【8】
「あ、写真部の後輩だ。ちょっと話してくる」
僕の隣に座っていた絵理朱が、電車に乗り込んできた制服姿の2人を見て席を立つ。絵理朱が2人のところに行くと、彼女たちの顔がパッと明るくなり、すぐに早口のおしゃべりが始まった。
僕は、絵理朱が彼女たちに僕のことを言わなければいいがと思いながら、他人のフリをして、なるべく彼女たちの方を見ないようにしていた。知り合いの知り合いに紹介されるというのが苦手だったし、仁太みたいに絵理朱との仲を勘ぐられても困る。
僕は現場の位置関係をもう一度確認しておこうと思い、足元に置いたリュックから山岳地図を取り出した。
昨日の夜、噂狩りの準備をしている時に、塾帰りの絵理朱が「積分で解き方がよくわからない問題があるんだけど」と家にやってきた。外は大雨だった。
絵理朱は、僕が居間のテーブルに地図や雑多な道具類を広げているのを見つけると、
「ひょっとしてフィールドワーク? 八ツ島神社に行くの?」と声を弾ませた。
「いや、八ツ島神社の方は、島に渡る橋が壊れたとかで、また騒ぎになってる。当分人は入れないだろうな」
「じゃあ風花渓谷の方だね。どんな伝説を調べようとしてるの?」
僕は秘密めかして小声で言う。
「雪女さ」
「風花渓谷に雪女の伝説があるの?」
「風花渓谷というより、渓谷も含めた仙現山地の幾つかの山村で、猟師や木こり、あと修験者もいたらしいけど、そういう人たちが見聞きした話として、雪女にまつわる伝承が残ってるんだ。
大抵は、小泉八雲が『怪談』で書いたようなストーリー性のある話じゃなくて、もっとシンプルなものが多いんだけど」
「例えばどんな?」
「うーん、例えば猟師たちが雪の降る夜に山小屋に泊まっていたら、夜中に小屋の戸を叩く音がする。1人がそれに気づいて戸を開けると、着物姿のきれいな女が立っている。その美しさに見とれていたら、女が猟師を手招きしながら歩き出した。
猟師は、同行者が雪の中で動けなくなっているのかもしれないと思ってついて行くが、女はいつまでたっても足を止めない。翌朝、小屋にいた仲間が、彼がいないのに気づいて慌てて外に飛び出した。すぐに彼が歩いているのを見つけて揺さぶったら、彼は夢から覚めたように正気を取り戻した。
あとで彼の足跡をたどってみると、足跡が小屋の周りに何重にもついていた。つまり、彼は雪女に魅入られて、一晩中、小屋の周りを歩かされてたってわけだ。彼の場合は歩き続けていたから助かったけど、夜中に突然家から出ていって凍死した人もいるっていう」
「そういう話が風花渓谷の雪女伝説になったの?」
「いや、風花渓谷のは、正確に言えば伝説じゃなくて、噂話なんだ」
僕は、「まあ座りなよ」と椅子をすすめ、「カフェインレスのアイスコーヒーでいい?」と聞いた。
絵理朱は話の続きを早く聞きたいようで、何も言わずに慌ただしくうなずく。僕は、冷蔵庫からアイスコーヒーのボトルを取り出し、グラスに氷を入れて注いだ。
テーブルにグラスを置くと、絵理朱は半分ぐらいを一気に飲み干し、僕を見つめる。
「よっぽど喉が渇いてた?」
「いいから」
僕もコーヒーを一口飲んで、話の続きを始めた。
「前に郷土資料館で、すでに廃刊になっている郷土新聞の記事をコピーしたことがあるんだ。その中に、戦後しばらくして仙現山地に登山道が整備され始めた時に、下山してきたハイカーが立て続けに事故に遭ったという記事を見つけた。
事故が起きたのは6月だったけど、その状況が今回の事故とよく似てるんだ。
まず、事故に遭ったハイカーが、いずれも計画が狂って日没後に下山し、夜遅くに風花渓谷を通っていること。次に、事故の起きた日は、風は強かったが晴天で、雨なんか降らなかったはずなのに、全員“突然冷たい吹き降りになった”と証言していること。
そして、天気予報を過信して雨具も持たず、軽装で出かけたハイカーたちは、低体温症で意識を失い、搬送されることになった」
「本当に雨は降ったの?」
「いや、降ってない。警察は渓谷で民宿をやっている人にも確認したようだけど、その夜は雲一つない星空だったそうだ。
だから、前の2件の時は、ハイカーが誤って川に落ち、ずぶ濡れになったまま風に吹かれて歩き続けたために体温が低下したのではないかと、とってつけたような推論で片づけられた」
「それなら“吹き降りになった”とは言わないはずだし、自分が川に落ちたかどうかぐらいはわかるでしょ?」
「その通り。だから、その新聞でも、“警察の発表を信用せず、これは雪女の仕業だ、渓谷で白い着物の女を見たなどと、あらぬ噂を立てる者まで現れ、収拾がつかない”と記事を結んでる。
今回の事故についても、すでに“真夏に雪女出現”なんていうデマがSNSで流れ始めてるよ」
「でも、しば兄ぃはそんな噂話は信じていない。だから、フィールドワークで何かの検証をしようとしてるんだよね?」
「ああ、雨が降っていないのに雨が降ったと言うなら、どんな可能性が考えられるのか。これを見てくれ」
僕はテーブルに広げた山岳地図に書き込んだ×印を指で示した。
「山から下りてきたハイカーは、渓流沿いの自然探索路を歩き、ここで倒れた。そのすぐ上流にあるのがこれだ」
道のそばに記されている「|:」を指さす。
「これ、何の地図記号?」
「滝だ。浄生の滝。風花渓谷は夏でも涼しく、浄生の滝の水温はかなり低い。そして、当日の天気を調べると、渓谷には強い風が吹いていた。
それに加えて、渓谷には夜になると谷の上から峡谷風が吹き降ろす。もともとの強風にこの峡谷風が合わさって、当夜は突風に近い風が吹いていたんじゃないかと思う。
その風が滝に横殴りに吹き付けて、冷たい水しぶきを探索路に浴びせ続け、ハイカーに雨だと勘違いさせた」
「滝の水と雨を間違えることなんてある?」
「事故当時の状況を考えてみよう。山で道迷いをしたハイカーは、道なき道を散々上り下りして、日暮れにようやく下山路を見つけ、風花渓谷に着いた時にはすでに疲労困憊だった。
夜になるとは思ってもいなかったから、当然ライトも用意しておらず、初めて通る道をわずかな月明りだけを頼りに、ほとんど手探り状態で歩かなければならなかった。どこに滝があるかなんて、わかるはずもない。
さらに、事故前日は今日みたいな大雨だったから、渓流の勢いが増して大きな瀬音を立てていただろう。頭がもうろうとした状態で、瀬音と滝の音を聞き分けるのは多分難しい」
「なるほどね」
「それでも、滝の水を浴びた時に、そのままそこを通り過ぎれば被害は少なかったはずだが、ハイカーは雨だと思い込んでいたし、疲れ切った体に猛烈な風と水しぶきを受けて、足が止まってしまった。
冷水を浴び続けるうちに、体温はどんどん下がり、命の危険を感じたハイカーは最後の力を振り絞って前進し始めた。しかし、水しぶきは止んでも風は吹き止まず、Tシャツ1枚のびしょ濡れの体は冷え切って、100メートルほど歩いたところで力尽きた。
疲労凍死寸前だったに違いないね」
「疲労凍死?」
「うん、人間は疲労と寒さで体力の限界を超えると体幹の温度が下がりだし、32℃以下になると歩くこともできなくなり、28℃以下で凍死する。夏の高山では、たびたび起きる事故だ。
これが今回の雪女の正体さ」
「でも、何十年も前に事故が起きてから、なぜ今まで同じ事故が起きなかったの?」
僕は目を上げて絵理朱に微笑んだ。
「いい質問だ。実は登山コースがつけ変えられてたんだ。事故が起きたコースは、元々“蛍の通り道”と呼ばれているような細い獣道で、途中にある“天狗岩”っていう大岩も通行の邪魔になっていたんだけど、滝があって景色がいいというんで、県が岩を取り除き、道も拡幅して歩きやすくした。
ところが、そこで2件の事故が立て続けに起きたために、県は慌ててそのコースを通行禁止にし、戦前から使われていた渓流の対岸の山道を整備し直したんだ。
以後、その道が正規の登山コースになったんだけど、今年の7月の大雨で崖道が崩れて通れなくなってしまった。そこで、一時的に前のコースを解放したところ、今回の事故が起きたってわけさ」
「もし、雪女の正体がしば兄ぃの言う通りなら、誰かに知らせた方がいいんじゃないの?」
「ああ、明日の夜、現場で検証して確信が持てたら、県の防災課かどこかに連絡して、夜間の通行を制限するように進言してみるよ」