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【9】

 絵理朱は何だかウキウキしたような表情になり、

「ねえ、検証ってどうやるの?」と身を乗り出す。

 僕は、テーブルに並べたハンディタイプの風向風速計、雨量計、温度計、ヘッドランプ、防水ノートなどを順に手に取り、

「こういうのを使って明日の晩、自然探索路の滝に一番近い場所で、風の強さ、方向、水しぶきの量、温度を測って、その数値をメモる。明日は満月で、天気予報では気温や風の状態が事故当日とほぼ一致しているから、絶好のチャンスなんだ」

「カメラは? 写真は撮らないの?」

「もちろん証拠写真も必要だ。スマホで撮るよ」

「ふーん。でも、そのハイカーの人に起きたようなことが、しば兄ぃにも起きる危険はないの? 少し心配だなあ」


 男はバカな生き物だから、こういう純情そうな言葉を聞くと、自分からさっさとワナに飛び込んでしまう。

「全然危険じゃないさ。薄着はしないし、山用のレインポンチョも着るから低体温症には絶対ならない。万が一のために、エマージェンシーシートも持ってく。スプラッシュマウンテンに乗りに行くみたいなものさ」

 絵理朱が眉を少し陰らせ、哀れを誘うような感じの上目遣いをしてくるのを見てハッとする。この表情を見せつけられた後、宮守の親父さんが高級カメラとか買わされてたのを思い出した。


「私も行きたいんだけど…」

「ダメだ」

 即答する。

「えーどうして」 

「絵理朱は写真部を引退して、これから受験勉強に専念するんだろ?」

「あさってからちゃんとやる。わからないところはしば兄ぃが教えてくれるんでしょ?」

「夜だし、危険な目に遭うかもしれないじゃないか」

「さっきは全然危険じゃない、スプラッシュマウンテンと同じだって自分で言ったよね。私、あのアトラクション大好き。

 それに写真はどうするの? 夜の滝は、スマホじゃ絶対に上手く撮れないことは元写真部の私が受け合う。検証を成功させて、証拠写真を撮って、これ以上事故が起きないように県に進言しなくちゃならないんでしょ?」

「それとこれとは…」

「私、これから毎日家と塾の往復だよ。高校最後の夏休みなんだから、1日ぐらい冒険らしいことをさせてくれたっていいじゃない」


 絵理朱がうつむいて、指で目頭を押さえるふりをする。

「パパが帰ってきたら、しば兄ぃがすごく意地悪だったって言いつける」

「下手な泣き真似をするなっ」




 高校最後の夏休みか。

 電車の窓から、西に沈みかけている陽が赤々と射し込んで、絵理朱と後輩2人を夕日のオーラで包む。絵理朱は今は私服だったが、3人が制服姿でいるところを想像してみる。


 高校時代というのは、大人でも子供でもない不思議な時間で、みんな同じ制服に身を包んで平等に学園生活を送る。

 もちろん、それぞれ家庭の事情も違うので、実際には平等とは言えないのだけれど、制服を着ている時は、身分や立場の区別もなく、一つの行事にみんなで夢中になったり悔しがったりし、誰が好きだとか振られたとかに、人生の一大事みたいに身を焦がし、慰める方までもらい泣きしたりする。


 それは、なんていうかティンカーベルが光の粉をかけたような魔法の時間だけど、卒業すればその魔法も消え去り、みんなバラバラになって、まったく別の人生を歩み始める。

 苦しい生活に耐えなければならない時期もあるだろうし、勝ち組・負け組とかいった下らない言葉に傷つく人もいるだろう。でも、今だけはみんな等しく、魔法の時間を仲間と分かち合う権利を持っている。


 大人たちは、このかりそめのサンクチュアリを全力で守らなくてはならないし、その中に土足で踏み入ることは誰にも許されない。




 郊外の駅に着いて、そこからバスに乗り、風花渓谷の入口で下車した。僕と絵理朱は、浄生の滝に向かう道をたどりだす。すでに陽は沈み、夕闇が深まるのとともに、ひぐらしの声も静まっていく。


 森の端をかすめる小道を抜け、草の茂る緩やかな坂を下っていくと、渓流沿いの自然探索路に出た。予想通り、水嵩の増した渓流は勢いよく岩間を走り、大きな瀬音を立てていた。10分ほどでハイカーが発見された場所に着く。


 もう1度、渓流を見渡した。

 滝つぼからあふれた水が合流しているせいで、このあたりの水流は特に激しく、もしハイカーが川に落ちたのだとしたら、服が濡れるぐらいでは済まなかっただろう。


 そこから100メートル歩くと、左の奥に滝が見えた。道の脇に「浄生の滝」と彫り付けた石の柱が立てられている。滝の高さは20メートル弱。昨夜の大雨が滝口から押し出され、白い水煙を上げながらごつごつした岩肌を下っている。

 探索路に小橋が架かっていて、その下を滝つぼから来た水が音を立てて流れている。橋の上に立った。突風とまではいかないが、風はそこそこ強く、床板はすでに滝のしぶきで濡れていた。


「うわ、結構冷たいね」

 霧となって漂ってくる細かい水しぶきに手をかざして、絵理朱が言った。

「この滝は、高さはそれほどでもないけど、水量が多めで温度は低い。滝の音はどう?」

「確かに川の音がうるさくて、よく聞き分けられない」

「だよね」


 防水仕様のスマホを取り出して、渓流と滝の音を録音する。

 絵理朱が両手の指でファインダーを作り、構図を決めようとするが、

「ここからだと滝の全景が見えないし、探索路との位置関係もわからないね。少し上の方から全景を撮れればいいんだけど」



 今しがた歩いてきた途中に枝道があり、「滝見平」と矢印が書かかれた標識が立っていた。2人で引き返して、枝道を上っていくと、木立が開けて小高い広場のような場所に出た。


 満月が上り、草の広場を青々と照らしている。午後の陽射しをたっぷり吸った夏草の匂いが濃い。広場の端まで行くと柵や木製のベンチがあり、滝と渓谷の景観が足元に広がる。月の光を浴びた滝は、悠久の音を響かせながら青白く煙っている。


「ここなら全景がばっちり入る。月もきれいだなー。妖精が遊びに来そうなくらいに素敵なところ。やっぱり一緒に来てよかった」


 柵にもたれて満月を見上げる絵理朱の横顔は、白い磁器のように滑らかな光を帯びていた。隣に並んで一緒に月を眺める。風になびいた彼女の髪が僕の肩をなぜ、柔らかな香りがそよいだ。


 絵理朱は、伸びを1つして、

「よし決めた。ここから滝を撮ることにする。しば兄ぃは、さっきのところで検証の準備をしてて。撮り終わったら私もそっちに行く」

 絵理朱はリュックを肩から下ろし、中を探って三脚を取り出す。

「1人で大丈夫か? 撮影に気を取られてドボンなんてのはごめんだぞ? 親父さんに絞め殺されちまう」

「柵の向こうには行かないから大丈夫。2人で並行して作業を進めた方が、時間が節約できるでしょ? 遅くなると、帰りの電車なくなっちゃうよ」

 おっしゃる通り。


「森の方に行ったりするなよ。水しぶきがこっちの方に来ることはないと思うけど、何かあったらすぐポンチョを着るんだぞ」

「わかってるわかってる」



 三脚の位置決めを始めた絵理朱を残して、僕は急いで散策路に戻る。ポンチョをかぶって滝のそばに行き、最適な計測地点を探す。水しぶきが一番飛んで来ているのは、小橋を渡る手前の場所だった。

 地面に水量計と温度計を設置し、風向風速計は手で持って頭の上に掲げ、計測を開始した。でも、5分もたたないうちに腕が痺れてくる。風はさっきよりやや強くはなっていたけど、この程度じゃ、“吹き降り”と間違ったりはしないはずだ。


 時計は9時を少し回ったところ。事故が起きたのとほぼ同時刻だ。スマホのアプリでもう一度天気予報を確認してみる。風速も風向も当日と一致してる。こんなわけはないんだが。


 思いあぐねて滝に目を戻した途端、ギョッとして足がすくんだ。滝から散策路寄りの崖の上の方に小さな岩棚があり、そこに人影のようなものが見える。だけど、あんなところ、とても人力で登っていける場所じゃない。見間違い?


 その時、人影が声を発した。

「凝りもせずにまた来たか」

 声の主をよく見ると、山伏の装束をつけている。

「ここは昔、山に棲む生き物たちや、亡くなって間もない人の魂が通る場所だった。そのものたちとともに我らも山野を駆け、滝の水際(みぎわ)に涼を取り、山霊の宿る大岩の陰で休んだ。

 それが今はどうだ。お前たちが己の得手勝手な楽しみのためにやったことをよく見てみろ! 草を薙ぎ払い、地をならし、霊岩を砕いて捨て去った。そのせいで、ここは山のものたちが誰も寄り付けない場所になってしまった」


 山伏は、滝に向かって手を大きく差し上げ、

「“羽団扇(はうちわ)!” (けが)れを清めて冥府(めいふ)に去れっ」

 空をはたくように手が振られると、猛烈な風が巻き起こり、垂直に落下していた滝をほとんど真横になるまで捻じ曲げる。大量の冷たい水の塊が、暴風雨のように襲いかかってきた。

 顔が痛い、呼吸もできない。


 そばにあった石の柱に必死にしがみつき、下を向いて何とか息を継ぐ。山伏が何か叫び、風雨がさらに勢いを増す。地面にしゃがみ込んで柱にかじりつくが、吹き飛ばされそうだ。

 すぐ背後では川の濁流が逆巻いている。川に飛ばされたら、岩に打ち付けられて溺死するのは間違いない。だけど、ここにいても助かる見込みはない。


 ポンチョは何の役にも立たなかった。真冬の滝行みたいに寒さで歯の根も合わない。体温が急速に下がっていく。ここにいれば凍死、手を離せば溺死。凍死、溺死…2つの言葉が交互に点滅して意識が遠のいていく。



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