択だった。


 だが、透と一緒にいる時、彼女は初めて「普通」を忘れた。彼の心を読む必要がない。彼の言葉をそのまま信じられる。それがどれほどの解放感をもたらすか。


 スマートフォンが光る。透からのメッセージだった。


「今日は本当に楽しかったです。また近いうちに、お会いできれば嬉しいです」


 潤子は、少し震える指でメッセージを打った。


「私も楽しかったです。来週の土曜日はいかがですか?」


 送信ボタンを押す。数秒後、返信が来る。


「ありがとうございます。来週の土曜日、楽しみにしています」


 潤子は、スマートフォンを抱きしめた。


 この感情を、大切にしたい。この関係を、守りたい。


 だが、秘密を抱えたままで、本当の関係は築けるのだろうか。


 その問いに、潤子はまだ答えを出せずにいた。


---


 一方、透も自室で、今日の出会いについて考えていた。


 宿儺潤子。聡明で、知的で、誠実な女性だと思った。彼女と話していると、自分が本当の自分でいられる気がした。


 これまで、透は恋愛に対して積極的ではなかった。理由は単純だ。多くの人が、恋愛において「演技」をするからだ。相手に気に入られようとして、本当の自分を偽る。それは透には理解できなかった。偽った自分を好きになってもらっても、それは本当の自分が受け入れられたことにはならないのではないか。


 だが、潤子は違うと感じた。彼女は透の言葉を、そのまま受け止めてくれた。否定も肯定もせず、ただ理解しようとしてくれた。


 透は、自分が彼女に惹かれていることを自覚していた。そしてそれを、隠す理由もないと思った。適切な時期に、適切な方法で、自分の気持ちを伝えよう。それが、自分にとっての誠実さだ。


 だが、一つだけ気になることがあった。


 潤子は、時々、何かに耐えているような表情を見せた。まるで、大きな重荷を背負っているような。


 もし彼女が何か悩みを抱えているなら、力になりたい。だが、無理に聞き出すのは正しくない。彼女が話したい時に、話してくれればいい。


 透は、自分の誠実さを信じることにした。言葉と行動を一致させ続ければ、いつか彼女も、自分を信頼してくれるだろう。


 それだけで十分だ、と透は思った。


 だが、この時の二人はまだ知らなかった。


 第三の視界が、すでに二人を捉えていたことを。


 完璧な擬態者の視界が。



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