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【短編小説】透明な悪意 ~心を読む者と心を持たぬ者~  作者: 霧崎薫


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序章「三つの視界」

 東京の高層ビル群が夕陽に染まる時刻、宿儺潤子は窓際の席で目を閉じていた。


 彼女の脳内には、周囲三十メートル以内にいるすべての人間の思考が流れ込んでくる。データアナリストとして働くこのオフィスフロアには、常時二十人ほどの人間がいる。二十の心が、二十の声で、彼女の意識に語りかけてくる。


 《早く帰りたい、夕飯は何にしよう》

 《明日のプレゼン、うまくいくだろうか》

 《あの女、また上司に媚び売ってる》


 潤子は深呼吸をして、独自に開発した「フィルタリング技術」を起動させる。それぞれの思考に優先順位をつけ、重要でないものは意識の表層から遠ざける。幼少期から二十年以上かけて磨き上げた、生存のための技術だ。


「宿儺さん、今日の分析レポート、すごく分かりやすかったです!」


 後輩の女性社員が笑顔で近づいてくる。彼女の心の声が同時に聞こえる。


 《本当は全然理解できてない。でも褒めておけば機嫌よくしてくれるだろう》


「ありがとう。何か不明点があったら、いつでも聞いてね」


 潤子は完璧な笑顔で返す。この乖離に、もう何も感じない。人間の言葉と心は、ほとんどの場合一致しない。それが世界の真実だと、彼女は学んできた。


 IQ160という数値は、彼女に膨大な情報処理能力を与えた。だが同時に、世界の矛盾をすべて認識させ、解決不能な問いを無限に生成し続ける呪いでもあった。人の心が読めることと相まって、潤子は幼い頃から「真実」に囲まれすぎて、息ができなくなることがあった。


 誰もが嘘をつく。誰もが演技をする。それ自体を責めるつもりはない。社会を円滑に機能させるために、人類は「建前」という発明をした。潤子はそれを理解している。


 だが、理解することと、傷つかないことは別だ。


 特に、恋愛においては。


 過去に三度だけ、誰かを好きになろうとした。だが毎回、相手の心の声が関係を破壊した。「可愛い」と言いながら《まあ、悪くないか》と思う男。「君といると楽しい」と言いながら《次はもっと美人を探そう》と考える男。「愛してる」と言いながら《本命には振られたけど、こいつなら妥協できる》と思う男。


 以来、潤子は恋愛を諦めた。自分には必要ないものだと、論理的に結論づけた。


 午後七時、定時を過ぎてオフィスを出る。帰り道、いつもの書店に立ち寄る。人の心の声から逃れる唯一の方法は、本の世界に没入することだった。物語の中の登場人物たちは嘘をつくが、それは作者が意図した嘘であり、読者はその嘘を含めてすべてを知ることができる。完全な情報、完全な理解。それが心地よかった。


 認知科学の新刊を手に取る。扁桃体と前頭前皮質の結合性についての研究書だ。脳科学の本を読むのは、自分という存在を外側から理解しようとする試みでもある。


 レジに向かう途中、ふと視線を感じて顔を上げる。


 哲学書のコーナーに、一人の男性が立っていた。


---


 清明透は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を手に取りながら、言葉というものの不完全性について考えていた。


「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」


 有名な最終命題だが、透はこの一文に常に違和感を覚えていた。語りえぬものこそ、最も語るべきではないのか。言葉の限界を認識した上で、それでも言葉を尽くそうとする誠実さこそが、人間らしさではないのか。


 三十歳の透は、環境エンジニアとして太陽光発電システムの開発に従事していた。彼の仕事は、自然エネルギーという「語りえぬほど複雑なシステム」を、人間社会が利用可能な形に翻訳することだった。


 透の性格は、職場でも私生活でも一貫していた。思ったことを正直に言う。約束は必ず守る。分からないことは「分からない」と言う。好きなものは「好き」と言い、嫌いなものは距離を置く。


 それゆえに、彼は時に「空気が読めない」と言われた。社交辞令を理解しない男だと思われた。だが透は、それでいいと思っていた。言葉と心が一致しないコミュニケーションは、彼にとって苦痛だった。なぜ人は、思ってもいないことを口にするのか。なぜ本心を隠すことが「大人」だとされるのか。


 透自身は、自分が特別だとは思っていなかった。ただ、嘘をつくことが下手なだけだ。演技をすることに、意味を見出せないだけだ。


 書店を出て、夜の街を歩く。冬の冷たい空気が心地よい。透は人混みの中でも、常に自分のペースを保つことができた。他人の評価に左右されない。自分の信じる道を、ただまっすぐ歩く。


 スマートフォンが振動する。母からのメッセージだ。


「今度の日曜日、久しぶりに家に来ない? お父さんも会いたがってるわよ」


 透は即座に返信する。


「行きます。何時がいいですか」


 社交辞令ではない。本当に会いたいから、行く。それだけだ。


 ふと、先ほど書店で視線を感じたことを思い出す。黒髪のショートカットの女性が、こちらを見ていた。きれいな人だった、と思う。ただそれだけの事実として。


---


 牟田口香織は、高級マンションの自室で白ワインを傾けながら、今日一日の「演技」を反芻していた。


 企業コンサルタントとしての彼女の評判は上々だった。クライアントは彼女の「共感力」と「洞察力」を評価する。部下たちは彼女の「優しさ」と「リーダーシップ」を慕う。業界内では「人間味あふれる戦略家」として知られていた。


 すべて、完璧な演技だ。


 香織は、自分が他者の感情を「感じる」ことができないことを、十歳の時に理解した。母親が泣いている姿を見ても、何も感じなかった。父親が怒鳴っている声を聞いても、恐怖を感じなかった。ただ、「ああ、この人は今、悲しいという状態にあるのだな」「この人は今、怒りという状態にあるのだな」と、情報として認識するだけだった。


 それは欠陥ではない、と香織は考えていた。むしろ、進化の最先端だと。感情に振り回されないということは、常に合理的な判断ができるということだ。恐怖がないということは、リスクを正確に計算できるということだ。罪悪感がないということは、目的達成のために最適な手段を選択できるということだ。


 十五歳の時、香織は両親を殺した。


 計画は完璧だった。父親のアルコール依存症と、母親の精神不安定さを利用して、無理心中に見せかけた。警察の捜査も、親戚の同情も、すべて香織の計算通りに進んだ。彼女は完璧な「被害者」を演じきり、遺産を相続し、親戚の家で「傷ついた少女」として大切に育てられた。


 それは香織にとって、最初の成功体験だった。世界は、正しく演技すれば、思い通りになる。


 以来、香織は人生を「最適化問題」として扱ってきた。感情ではなく、計算で生きる。他者は、目的達成のための「リソース」だ。邪魔な人間は、リスクとコストを天秤にかけて、必要なら排除する。


 二十七歳になった今、香織は次の「最適化」を考えていた。


 結婚だ。


 社会的地位を確立し、将来的な資産形成を考えれば、適切なパートナーを得ることは合理的な選択だ。だが誰でもいいわけではない。条件を満たす必要がある。


 第一に、社会的に信頼される職業であること。第二に、経済的に安定していること。第三に、香織の「演技」を見破らない程度の知能であること。第四に、操作しやすい性格であること。


 そして、最も重要な条件。


 万が一、自分の過去や本性が露見した場合でも、香織を守ってくれる可能性がある人物であること。あるいは、「事故」に見せかけて処理しやすい人物であること。


 香織はワイングラスを置き、タブレット端末を手に取る。画面には、先週のビジネスセミナーで知り合った男性のSNSプロフィールが表示されていた。


 清明透。三十歳。環境エンジニア。


 彼のSNSは実に分析しやすかった。投稿は少ないが、すべてが率直で偽りがない。仕事への情熱、家族への愛情、哲学への興味。彼の人格は、驚くほど一貫していた。


 そして香織は気づいた。この男は、「操作」ではなく「誘導」によって動かせる。なぜなら、彼は自分の信念に従って行動する人間だからだ。その信念を理解し、それに沿った選択肢を提示すれば、彼は自分の意志で香織の望む方向に動くだろう。


 完璧だ、と香織は思った。


 彼女は透に「偶然の再会」を演出するための計画を立て始めた。次の週末、透が通っている書店で、哲学書のコーナーで、悩んでいる風を装って声をかける。「論理哲学論考を読もうと思っているのですが、難しそうで……」と。


 透は親切な人間だ。困っている人を放っておけない。香織はそれを、彼のSNSと過去の行動パターンから確信していた。


 すべては計算通りに進む。


 香織は微笑んだ。その笑みには、感情が一切含まれていなかった。ただ、目標達成への確信だけがあった。


---


 三人の人間が、それぞれの理由で、それぞれの世界を生きていた。


 まだ、三つの視界は交わっていない。


 だが、運命という名の確率の収束は、すでに始まっていた。


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