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第一項 暁の氷花 【1】

Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.

はじめにロゴスありき。ロゴスは神と共にあり、ロゴスは神であった。



 男は、街灯もまばらな深夜の県道をやみくもに走っていた。左前腕に短い針のようなものが刺さり、鋭い痛みを放っているが、痛みにも勝る恐怖が放出させたアドレナリンでどうにか動けていた。


 男は、必死に走りながら、助けを求めてあたりを見回す。民家も人の姿もない。道路に沿って続く土手の上の草むらを、身軽に動き続ける追手の影が視界の隅にちらつく。楽しくてたまらないというような笑い声が耳に届いてきた。男はさらにつんのめるように走る。きついカーブを曲がり切った時、少し先の信号で止まっているオープンデッキの資材トラックが見えた。


 男は叫ぼうとした。が、喉が干上がって声にならない。横断歩道の両側の歩行者用信号が点滅しだす。男は焦る。前方の信号が青に変わり、トラックのブレーキランプが消えた。荷台まであと5メートル。トラックが走り出すが、幸い加速が悪い。男は荷台の後部枠に飛びつき、よじ登って何とか荷台の中に転がり込んだ。トラックが速度を上げる。

 草むらに立つ影が、小さく舌打ちした。


 男は目を閉じ、大きく息をつく。その途端、激しい痛みの感覚が腕に戻り、身をよじった。左腕に刺さっている針を引き抜いて捨てる。汗まみれのワイシャツの袖をめくり、腕を差し上げて、通り過ぎる街灯の光にさらした。照らし出された腕には、抜いた針の跡を中心に、途方もないことが起きていた。


「うわ、うわぁ」

 危うくパニックを起こしかけたが、男には心得があった。すぐにワイシャツを脱ぎ、腕のつけ根にシャツを巻き付けて、ちぎれるぐらいに縛った。腕の痛みはどんどん広がり、その痛みに耐えきれずに自分が間もなく気を失うだろうことを悟った。男は、沈み始めている意識と体を無理やり引き起こした。荷台に残っていた足場用の鉄パイプを脇に抱えると、最後の力を振り絞って、運転席の後ろの仕切り板に体ごとぶつかっていった。


 背後から浴びせられた大音響に運転手が驚き、慌ててトラックを停めて飛び出してくる。荷台を覗いた運転手が

「こりゃ一体…」と絶句した。




 その衝撃は、2度やってきた。

 1度目は遠く淡く、2度目は近く重く。その間に四葉(よつば)は、途切れ途切れのささやきが夢にまとわりつくのを感じていた。

「……Anne………des Donners……」

 四葉は夢と一緒にささやきを払い落とし、目を開いた。天井のライティングレールから吊り下がるペンダントライトを眺めるが、揺れている気配はない。そうか、と思い出す。あの揺れは一昨日の明け方のことだっけな。しかし、揺れた記憶とともにぶり返したささやきは、妙に生々しく、四葉の心をざわつかせた。

フランス語?あるいはドイツ語? 意味は分からない。



 布団から出て、ジャージ姿のまま1階に降りる。雨戸を締め切った薄暗い部屋に、台所の窓からの光が射し込み、埃の粒子を浮かび上がらせている。居間はがらんとして、テーブルの上の資料類を除けば生活感はどこにもなかった。朝の8時なのに、もう熱気が床によどんでいる。


 ソファにもたれ、テレビをつける。チャンネルをいくつか変えてみたが、やはり地震の話には触れていなかった。その代わり、最後に選んだローカル局の朝の情報番組で、八ツ島(やつしま)神社の古池から有毒ガスが発生したニュースと、夏なのに風花(かざはな)渓谷で低体温症になって搬送されたハイカーの続報を取り上げていた。数日前に意識は戻ったが、幻覚も見たらしく、記憶がひどく混乱していて、ハイカーの身に何が起きたのか、いまだ全容がつかめていないという。


「これって、前に言ってた…」と台所に話しかけようとして間違いに気づく。

あれから半年。存在しない人影に話しかけてしまう癖が、まだ抜けていない。

テーブルに散らばった資料に埋もれたゼミノートを引っ張り出す。異常気象のせいなのか、このところおかしな事件が多い。でも、八ツ島神社と風花渓谷は、民間伝承と何か関係があった気もする。ニュースの概要をノートに書き留めた。少し調べてみるか。



 郷土資料館などでコピーしてストックしていた資料を漁って、必要なページを抜き取った後、ゼミの準備をして玄関を出る。前庭を抜け、道に出て振り返ると、我が家と隣の宮守家、よく似た構えの古い日本家屋が双子のように並んでいた。

駅に向かって歩き出す。と、その宮守家のドアが高速で開け閉めされ、制服姿の()()()が三段跳びの選手みたいに前庭を跳ねてきた。


「しば兄ぃ、おはよっ!」

「おはよ…」と返しかけて、間違いに気づいた。

「もう10時過ぎだろ、大遅刻じゃないか」

「それが、朝起きたらガチヤバで。洗面台の下のボックスってあるでしょ? そこから水があふれて床がびしょ濡れだったの。だから即、水道屋さん呼んで、さっきようやく片付いたとこ。学校にはちゃんと電話した」

「それなら言ってくれれば、こっちで何とかしたのに。宮守の親父さんからも、留守中よろしくって頼まれてるんだから」

「いや、あれはしば兄ぃでもムリ。洗面台の配管の継ぎ目を調べたけど、そこから水漏れしてたわけじゃないから、水栓自体がダメになってたってこと。水道屋さんに水栓取り換えてもらったら、予想通り、中のパッキングが劣化してたって」


 少し得意げな3つ年下の女子高生を眺める。ベルギーと秋田県のハーフ。皮下まで透けるような白い肌、かなり金髪寄りの茶色い髪、グレーがかった明るい瞳。

 メラニン色素がとても薄い。そのせいで中学に上がった時も高校に入った時もクラスで浮いたし、イジメにもあった。だけど、持ち前の明るさと、弾丸みたいな真っすぐさと、少しばかりのやんちゃさによって、1学期が終わる頃にはみんな絵理朱の大ファンになってしまっていた。おかげで中学時代は、たまたま絵理朱と帰りが一緒になって、2人で歩いていたりすると、地元のクラスメイトや部活の連中から悪い虫を見るような敵意満載の目で睨まれ、ずいぶん閉口させられたもんだ。



 3日前、技師として、化学プラントの立ち上げをサポートするためにアルゼンチンに向かう絵理朱の父親を、一緒に空港に見送りに行った時、彼女がそばを離れた間に父親に言われた。

「夏休みが終わる前には帰国できると思うが、プラントの立ち上げは想定外のトラブルが発生することも多い。娘を親戚に預けようかとも思ったんだが、気を遣うし、家で受験勉強する方が集中できるって本人が言うもんだからね。

四葉君もいろいろ大変だと思うが、娘のことを時々気にかけてもらえると助かる。まあ、小さい頃に妻が亡くなって、代わりに絵理朱が家のことをやったりしていたから、ああ見えて、意外にしっかりしたところもあるんだがな」

「大丈夫です、ちゃんとリードにつないでおきますから」

親父さんは、日に焼けた顔から白い歯をこぼして笑った。

「でも、親父さんこそ気を付けてくださいよ。近頃はどこで何が起きるかわからないから」

「ああ…そうだったな、気を付けるよ」



 意外にしっかりしたところもある。親父さんに言われるまでもなく、よくわかってた。だけど、それだけじゃない。


 半年前、エネルギー系の社団法人で情報・調査室長を務めていた母、()()は、アジア各国からの合同海外視察団に同行し、アメリカの天然ガスやオイルの生産基地を回っていた。その現場の一つで爆発事故が起きた。たまたま近くにいた視察団が巻き込まれ、参加メンバー28名のうち、17名が裂傷や骨折、火傷を負い、11名が亡くなった。その11名の中に母もいた。


 悪いことに、爆発と同時に地盤の陥没が起きたため、亡くなった人のほとんどが大量の土砂とともに地下深くに叩き込まれた。ずたずたに引き裂かれた遺体の回収は難航し、体の半分ぐらいでも見つかればましな方で、髪の毛1本見つからずじまいの人もいた。


ごちゃ混ぜになった服の切れ端や骨や肉片が分析にかけられ、DNA鑑定の結果、その中にあった腕の骨の断片が、母のものだと分かった。現地から移送されてきた、木っ端と間違いそうにちっぽけな骨を火葬場で焼き、小さな骨壺に入れ、奥寺家の菩提寺に納めた。葬儀では、母の仕事の関係者の人とかに悔やみの言葉をかけられ、レポーターや記者からあれこれ騒々しく質問をされたが、何を聞かれたのか、何を答えたのかほとんど覚えていない。


 1カ月ほど経って、家のインターホンを鳴らすレポーターもいなくなった頃、自分がこれまで経験したことがないほど途方に暮れていることに突然気づいた。母はそれなりの蓄えを残していたし、事故の賠償金も出ることになっていたので、生活に困ったわけじゃない。だけど、小さい頃に父が病死し、中学生の時に祖父母も他界し、父には妹が1人いたが、その人も病弱で、嫁ぎ先で子供を産んだ後、亡くなっていた。


 そして、「あの時、君はねぇ」と少し眉をしかめるようにしながら思い出し笑いをする母も、別れの挨拶もできないまま逝ってしまった。奥寺四葉の子供の頃の思い出を話す人間は、もう一人もいないし、この先奥寺四葉が生きようが死のうが誰も気にかけることはないだろう。


 天涯孤独とはこういうことかと思った。何だか自分の体がふわふわと浮き上がっていくような気がした。僕の体は、地上から5メートルぐらい離れたところを漂っていて、下では僕以外の人たちが忙しそうに動き回り、お互い相手に腹を立てたり微笑んだり涙を流したりしていた。地球はその人たちを乗せてつつがなく回転し続け、宙に浮いている僕1人が、地球の回転から取り残されていった。

 そんな時、他の人たちと同じ方向に動いていない女の子がいるのが目に留まった。


 絵理朱が「ばんりちゃん」と呼んで、自分の本当の親みたいに慕っていた母の葬儀の時、彼女は僕を含めた誰よりも大泣きした。でも、その後、母が亡くなったことについて一切口にしなくなった。「ばんりちゃんがいなくて寂しい」とも「気を落とさないで」とも言わなかった。


 その代わりに、毎日のように家に上がり込んできては、学校の宿題が多すぎることに憤慨し、僕の魚の食べ方がいつになっても下手くそなことに文句を言い、僕がうわの空で彼女とゲームをしている時にちょっとズルをして勝利をおさめ…。要するに、母が亡くなる前と何も変わらなかった。


 彼女は、あさっての方角を見ているようなふりをしながら、宙に浮いている僕の服の裾を片手でそっと引っぱり、地上に降ろしてくれたのだ。おかげで僕はまた、他の人たちと同じように地球に乗って回転することができるようになった。


 言葉ではちゃんと伝えていないが、彼女にはどれだけ感謝しても感謝しきれない。




 お読み頂きありがとうございます。


 この小説をお読みになり、「面白いかも」「続きが気になる」と少しでも感じていただけましたら、↓広告の下あたりにある☆☆☆☆☆から評価いただけましたら幸いです。

 大体3日ぐらいのペースで更新していく予定ですので、よろしくお願いいたします。

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