【3】
男の左腕は、丸太のように腫れ上がっていた。だが、それだけではない。鮮やかな青いラインが、ツル草のツルのように肌をくねり、絡み合って腕全体に広がっている。まるでタトゥを入れたかのようだ。
「ここを見てくれ」と榊原が画面を指さす。
すべてのツルの出発点となっている位置に、小さな赤い点がある。榊原がディスプレイを操作して、その部分を拡大した。血のにじんだ針跡だとわかった。
「注射針よりやや太い」と榊原が説明すると、
「毒使いの仕業か」と青年の1人がつぶやく。
「おそらく」と榊原が相槌を打ち、「だが、こんな症状を引き起こす毒物は、今まで見たことも聞いたこともない」
青年はさらに「どこでやられたのかわかりますか?」と尋ねる。
「いや、トラックの運転手も彼がどこで荷台に乗り込んだのかわからないそうだ。この患者は救急救命士らしく、自分が毒を打たれたことを知って、血流を止めるために腕のつけ根を縛った。運転手が彼を直接病院に運んだことも幸いした。
かなりの大仕事だったそうだが、全身に広がる前に何とか毒を抜き取ることができたので、彼は一命をとりとめた。精密検査と事情聴取のために、今朝、救急病院からこの警察病院に移送したんだが、しばらく意識は戻らないだろうな」
3人は眉をひそめて考え込む。その姿を眺めながら、榊原も思いを巡らせた。
(3人とも20代か、いっても30そこそこだろう。本当にこの青年たちが…)
榊原の視線に気づいて、さっき質問してきた青年が目を上げる。
「何か?」
「あ、いや、R・M・Aから話は聞いているんだが、実際に、その、偉能者に会うのは初めてなので…」
「ああ、自己紹介がまだでしたね」
青年は笑顔になった。黒い縮れ毛、モカブラウンのボストン眼鏡、レンズの奥の人懐っこそうな茶色の瞳。3人の中では一番年上に見える。
「私はガリレオ・ガリレイ。国籍はイタリア。もちろん本名ではありませんが、ガリーとでも呼んでください」
肩まで届く銀髪の青年に目を移す。瞳は紫がかったブルー。
「アイザック・ニュートン。国籍はイギリス。ザックで構いません」
思慮深いのか気難しい性格なのか、今日初めて声を発した。
最後に日本語が達者な金髪女性。瞳はやや暗めのアンバー。
「カール・グスタフ・ユングですが、女性なのでカーラと呼んでもらっています。国籍はアメリカ」
榊原は驚く。
「ユングは男性でスイス人のはずだ。性別も国籍も違う人間に、前世の魂が宿るということもあるのか?」
「ええ、性別も国籍も関係ありません」と、横からザックが話を引き取り、
「それに先生は少々誤解されているようです」
「誤解?」
「RMAでは、我々の身に起きた現象を故人の魂が乗り移ったのだと考えて、“Psyche Translatio”、つまり魂魄転写と名付けていますが、我々は自分の前世がニュートンやガリレオだったとは思っていません。確かに、我々の中に彼らのものらしき記憶が入り込んできてはいますが、誰かが作り上げた模造記憶を植え付けられただけかもしれません。
仮に本物の記憶だったとしても、それは彼らの魂が我々に乗り移ったからではない。何者かが過去にいる彼らの脳にアクセスし、記憶の情報をコピーして、その記憶情報に何らかの親和性がある者に移植したと考えるほうが合理的です。
そのためには、とてつもなく高度な技術が必要でしょうが、少なくとも素粒子に情報を載せて過去に転送する素粒子タイムマシン計画などは今、現実に進められていますから、まったく不可能とは言えないはずです」
ガリーがザックの話を受けて、
「ザック君の話はあくまで仮説ですが、我々の中の記憶はかなり鮮明なもので、脳に格納された記憶が断片的に少しずつ蘇るのと同時に、時系列的に統合され始めています。まあ、実際に本人に会ったわけではないので、本物の記憶かどうか検証できませんし、魂魄転写が起きてから、本人の伝記などを読み漁らずにはいられなかったので、どこまでが記憶でどこまでが本で得た情報なのかも曖昧になっていますが」
榊原がザックに視線を戻す。
「君はこの一件の裏に首謀者がいると考えているようだが、魂魄転写が人為的に引き起こされたものだという根拠は?」
「この現象がエリアを区切りながら起きているからです。最初、アメリカで発生した後、ヨーロッパ、インド、中国と続き、今回は東アジア。人口と人口密度がある程度高いエリアが標的になっている上に、あるエリアでこの現象が起きる時には、そのエリア内全域で同時に発生する。もし、これが自然現象だとしたら、世界中で一斉に起きるか、ウイルス感染のように最初の感染者から徐々に広がっていくはずです」
「なるほど」と榊原がうなずき、「で、魂魄転写によって、君たちは過去の偉大な科学者の記憶とともに超能力を身に着けたというわけだね?」
ガリーが申し訳なさそうに訂正する。
「それも少し違うんですよ。我々が獲得したのは俗に言われる超能力のようなものではなくて、我々に転写された科学者が自ら発見した理論や開発した技術を、現実の力としてコントロールすることができる能力です。我々は、この作用を、ロゴス、つまり概念の実体化、と呼んでいます」
「ロゴスの実体化? 具体的にはどういう、その…」
戸惑う榊原を見て、これまでにも何度となく同じ表情を目にしてきたガリーがなだめるようにうなずく。
「実際にやってみたほうが早いですよね。ザック君の偉能ロゴスがわかりやすいでしょう」
ガリーに促され、ザックは病室を見回す。ウエットティッシュの載ったナースカートとパイプ椅子が、壁際に寄せてあるのが目に留まった。ザックは、そちらに向かって右腕を差し上げると、人差し指を伸ばし、2つの物体があるエリアを囲むように指で円を描く。
そして、
「偉能ロゴス“万有引力反転”」とつぶやいた。
カートと椅子が、静かに浮かび上がっていく。床から50センチほど浮上した時に、ザックが再びつぶやいた。
「万有引力発動」
カートと椅子が落下して床で跳ね、ウエットティッシュが転げ落ちた。
榊原は、全身が痺れたようになり、瞬きすらできなかった。話には聞いていたが、実際に偉能を目の当たりにすると、自分が異次元空間に放り込まれたように感じてしまうほどの強烈なショックを受ける。榊原は苦労して口を開き、声を押し出した。
「素晴らしい能力だ」
その言葉に、ザックが顔を曇らせて、
「素晴らしくはないですよ」と言った。
「え、どうして?」
「問題なのは、これが物理法則や化学法則そのものとも言えるロゴスが持っている力だということです。そして、実体化するのは、現在その正当性が証明されている科学理論だけじゃありません。たとえ間違っている理論であっても、それを狂信している偉能者がいれば、そのロゴスが実体化してしまうんです。
科学は最初から今日のような理路整然とした姿だったわけじゃありません。間違った理論が山のように生み出され、激しい論戦が行われ、検証が繰り返されてようやく正しい理論が勝ち残った。しかし、過去の科学者には間違った理論を信じて疑わなかった者もいるし、今でも真偽の決着がついていない理論もある。その中のいくつかは、やがて間違った理論になるんです」
ガリーが続ける。
「考えてみてください、先生。1+1=2ではなく、1+1=3だと狂信している者がいたとしましょう。もし、そのロゴスが実体化して、世界に波及したら? コンピュータをはじめ、あらゆる機器・設備はもちろん、建築物の構造設計だって1+1が2であることを前提にしています。それが3になったら、物理法則がすべてねじ曲がり、ほぼ一瞬で文明は崩壊するでしょう。ロゴス実体化の影響力は、超能力なんかの比じゃないんです」
「なるほど…」榊原の顔が青ざめる。「しかし、一体どうやってそんな能力を発現させたんだ? これも、君たちの言う首謀者が仕掛けたことなのか?」
ザックが首を振り、
「そこがさっぱり見当のつかないところなんです。そもそもロゴスの実体化なんていう奇天烈な現象は、今までアイデアですら聞いたことがないし、それを具現化する技術を作れるはずもない。なので、根拠はありませんが、これは魂魄転写を仕掛けた首謀者自身も予期していなかったことじゃないかと。つまり、魂魄転写の想定外の副作用としてロゴス実体化能力が備わってしまった。あるいは…もしかするとロゴス自身の意図…いや仮説ばかり並べるのはやめましょう」
ザックは再び首を振ると、語気を強めた。
「とにかく、我々は一刻も早く、首謀者が何をたくらみ、何をしたのかを突き止めて、すべての偉能者からロゴス実体化能力をはく奪しなきゃならない。もちろん我々自身も含めてです。コントロールを少しでも間違えば大惨事が起きるような、こんな能力を存在させてはいけないんです」
黙ってやり取りを聞いていたカーラも、口を開く。
「魂魄転写もキャンセルさせなくてはなりません。転写された過去の科学者の記憶が、私たち自身の記憶を徐々に侵食し始めています。浸食がさらに進めば、人格まで変わってしまうかもしれません。私は、人間の深層心理の研究と精神疾患の患者の治療に尽くした心理学者のユング博士をとても尊敬していますが、自分がカール・ユングとして生きていきたいわけではありません」
榊原が3人を見ながらうなずいた。
「事情はよく分かった。だが、君たちの考えとは反対に、偉大な科学者から受け継いだ力を行使したいという連中もいるんだろ?」
「“アカデミー”と名乗っている連中ですね」
「彼らは何者なんだ?」
「実態はほとんどわかっていません。でも、偉能を使って何か大掛かりなことをしようとしているのは確かです。アカデミーは恐らく首謀者とつながっているはずなので、連中のことを調べていけば、首謀者の目論見もわかってくるんじゃないかと思いますが」
「ペンシルベニアの1件にも、アカデミーが絡んでいるのかね?」
「まず間違いないでしょう。でも、手掛かりをつかむ前に抹消されてしまった」
ザックの口調に悔しさがにじむ。
「このところ、こっちでも訳のわからない事件が立て続けに起きているんだが、これもアカデミーの仕業なのかね?」
「この毒針事件以外にもですか?」とガリーが身を乗り出す。
榊原が苦笑交じりに両手を広げる。
「ああ、先週は寒くもない低地で低体温症を起こした患者が運ばれてきたし、昨日は古池から突然発生した得体のしれないガスを吸い込んだ患者を診察した。そして、今朝は未知の毒に侵された患者だ。ただでさえ忙しいのに、SNSで祟りだのなんだのとおかしな尾ひれをつけて噂を流すやつがいるから、病院のスタッフまでオロオロしだす始末さ。もうてんやわんやだよ」
「噂か…」
「どれもこれも眉唾ものの噂だよ」
「たとえ眉唾だとしても、調べる価値はあるかもしれない。敵の動きがつかめていない今、どんな小さなとっかかりでもほしいところですから」
ガリーが景気をつけるように手を打って、
「じゃあ一つ、噂狩りといきますか。先生、詳しい話を聞かせてください」