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みずの鏡

作者: 安田 滝

原初の『鏡』とは水面だったそうだ


かつて人は自身を認識するために身を乗り出して水面を覗き込んでいたという


中には映った自身の美しさが原因で死んでしまった、なんて神話もあるらし


さて、ここまで語っておいてなんだが私は鏡が嫌いだ


別に自分の顔が嫌いだからというわけではない


幼いころ遊びに行った今は亡き祖母の家、そこにあった三面鏡のせいだ


祖母の嫁入り道具だったその鏡はひどく古びていたが

くすんだ木材のざらざらとした手触り

染みついた線香の香り


何より祖母が欠かさず手入れをしているおかげで新品みたいに輝く綺麗な鏡面がとても好きだった


そんなある日、祖母が町内会に行くための身支度をしていた時


後ろ髪を整えるために、三面鏡の両端を向かい合わせにしていたのだ


いわゆる『合わせ鏡』というやつで


信心深い祖母は普段はそんなことはしないのだが、どうもその時は焦っていたようで気にしてはいられなかったらしい


そのせいだろうか、物珍しさからついついのぞき込んでしまった


あ、と言う祖母の声と驚き顔


そしてその奥ーーーー


それを覗き込む私の姿が、無限に連なるその光景


それが何故だか恐ろしくて、泣きじゃくり、そんな私を慰めていたせいで結局祖母は遅刻してしまった


ただそれだけの話だ


オバケが出たとか、自分の死相が見えたとかでもない


ただのつまらないトラウマである



○ ○ ○


「買ってしまった……」


そんな私だがとうとう鏡を買ってしまった


それもつい先ほどだ


今日は日差し強く、梅雨も終えたばかりの猛暑だった


私は友人に連れられて行ったフリーマーケットに行っていた


一人暮らしを始めて最初の夏を風鈴でも買って彩ってやろうと思ったのだ


しかしまあそんな浅い考えを後悔させられるほどの熱と塩気を孕んだ人の波には体力を削られ


ゴオゴオと響く話し声は蝉時雨よりも強く降り注ぎ


私の気力はひどくすり減ってしまった


そんな時、温い風に揺らされてチリンと心地よい音が耳に飛び込んできた


人酔いした私にとっては仏が垂らした蜘蛛の糸


もはや目的の物(コレ)を掴んで帰らねば、と


人の海をかき分けて、耳を頼りに進んで行くと、浅黄色の天幕にぶら下がった風鈴が見えた


さっそく一つ買おうと財布を取り出したところ


『こいつらは売り物じゃないよ』


と言われた


見るとぼさぼさとした長髪の老人店主が一人


気怠そうにこちらを見上げて置かれていた古臭い金属製の水盆を指さした


売り物はこれ一つだという


色は黒一色で、模様を付けるようなしゃれっ気も一切ない指一本分の深さしかない丸いソレは


レジャーシートの上で涼やかとはかけ離れた鉄錆臭い存在感を放っていた


『気になるかい? そいつはね……』


と老人は聞いてもいないのに前述したような鏡の由来を語ってくれた。


そこで分かったことはコレに水を貯めると、そこらの安物とは比べ物にならないほど鮮やかに顔が写る最高品質の鏡になるのだと言っていた。


つまるところ実質ただの古い水盆でしかないのだが、老人の熱意と硬貨一枚分という破格の値段のせいで

こんな重たい荷物を抱えて一人帰路に就く羽目になった。


まったくもって無駄な買い物だ。


本当は風鈴を一つ買って帰るつもりがそれさえもできなかった。


夜になるとじっとりと湿気たこの部屋に「涼」をと思ったのだが


あいにくの曇り空で月の尻すら見えない風情もへったくれもない夜だった


結局は汗みどろになって安っぽい電灯に照らされながら


食卓に置いた鉄臭いコイツを見下ろしているのが現状だ。


非常に持って忌々しい気分だ。


何が悲しくて鏡モドキなんぞに金を払って、挙句の果てに途方にくれるなんて惨めにもほどがある。


しかも重たい荷物を運んで帰るという重労働で腹が減っているというのに、その食卓を味もそっけもない鉄塊が占拠しているのだから憤懣やるかたない


それに私は独り身で同居人もいないのだからこいつを私自身がつかわにゃならんのだ。


そんな貧乏人根性でそうめん皿にでもしてやろうかと水を注ぐと


古びた水盆はまるで息を吹き返したかのように光を投げた


それは雷のように力強く、思わず目を瞑ってしまう程だった


おどろきあたりを見回しても部屋にある光源は


頼りなく天井にぶら下がったホコリまみれの電球しかなかった


反射したのはこんなちっぽけ光だったのだ


だが今は元の光源より強くなって食卓の上で小さな太陽のように輝いている


そんな馬鹿な話があるものか、と慌てて電灯を切り水を捨てれば


ただの黒々とした金属の盆に戻ってしまった


何か仕掛けでもあるのかと耳を当てたり、軽く叩いてみたものの


震えて重たい音を返すだけで中には細工が入るような空洞すらも無い様だと分かった


これ以上はわからない、私は別に博識でも何でもないただの学生でしかないのだから


今わかることはこれが『恐ろしくよく映る鏡』になるということだけだ


少し好奇心が湧いてきたが


こんなモノ何度も試していたら目が潰れてもおかしくない


何より昼間にでも試そうものなら私は火あぶりにでもされるのではないかと恐ろしくなった


そんな時だ


チロリチロリと仄かな光が床を這ってくる


見れば分厚かった雲が割れて青白い月光が差し込んできている


吹き込む風はひんやりと乾いて心地よく


昼蝉の喧騒と代替わりした鈴虫の声を運んでくる


まるで誘われるように窓から夜空を見上げると


あの水盆のような丸い満月が浮かんでいた


私はふと思った


『この月光を映してみたい』と


あのしょぼくれた電灯を水鏡は太陽に変えたのだ


ならばこの冴えた月光はいかほどのものかと想ってしまった


目が潰れるかもしれないという恐怖心は好奇心に押しのけられ


改めて水を張った水鏡を抱え月光が注がれる窓辺の床へと勇み足で進んでいく


揺れて飛沫を上げるその鏡面は意外なことに静かなものだった


それは月光を反射して眩く輝く訳でもなく


一揺もの波も無い完璧な平面を作り上げていた


浮かぶのは仄かな銀光


その水鏡に収めたはずの満月は音もなく溶けてゆき


残ったのは『完全な鏡』だった


おそらくこれこそがコイツの正しい使い方なのだ


熱帯夜を置き去りにした冷たい光に誘われ


私は鏡を覗き込んだ


そこに写っていたのは────


「おばぁちゃん……?」


私ではなく死んだはずの祖母がそこにいた


凛と背筋を伸ばしそれでいて優しく穏やかな笑顔を浮かべる


記憶の中にある姿そのままだった


いや、祖母だけでは無い


今では取り壊されてしまった祖母の家


気付けば見なくなった通学路の人懐っこい野良猫


一度読んだきりで思い出せなかった愉快な絵本


場面を変えればすぐさまに


想い出や忘れていた記憶の中の光景


それらが音や匂い、感謝までも感じられそうなほどの鮮明さで写し出される


強い懐かしさと、もう戻れない寂しさで涙が滲む


そうしていると突然また場面が変わった


そこに写っていたのは古い鏡だった


私はすぐに思い出した


コイツは私にトラウマを植えつけた三面鏡だと


時を経て染み込んだ真っ黒いその木製の本体も


鼻をくすぐる()()()()()


祖母が丹念に磨き上げてきたその鏡面もあの日と何も変わらない


記憶と違うのは祖母が身支度をしておらず、古びた日本邸宅の一室でポツンとそこに鎮座していた


私は引き寄せられように()()()()


ギシギシと音を立てる畳張りの床


肌を焼く夏の日差し


鼓膜を打つ蝉時雨


土の匂いを孕んだ生ぬるい風


全部覚えている、それでも忘れてしまっていた物たち


記憶が蘇っているなんてものじゃない


私は今『記憶の中』に居たのだ


しかしそんな驚きもつかの間、気付けば私は日陰の中、鏡の前に膝をついていた


鏡にはフリーマーケットに着ていった汗で湿ったシャツを着る自分の姿───ではない


写っていたのは子供だった


顔は見えないが服装や背丈からして7~8歳ほどの少年が、かがんで鏡を覗き込もうとしている


私は彼を知っている


そしてこれから起こることも……


突然、少年を挟み込むようにゆっくりと側鏡がひとりでに動き出す


しかし少年は驚くでも怖がるでもなく、さらによく見ようと鏡を覗き込んだ


その時初めて鏡に映った少年の────幼いころの私の顔は恐怖に引き攣っていた


見えていたのは自分の背後


いや、それだけじゃない


そのさらに奥にも怯えた自身の姿が映りこむ


それは無数に連なり、どれほど奥を覗き込もうとも終わりを見出せなかった


ああ、思い出した


幼いころの私にはまるで鏡の中に吸い込まれているように感じてしまったのだ


進めど進めど先はなく


まるで溺れるかのように沈んでゆき


やがては息が詰まり死んでしまう……


そう思ってしまったのだ


瞬間、眩い光に目を焼かれ思わずのけ反った


同時にガラァンと鈍い音を立てたあと重たいものが転がっていくのが聴こえた


明滅する視界でろくに周りも見えなかったが


焼けたと思った目玉はしばらくすると何の問題もなく見えるようになった


その時私はようやく夜が更けていたことに気が付いた


寝食も忘れて鏡を覗き込んでいたとでもいうのだろうか?


そう思うとさぁと血の気が引いた


本当に得体の知れないものを買ってしまったと後悔したが捨てる気にもなれず


布で巻いて押し入れに放り込んでしまった


しかし、その日以降


あの時の自身の記憶に入り込む不思議な体験に心を惹かれ何度か水鏡を引っ張り出そうとした


だがいつも恐ろしさが勝り


また〝見ず〟に鏡をしまい込んでしまうのだった

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