【13】
滝の全景を撮り終えた絵理朱は、デジタル一眼レフのモニターでもう1度写真をチェックしていく。絹のように滑らかな水の帯を引く夜の滝が、スローシャッターできれいに撮れている。
「うん、我ながらいい出来」
しかし、最後の1枚まできて手が止まった。岩の影が濃くてはっきりとはわからないが、滝の脇のところに人の姿に似たものが写っている。
「うー、やだなー。こういうの苦手なんだけど」と言いつつ、もう一度滝を覗きにいこうとしたが、
「ダメダメ。こういうのは気にしちゃいけないっていうのが、写真部の鉄則」
すぐに滝見平を引き上げることに決めて、カメラと三脚を片づけた。しかし、探索路に向かって枝道を下っていると、突如大きな水音が立ち、木立の向こうに噴水のように水が吹き上がるのが見えた。
「え?あれ何? しば兄ぃ、大丈夫?」
転がるように坂を駆け下りる。渓流沿いの道に出て滝の方に目を送るが、人影が見当たらない。滝のそばに行ってみると、あたり一面びしょびしょだ。
「しば兄ぃはどこ?」
滝の流れに異常はないようだが、そのそばに四葉の姿はない。それどころか、このあたりに設置されているはずの測定器具類も跡形もなかった。
胸が騒いで、絵理朱は川の上流の方に足を急がせる。探索路はかなり上の方まで水浸しで、土手の土がえぐれ、草がなぎ倒されている。まるで洪水でも起きたみたいだ。
ひょっとして、急に川が増水して鉄砲水が出たとか? もしそれに巻き込まれたんだとしたら…。冷たい痺れが背筋を走り抜ける。
「しば兄ぃっ! しば兄ぃっ!」
大声で何度も叫ぶ。川岸や渓流の岩間を食い入るように見ながら、探索路を下流にたどっていく。でもどこにもいない、呼びかけに答える声もない。
嫌な予感がどんどん膨らんで、涙が込み上げてくる。
しっかりして、絵理朱。今は泣く時じゃない。自分にできることが絶対にまだあるはず。
「そうだ」
絵理朱は滝見平に取って返す。高台に上がった方が、遠くまで見えるはずだ。
柵のそばに着くとすぐに絵理朱はリュックから望遠レンズを取り出し、カメラに装着した。ファインダーを覗き、川の上流から下流へと、何も見逃さないようにゆっくりとレンズを振っていく。
そのさ中、上流の方でまた大きな水音が立った。慌ててレンズを向けると、吊り橋が大波に吞まれている。
待って。今人影らしいものが見えなかった? 懸命にファインダーを覗くが、なかなかピントが合わない。対岸の道が登りに差し掛かるあたりで、ようやく人の姿をとらえることができた。
列になって走ってる。1、2、3人…真ん中の人がポンチョを着てる。しば兄ぃのポンチョだ!
「無事だった…」
安堵で膝の力が抜けそうになる。
でも、どうしてあんなところを走ってるの?
カメラを構え直して3人を追う。彼らは対岸にあるトンネルに走り込んだ。そしてその後から、巨大な鳥のようなものがトンネルに飛び込んでいくのが見えた。
「あれは何? みんな、あいつに追われてるの?」
絵理朱は四葉の許に向かおうと、大急ぎでカメラを片付け始める。その時、後ろから足音が近づいてくるのに気付いた。
絵理朱は、足音の方を振り向く。その正体を見た瞬間、絵理朱は夜気を裂くような悲鳴を上げた。
その悲鳴は、すぐにぷっつりと途絶えた。
どこをどう走ったか記憶がない。ひたすら滝見平を目指して走り続け、酸欠になりかけている。ようやく枝道を登り切った四葉は、肩で息をつきながら滝見平を隅々まで見回した。月に照らされた広場の奥。あの柵のそばに誰か倒れてる。
「絵理朱っ」
息をあえがせて柵に駆け寄った四葉は、そこに目を閉じて横たわる絵理朱を見て呼吸を忘れた。
左半身を下に、子供の寝姿のように体を丸めたその首筋に、矢羽根が付いた7、8センチぐらいの銀色の矢が刺さっていた。
そして、それが刺さったところを中心に、青いツルのような鮮やかな模様が、肩やのどに向かって伸びている。
「何だこれは!」
一瞬、頭が真っ白になったが、すぐ我に返り、絵理朱の胸の動きを見ながら手首に指を当てて脈を測る。呼吸は止まっていない。強くはないが脈もある。
次はこの矢だ。正体はわからないが、このままにはしておけない。
先端に返しが付いていないことを祈りながら、震える手でそっと引っ張ると、抵抗もなく抜き取ることができた。
月明かりにそれをかざすと、ボールペンの芯のような銀の筒の先に鋭い針がついていて、その針の横の小穴から青い液体がにじみ出しているのが見える。
「それに触るなっ、危険だ!」
到着したばかりのガリーが、横から矢を奪い取る。息が荒い。
他の2人もすぐに到着し、3人は足を進めて、草の上に横たわる少女を覗き込んだ。
そして、言葉を失った。
一瞬ののち、ガリーは怒ったような顔つきになり、無言のままリュックから細長いプラスチックの筒を取り出し、その中に毒矢を収めて密封した。
ザックはグラリとよろめいて、カーラに倒れかかった。カーラは慌ててザックを支え、
「大丈夫ですかっ?」
ザックは一言、
「キャス…」とつぶやいたきり、カーラが「何ですか?」と尋ねても答えない。
3人の様子がおかしいのを見て、四葉の不安は一気に高まる。
「絵理朱に何が起きたんですか?」
「毒使いの偉能者に毒を撃ち込まれたんだ」
ガリーは四葉と目を合わせずに言った。
「毒? どんな毒ですか?」
「わからない。未知の毒物だ」
「そんな…絵理朱っ」
四葉が絵理朱を抱き起そうとすると、ようやく落ち着きを取り戻したザックが、それを押しとどめた。
「下手に動かさない方がいい。毒の回りが早くなるかもしれない」
「じゃあどうすれば……」
カーラがビクッとして、振り返りながらあたりを見回す。
「まだ近くにいます」
ガリーが四葉の背中に手を置き、
「そこの森にいったん隠れよう」と促す。
「だけどこのまま放っといたら、絵理朱はどうなるんです」と抗う四葉に、
「わかってくれ。毒使いに全員やられたら、助かるものも助けらない」
助かるものも、とガリーは言ったが、少女に最早助かる見込みがないことを3人とも知っていた。救急隊員の場合は、腕の根元を縛ったことで毒の回りを遅らせることができたが、首のこの位置に毒矢を撃ち込まれたのでは、それもできない。
今から病院に搬送しても間に合わないだろうし、たとえ間に合ったとしても、脳や心臓にダメージを与えずに毒を全部抜き取ることは不可能だ。
しかし、少女と最後の別れをさせるために彼をここに置いていくわけにはいかなかった。彼が残れば、毒矢の新たな犠牲者が増えるだけだから。
3人は、悲痛な気持ちを顔に出さないようにしながら、引きずるようにして四葉を森の方に連れて行った。しかし、彼らが森を通る道の入口に近づいた時、広場を渡ってやってくる人影にカーラが気付いた。
「気を付けてください」
人影は、左腕に金属でできた奇妙な形の器具をつけていて、近づいてきながらその腕をこっちにまっすぐ伸ばす。ガリーが身構え、相手の動きに集中する。
人影の右手が金属の器具にかかった。
「慣性解除!」
器具から毒矢が放たれるのと同時に、ガリーが叫ぶ。
毒矢はすぐ目の前まで飛んできたところで勢いを失い、ガリーの足元に突き刺さった。
「ほう、慣性力を消失させたのか」
毒使いが月明かりの中に進み出た。