その一
その暗闇の向こうに、目を凝らせば見えてくるものがある。閉じ込められた光がある。届かなかった思いがある。光を、思いを解き放つとき、気づかなかった真実を知る。ただ、愛しいものか、懐かしいものか、あるいは、怖いものか、おぞましいものか、それは見る者の心で変わるものかもしれない。
長く続いた江戸という時代が終わろうとしていた。徳川幕府に代わって、新しい政府が京都に立ち上がった。しかし、まだ東京と改称される前の江戸庶民にとって、それは現実味のない絵空事に思えて、
「徳川の世が終わるらしいぞ。大政奉還だってよ」
「なんでぇそりゃあ。たいこもちが頬かむりしたってかい」
「政権をお上に返したってんだ」
「政権を女将に? 馬鹿言え。女将なんぞに任せておけっか!」
「薩摩や長州がなだれ込んでくるって言うぜ。うかうかしてらんねえぞ」
「あんな田舎侍なんぞに何ができる。いざとなりゃあ、こっちには旗本八万騎が控えていなさるんだ。箱根の山も越えられやしめぇ」
と粋がった江戸っ子が腕まくりして終わる話でしかなかった。しかし、どんなに口では強がっていても、言い知れぬ不安が押し寄せているだろうくらいは、みな胸の内でわかっている。それを口にした瞬間から、とんでもない災難がやってくる。そう誰もが思って、口にしないのであった。そうした人々の不安や恐れは人知れず闇の中へ流れ、渦巻くように集まり、やがて一つの黒いかたまりとなった。そのかたまりは底知れぬ力となって現世と異界をつないだ。人々のどこかへ逃げたいという思いを実現するかのように。この頃、いたるところで神隠しが起きていた。
日本橋に大店を構える山城屋は呉服を商う老舗である。昔からそういう訳ではないが、ここ数代は女が店主となっている。女しか生まれなかったのだから仕方ない。だが、十二年前、ようやく男子が生まれた。名を貞之助と命名した。母琴乃は貞之助を産むと、体調を崩し、看病の甲斐なく他界してしまった。乳飲み子を残して去った娘の代わりに、琴乃の母里久は山城屋の主人として、琴乃の妹雪乃を貞之助の育ての母親とした。つまり、貞之助の父与兵衛と夫婦にしたのである。与兵衛は丁稚奉公からたたき上げた苦労人で、仕事振りが認められ、琴乃の婿となった男だ。目利きの与兵衛と呼ばれ、口数は少ないが、品物を見定める技量は江戸一二と言われた。里久としては、どうしても与兵衛を山城屋の屋台骨から切り離したくなかった末の決断だった。与兵衛は娘の入り婿となっても、使用人だった身分から抜け切れず、里久に逆らうことはなかった。一方で、雪乃は雪乃で、以前から与兵衛には憎からぬ想いを抱いており、彼女からすれば、世間体はともかく、想いが成就したこととなった。それを世間は口さがなく、さも知っていると言わんばかりに噂し合った。中には、雪乃が琴乃を亡き者にしたのではないかという噂さえ出回った。だが、人の噂も七十五日とはよく言ったもので、いずれ立ち切れとなっていった。世間は時にいい加減だが、時によく真実を見ることがある。雪乃の、琴乃が残した二人の姉弟への献身的な姿を目の当たりにすれば、もう誰の口からも雪乃に対する悪い噂が出ることはなかった。ただ一人勘助を除いては。
勘助は山城屋の手代である。与兵衛よりは五年奉公が早い。元々、魚の棒手振りで山城屋に出入りしていたところを見込まれて雇われた男だった。仕事熱心だが、少し根に持つところがあり、奉公人の間ではよく思わぬ者が多かった。加えて、以前より雪乃に思いを寄せていることはみな知っていた。本人からすれば、店での立場も雪乃も与兵衛に奪られる格好となり、面白くない。だから、あらぬ噂の出どころはこの勘助ではないかと、奉公人の間で密かにささやかれた。本来であるなら、勘助の恨みは与兵衛に向けられこそすれ、雪乃に害を及ぼすことはおかしい。そう一人が言えば、「それ。そこが勘助のひねくれたところよ」ともう一人がしたり顔で言うのだった。それほど勘助の評判は悪かった。
雪乃は琴乃が残した姉弟の面倒を実によく見た。貴恵は貞之助の四つ違いの姉であり、既に物心つく年頃でもあったから、雪乃が貴恵の叔母であるという立場は越えられなかったが、その一方で、生まれたばかりの貞之助には心血を注いだ。心から愛おしんだ。その姿は誰が見ても、実の親子と思うほどに。
琴乃と雪乃は三つ違いだった。しかし、二人はよく似ている美人姉妹と評判だった。それを雪乃は心から喜んでいた。姉もよく自分を可愛がってくれた。だから、琴乃が死んだとき、雪乃も死んでしまうのではないかと、周りは心配した。特に母親である里久は気が気でなかった。日に日にやつれていく娘に生きた心地がしなかった。そこで里久は一計を案じた。雪乃が与兵衛に思いを寄せていることは薄々知っていた。だが、それだけを理由に雪乃を説き伏せても、決して娘が頷かないことも承知していた。だから、琴乃の忘れ形見である姉弟二人をお前が受け継げと命じた。立派に育て上げよと。それがお前の姉に対する使命だとも言った。それでようやく頷いた娘の気が変わらぬ内にと早々に与兵衛との祝言を上げた、というのがいきさつだった。無論、与兵衛の力量を見込んだ里久の思いがあったことは言うまでもない。
一方で、雪乃は与兵衛と夫婦になることに、条件を一つ出した。それは、山城屋の身代はゆくゆく貴恵に継がせて欲しい、というものだった。貴恵は琴乃が産んだ長女だ。その貴恵を早い内から里久の後継と定めるようにと、雪乃は言ってきたのだ。
「お前はそれでいいのかい?」
「はい。お母さま。よろしゅうございます」
雪乃は母に向かって深く頭を下げた。二人がいるのは代々の店主が使う部屋である。華美な装飾品はないが、里久が好みそうな水墨画の掛け軸やその脇にはさりげなく一輪挿しに季節の花が活けてある。開け放たれた襖の向こうに廊下を挟んで庭がある。内庭だ。手入れの行き届いた庭木を微かに初夏の風が揺らしている。その風は二人のいる部屋にもそよいできて、雪乃の襟足をくすぐった。
「本当にいいんだね。お前にだって、すぐに与兵衛との間に子が生まれるかもしれないんだよ」
里久はさかんに扇子を使った。暑苦しいわけではない。自分の考え通りにことが進まなくなったときの、里久の癖だった。実際、琴乃が他界した今、山城屋は目の前にいる雪乃に継がせるつもりだった。血筋から言ってもそれは自然で、雪乃に商売の才があるかはこれから見極めるとしても、少なくとも生真面目な娘であることに間違いはなかった。それに、与兵衛がいる。それを、その自分の計画を、娘は根底からくつがえそうとしているのだ。扇がずにはいられない。しかし、そう思う反面、片方では既にあきらめもあった。可愛らしい顔の割に、結構頑固な一面がある娘を知っているからだ。
「はい。わたしは決めたのです。わたしは姉さんの身代わりだって。姉さんに代わって、貴恵ちゃんや貞之助を育てていくんだって。そんなわたしが山城屋を継いではいけません。まして、わたしが産んだ子では、いけないんです」
「昔からお前は言いだしたら、わたしの言葉なんか聞いたためしがないからね。いいかい? もう一度訊ねるよ。本当にいいんだね」
雪乃はしっかり頷くと、また深く頭を下げた。その姿に深いため息をつく里久であった。そうしながら、里久は頭の中で計算していた。まだ幼い貴恵に身代を譲れるとする頃、自分は果たしていくつになっているのかと。そしてまた大きくため息をつく。
「もっと早く楽隠居できるかと思っていたんだけどね」
里久はそうぼやくと笑った。
「すみません。我がまま言いまして」
「いいさ。お前の頑固さは、死んだ利作さん譲りだ。どうもうちの男どもは早死にばかりだ。お前は与兵衛を大切にするんだよ。あれも根を詰めるところがあるからね。何事もほどほどにしないといけない。わかったかい?」
「はい」
伏していた顔を上げて、雪乃はにっこりと微笑んだ。
それから十二年の歳月が流れ、今に至る。貞之助は数えで十三、姉の貴恵は十七になっていた。また、貞之助の下には二つ違いの妹幸恵が生まれていた。これは雪乃が産んだ子になる。慶応四年。途中で明治と改元される年が始まった。
「兄さん。もっとそっと打ち返して下さりませ」
また空振りとなった羽子板を手にぶら下げて、今にも泣きだしそうな顔で幸恵は貞之助に訴えた。母似の幸恵はどんな顔をしても愛らしい。ふっと目尻が下がりそうになって、貞之助は慌てて眉間に力を込めた。姉の貴恵が見ている。姉は妥協を許さない。どんな些細なことでも、手加減したと見るや、厳しく追及してくる。特に幸恵には容赦がないような気がする。それは、二人が同じ女だからだろう、と貞之助は思っていた。山城屋の身代を支えているのは、祖母の里久であり、母の雪乃だ。そして、ゆくゆくは姉の貴恵が跡を継ぐだろう。幸恵とて姉の片腕として期待されているに違いない。その点、男に生まれた自分は気楽なものだ、と貞之助は日頃から暢気に構えていた。
「やさしく返しているぞ。お前の打ち方が悪いのだ」
「貞之助。幸恵に拾わせなさい。幸恵。お前が拾うのです」
幸恵が打ち返せなかった羽根を拾おうと動いた貞之助にすかさず貴恵の声が飛んだのだった。有無を言わさない貴恵の言い方に、貞之助の体は止まり、しょんぼりと頷いた幸恵が重たい足取りで羽根を拾った。
「幸恵。貞之助の言う通りですよ。お前の打ち方が間違っているのです」
貴恵は縁側から立ち上がると、幸恵の後ろに回り込み、打ち方を羽子板に手を添えながら教え始めた。言い方はきついが、性格までがきついのではない。根が真面目過ぎて、少し細かいのだ。そんなことはもっと大目に見てくれてもいいだろうに、とよく思う。姉のこの性格は父さま譲りだから仕方ないのだ。いつかおばばさまがそう話していた。だが、貞之助は姉が大好きだった。彼の中で決して比較したことはないが、母の雪乃より、或いは頼りにしているのかもしれなかった。姉がそばでじっと見ていてくれている。それだけで貞之助は嬉しくなることがあった。
「いいですか。お前は高く飛んできても、低くきても、同じ打ち方ばかりです。低いときには今の打ち方でいいですが、高くきたものは、こうして打つのですよ」
貴恵は幸恵が持つ羽子板を一緒になって頭から振り下ろした。
「こうですよ。こう」
そうやって何度もやってみる。その内にコツを掴んだと見えて、幸恵の表情に明るさが戻った。幸恵は分かりやすい妹だった。喜怒哀楽が素直に顔に出る。よく言えば、裏表がない。その反面、姉の貴恵には表情というものが乏しかった。まったく笑わないわけではないが、あまり見たことがなかった。まして、泣いているところなど一度もないのではないか。およそ感情というものを顔に出すことのない姉だった。
そこへ母雪乃が姿を見せた。美しい。子供ながらでも、見惚れてしまう美しさだ。母が姿を見せた途端に華やぐ。貞之助は三人の女たちを見ながら、美しさにも色々と違う美しさがあるものだと思う。母には大輪の菊のような華やぎがある。姉はスーッと立ち上がった菖蒲のようだ。綺麗だが、どこか寂しげだ。そして、妹は甘ったるいレンゲソウか。美しいというよりは、まだ可愛らしいだろうか。そんなことをぼんやり考えている内に、いつの間にか貴恵はいなくなってしまった。いつもそうだ。母が姿を見せると、姉はその場から立ち去ってしまうのだ。それがどうしてなのか、貞之助にはわからなかった。姉の姿を探す貞之助の視界に、うつむく母が見えた。
雪乃との約束通り、里久は年初に貴恵を山城屋の跡取りと宣言し、英才教育を始めた。その瞬間から、貴恵は貞之助たちの姉ではなく、山城屋の店主見習いとなった。周りの扱いが変わったことは勿論、おのずと本人の姿勢も変わった。それ以後、貞之助たちと遊ぶことはなくなった。部屋も姉弟たちの相部屋から、里久が起居する部屋の隣に一人部屋が与えられた。里久は当初、貴恵が弱音を吐いて雪乃に助けを求めるのではと見ていたが、意外にも貴恵は踏ん張った。それは里久が感心するほどに。だが、弊害は思わぬところへ波及した。貞之助が姉を恋しがって毎日泣いてばかりいるのだ。十三にもなった男の泣きべそはなんとも見苦しい。見かねて、里久は思い切った荒療治を思いついた。小僧奉公をさせようというのである。
と言っても、何年もというわけではない。まして、そのまま僧門に留めおく気など里久の頭には毛頭ない。せいぜい三月くらいの仮奉公みたいなものだった。なぜなら、以前より、廻船問屋である檜垣屋から貞之助を養子縁組してもらい受けたいという話があった。里久が描く山城屋の将来は、今の自分がそうであるように、女主人が取り仕切る姿しかなかった。山城屋の運気は女が支えている。それが里久の持論だった。だから、貞之助を、男を店主に据える気持ちなど里久には微塵もなかったのである。仮に、貴恵がしくじっても、次に幸恵が控えている。里久としては、それだけで安泰だったのだ。しかも、貞之助が檜垣屋の跡を継げば、山城屋の足場は盤石になる。そのためにも、たとえ見た目だけでも貞之助にはしっかりした印象の男であってもらわなければ困る。
貞之助は当然拒んだ。いざ寺へ行くという日、迎えに来た僧侶を前にぐずってぐずって周囲を困らせた。それを里久は、三月もすればきっともう少しは根性の座った男になって帰ってくるだろうと、無理やり送り出した。
寺での奉公、つまり、修行は、貞之助の常識をすべて裏切ることばかりだった。それだけ貞之助の暮らしぶりがたるんでいたことへの裏返しになるのだが。まず、朝が早かった。まだ暗い七つ(四時半)が僧侶たちの起床時間だった。起きれば身支度も手際よくせねば、先輩小僧から叱られた。支度が整えばすぐに、座禅とお勤めと呼ばれる読経が始まる。それが済めばようやく待ちかねた食事である。ただ極めて質素で、育ち盛りの貞之助には物足りないことこの上ない。しかも、食事の時間は短く、うだうだしているとさっさと片付けられてしまう。朝食が終われば作務になる。主に寺の掃除だ。廊下は勿論、庭の掃き掃除から西浄の拭き掃除まで。西浄とは厠である。広い寺の隅々を五人の小僧だけでこなすのだから忙しい。手を抜けば、見回りの僧侶に見つかって叱られるので、手の抜きようがない。そうして慌ただしく一日が暮れていく。泣きたくとも、泣いている暇などなかった。
そういう日々が続いてどうやら効果があったのか、貞之助の泣きべそはぴたりと止まった。いや、その実は、昼間は懸命に我慢して夜中に一人泣いているのであった。
そんなある夜。貞之助はいつものように、昼間にため込んだ悲しみや苦しさを吐き出そうと蒲団に潜っていざ泣こうとした。すると急に腹の具合が悪くなった。起き上がり、慌てて厠へと急いだ。なんとか間に合って、部屋へ戻りかけた貞之助の耳に、何やら妙な音が聞こえた。それは本尊が祀られている本堂の辺りから聞こえてくる。最初こそは無視してしまおうと思ったが、歩く内、どうにも耳につく、気がそちらへ向いてしまう。とうとう自分でも知らぬ間に、本堂へと入り込んでいた。
音の方へ近づく内、それはくぐもった声だとわかった。何やら声を潜めて話している。それも一人二人ばかりではなさそうだ。ときに笑い声のようなものも聞こえる。貞之助は気づかれまいと忍び足で歩いた。本尊の裏側に灯りが漏れている。垂れ幕か何かの隙間から漏れているのだ。ようようの思いで本尊の台座まで体を寄せたときだった。突然ワッと声が上がった。貞之助は驚いて腰を屈め台座の陰に隠れた。すると今度はシーシーと幾つも声が重なり、しばらく静かになった。きっと一人が思わず出した声を、他の者たちが諫めたのだろう。貞之助には、今そこで何が行われているのか察しがついた。きっと数人の僧侶が集まって博打を打っているのだ。その噂は昼間先輩小僧が内緒で話しているのを小耳にはさんだことがある。貞之助はつまらないことに関わりとなって、自分も仲間にでも引き込まれては困ると思いつき、すぐに踵を返した。とその時、誰かが垂れ幕の中から出てきた。貞之助は慌てて身を隠そうとした。しかし、男に見つからぬよう咄嗟に隠れる場所などない。仕方なく床に小さくなった。暗闇が自分をおおってくれると思ったのだ。どうか見過ごしてくれと念じながら。だが、その願い虚しく、出てきた男はすぐ気配に気づいた。
「ん? 誰だ?」
貞之助は万事休すと思った。こうなった以上、駄目でも逃げるしかない。いっそ寺から逃げるか。貞之助は立ち上がるや、手に触れた物を男に投げつけると、一目散に駆け出した。男に当たったのは香炉だった。暗闇からいきなりそんな物が飛んできたのだからたまらない。顔面にでも当たったのか男はギャッと悲鳴を上げた。その悲鳴がいっそう貞之助の逃げ足を速めた。もう後戻りできないと観念させた。見つかってしまえばただでは済まない。なりふり構わず夢中で逃げた。
今夜は新月だった。暗闇の中、何処をどう逃げればいいのかわからなかった。廊下を渡り庭に降りたまではよかったのだが、気が動転し、そこから門までの道筋が見えてこない。目の前が真っ暗とは正にこのことか。めくらめっぽうに駆けるから、植え込みの木に当たり、石にもつまずく。体中が打撲でフラフラになりながら、最後に木の根に足を引っ掛けて転んだところで、貞之助の意識は消えた。主を失った彼の体はそのまま土の上に落ちる、はずが、落ちなかった。そこには黒い口がぽっかりと開いていたのだ。見た目にはどこまでも同じ暗闇が広がっていて、見境がつかない。貞之助の体が忽然と消えて初めてそこに口が開いていたのだとわかったほどだ。
目覚めた貞之助の目にまず飛び込んできたのは、赤黒い色だった。それは天井ではない。空だ。なぜかそう思った。しかし、そう思った後で、そんな空の色があるのだろうか、と思った。夕焼けにしては黒い。夜にしては赤い。こんな空は初めてだ。きっとわたしは今夢の中にいるのだろう。そう漠然と思った。一方で、そうあって欲しいとも願った。でなければ、こんな恐ろしげな空の下にいることが恐ろしい。ふと「地獄」という言葉が頭をよぎった。確かに、この空の色は地獄ならあり得る。すると、わたしは死んで地獄に落ちたのだろうか。あの木の根に足を引っかけて転び頭でも強く打って死んだ、のだろうか。死んだとしたら、それはわからないでもない。どんなことで死ぬかは、人の力の及ばない、いわば運命によるものだから。言い換えれば、御仏の御心次第なのだ。だが、なぜ地獄なのか。わたしが生前に何をしたというのか。そんな悪いことをわたしは行ったのか。この手で人はおろか、猫の子一匹さえ殺したことはない。そりゃあ、蚊の一匹や二匹、或いはもっとかもしれないが、殺したことはある。でも、それなら、その程度の咎で地獄に落ちるというのなら、ほとんどの人が地獄へ落とされてしまうのではないか。それとも、人を憎んだり、貶めたりしたことが罰に値するのか。いや。それでさえ、わたしは誰も憎んだことはなかったし、まして誰かを貶めたことなどまったくない。それは自信を持って言える。寺に来てからも、僧侶たちを怖いとは思ったが、憎いとは一度とて思ったことはないのだから。
貞之助はゆっくりと起き上がった。体中に痛みが走った。この痛みは夢ではない証拠なのか。彼の中で重苦しい不安が広がる。夢の中でないとすれば、この世界は、この地獄は現実として彼に迫ってくる。周囲には荒涼とした岩だらけの景色しか見えなかった。枯れ木一本さえ生えていない。何ということか。どういうことか。どうしてわたしがこんな目に遭わなければならない。我が身に降りかかった災難。誰を恨むこともできず、貞之助はただ茫然とした。泣く気力さえ湧いてこない。だが、こんな絶望の淵にあっても、希望は捨てなかった。それは彼の持つ天性の強さなのか、それとも、暢気な性格が幸いしてのことなのか。
「そうだ。父さまが教えてくれた。怖い夢を見て、夢か現実かわからなくなったときは、小便をしてみるのだ。実際に小便をして、股が濡れれば、わたしはおねしょうをしたことになる。寝ているのだ!」
翌朝起きて、寝小便を先輩小僧に叱られても仕方ないと思った。それよりも、わたしが地獄にいないことを証明したかった。地獄の業火に焼かれるくらいなら、先輩の説教の一つや二つは喜んで受ける。
貞之助は前をはだけ、そばにあった大岩の赤茶けた肌に思いっきり放尿した。いつの間にたまっていたのか、思いの外大量の小水が大きな弧を描いた。その解放感に初めの内は浸っていたが、次第に彼の気持ちは萎えていった。股が濡れてこないのだ。漏らしてしまったときにあるあの変な温もりを股の辺りに一向に感じないのだ。それは、今放出している小便が現実であることを何よりも証明していた。
出し切った彼は力なくよろけて後ずさった。すると、そのまま倒れるかと思った体を誰かが支えた。妙に生臭い匂いが鼻の奥につんときた。貞之助は一瞬見たくないと思ったが、遅かった。彼の見開いた目に赤いそれはしかと映っていた。しかもその頭には二本の角があった。逃げようにももうどうしようもなかった。倒れかけた貞之助の背後から、赤鬼はしっかりと彼の両肩を摑まえているのだから。
「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏……」
貞之助は思わず唱えていた。
「おい。ここで縁起でもないものを口にするんじゃないぜ」
赤鬼はそう言ってニヤリと笑った。貞之助が唱える念仏はまったくこの鬼には通じていないようだった。おそらく念仏が通じないのではなく、わたしの修行不足が原因なのだと、貞之助は思った。彼はおとなしく口を閉じた。
「おっ、子供のわりに素直じゃないか。おいら、そういうの好き。ここに来る子供は子供というよりは、ガキだからな。素直どころか、悪態ばかりつきやがってよ。生きてる内にさんざん悪さを尽くしたんだから、死んだならおとなしくしてもよかろうによ。……そうか。坊は」
赤鬼は自分に寄りかかっていた貞之助を立たせると、後ろ向きだった貞之助の正面を自分の方へ向き直して、彼の頭を撫でた。思わぬ仕草だ。貞之助は放心したように赤鬼を見上げた。大きい。わたしの倍近くあるような大男、いや、鬼だ。
「坊。お前どこから来た。ん? 正直に言うてみい」
赤鬼は愛想笑いをしているつもりだろうが、口からのぞく二本の牙が鋭い。その顔でどんなに愛嬌を作られても怖さが増すばかりだ。ぐっと迫ってくる赤鬼に貞之助は悲鳴を上げようにも、声さえ出なかった。
「どうした。声が出んのか?」
赤鬼が小腰を屈めて顔を貞之助に近づけようとすればするほど、貞之助は全身金縛りとなって動けなくなった。そこへ何処からか呼びかける声がした。さらにもう一匹鬼が来るのか。貞之助の恐怖は限界の枠を突き破った。今自分の足で立っていることが不思議なくらいだった。
「おい。赤鬼。何しておるんじゃ」
現れたのは全身が青い鬼だった。きっと青鬼だ。頭の角は一本しかない。
「おお。青鬼か。今な。この坊を見つけたんじゃ」
「なんじゃと?」
青鬼も赤鬼と肩を並べて貞之助を覗き込む。もうダメだ。貞之助はフーっと気が遠くなるのを覚え、そのまま気絶した。
「坊! しっかりせい! 大丈夫か!」
強く体を揺り動かされたことで消えかけた貞之助の意識はわずかに戻った。しかし、おぼろげな意識の中で、貞之助は「やめてくれ」と思った。「呼び覚まさないでくれ」と、声にならない叫びを発していた。同じ食われるなら、夢の中でと。それなら痛みも恐怖も感じずに死んでいけると。一度死んだ者が再び死ぬのかと思うが、先ほど起き上がる時に走った体の痛みが、死んでも痛みはあると教えていた。痛みがあれば、再び死ぬこともあるだろう。いやだ。いやだ。恐怖にうち震えながら、鬼どもにバリバリ食われて死ぬなどたまらん。だが、地獄では御仏に思いの通じるはずもなかった。貞之助の意識ははっきりと戻った。戻ったが、目を開けず、死んだ振りをした。それがたとえ無駄なことでも、せずにはいられなかった。ひょっとして、死人を鬼は嫌うかもしれない。この世で死んだ者はあの世で生まれ変わる。和尚様はいつかそうおっしゃった。鬼が食らうのは、この世とあの世で生きている者だけかもしれない。あの世、しかもこの地獄まで来てまた儚く死んだ者を鬼は嫌う、いや、嫌ってくれ。叫びたいほど悲痛な貞之助の願いだった。
「どうするよ」
そう言ったのは赤鬼の声だった。目をしっかり閉じている貞之助には二匹の様子は見たくても見るわけにはいかない。貞之助は、体は地面に寝ているようだが、頭は何かに掴まれているように感じた。それはきっと赤鬼の大きな手だろう。鬼の手ならば、わたしの頭をすっぽりと載せて、西瓜のごとく握りつぶすことなどいともたやすいに違いない。わなわな震えそうな体を貞之助は懸命にこらえた。
「どうするったって。このままじゃまずかろう」
答えたのはきっと青鬼だ。
「そもそも、なんで子供がここにおるんじゃ?」
尋ねたのは青鬼の声だった。
「おいらが知るかよ。ここらを歩きよったら、いきなり転がり落ちてきよったんじゃ」
「すると、またあれか」
「ああ」
二匹が同時に声を発したらしい。頷き合っているようだ。何か二匹に思い当たることがあるのだろう。
「親方が言うておられた。人間界に不穏な空気が充満しておると。そういうときは決まってあちこちで結界が切れるんじゃと」
「困ったもんじゃ。おれらが見つけてやりゃあ、戻してやれるもんを。滅多に会わんからの。この間なんぞ、血の池で溺れた女を見つけたぞ。亡者なればこそ、苦しみはするがまた浮かび上がってくる。だが、迷い込んだ生者では一度沈んだら浮き上がっちゃこんからの。あのまま池の底の泥にでも飲み込まれてしまったんじゃろうて。可哀そうに」
二匹の話を聞きながら、貞之助はしたくもない想像をして、思わずつばを飲み込んだ。しんみりと静かになっている鬼たちに気づかれたかもしれない。貞之助の体は強張った。
「とにかく、親方のところへ連れていくしかないだろう」
「そうだな。勝手におれらが戻して、叱られてもいかんからの」
ふいに貞之助は体が浮き上がるのを感じた。赤鬼が抱きかかえたのか。鬼たちに気づかれぬよう、貞之助は慎重に薄目を開けた。するとやはり、体が持ち上げられ、何処かに連れていかれているとわかった。
時々様子を窺うために開く薄目の限られた視界に、ごつごつとした岩場やら枯れ木の林が映った。一度、川のような光景が目に入ったが、その色が赤黒かったので、怖くなってすぐに目を閉じた。それから、赤鬼の歩く動作から伝わる一定の振動が貞之助の眠けを誘ったらしく、いつの間にか寝ていた。
トントンと軽い衝撃が貞之助の足から寝入っていた意識へと伝わった。何かの上に寝かせるとき、貞之助のかかとが先に落ちて当たったのだ。寝入っていた油断から、不覚にも貞之助は目を覚まし、起き上がってしまった。目の前に、黒い大きなかたまりがあった。よく見れば、二つの目がある。ニヤリと笑った口からは鋭い牙が覗いている。頭には二本の角があった。赤鬼たちが話していた鬼の親方なのだろう。
「親方。こんな子供を見つけました」
貞之助の後方から声がした。赤鬼と青鬼が控えているのだ。
「ふーん」
親方は呟くと、ギロリと貞之助を睨んだ。まるで奉行所のお白洲みたいな場所に貞之助はいると思った。確かにぐるりを白い壁に囲まれ、貞之助はといえば、砂利こそ敷かれてはないものの、土の上にいる。一段高い板の間のようなところに座っている親方がさしずめはお奉行か。貞之助は神妙に正座した。親方は太い足を組んで窮屈そうに胡坐をかいている。親方の肌は黒かった。顔もむき出しの太い腕も何もかも。黒鬼というより、不動明王に近い。まさか本当にそうなのか? しかし、不動明王に角はないか。それにあの額にある瘤はなんだ。御仏の額に瘤なんかあるはずがない。そんなことを考えている貞之助だが、不思議と先ほどまであった体の震えが消えていた。怖さはあるが、一方で、落ち着いて周りを見つめることができた。それがどうしてなのか。貞之助にはわからなかった。
「坊。名は何という」
親方の声は意外にやさしかった。ゆっくりした調子もあるのだろうが、温もりを感じた。姿を見ていなければ、和尚様と間違えたかもしれない。それほど親方の声は鬼らしくなかった。
「さ、貞之助」
「そう硬くならずともよい。わしらはお前を取って食おうとしているのではない。安心しろ。人間に掟があるように、わしらが住むこの地獄にも掟はあるのだ。生者は元に戻す。それが掟だ。お前は生者だろう。大罪を犯した挙句に死んで、この地獄に落ちてきた者とは匂いが違う。生者であれば、帰す。心配するな」
貞之助は思わず大きく息を吐き出した。体中に充満していた恐怖と緊張が溶けて、毛穴という毛穴から抜け出ていくようだった。鬼の言う事だから、無事解き放たれるまで油断はできないが、それでも希望は見えてきた。小さな希望でも、あると思えば気持ちが定まる。気持ちが定まってゆとりができると、人は余計なことに思いがとらわれるようだ。まして、恐ろしいとばかり思っていた鬼たちが、予想外にやさしく、話の通じそうな相手だとなれば尚更だ。貞之助は胸の内にもやもやする疑問を口にした。
「親方……様」
「なんだ。大きなため息をついたかと思えば、次は勇ましそうなまなこを見せて。面白そうな小僧だ。言いたいことがあるなら、何でも言うてみい」
「なぜわたしはここにいるのでしょうか。地獄に来る心当たりがありません」
身を乗り出した親方に負けじと、貞之助は背筋を伸ばした。
「そりゃあそうだろう。お前のせいではないからな。……いや、待てよ」
親方はふと何かに気づいたのか、少し小首を傾げた後、こう聞いた。
「お前、ここへ来る直前に、逃げたいとか思ってはなかったか?」
なぜそんなことがわかるのか。あまりにも見事に言い当てられると、むしろ疑いたくなる。なにがしかの力でわたしをここへ導いた張本人はこの鬼たちではないかと。わたしをではなく、わたしのように逃げ出してしまいたい人間の弱みにつけ込んで、誘い出し、やさしいところを見せては油断させ、頃合いと見たところで襲うつもりかもしれない。そうだとすれば、これまでの流れが合致する。まあ。これまでの出来事をおさらいして、その理由付けを疑っているのだから、当然と言えば当然ではあるが。貞之助はそこまで思い至って、背筋に冷たいものを感じた。そして、先ほどまで抱いていた自分の甘い考えに腹が立った。まんまと罠にはまった自分の愚かさをなじった。
改めて疑いの目で見つめると、鬼たちの裏側に隠れている彼らの本性が黒い薄靄のごとく立ち上って見える。貞之助はその場に力なくうずくまった。
「どうした。どこか痛いのか?」
親方はすぐに心配の声を上げ、赤鬼たちに目配せした。二人の鬼たちが貞之助に近寄る。すると、やおら貞之助は起き上がり、直後に大声出して泣き出した。おとなしかった彼の突然の豹変に鬼たちは驚くばかり。しばらく呆気に取られている。
「突然大泣きが始まったときはどうなるかと思ったよ」
赤鬼と青鬼に挟まれて貞之助は歩いている。穏やかな微笑みを浮かべる貞之助にそう言ったのは赤鬼だった。赤鬼だけでなく、青鬼もどこかホッとした表情だ。
「ごめんなさい」
貞之助は何度目かの謝罪を口にした。
何を意図したわけではなかった。ただもう感情が爆発して抑えきれなかった。追い詰められた絶望で感情が制御できなくなったのか。それさえもわからなかった。気づいたときには、大量の涙と喉の奥から声が噴き出ていた。
すると、これまでどっしり構えていた親方の表情が変わり、最初こそは困ったと腕組みしていたが、次第におろおろし出し、やがて立ち上がって貞之助に近寄ると、なだめたりすかしたりして、彼の機嫌を取り始めた。どうも泣く子は鬼にとっても手に余るようだ。その仕草を見ている内に、泣いていた貞之助は急に可笑しくなり、なんとか泣き止んだのだった。泣き止んだと知ったときの親方の顔がどうにも情けなく見えて、貞之助は思い出してはまた笑えた。そして、親方が赤鬼たちに命じて地獄から送り出すときに言った言葉をもう一度思い起こしていた。
「坊は泣き虫なのか。そうか。だがな、それは恥じなくてもよいことだ。泣きたいときには思いっ切り泣いた方がええ。無理に我慢すれば、それがいつかはしこりとなる。しこりを幾つも抱えた人間は将来碌な者にはならん。わしらは非道を犯す者らを数えきれんほど見てきた。だから言うんじゃ。そういう者らは必ず胸の奥に吐き出せんかったしこりを抱えておるんじゃ。よいか。この言葉はわしからの餞別じゃと思って、忘れるではないぞ。それからな」
親方は少し言葉を途切らせた後、貞之助を近くに手招いた。
「これを持って行け」
親方は小さな巾着を指につまんでぶら下げ、それを貞之助の手に落とした。親方が持っていたから小さく見えたが、貞之助の手にはちょうど収まるほどの大きさだった。
「その中にはな、この地獄をどこまでも流れゆく水無川の砂が入っておる」
「水無川の砂?」
「そうじゃ。水無川はの、見える者には大河となり、見えん者には果てのない砂漠となるのじゃ。その砂を入れてある。ひとたび砂を吸い込めば、たちまち記憶を失う。自分が誰であったかさえ思い出せん」
貞之助は手に載せた巾着をまじまじと見つめた。
「だが、安心せい。記憶を失くすといっても、一晩限りじゃ。翌朝には元のそいつに戻っておる。ただ、砂を吸い込んだことは一生思い出せんがな」
そう言って親方はクククッと笑った。
「坊が、誰ぞにいじめられたりして困ったら、使うといい。人を殺めるものでは決してない。坊に会うた記念だ。持って行け」
「うん。親方。ありがとう」
その巾着が貞之助の懐に入っている。手を差し入れると、絹地なのか柔らかい肌触りがする。巾着を手の中に掴んでいると、妙に気持ちが落ち着いた。いざという時に役立つ護身用ということもあるが、それ以上に、親方や今両側を一緒に歩いている赤鬼と青鬼がいつでも助けに来てくれるような、安心感があった。無論、そんな約束を交わしたわけではない。だが、また会えるような気がした。いつだってひとりきりじゃない。そんな思いが貞之助の体の奥をぽかぽかと温かくしている。地獄の荒涼とした景色に包まれていながらも、今の貞之助には故郷に似た懐かしさが感じられていた。
ふと、貞之助の心の片隅をよぎるものがあった。なんだろう。初めの内はもやもやとするばかりだったが、それは次第に形をなした。姉の顔だった。強く口元を結んでいるが、何処か寂しげだ。いつも見せる姉の姿なのに。
姉さまは、一度も泣いたことがない。少なくとも、わたしは見たことがない。姉さまは、親方が言う通りなら、やがて地獄へ落ちてしまうのだろうか。いくつもしこりを抱えて、悪い人間になってしまうのだろうか。姉さまを救いたい。姉さまにだって、嫌なことや悲しいことはあるはずだ。姉さまはなんでも心の奥にしまっているんだ。全部出して、心を軽くしてあげたい。貞之助の脳裏にひとつの考えが浮かんだ。
「赤鬼さん」
「なんだ。気色悪い。さんはいいよ。そんな呼ばれ方されたことないからよ。赤鬼でいいよ」
「で、では……赤鬼」
「おう。なんでぇい」
「親方からもらった砂だけど」
「おう。その砂がどうした」
「親方は、砂を吸い込めば、一日だけ全部忘れてしまうと言ったよね。自分が誰かも」
「おう。言ったな」
「だけど、翌朝になればまた元に戻るとも」
「おう。そうだな」
貞之助に問いかけられるのが嬉しくてたまらないのか、赤鬼はその都度大げさに返答をする。ただ、鬼だけにその威勢が良過ぎて、貞之助には脅されているようで少々閉口する。鬼たちの気の良さに触れていなければ、とうに怖気づいていたところだ。
「もしね。この砂を毎日相手にかけ続けたら、どうなるの?」
「毎日?」
赤鬼はふと立ち止まって腕組みした。横にいる青鬼へ助けを求めるように見やった。だが、青鬼も困ったと腕組みして首をかしげた。
「毎日か。やったことないなあ」
それが青鬼から出た答だった。赤鬼も頷く。
「その砂はよ。亡者の口を黙らせるために使うものでよ。言ったろ。やたらうるさい奴がおるんじゃ。そういう奴にサッとかけてやると大人しくなるから。おいらたちの役目は亡者を償いの場所へ送り出すだけだからよ。送ってしまったら、それで終わりだからな」
赤鬼の説明に青鬼も頷きを繰り返した。
「それで? 坊がかけたい相手ってのは、誰だい? それも毎日っていうのは、余程困ってのことだの」
「ううん。違うんだ」
「違う? どう違う?」
鬼たちは合点がいかない顔つきだ。
「毎日かけたいのは、姉さま」
「姉さま? 姉ちゃん? 坊の姉ちゃんかい」
「でも、いじめられているのではないんだ」
「どうもわからないなあ。もっとわかりやすく言ってくれねえか」
鬼たちは首を捻るばかり。
「助けてあげたいんだ」
思いも寄らぬ貞之助の言葉に驚きの表情で鬼たちは互いに見合った。
貞之助は彼が知り得る限りの姉貴恵について打ち明けた。喜怒哀楽を表に出さないこと。泣き顔を見たことがない。何事にも妥協を許さない。そんな姉が今は祖母里久の教えで、商売のやり方や奉公人への接し方、そして、将来店を預かる者としての心構えを見習い中であること。打ち明けたのは鬼たちに対する信頼があったからだ。きっと二匹、いや、二人の鬼はわたしの気持ちをわかってくれる。
「親方が言ったように、姉さまはいくつもしこりを抱えていなさる。吐き出さない、ううん、吐き出し方を知らない姉さまは、きっといつか悪人になってしまって。そして……そして、死んだら、この地獄に」
貞之助は瞳にいっぱい涙をためて今にも泣き出しそうな顔になった。それに気づいた鬼たちはうろたえた。ここでまた大泣きされてはたまらん。だが、貞之助は懸命にこらえているようだった。ほっと胸をなでおろす鬼たち。ところが次第に、健気にじっとこらえている貞之助の姿に感じ入ったか、鬼たちの両目から大粒の涙がこぼれ落ちた。鬼の目にも涙だ。
「難儀なことよのう。この世。いや。おいらたちからすれば、あの世だ。どの世でも、生きるとは難儀じゃ。のう。青鬼よ」
なんとかグッと堪えていたのに、ふいを突かれて、堰を切ったように青鬼が大泣きを始めた。それにつられた赤鬼も大声立てて泣いた。鬼たちにも辛いことがあるらしい。一方で、先を越された貞之助は置いてけ堀を食らってきょとんとしている。呆気にとられた顔だ。二人の鬼の大泣きだ。しかも大男だ。みっともないどころではない。自分が泣きそうになっていたことも忘れて、貞之助は鬼たちの手を交互に取ってはなだめた。
ひとしきり泣いていくらか気分が落ち着いたか、泣き止んだ鬼たちの表情に明るさが戻った。元々赤かったり青かったりしていかつい顔なので、それが本当に笑顔なのかはわかりづらいが、泣き顔でないことはわかる。
「それで。何の話じゃったかの」
とぼけ過ぎる赤鬼の切り替えしに、思わず肩透かしを食らった貞之助だった。
「姉さまのことです」
少しムッとして答えた。
「すまん。すまん。久しぶりに泣いたものでよ。のう、青鬼よ」
「そうよ。何百年ぶりかの」
え? この鬼たちはいったいいくつなんだ? そう思ったが、敢えて聞くことはしなかった。話が長くなるのは目に見えている。
「砂だったな。そうか。毎日か」
また腕組みする鬼たち。どうも答が出そうにない。
「姉さまに毎日かけ続ければ、その内、思い出すことがなくなって、姉さまが抱えている辛いことや悲しいことが消えて行くのではないかと考えたのです」
「ふーむ。じゃが、そうなれば、坊の姉ちゃんは坊の姉ちゃんであることも忘れてしまうのではないか?」
「そうかもしれません。寂しいことです。でも、わたしの姉さまであることに変わりはありません。わたしが、いえ、わたしだけでなく、家の者がみな姉さまを大切に思えば、姉さまもまた山城屋の娘であることをわかるようになってくれるのではないでしょうか。そうだ。そうして新しい姉さまになってくれたらいい。そうすれば、笑ったり泣いたりする姉さまになります。ねえ。そうではありませんか」
貞之助は思い至った考えに顔を輝かせた。
「なるほど。それはいいかもしれん。……だがな、坊。折角の妙案に水を差すようで心苦しいが」
赤鬼はそこまで言いかけて言葉を濁した。その表情に、輝いていた貞之助の顔も曇っていく。それを見て、また一層赤鬼は口元をゆがめた。赤鬼の胸の内が青鬼にも伝わったのか、青鬼も同じように口をへの字に曲げている。そして、赤鬼の言い難いことを受継ぐように、青鬼が曲げていた口を開いた。
「砂は記憶を消す。それを幾度も繰り返せば、坊が言うように、これまでの記憶はすべてなくなるかもしれん。じゃがな。性根までは消せん。坊の姉さまが生来持っておる性格までは消せんのだよ」
「え?」
「たしかに過去はすっかりなくなるじゃろ。嫌な思い出や辛い出来事は忘れるじゃろ。だが、これから起きることは、どうじゃ? 姉さまはまた同じ想いを繰り返すのではないか? それは持って生まれたものなのでな。生きておるゆえ、生きておる内は、同じことなんじゃ。古いものはなくなるが、また新たなものを抱える。それが人の、いや、人だけでなく、生きとし生けるものの性なのではないかの」
貞之助は茫然とした。それでは姉は生き続ける限り救われないことになる。いっそ死ねと言われているに等しい。
「なにもそんなにしょげ返ることはないぞ。坊はやさしい。そして、見た目以上に芯の強いおのこじゃ。坊なら、きっと姉ちゃんを救える。変えられる。笑ったり泣いたりする姉ちゃんにな」
「そうでしょうか」
貞之助の声に力はなかった。
「大丈夫。おいらたちが受け合う。なあ、青鬼よ」
「おうよ。姉さま思いの坊ならきっとできる。自信を持ちな。これからの坊には、それが何よりの力になる」
鬼たちに励まされていると、不思議と胸の奥で熱いものが生まれるのを感じた。それが鬼たちの説く自信なのかはわからないが、いずれ大きな力になる予感がした。
赤鬼たちに連れてこられたのは大きな岩の前だった。赤茶けた肌の岩だ。その根元にしみが見えた。貞之助は気づいた。わたしが夢であって欲しいと願って放尿した岩だと。
「坊はたしかこの岩の上から落ちてきたんじゃ。ということは、この上に帰り道につながる穴があるはずじゃ」
そう言って、赤鬼は岩の上を窺った。
「何度も言うが、もう二度と来るんじゃないぞ。ここは坊のような子供が来るところじゃない。非道の限りを尽くしたどうしようもない悪党ばかりが落ちて来るところなんじゃからな。ええか」
赤鬼は腰を下ろして貞之助に念押しした。やさしい鬼なのだが、やはりその姿は恐ろしい。
「わたしは来たくて来たのではないのですが」
「わかってるよ。だけどよ。坊の何処かに逃げたい気持ちが強くあると、たまにこんなことがあるんじゃ。気をつけなよ」
「はい。ありがとう」
赤鬼は大岩の上に貞之助を立たせた。
「上に両手を伸ばしてみな。坊がいた場所に手が出るはずだ」
言われるまま、貞之助が両手を空に伸ばすと、スーッと両手の先が消えた。無論、手が千切れてしまったわけではない。差し出した先に違う空間があるのだ。それはきっと貞之助が居なくなった寺の境内に違いない。
「ではいいか? おいらが持ち上げるから、その目で確かめてみな。坊が知っている場所なら、元居たところだ。知らなきゃ、また別を探さなきゃならん」
頷いた貞之助の体を赤鬼は持ち上げた。ぐっと持ち上がった貞之助の首から上が消えた。違う空間に出たのだ。貞之助の目には、朝靄に包まれた寺の庭が見えた。
「どうだ。坊が居た場所か?」
足元から赤鬼の声が聞こえた。不思議だ。頭だけ飛び出ている貞之助には、その声が土の下から聞こえるようだった。
「大丈夫です。間違いありません」
貞之助が答えると、彼の体が一層持ち上がって、ついに境内へと転がった。貞之助は振り返って赤鬼たちに礼を言おうと思ったが、もうそこに地獄への入り口はなかった。辺りには小鳥たちの長閑なさえずりだけが聞こえていた。それでも貞之助は、
「ありがとう」
と土の下に向かってつぶやいていた。
「不思議なこともあるものですねえ」
里久はさかんに首を捻った。
「そりゃあ、こうなって欲しいと願ってお預けしたのですが、ここまで落ち着いた男になって帰ってくるとは。何から何まで和尚様の説法の賜物でございますよ」
里久は丁寧に頭を下げた。里久の上座には貞之助を預けた光明寺の和尚覚前がいる。たしか昨年喜寿を迎えたと聞いている里久には、その眼前で微笑む老人がずっと若々しく見える。それでいてちょっとした表情に何もかも知り尽くしたような年輪が窺える。これが功徳というものなのだろうか、と里久は胸の内で感心するのだった。
「実はわしも驚いているのです。ある日突然、目つきが変わったと思ったら、それからというものはもうすっかり落ち着いたおのこになりなさった。弟子たちの間では本気でこう申す者もあるくらいです」
覚前は一息入れるようにお茶を口に含んで、
「御仏が貞之助殿の中に入られたのではないか、と」
両手に包んでいた湯呑をゆっくり戻して、微笑みをたたえた元の顔に戻した。この前後に何事もなかったような眼差し。老人のつぶやきは心の声だったのだろうか。しかし、対面する里久には驚きと信じ難い思いが交差していた。
「御仏が?」
思わず身を乗り出した自分に気づいて、里久は再び姿勢を戻した。隣に貞之助が居る。孫に無様な姿を見せるわけにはいかない。
「そう申すのは、わしら仏門ではよくあることです。この世の理は御仏がお作りになられておる。ある者は、人ひとりひとりの中に御仏がおられると説く者もあります。もしそうであるなら、御仏がそのお姿をお見せになられても、少しも不思議ではないと言えるのではないでしょうか。ほとんどは、わしのように老いぼれてのちにようやくお姿が見えるかどうかというもの。それが貞之助殿には早く出現なされたのかもしれませんのう。決してあり得ぬという話ではございません」
つまりは、本来貞之助に潜在した大人びた心が、修行のお陰で表面化した。そういうことを和尚は和尚なりにやさしさを込めて言ってくれているのだろう。そう里久は読み砕いた。仏門で生きる者にとって、それが御仏のご加護だと語るのは自然な理屈に他ならない。とにもかくにも、あの泣きべそだった孫が落ち着いた男として帰って来たのだ。素直に喜ばなくては、それこそ罰が当たる。里久は祖母のまなざしで貞之助を見やった。
一方で、貞之助は和尚の話を聞きながら、地獄でのことは固く胸に秘して語らずにおこうと決めていた。実際、地獄から帰った後の寺での生活でも、誰にも打ち明けることはなかった。打ち明けたところで、夢物語だと笑われることはわかっていたし、反面、和尚が言うような御仏のお導きだと変に誤解されて、貞之助が抜け出たあの穴を万が一見つけられて、僧侶たちが地獄へ大勢押しかけるようなことになっては、鬼たちに迷惑がかかる。鬼たちと約束したわけではないが、言わずにおくのが男としてのけじめというものだ。別れ際に赤鬼が何度も念押しした。「二度とここへは来るのではないぞ」と。あれはわたしに限らず、誰にも来させるなと言っていたのかもしれない。そうだ。あれが約束だったのだ。わたしは男として約束したのだ。そう。わたしは一人前の男なのだ。あの泣き虫だった貞之助はもうここにはいない。
ただ、和尚の話を聞きながら、貞之助にはひとつ頷けることがあった。それは鬼の親方のことだ。その姿は不動明王に似ている。頭の角と額にあった大きな瘤を除けば、寺で見た不動明王の木像に瓜二つだった。睨みつける眼光といい、黒く逞しい体躯といい、親方は不動明王そのものだ。御仏について詳しいわけではない。だが、不動明王はそのお姿の猛々しさとは相反して慈悲の仏とされていたはずだ。それは親方そのものではないか。地獄へ落ちたわたしをこうしてこの世に無事帰してくれた。それを慈悲と言わずして、何と言おう。親方は地獄の鬼たちを束ねる御仏なのだ。極楽も地獄もあの世だ。そこに境はあるのだろうか。この世に貧富があるように、武家と百姓と商家があるように、同じ地べたの上に極楽も地獄もあるのではないだろうか。無論、その地べたはこの世の地べたとは違う。そして、重い罪を犯した咎人が地獄へ行き、そうでない者が極楽へと行く。それだけの違いなのだ。確かにその差は大きいが。
ひとりひとりの中に御仏がいるというのなら、わたしの中にいる御仏は不動明王かもしれない。そうあって欲しいと思う。見てくれではなく、真に慈しむ心が大切だと思う。まだ小さいわたしだが、自信を蓄え、大きな人間になりたい。そして、いつか姉さまを助けたい。変えたい。
覚前はじっと貞之助を見つめていた。その眼差しは珍しく険しい。だが、貞之助が視線に気づくと、すぐにまた元の穏やかな顔となった。
「貞之助殿」
覚前が呼びかけた。
「はい」
「何か思い込むことがあったら、遠慮なくこの老体を訪ねてまいられるがよい。いつでもお相手しますぞ。ま、答らしいものは出せませんがの。そなたが考える糸口くらいは出せ申そう。そもそも正しい答などというものは、この世にはござらん。また、間違いというものもない。いくつも道はある。その道を人は迷い迷い選び、選んだ道なりに生きてゆく。それが人なのだ。よいかな」
覚前の穏やかだが染み入ってくるような眼差しに貞之助は心の奥まで掴まれた。その眼力に身動き一つできなかった。
「はい。ありがとうございます」
そう答えて頭を伏せるだけで貞之助は精一杯だった。
寺から帰ってきたからというもの、貞之助は姉に会えないかと苦心していた。しかし、姉は一日中忙しく、姿は見えても、とてもゆっくり話ができる様子ではなかった。日によってはまったく顔さえ見えないときもあった。
そんなある日。貞之助は呼ばれた。父与兵衛にである。部屋には母の雪乃もいた。二人が日中に揃うなど珍しい。しかも同じ部屋に三人が顔を揃えるなど。
雪乃はそろそろ貞之助に伝えるべき頃合いだと思っていた。そう思い立ってから、何度も亭主の与兵衛や母里久に相談してきたのだ。しかも、貞之助は寺での修行を終えて見違えるほどに落ち着いた男として帰って来た。話すなら、今をおいて他にない。前夜の内に与兵衛と里久に念押しして、今日という日になったのだ。不安がないわけではない。だからといって、いつまでも放っていいものではない。こちらから打ち明ける前に、余人が貞之助の耳に入れてしまえば、いっそう気まずくなる。それは避けたい。貞之助のためにも。山城屋のためにも。
「父さま。母さま。お呼びでしょうか」
きちんと頭を下げる貞之助の姿は以前からも礼儀正しい子供であったが、改めて眺める我が子にはいつの間にか男らしい凛々しさが備わっている。それが頼もしくもあり、いつか自分の手元から旅立っていく予感も重なって、雪乃の胸中に物哀しさがよぎった。
「実はな」
切り出してはみたものの、元々口下手な与兵衛には荷が重すぎた。困って黙ってしまった亭主に仕方なく雪乃が助け舟を出す。
「実は貞之助。そなたの母のことなのです」
母親である雪乃に「そなたの母のこと」と言われて、貞之助は何のことやら母の意図が掴めずにいた。母が自分のことを話すのであれば「わたしのこと」と言うはず。それを「そなたの母」と改まった言い方をしたのは、「そなたの母」に重い意味があるからなのだろうか。貞之助は胸中穏やかでない。
「そなたの母。産みの親はわたしではありません」
え? 声にならない驚きで貞之助の口は半開きとなったまま、雪乃の顔を見つめた。いや、目は向いているものの、貞之助の目には何も見えていなかった。ただただ「産みの親はわたしではありません」という雪乃の声だけが貞之助の中でこだましていた。果たしてその言葉さえも言葉として貞之助の胸に落ちていないかもしれない。それほどの衝撃が彼を襲ったのだ。
「そなたを産んだ琴乃はわたしの姉です。琴乃はそなたを生み落として間もなく亡くなってしまいました」
雪乃はなるべく事実だけを伝えようと決めていた。どれだけ言葉で覆っても、貞之助に受け止めてもらえなければ意味がない。まして間違った理解はお互いの不幸につながりかねない。だから、事実だけを伝えようと決めていた。そして、自分は貞之助を産んではいないが、育ての母としてずっとそばにいた。我が子のように、いや、実の子としてこれまで育ててきた。その思いに偽りはない。それは確かな事実なのだ。きっと貞之助もわかってくれる。今はすぐに受け入れられなくても。いっときは互いの間に溝ができるかもしれない。しかし、共に過ごしてきた日々が必ずその溝を埋めてくれる。雪乃はそう思った。そう願った。
「母さまはわたしの母さまではないのですか」
真っすぐな目が雪乃を射った。妥協を許さない目だ。やはり事実だけを伝えたことは間違いではなかった。曖昧な言い方をして誤解を招けば、この目はたちまち怒りと燃えただろう。雪乃の中で関門の一つを乗り越えた安堵が広がった。一方で、よく似ていると思った。姉の貴恵に、この目は似ている。日頃こそ、物事を突き詰めたり、決断することのない貞之助にとって、真剣に取り組む場がない。だから、こんな目つきにさせる機会がこれまでなかったのだ。しかし、いざそういう場を作ってみせれば、表現は悪いが、内に潜んでいた正体が出現したのだ。言い換えればそれは、子が成長したということなのだ。幼子が子になり、既に今は男になった。雪乃は我が子に目を細めた。
「わたしはそなたの母です。それは何があろうと変わりません。ずっとそなたを育ててきた。見守ってきたのです。わたし以外にそなたの母はこの世におりません。神仏に誓って申しましょう。ただ産みの親ではありません。これも事実です。そなたはすっかり一人前となりました。中にはそなたにあらぬことを、事実と違うことを吹きかける者がおらんとも限りません。ですから、早めにそなたには事実を伝えておこうと思ったのです。ただそれだけです。何も心配に及ぶことはありません。そなたはわたしの子であり、わたしはいつまでもそなたの母です。そのことに一点の曇りもありません」
微笑みながらも毅然とした声で語る雪乃は、貞之助が初めて見る母の真剣な姿だった。
育ての母と産みの母。そのことにどんな違いがあるのか、貞之助にはわからなかった。ずっと雪乃を母だと思ってきた。これからも母だと思う。わたしを産んでくれた琴乃という人はどんな人なのか知らない。母の姉というからには、美しい人だったのだろう。だが、ただそれだけだ。可哀そうだが、既に死んでいる人なのだ。何処かで生きているというのなら、会いたい気持ちが湧き出たかもしれない。しかし、会うこともできない、どんな人かも知らない人に、恋しさとか、懐かしさ、といった感情の生まれるはずもない。わたしは冷たい人間なのだろうか。あるいは、あの地獄にそういった感情を置いてきてしまったのだろうか。自信を身につける代わりに。いや、違う。泣き虫だった幼いわたしでも同じ気持ちになったと思う。仮に、今ここで産みの親だと言って琴乃という人が現れたとしても、わたしは母として雪乃を選ぶ。それが自然だと思う。慣れ親しんだ雪乃に愛着は感じても、突然現れた別の母を本当に母と呼べるだろうか。愛情が湧くだろうか。きっと産みの母を悲しませるだけなのだろう。わたしはそんな気がする。
「わかりました。教えて下さりありがとうございます」
ゆっくりと頭を下げた貞之助に、思わず雪乃と与兵衛は見合って微笑んだ。顔にこそ出しはしないが、二人ともほっと胸をなでおろしたことだろう。一方で、貞之助に一つ疑問が湧いた。
「聞いてもよろしいでしょうか」
「なんでも聞くがいい」
重荷を下ろした顔で与兵衛が答えた。
「姉さまはこのことを知っているのでしょうか」
途端に迷いを浮かべて与兵衛は雪乃を見やった。雪乃が代わりに答える。
「知っています。貴恵はそなたが生まれたときにはもう四つになっていましたから。死んだ母のことを忘れることはないでしょう」
そう言った雪乃の表情にわずかだが影が射した。自分になつくことのない貴恵への寂しさが表に出たのだ。雪乃のその変化に貞之助は気づかずにいる。いや、彼の目は雪乃に向いていながら見てはいなかった。彼の頭の中は貴恵に対する思いでいっぱいになっていた。
そうだったのか。姉さまは死んだ母を知っているのだ。短い月日だが、母と共に暮らしていたのだ。急に姉が羨ましく思えた。そして、こう思った。わずかでも本当の母と暮らした姉さまと、十数年を育ての母と過ごしているわたしと、どちらが幸せなのだろうと。知らず知らずに、産みの母を本当の母と置き換えている貞之助だった。彼の中で、先ほどまで気づきもしなかった感情がみるみる大きくなっていった。初めて姉に対して嫉妬を覚えた。姉さまに聞いてみたい。母琴乃がどんな人であったのか。すると、はたと思い当たることがあった。姉がなぜ雪乃を避けるようにしていたのか。姉は雪乃を母と思っていなかったのだ。姉にとっての母は琴乃だけだったのだ。そこまで思い至って、姉の抱えるしこりの原因が何にあるのかわかったような気がした。
姉さまは不幸だ。なまじ本当の母さまを知っているだけに、母さまへの思いを捨てきれないのだ。その点、わたしはなんて暢気に暮らしてきたのだろう。目の前の雪乃を母と疑わず、これからも母として慕っていこうとしている。姉さまにはきっとわたしに対する歯がゆさがあったに違いない。なぜ気づかないのかと。雪乃に甘えてばかりいるわたしに腹立たしかったことだろう。しかし、ではなぜ姉さまはそのことを教えてはくれなかったのか。なぜだ。新たな疑問で貞之助の頭はいっぱいになった。
是が非でも姉さまをつかまえて話を聞きたい。母のこともあるが、それ以上に、なぜ姉さまは事実をわたしに教えてくれなかったのか。あるいは、隠していたのだろうか。そうだとしたらひどい。この世に二人きりの姉弟ではないか。幸恵は妹だが、母が違う。琴乃の子供は姉さまとわたししかいないのだから。
数日かけて、貞之助は姉と接触できる機会を窺った。しかし、店内では、姉の姿を見つけても、必ず理久か雪乃か他の者が一緒にいた。これでは話などとてもできない。それを知った貞之助は店の中では無理だと思った。それなら外で掴まえよう。そう思いついてからは、取引先や思い当たる場所を軒並み探し回った。しかし、何処をどうすれ違っているのか、姉に巡り合うことはなかった。それは当然といえば当然だった。貞之助は山城屋の者に姉の所在を訊ねなかった。そんなことをすれば雪乃に魂胆がばれてしまう、と思っていた。わたし一人だけで姉を探し、話をするのだ。しかし、悲しいかな。そこはまだ子供である。どの店に行っても、店内に入ろうとせず、外から様子を眺めてばかりだった。その店の使用人たちが忙しくしているのを見て怖気づいた。いざ訪ねるとしてもその口実が思い浮かばなかった。まして店の奥まで入り込むなど思ってもいない。取引先との商談が店先で行われるものではないことを、まだ商売のイロハさえ知らない貞之助が思いつくはずもない。そんなことで、彼が姉を探し当てるなど、偶然の重なりを待つしかなかった。
その日も足を棒のようにして帰って来た夕刻。貞之助を呼び止める声があった。手代の勘助だった。
「坊ちゃん。こっちです。こっちでございますよ」
「なんだ。勘助さんじゃないですか。誰かと思った」
勘助は山城屋に向かう二軒手前の乾物屋に身を隠すようにしていた。山城屋の手代がなぜ店仕舞いもせぬ内から店を離れてそんなところにいるのか。だが、商売のことを知らない貞之助には疑問に思うことさえない。
「少々お付き合い下さりませ。折り入ってそのお耳に入れておきたいことがございましてね」
勘助はさかんに周囲に気を回しては、小声で言うのだった。もうそれだけで十分に怪しいのだが。
「なんです?」
まったく無防備に貞之助は勘助の後ろに従った。
勘助はどんどん歩いて行く。遅れては見失うと思うから、貞之助は勘助の背中を追いかけ懸命に歩いた。そして、三つほど筋を通り抜け、ようやく勘助が腰を下ろしたのは団子屋だった。出てきた小娘に二人分注文して、茶をすすった。団子はすぐに二人の前に置かれた。うまそうな団子を前に、貞之助は勘助が切り出すだろうと、手も付けずに待っている。すると、「まずは腹ごしらえなさいませ」と話し出すどころか、さっさと食い始めたので、貞之助も仕方なく団子をほおばった。ひたすら団子をかじる二人。すぐに団子はなくなり、はだかとなった串が小皿の上に残った。人は食い物を腹に収めると、物事も飲み込みやすくなる。貞之助が気づかぬ内に、仕掛けはじわじわと彼を追い込んでいた。茶を飲み干して、やっと勘助が口を開いた。
「坊ちゃん。坊ちゃんは、本当のおっかさんが誰か知ってなさいますか」
藪から棒な言い出しだった。そもそもそんなことは軽々しく口にするものじゃない。貞之助がもう少し年を重ねていたら、きっとそう答えて相手にもしなかっただろう。だが、今の彼にそんな分別はない。まして、数日前に、雪乃たちから実はと切り出されたばかりだ。食いつかないわけがなかった。
「知っています。先だって教えてもらいました」
貞之助の声は落ち着いていた。だが、心は揺れていた。この勘助は何か知っているのだろうか。手代ともなれば、知っているのは店のことばかりではないのかもしれない。貞之助は不安と期待で体が震えそうなのを懸命にこらえた。
貞之助の答に最初は「ほー」という顔を見せたが、それからの勘助は難しい顔をしたまましばらく黙った。そして、何度か頷いた後、ぽつりと言った。
「お可哀想なことでした」
誰が可哀そうなのか。何が可哀そうなのか。一言だけではわからない。貞之助は次の言葉を待って、勘助を見つめた。だが、なかなか二の句を言わない。そんなに言い難いことなのか。そうなると、待っている方が勝手にいろいろと想像してしまう。貞之助はすっかり勘助が仕掛けた罠にはまってしまった。あとは仕上げに入るばかりだ。
「琴乃様は殺されたのでございます」
「……」
貞之助の思考が一瞬で止まった。頭の中を悲鳴が響き渡っていた。それは誰の悲鳴なのか。何の悲鳴なのか。わからない。ただもう恐ろしげな声が轟いて止まない。その悲鳴に埋め尽くされて、頭が機能しないのだ。
「坊ちゃん。お気持ちをしっかりお持ちになって下さい。わたしも申し上げるに忍びないのです。辛くて、辛くて」
勘助はそこで洟をすすり上げた。泣いていると見せかけているのだ。
「それでもですよ。近くに下手人がいるとなれば、話は別です」
「え?」
ふと、鳴り響いていた悲鳴が止んだ。
「今、なんて?」
「琴乃様を殺めた張本人が坊ちゃんのすぐそばにいるんです」
あまりのことに開いた口がふさがらない。母が殺されたことも。そして、その殺した本人が今もわたしのそばにいることも。
「それは」
驚きと言い知れぬ緊張とで、貞之助の喉はひりつくほど乾いて、声もかすれた空気にしかならない。
「それは誰かって? よくお考え下さい。坊っちゃんくらいの年になれば世の中のこともおわかりでしょう。琴乃さまがいなくなって誰が一番得をするのか。坊ちゃんのそばにいて、琴乃様を怪しまれずに殺められる者は誰か。おのずと見えてくるのではないでしょうか」
「……母。いえ、雪乃? ですか?」
貞之助にその名前を言わせる。それが勘助の仕掛けた罠だった。他人が一方的に教えるよりも、自分で答えを導いた方が、当人はより信じてしまうのである。自分が考えた結果なのだから。その理由さえ頭の中に浮かんでいる。疑う余地を消してしまう上手いやり方だ。
貞之助は茫然とした。まさか母が。わたしの実の母を。しかも雪乃にとっては実の姉ではないか。否定しようとすればするほど、その真実味が増してくる。ついには、雪乃が琴乃を殺害する場面さえ思い描いてしまう。貞之助は自分で作り出した迷路から抜け出せなくなってしまった。
貞之助の問いかけに勘助は肯定も否定もせず、こう言った。
「年始に旦那様は、ゆくゆくは山城屋の身代を貴恵お嬢様にお譲りになるとおっしゃいました。ですが、もしもですよ。もしも、貴恵様に万が一のことがあれば、どうなります? 女のお身内が次々と早逝なされたとなりゃあ、いかに気丈な旦那様でも不安になるというものです。琴乃様の忘れ形見は貴恵様と坊ちゃんのお二人だけだ。山城屋はそうかもしれませんが、世間ではおおよそ男が家督を継ぐものです。もしも旦那様のお気持ちが変わって、ご自分の跡は坊ちゃんにとなってごらんなさい。穏やかでないのはどなたでしょう。そもそも、琴乃様がお亡くなりになった後、次はわたしだと思っておられたはず。それがまさかの貴恵様だ。面白いわけがありません。おまけに幸恵お嬢様もお生まれになった。琴乃様の血筋からご自分の血筋へとお考えになるのは、まったく人間の性というものでございましょうかねえ」
勘助はそこまで話すと腕組みして何度も頷きを繰り返した。自分で自分の言った話に同意している仕草だ。そうすることで、自分の推察が間違いではないと貞之助に印象付けているのだ。勘助には魂胆があった。里久が貴恵を跡継ぎと宣言した以上、それを覆すことは難しい。それなら貴恵に商いの才がないと認めさせて追い落とし、貞之助に継がせればいい。貞之助には今のうちに自分が味方なのだと信じさせて、自分への評価を高めておこう。そうすればゆくゆく番頭の座が転がり込んでくる。そう算段してのことだった。しかし、真の狙いは、貞之助に雪乃や与兵衛に反目させ、その仲を引き裂こうというものだった。これが、与兵衛に店での地位を追い抜かれ、雪乃を奪われた勘助の、歪んだ復讐だった。
貞之助は何も答えなかった。だが、この場合、その態度は勘助の話を受け入れたに等しい。最後に勘助はこう言って、立ち上がった。
「くれぐれもご用心なさいませ。何か不審なことがありましたら、いつでもこの勘助におっしゃって下さりませ。勘助は坊ちゃんのお味方でございます。それをお忘れなく。それではこれで。ちょいと藪用がありますので、ここで失礼いたします」
去っていく勘助の後ろ姿を茫然と見送る貞之助だった。ニヤリと笑った勘助の顔に気づくこともなく。
他の子であれば、すっかり騙されていただろう。しかし、勘助の誤算は、貞之助と雪乃との間にある信頼の篤さを知らないことだった。それは雪乃がこれまでに注いだ厳しくも深い愛情の証でもある。
足取り重く帰る貞之助の体には鉛が入っているようだった。何も信じられない。つい数日前まで実の母だと疑うことさえなかった雪乃が母ではなく、しかも、実の母琴乃を殺した極悪人だったとは。信じられない。勘助の言葉は頭では飲み込めても、気持ちが拒絶した。まるでわたしの中に二人のわたしがいる。それが互いに睨み合って相譲らない。取っ組み合いの喧嘩にならないのは、貞之助自身が疲れて、その気力がないからだ。
わたしはいったいどうしたらいいのだ。
答が出る当てもなく、暮れかけた通りを歩く貞之助の視界はそれ以上に闇だった。ただただ体だけが動いていた。巣へ帰る鳥のように。
山城屋へ着こうかという手前で貞之助の足が止まった。店から誰かが出てきたのである。それは雪乃だった。上客であろう武家の奥方を見送りに出たらしい。雪乃と気づいた直後、貞之助は駆け出していた。踵を返して、今来た道を逃げるように駆けた。それは彼自身でも予期せぬ行動だった。なぜわたしは駆けているのか。自分に問いかけても、体は駆けることを止めなかった。貞之助は気づいていない。雪乃から逃げている自分に。
今日一日歩き詰めだった。しかも、山城屋に着く手前で雪乃の姿を見た貞之助は店に近づくこともできず、それからずっとさまよった。歩き続けたあげく、残された力も使い果たし、ふらふらとなってたどり着いた先は神社の境内だった。何処の神社なのか。今いる場所が何処なのかわかる術はなかった。
覚前和尚がいる寺とは比べものにならないほどに狭い敷地だった。その中央に拝殿らしき建物があった。貞之助は疲れ切った体を引きずるように歩き、浜縁にどっかり腰を下ろした。夕闇が辺りを包みつつあった。春とはいえ、日が暮れると肌寒い。貞之助は膝を抱え、寒さを堪えた。腹も空いてきた。勘助と食べた団子が遠い昔のことのように思える。泣きたくなった。泣こうと思った。だが、泣けなかった。不思議だった。以前なら、泣けたはずだった。そう言えば、地獄から帰ってからというもの、一度も泣いていないような気がする。あの、雪乃から実の母ではないと告げられたときも。実の母琴乃は既に死んでこの世にいないと聞かされたときも。そして、今日、勘助から琴乃を雪乃が殺したのだと宣告されたときも。わたしは泣かなかった。いや、泣くことさえ忘れていた、……のか?
わたしは地獄に涙まで置いてきてしまったのだろうか。もろもろの感情と共に。自信を得るというのは、それ程に代償を払わなければならないものなのか。
「おい、お前。こんなところでなにしてやがる」
ふいに声がかかった。それもあまり質の良くない言いざまだ。貞之助が見上げると二つの影があった。暗くてそれがどんな男たちなのかわからない。男というのも声でそう思っただけだ。もう一人は女かもしれない。それにしても、こんな日暮れに寂れた神社にやって来る連中など碌な者ではない。貞之助の胸中にいやな予感が走った。
「なんだお前。小僧じゃねえか」
「兄貴。こいつはめっけもんかもしれやせんぜ」
「なんだと」
兄貴と呼ばれた方の男がぐいっと貞之助に顔を寄せた。急に暗がりから突き出た顔に思わず貞之助は仰け反った。その顔には目元から頬へかけて縦に傷があった。やはり碌な者ではなかった。
「やす。おめえ目がいいな。確かにこいつぁ上物だ。坊主。いいべべ着せてもらってるじゃねえか。家は何処だ。おじちゃんが連れて行ってやるよ。きっと帰り道がわからなくなったんだろ。ええ? そうだろ?」
男は貞之助に腕を伸ばした。その手を貞之助は払いのけた。
「てめえ、なにしやがる!」
子供に邪険にされたと思ったか、男は本性を現して貞之助に迫った。貞之助の背後は拝殿の壁だった。前には頬に傷のある男。左手は拝殿に上がる階段で塞がれ、一方の右手は目ざとくもう一人の男が先回りした。逃げ場がない。
「諦めな。何処にも逃げ場はねえぜ」
男の笑う顔が見えるような声だった。
貞之助は拝殿の壁に背中をつけた。そして、思い出した。懐にある巾着を。貞之助は巾着を取り出すと、中に手を入れて砂を鷲掴みにした。
「なにしてやがる。往生際の悪い小僧だ」
そう言った男の顔に砂がぶち撒かれた。
「わっ! なっ、なにを!」
驚き喚く男はものの見事に砂を吸い込んだ。咳き込みながら背を丸めて苦しんでいる。その様子を見ているもう一人にも、貞之助は容赦なく砂を見舞った。同じく吸い込んだ男も激しく咳き込んだ。それからしばらく男たちは咳き込んでいたが、やがて静かになった。貞之助はどうなるのだろうと固唾を飲んで見守った。その隙に逃げることさえ忘れて。
男たちはただ立ち尽くしている。何が起きたのか。すると、
「ここは何処だ?」
と声がした。その声は確かに頬に傷のある男の声だった。だが、声からは先ほどまであった凄みが消えていた。声だけなら、商家の奉公人と言ってもいい。
これまでの記憶を失くしたのだろうか。貞之助にはまだ半信半疑だった。勇気を出して男に近づいた。
「あっ、急になんだよ。あんたは誰だい?」
男は暗がりから現れた貞之助に少し驚いたようだった。月明かりの中離れていれば闇が姿を隠してくれるのだが、それにしても、男が貞之助を忘れているとしか思えない反応だ。男は記憶を失ったのだ。貞之助は確信した。そして、もう一人はと見たが、何処にもその姿はなかった。このうら寂しい神社の境内で人相の悪い男がそばにいて怖くなって逃げ出したのだろう。頬に傷のある男が仲間だということも忘れて。
「あんた、おいらのことを知らないかい? どうも思い出せないんだ。おいらが誰だったか。おいらの名前は何だ? どうしてこんなところにいるんだ? あんたも一緒にいるってことは、きっとあんたはおいらを知っていて、それから……」
男はさかんに首を捻って、自分が誰なのか思い出そうとしている。
「梅吉さん。あなたは梅吉さんだよ」
貞之助はうそをついた。どうせ翌朝になれば、今夜のことは一生思い出せない。それならと思いついたうそだった。
「そうか。おいらは梅吉か」
男の声は喜びと不安の混じった声だった。しっくりこないのだろう。
「それで? おいらはどうしてこんな夜にあんたと一緒にいるんだ? それもこんな神社に」
男は拝殿を見上げた。それで神社と知ったようだ。
「わたしを迎えに来てもらったのですよ。この境内でお神楽の稽古があったから」
「迎え? お神楽? 稽古?」
「いやだなあ、梅吉さん。先ほど頭が痛いとうずくまってから、変ですよ」
「そ、そうですか。なんか全部忘れちまったみたいで」
「頭が痛いのは治りましたか。治ったのなら、帰りましょう」
貞之助は男と手をつないだ。
「で、ですが、どうもその……、帰り道も忘れちまったみたいで」
男はさかんに頭を掻いた。
「大丈夫。道はわたしが知っていますから」
「そ、そうですか。そりゃあ、すみません」
凄みのある顔の男にぺこぺこされるのは、なんだか愉快だ。優越感に浸れる。意外にこの男の本性は悪人ではないのかもしれない。おそらくは、顔にある頬傷がこの男の人生を変えたのではないか。貞之助はふとそんなことを想像した。顔に深く刻まれた傷が、寄ってくる人間を変えた。いや、本当はこの男に近づく者が、顔の傷を見て、自分たちの仲間とすべきか選別したのだ。そうして残った連中が悪人しかいなかったのだ。もし傷がなかったら、きっと真っ当な人生を送ってこられたのではないだろうか。人は見た目で大きく印象を変えてしまうから。
するとわたしはどうだろう。わたしの顔に傷はない。顔どころか体の何処にも傷はない。だが、心の奥に刺し込まれたような傷がある。初めこそはかすり傷と気にもしていなかった。それから、姉さまへの嫉妬が加わり、少し傷口が開いた。そして今日、勘助さんがもたらした雪乃への疑惑で、傷口はいよいよ大きく開いて、体中にある雪乃への愛情や信頼といったものが赤い血となって流れ出ていく。このまま傷を放置すれば、わたしの心は荒んでしまうのだろうか。この男みたいに。では、どうすればいいのだ。いったいわたしはどうすれば。
貞之助は懐にある巾着に手をやった。この砂を吸えば、わたしもすべてを忘れる。しかし、一夜限りだ。それでも一刻だけでもすべてを忘れて気楽になってみたい。懐から巾着を取り出そうとして、貞之助はためらった末また懐へ戻した。何も解決しない。ただ一時しのぎに過ぎないと気づいたからだ。
わたしは今男と共に山城屋へ帰ろうとしている。一旦は飛び出した家に。今夜は野宿だと決めた覚悟は、この男たちに取り囲まれた不安でいとも簡単に砕け散った。やはりわたしには他に行く場所がない。だが、帰れば雪乃が待っている。きっと呼ばれる。こんな夜に出歩いたことなど一度としてないのだから。そのとき、わたしはどんな顔をすればいいのだろう。なんと答えればいいのだろう。いや、もうその必要はないのだ。むしろわたしは雪乃を憎まなければいけないのだ。母琴乃を殺したのだから。そう。雪乃はわたしの母を、実の姉を殺したのだ。しかし、それは本当だろうか。真実だろうか。今日初めて勘助さんから聞いただけなのだ。でも、もし本当だとしたら……わたしは雪乃を憎める……だろうか。
もやもやした気持ちのまま貞之助は男と共に歩き続けた。神社からの道は不案内だったが、広い通りに出たら山城屋までは一本道だった。山城屋の近所まで来て、男には適当に幾つも右や左に曲がる道順を教えて、その先の長屋が男の自宅だと言って、帰した。このままずっと男の記憶が戻らないのなら雇ってあげてもいいが、翌朝になればあの柄の悪い男に舞い戻ってしまう。今夜は行く宛わからず野宿となるだろうが、これまでの報いだと、男の背中を見送ったのだった。
店に入り、奥にある自室へ行く途中の廊下で、やはり雪乃に呼び止められた。襖越しの声だった。足音で貞之助と察した雪乃だった。予期していたものの、まだ貞之助には気持ちの整理がついていなかった。こんなあやふやなまま雪乃の顔をみる気にはならなかった。だから、いつもなら雪乃の言に従い部屋に入るところだが、貞之助は少し立ち止まっただけで、また歩き出し、そのまま部屋の前を行き過ぎた。結果的には無視したことになる。これは生まれて初めての行動だった。後ろめたさがあったが、それ以上に、雪乃に対するわだかまりの方が強かった。しかし、そのわだかまりが何処からくるものなのか、判然とはしなかった。母琴乃を殺した疑惑か、長年に渡り自分に隠し事を続けたことへの失望か。どちらもそうだと言えるが、それだけではない気がする。では、他に何があるのかと自問するが、途端に煙幕に巻かれるように見えなくなる。実は既に答を出しているわたしがいて、その一方で、答を認めたくないもう一人のわたしがいる。今はまだ、答を認めたくないもう一人のわたしが答を奥深く隠している。そんな気がした。
「貞之助?」
もう一度雪乃の声が彼の背中を追いかけたが、貞之助が振り返ることはなかった。
その夜は寝つけなかった。いろんな思いが貞之助の頭の中をぐるぐるいつまでも回った。一つ思いついては、また次に思いついた考えがたちまち打ち消してしまう。その繰り返しだ。切りがなかった。いい加減疲れ果て、眠ってしまえばいいものを、それがどうも頭が冴えて眠れないでいた。体はもうへとへとなのに。
ふと姉さまのことが浮かんだ。きっと姉さまにもこんな眠れない夜が幾度もあったのだろう。ほんの数カ月前まで、この部屋で共に寝起きしていたのだ。気づかなかったわたしが情けない。姉さまは母さまについて一言も語らなかった。我慢強い人だと思う反面、冷たさも感じる。母さまの血を分けた唯一の姉弟なのに。わたしには酷だと思ったのだろうか。受けきれないと思ったのだろうか。いずれはわかることなのに。実際にこうして知らされているのに。姉さまにはこの日が来ると想像できなかったのだろうか。
これから姉さまのところへ行こうか、と気持ちが騒いだ。蒲団から半身を起こした。姉さまの部屋はおばばさまの部屋の奥だ。一度は無理だと諦めていた。おばばさまの部屋を通り過ぎて行くなど、到底できるものではない。だけど、この夜中なら。あるいは、おばばさまは眠り込んでいて気づかれずに行けるかもしれない。だが、行けたとして、いったい何を話す?
あんなに姉を探し回っていた貞之助だが、今は話すことが多すぎて混乱していた。特に勘助が口にした疑惑が胸につかえている。真実かどうか知りたい。だが一方で真実を知りたくない気持ちもある。いや、その方が強い。雪乃が実の姉を、わたしの母さまを殺したなんて、考えるだけで怖くなる。信じたくない。だけど、もし真実だったとしたら。姉は知っているのだろうか。知っているのなら、なぜ教えてはくれないのか。あるいは、教えないのではなく、教えることができない。つまり、姉は知らないのかもしれない。いや、真実ではないから、そもそもそんなことはなかったのだから、教えようもないのか。また堂々巡りとなっていた。
姉さまはきっと疲れてなさる。それを無理やり起こすのは気の毒だ。
貞之助はそう自分に言い訳して結局は諦めた。そして、一度は寝転んだものの、起き続けている体が尿意を催した。再び起き上がり、厠へ立った。夜空には月が煌々と照らしていた。それを見上げた貞之助だが、内庭の片隅で蠢くものに気が行くことはなかった。
厠で用を足した帰り、部屋へつながる廊下を歩いている貞之助の耳に物音が聞こえた。それは物と物が当たって生まれる音というより、何か囁く声のように聞こえる。こんな夜更けになんだろう。不気味だ。気づかなければよかった、と貞之助は寝間着の襟を合わせた。このまま気づかないふりをして行き過ぎよう。部屋に入って寝てしまおう。そう思った時、明らかに自分を呼ぶ声がした。
「坊……坊」
わたしを坊と呼ぶ者などいない。いるとしたら……。貞之助は声がする暗闇を凝視した。植木の枝葉が重なってそこが暗くなっているのだ。そこに何かいる。確かに何か。
「坊」
貞之助は月明かりの射す内庭に降り、声がする暗闇へ一歩二歩と近づいた。するといきなり太い腕が伸びて、たちまち高く持ち上げられてしまった。息を飲む貞之助。
「久しぶりだのう、坊」
闇に二つの目と牙が光った。全身が凍りつくほどに恐怖した貞之助だったが、現れた顔に今度は驚いた。あるいはそうかと思ったが、こんな恐ろしげな再会はやめて欲しい。嬉しさよりも恐ろしさが先に立つ。だが、満面に笑顔を作った赤鬼を見て、すぐにその怖さはかき消えた。
「赤鬼? 赤鬼なの?」
「おうよ。赤鬼様だよ。なあ、青鬼」
「青鬼も一緒なの?」
「おうさ。おいらもいなくちゃ、こいつだけじゃあ、頼りにならねえからよ」
そう言って姿を見せたのは確かにあの青鬼だった。
「青鬼」
赤鬼から青鬼へ渡されて高く持ち上げられた貞之助は歓喜の声を上げた。
「おい。どうした。何を泣くことがある。また大泣きするのか?」
赤鬼が心配と警戒で思わず身構えた。泣かれると弱い鬼たちだ。持ち上げている青鬼も不安げだ。
「違うよ。嬉しいんだ。まさか会えるなんて思ってもいなかったから」
貞之助は素直に言葉に出した。しかし、本当はまた会えるような気がしていたのだ。
「そうかい、そうかい。おいらだって嬉しいよ」
赤鬼の目から涙が落ちた。青鬼は貞之助を抱き寄せて頬摺りした。
「随分探したんだぜ。坊が出ていったあの穴な。いつの間にかなくなっちまって、地獄からこの世に渡るに苦労したよ」
赤鬼が穴から抜け出るまねをして見せた。
「どうしてわたしがここにいるとわかったの?」
「砂を撒いただろ」
貞之助は頷いた。
「砂の匂いでわかったのさ」
赤鬼は大げさに鼻をひくひくさせた。
「ただ、坊が誰かと一緒にいたから、後をつけたのよ。それからここに忍び込んで、他の人間たちが寝入るのを待っていたってわけだ」
一緒にいた誰かって、あの頬に傷のある男か。すると、神社からずっと鬼たちにつけられていたんだ。貞之助は少しぞっとした。やさしい鬼たちだからよかったものの、他の魔物だったら、今頃食われていたかもしれない。
「わたしの後をつけたって、そんなことしたら夜でも他の人間に見つかってしまうよ。二人とも目立つくらいに大きいのに」
「ははは。それは心配には及ばんというものだ。おいらたちは人間には見えない」
「人には見えない?」
貞之助は小首を傾げる。
「では、なぜわたしには見えるのだろう」
「ほう。そうだな。なぜだ?」
赤鬼も首を捻って青鬼を見た。
「ふーむ……理屈はわかんねえが、おいらたちが坊に会いたいと思うからだろう」
そう言って青鬼はニヤリと笑った。
「実は、おいらたちがここまで来たのにはわけがあるんだ」
赤鬼がそう言うと、青鬼は貞之助を地面に下した。二人してしゃがんで胡坐をかいた。この方が貞之助とは話しやすい。
「わけって?」
「他でもねえ。坊のおっかさんのことだ」
「え?」
言った赤鬼に貞之助は目を丸くした。
「その顔じゃあ、あながちうそでもなさそうだな」
「なに? なんのこと? うそってなんだよ」
もったいぶったような赤鬼の言い方に、貞之助は焦れた。母さまのことを鬼たちは知っているのだろうか。だけど、地獄にいる鬼たちが母さまを知っているということは……まさか。いやだ。いやだ。母さまが地獄に落ちるわけがない。それはきっと人違いだ。聞きたくない。鬼たちの話など聞きたくない。貞之助は両耳を塞いだ。
「どうしたよ、急に耳なんか塞いで。おいらたちの話が聞きたくないのか」
最初怪訝な顔をした赤鬼だが、何か思い当たることがあったか一人頷いてこう言った。
「ははん。坊。坊は何か思い違いしているようだな」
赤鬼の笑顔に引き込まれて、貞之助は耳を塞いでいた両手を離した。どうやら自分の想像は違うようだ。
「坊のおっかさんは地獄なんぞにいないから、安心しな」
途端に貞之助の表情が明るくなる。
「では、母さまは何処? 何処にいらっしゃるの?」
まるで何処かに行けば母親に会える、そんな錯覚が貞之助にある。残念だが、それも違うと言わなければならない。赤鬼は少し顔を曇らせた。
「言い難いが、坊のおっかさんは死んでなさる。そうじゃないか?」
急に現実に引き戻されて、貞之助の笑顔が固まった。今にも堰を切って泣き出しそうだ。青鬼が赤鬼の肩を突いた。余計なことを、と言いたいのだろう。青鬼を見やって肩をすくめる赤鬼。
「すまないことを言った。許してくれ。でもな。それをわかった上で聞いてくれないと、これからの話ができないんだ」
本当にすまなそうに赤鬼は頭を掻きながら言った。
「どうしてみなわたしに黙っていたのでしょう。どうして誰も教えてはくれなかったのでしょう」
貞之助の声は沈んでいった。
「どうした? 最近知ったというのか?」
貞之助はこくりと頷いた。
「そうか。それは……」
赤鬼と青鬼は顔を見合わせた。そして、赤鬼が言った。
「きっと坊がまだ小さかったからだ。幼い坊に話してもわからん時もあっただろう。少し大きくなったからといって、そんな悲しい話をしても坊には到底受けきれない時だったに違いない。坊が悲しみを乗り越えられるまで、待っていたのだよ。今の坊なら大丈夫だと思って話したに違いないだろうよ」
「そうでしょうか」
「そうさ。いいかい? 世の中には知らなくていいことがある。知らなくていい時ってものがあるんだ」
「知らなくていいこと? 知らなくていい時……」
「そう。なんでもかんでも知れば、抱えきれなくて潰れちまうぜ」
「母さま。兄さまがちっとも幸と遊んでは下さりません」
駄々をこねるように雪乃へ助けを求めてきた。愛らしい瞳にいっぱい涙をためて、少し突っつけばすぐに溢れ出してしまいそうだ。幸恵は十を過ぎてもまだ幼い甘えが抜けきらないでいる。貴恵や貞之助ばかりにかかり過ぎて、幸恵には十分な愛情を注げなかった。その反動で、幸恵はいつまで経っても甘えてくるのだ。そう雪乃は深く反省していた。
「大きな甘えん坊さんだこと」
雪乃は胸にすがりつく幸恵の頭を撫でた。そうしながらも、雪乃の思いは貞之助へと向けられる。それにしても、と思う。貞之助の変容ぶりには気持ちが塞がる。幸恵が泣くのもわからないではない。まるで表と裏が一夜にして入れ替わったような、人の変わりようなのだ。いったい何があったのか。やはり、実母のことが大きく影響しているのだろうか。しかし、解せないのは、貞之助の変容が、琴乃の死を伝えてから数日置いて起きている事実だ。琴乃の死を伝えた後もしばらくはそれまでと変わらない息子であった。少なくとも表面上はそう見えた。彼の中では複雑な思いがあったのかもしれないが。しかし、今見せているような相手を射すくめる鋭い眼差しを、しばらくの間とはいいながら胸の内に隠して、臆面にも出さずに過ごしていられるほどの子であったろうか。何かあったのだ。貞之助に心変わりさせる何かがあったのだ。
そういえば、あの日。夜廊下を歩く足音に気づいて呼びかけたわたしを貞之助は無視した。あんなことは初めてだった。夜出歩くことも。わたしを無視したことも。わたしの声が届かなかったはずはない。確かに部屋の前で立ち止まる気配があった。貞之助はわたしの声に一旦は立ち止まり、しかし、行き過ぎていった。その一瞬の間に、彼の中で葛藤があり、どちらかが勝って、その結果彼はわたしに姿を見せることなく去ってしまった。きっと負けたのはわたしに対する思いやりの心で、勝ったのはどんな心なのか。その心が知りたい。幾つかの誤解がその心を作り上げている。その誤解の一つ一つをわたしは解いてあげなければならない。母親として。あの子の将来のために。
考え事に気を取られていた雪乃の顔を幸恵がじっと見上げていた。その視線に気づいて雪乃はふっと息をついた。
「そなたはもう十一なのですから、そのように泣いてばかりいてはいけませんよ。ほら。ちゃんと涙をお拭きなさい」
雪乃は手拭いで幸恵の目元を拭いてから、ぎゅっと抱き締めてやった。それに安心を見せて幸恵はようやく微笑んだ。
「お里が先ほど探していましたよ。きっとまた余った布地で人形でも作ってくれたのでしょう。いってらっしゃい」
「はい」
幸恵は頷くと、お里がいる作業場の方へ歩いて行った。その後ろ姿を見送って雪乃は立ち上がった。行先は決まっている。
「貞之助。入りますよ」
雪乃が襖越しにかけた声には何の応答もなかった。
「貞之助?」
「どんなご用でしょうか」
それは遠い声だった。雪乃は思い切って襖を引いた。
「今立て込んでいるのです。お急ぎでなければ、後にしては頂けませんでしょうか」
貞之助は文机に向かっていた。何か一心に書いている。写経のようだった。それを見据えるように、雪乃は貞之助のかたわらに着座した。
「写経ですか」
貞之助は横目で一瞥しただけですぐに視線を筆先に戻した。
「なにゆえそのようなものを?」
それには答えず、筆を進める貞之助である。雪乃は仕方ないと話を始めた。
「一刻を争うものではありません。しかし、今話しておかなければ、取り返しのつかないことです」
「不思議な言い様をなさいます。ですが、今のわたしには誰の話も聞く耳ありません」
貞之助に筆を止める気はないようだ。
「そなたの将来がかかっております」
「わたしの将来などもうどうでもいいではないですか」
「そうはまいりません」
「いいんだ!」
急に貞之助は机に拳を叩きつけた。衝撃で硯の墨が飛び出て写経帳を黒く染めた。雪乃は眉根を寄せながらも我が子を見つめた。貞之助は拳を叩きつけた姿勢のままじっと動かない。視線は前を見つめているが、彼の目に映る物は雪乃の像である。
「そなたの変わりようはおかしい。何がありました。この母にも言えぬことですか」
「あなたは母ではない。お前なんか、わたしの母ではない!」
「え?」
驚き顔の雪乃を貞之助は立ち上がって見下ろし、じっと見つめたかと思う直後、荒っぽく襖を開けて出て行った。残された雪乃はただ茫然と身じろぎ一つできなかった。「お前なんか、わたしの母ではない!」貞之助の叫んだ言葉がいつまでも鼓膜の奥で鳴り響いた。
日本橋の大通りを項垂れて歩く貞之助がいた。歩きながら先ほどの自分を思い返していた。
言うつもりはなかった。「わたしの母ではない」など言うつもりはなかった。ただ無性に苛立つわたしがいた。その苛立ったわたしが叫んだのだ。
何処からこれだけ大勢の人が集まってくるのかと思えるほど、通りは人の波に揉まれるようだ。強く行き先を決めて歩かなければ、思いもかけない方向へ流されてしまいそうだ。貞之助は何処へ行こうと決めて店から飛び出たわけではない。だからこの人波に呑まれて、右に行ったり左に流れたりと、なるがままに任せて歩いた。
それでいい。もうどうでもいい。わたしの人生などいっそなくなってしまえばいい。わたしなど生まれてこなければよかったのだ。
人それぞれに歩く目的はやはりそれぞれにあって、人々はその目的に向かって通りから消えてゆく。いつしか人の数もまばらとなって、気がつくと狭い路地を貞之助は一人歩いていた。
行き着いた場所は神社だった。先日ゴロツキに絡まれたあの小さな神社だ。
そうか。ここに来てしまったか。
行く宛などなく歩いてきたつもりだったが、心の何処かでここだと決めていたような気がする。貞之助はあの夜の鬼たちの言葉を思い返した。
「坊の母だと言うてきた女がおるんじゃ。その女が言うには、
『わたしは子を生み落として間もなく鬼籍に入ってしまった身ゆえ、子がどのように成長したのか知りません。されど、あの泣き声は間違いなく我が子のものでした。あの子がどのような罪を犯して地獄へ身を落としたのか。母なし子の不憫。どうぞわたしを身代わりに、あの子をお救い下さい』
と涙ながらに訴えての。親方の元へすがって来よったのよ」
赤鬼はその時の様子を思い出してか少し涙ぐんでいる。
「親方もきっと坊のことだと気づいたから、いや実はこれこれしかじかだと説明して、女の勘違いを教えてやったんじゃ。すると、女はたいそうに喜んで帰ろうとする。帰ろうとするが、一度は我が子がそばにおると思った心が今度は未練を残したのだな。ポロっと漏らした。『今一度、ひと目でいいから、会いたい』と。胸の内に留めて置いたのならまだよかったものを、口に出してしまえばもういけねえ。女はとうとう抑えがきかなくなって、親方に泣きついた。
『どうか会いたい。一度だけ。一度だけで構いません。あの子に会わせては頂けませんでしょうか』
その時の女の顔がまた艶っぽくてぞくっとするほどだった」
思い出してニンマリとする赤鬼の肩に青鬼が自分の肩をぶつけた。鼻の下を伸ばした赤鬼を注意したのだ。貞之助が真剣な眼差しで見ている。
「親方は困っての。生者を地獄へ連れてくるわけにはいかない、と幾度も女に首を振られた。気の毒だが仕方ない。それが掟じゃからの」
掟だからと言われて、貞之助は項垂れた。ひょっとして母に会えるかもしれないという期待があったのだ。悲し気な貞之助の姿を見て、鬼たちも困った顔をした。そして、互いに見合った後、同時に頷いた。
「坊。おっかさんに会いたいか」
「え?」
俯いていた顔を上げた。口がぽっかり開いている。何を言われたのかわかっていない顔だ。気落ちして、赤鬼の声が届いていないのだ。赤鬼はもう一度繰り返した。ゆっくりとやさしく。
「おっかさんに会いたいか?」
貞之助の表情がみるみる輝いた。もう瞳からは涙がこぼれ落ちている。
「わかった。おいらたちが何とかしてやろう」
貞之助を抱きかかえると、赤鬼は立ち上がった。ぐんと貞之助の視線が高くなった。
「でも、それでは赤鬼たちが困るのではないか? 掟なのでしょ?」
「それは考えどころだが……、実は今はな、人間どもの不安や悲しみや憎しみが渦巻いておるんじゃ。だから、至る所に歪が出来ておってな。この世とあの世の境を成す結界が切れておるのだ。地獄に落ちて来る者も結構おるんじゃ」
「わたしが落ちたあの穴だね?」
「そうそう。だから、坊が再び地獄に落ちても不思議ではない、ということだ」
赤鬼は言った後、わざととぼけた顔をした。今のは言わなかった、聞かなかったことにしておけ、という意味か。貞之助は笑って頷いた。
「ただ難しいことが一つある」
一転、赤鬼は本当に難しい顔をした。
「この世でもあの世でも、居たらいかん者は居たらいかん。これが掟なんじゃ」
「親方が坊のおっかさんにうんと言われんかったんは、それがためだ」
横から青鬼が付け足した。
「おいらたちもよくは知らんのだが、なんでも、居たらいかん者が居ると、あまりよくないらしい。均衡いうもんが崩れるんじゃと」
「均衡?」
貞之助と一緒に鬼たちも首を捻る。
「親方から聞いた話だけどよ」
赤鬼は急に声を潜めた。まるで近くに聞かれてまずいものでもいるかのような警戒ぶりだ。
「遠い遠い昔はこの世とあの世を好きに出入りできていたそうな。ところが、あまりに出入りする者が多くなって、この世の生者があの世に、あの世の死者がこの世にと入り乱れて、生死の境がなくなってしまったのじゃ。そうなると、元々神聖であったはずのあの世が汚れ始めて、あってはならぬ病が蔓延したのだそうな。それに加えて、地獄に落ちたはずの亡者が、どこをどう抜け道を見つけたのか、この世を経てあの世の極楽へ潜り込む輩が現れた。そうなれば御仏がお許しにはなられん。ついには、この世とあの世とを行き来できぬよう結界をお作りになられたというわけじゃ。それが今は掟となって、地獄におってはならん者が万が一入り込めば、すぐに元へ戻すことになっておる」
それでわたしは何もされずに戻されたのだ。それは納得したが、一つ疑問が湧いた。
「母さまはどうして地獄に来れたの? わたしが落ちたみたいに、極楽からも地獄へ落ちる穴があるの?」
自然な発想だった。しかし、赤鬼の答は貞之助の想像とは違った。
「坊のおっかさんは極楽にはいないんだ」
「え? でもさっき、地獄にはいないって」
「ああ。地獄にはいねえよ。だが、極楽でもない」
貞之助はきょとんとした。そうなるといったい母さまはどこにいるのだ? まさかこの世ではあるまい。そうだとしたら、鬼たちが地獄からこの世に来る理由がない。
「坊のおっかさんがいるのは迷道界というところだ」
「え? 迷道界?」
「わかりやすく言えば、さまよっていなさる」
「さまよっている……」
その意味が貞之助にはわからなかった。
「子を思う親心というやつだ。乳飲み子の坊を残して死んだおっかさんは、坊のことが心配で可哀そうで成仏できないでいるんだよ」
「成仏されてないのですか? 母さまは未だ成仏を……」
貞之助は次の言葉を言えずに泣き崩れた。何ということだ。母さまが亡くなって十年以上が経っているというのに、ずっとさまよっておられる。それは、やはり、普通ではない死に方をされたからなのだろうか。妹に殺された無念からそうなっているのだろうか。この鬼たちは母さまが亡くなったわけを知っていないだろうか。母さまから何か恨みのようなことを聞いてはいないだろうか。
「母さまは亡くなられた理由を何か話してはおらなんだでしょうか」
「いや。そのようなことは聞いておらんな」
赤鬼の返事に貞之助は少なからず落胆した。
「気になることがあるのなら、直接聞いてみるがいい」
「え? 地獄ではなく、迷道界にいる母さまと会えるの?」
「会える。そのためにおいらたちはここにいるのだからな。但し、一度限りだ。先ほども言ったように、坊や坊のおっかさんが地獄へ二度三度と来られては、必ず地獄によくないことが起きる。坊や坊のおっかさんにもよくないことが起きるかもしれん」
「よくないこと? たとえば、どんなことが?」
「そうさな。たとえば、地獄から抜け出せなくなる、とかかな。おっかさんが成仏できないだけでなく、地獄の責め苦に遭わねばならんとしたら、坊とて悲しかろう」
貞之助は強く頷いた。母さまが成仏できないだけでも胸が苦しいほどの悲しみなのに、その上、地獄へ落とされるなど、考えたくもない。
「おっかさんに会えるのは一度だけだ。しかも、短い」
「どれくらい?」
「四半刻もないかもしれん」
「そうですか。そんなに短いのか」
だが、会えるはずもないと思っていたのだ。ほんのひと目だけでも会えるのなら、それでいいではないか。貞之助は気持ちを切り替えた。
「あまりに長くおれば、どうしても去り難くなる。昔、おいらたちの忠告を無視して共に逃げた夫婦がおった。男が死んで、女があの世まで会いに来たんじゃ。その情に一度だけと約束して会わせたら、いかんかった。二人手に手を取り合って、おいらたちの目を盗んで逃げてしまったんだ。だが、やはり女は生者だ。あの世では生きていけん。と言って、死ぬこともできん。生者はこの世でしか死ねんのだ。そうこうしている内に、無理が祟ったのであろう。二人して地獄へ流されてしまった。それも亡者となって。亡者となれば、二人が夫婦であったことなど忘れてしまう。他の咎人同様に、永遠に苦悶の日々を送るばかりよ。可哀そうに」
鬼たちはしんみりとした。
「だから、坊にはしっかりと約束してもらいたい。おっかさんに会っても、その場から離れたくないとか言わないこと。最初に言った難しいことというのは、そいつだ。愛しい思いが強ければ強いほど離れられなくなる。まして、一度きりとなれば、今少しそばにいたいと願うだろう。それはわかる。わかるが、長く留まれば、その分、坊にはよくないことが起こる。坊だけでなく、坊のおっかさんにもな。どうだ。それでもおっかさんに会いたいか?」
少しの沈黙の後、貞之助はゆっくり頷いた。
「まあ、そうだろう。会いたいと思うのが当たり前だ。よし。それでは会わせてやろう。ただ、今夜はできん。坊にもまだ覚悟ができておらんようだしの」
「覚悟?」
「そうだ。死に別れたおっかさんに会うんだ。それも坊からすれば、一度も会ったことのないおっかさんだ。泣いてばかりおったんじゃ、もったいないというものだ。しっかりと坊の思いを伝えなくてはの。そうは思わんか?」
「わたしの思い……」
「みな誰かに伝えたいことがあるのだ。それを、その思いを伝えきれんから、未練が残る。きっと坊のおっかさんも坊に伝えたいことがあるのじゃろ。しっかり受けとめてやることだ。さすれば、おっかさんは成仏されることじゃろうて」
そうなのか。ならば、わたしは母さまに何を伝えたらいいのだ。何が伝えられるのか。そして、母さまはわたしに何をお話しになるのだろうか。大きくなったと喜んでくれるだろうか。
「坊の覚悟が定まったら、例の砂を撒け。そうすればまたおいらたちが坊の元へやってこよう。そうだな……手っ取り早いのは、坊を見つけたあの神社がええかの。人目もなさそうだし」
「鬼たちにとって神社は嫌いな場所ではないのか?」
「あははは。それは大きな勘違いだ。おいらたちは咎人を裁く者だぞ。おいらたちが邪鬼に見えるか?」
貞之助はじっと鬼たちを見つめた後言った。
「わかりました。明日の夜にでも神社に行って、砂を撒きます」
母さまは何を喜ばれるのだろう。わたしの何を知りたいと望まれるのだろう。母さまが亡くなられた理由を聞けば悲しまれるだろうか。鬼たちに何も話されていないのは、何も恨み言がないからなのか。妹雪乃を哀れとお思いなのか。それとも、それとも、やはり、母さまは誰にも殺されてなどいないのか。
鬼たちに会って、その思いは強くなった。わたしを愛しく思うあまり地獄まで訪ねて来られた母さまが、わたしと死に別れとなる原因を作った者に恨みつらみを並べ立てて当たり前ではないか。それが一言もなかったとなれば、母さまに恨みはないのだ。恨みを抱くような出来事はなかったのだ。ということになりはしないだろうか。
ところが、鬼たちに約束したものの、無為に数日が過ぎた。最初は、母へ伝える言葉を考え、翌日の夜には砂を撒いて鬼たちを呼ぶつもりだった。しかし、その目論見は翌朝の思わぬ来訪で消え去った。姉貴恵が会いに来たのだ。あんなに会いたい。会って、姉の中にあるしこりを吐き出させたい、母琴乃のことも聞き出したいと願った内は会えなくて。勘助に琴乃の死は雪乃によるものだと聞かされてからは、貞之助に大きな迷いが生まれてしまった。いわば、しこりのようなものだ。それも、貞之助には抱え込めないほどに大きなしこりだった。あまりに大き過ぎてどう吐き出せばいいのかわからない。そう苦悶する貞之助を救うように鬼たちが現れてくれた。母琴乃に会わせてくれるという。鬼たちの表情で母の死に雪乃が関わっていないと思えるようになった今、胸の内を覆っていた雪乃に対する疑いという暗闇が薄墨のように消えつつある。すると、暗闇で隠れていた思いがおぼろげに見えてきた。それは雪乃と琴乃二人へ母として慕う心。そうして少しずつ落ち着きを取り戻す貞之助の元へ姉は会いにきた。そういう巡り合わせになっているのだろうか。頃合いと見て、御仏が導かれたのだろうか。貞之助はそう思えてならなかった。ここではっきりと姉の口から違うと言ってくれれば、どんなに気持ちが休まることか。だが、もし姉が否定しなかったら。一抹の不安がないわけではない。
姉弟は少し前まで同じ部屋で寝起きしていた。今でも姉の備品が幾つか残されている。それを取りに来たのだった。しかし、それは口実のようでもあった。
「久しく見ぬ間に随分と大人びたようですね。見間違えたかと思いました。眼差しが落ち着いているようです」
こんな丁寧に話しかけてくる姉を初めて見た。元々乱暴な言葉遣いをする姉ではなかったが、それでも姉として幾らか弟であるわたしを見下したようなところがあった。おばばさまの教育のお陰なのか。それとも、自分では気づいていないが、姉が言うようにわたしの方が成長して、自ずと態度が変わったのだろうか。いずれとも貞之助は判じかねた。
「姉さまも毎日大変なことでしょう。ゆっくりされているところを正月以来見たことがありません」
「慣れないことばかりだからです。物事には要領というものがあります。それを掴むまでは仕方ないことです」
やはり貴恵の方にこそ変化があった。弱音を吐かないところは相変わらずだが、貞之助に見せる顔つきが違う。真面目で気難しい表情の中にどこか穏やかさがある。以前の貴恵はいつも張りつめていて隙がなかった。無理に押せばたちまち砕けてしまいそうな危うさがあった。今は紙風船のように、目いっぱいに膨らみはしないが、萎みもしない。強く叩こうとも割れない。ずっと接しやすい女性になっていた。家業が気質に合っていたのだろうか。無理をしているようには見えない。貴恵生来の性格が、里久の教育で上手く引き出されたのかもしれない。
こんなことならあんなに姉さまのことを心配するのではなかった。貞之助は思い出して苦笑いした。
「どうしたのです? 何がおかしい?」
貴恵は少しムッとした目で問いただした。こうしたところにはまだ以前の顔が残っている。
「これは失礼しました」
貞之助は素直に謝った。今度はそれに貴恵が微笑んだ。久しぶりに見る姉の笑顔だ。やはり姉は変わった。
「姉さま」
「なに?」
小首を傾げる仕草さえ人が変わったようだ。
「姉さまはすっかり変わられました」
「変わった? わたしが?」
「柔らかくなったというか……その……なんというか」
「そなたが急に大人びたから嬉しく思っただけですよ」
「そうでしょうか。わたしはちっとも成長などしていないと思うのですが」
「先ほど、わたしがたしなめるとすぐに謝りました。以前のそなたであれば、ぐずぐずとして一向に煮え切らぬままでしたでしょう」
「そうですか? しかし、それはあまりな言い様です」
「おほほほ」
貴恵は声に出して笑った。久方ぶりに聞く姉の笑い声だ。こんなに明るい声音の人であっただろうか。貞之助は姉の声に包まれながら、ほかほかと心が和むのを感じていた。
「姉さま」
貞之助はこの機を逃してはと思い、言いかけた。言いかけたが、いざ何から話すべきか迷った。
「どうしたのです? 途中で止めて。気持ち悪い」
姉の微笑みが誘い水となった。今の姉なら少々のことでも受け入れてくれる。そんな気がした。
「先日、母さまのことを聞きました」
「雪乃さんのこと?」
姉は雪乃のことを雪乃さんと呼ぶ。「母」と呼んでいる記憶がない。貞之助が知り得る限り、昔からそうだ。思えば、そのことで雪乃が実母ではないと気づけばよかったのだが、やはり貞之助は幼かった。
「いいえ。わたしたちの母さま。産みの親のことです」
貴恵は表情を変えた。これまでの和んだ空気が一変した。貴恵にとって、それは封印された言葉だったのかもしれない。
「誰から聞きました」
動揺を抑えようとして、どうしても声が硬くなる。
「雪乃さんからです。いえ。父さまもおられました」
貞之助も雪乃さんと呼んだ。慣れないせいか、口に出した後違和感が残った。
「そうですか」
貴恵はそうぽつりと言っただけだった。
「姉さまはご存知だったのですね」
「知っていました。母さまが亡くなったとき、わたしはその事実がわかる年齢でしたから」
姉の瞳が少し潤んだように見えた。
貴恵は母の死以後、その事実と共に悲しみや涙を封印してきた。それは弟を庇護するための壁に自分がなるのだと思い立ったからだ。実母琴乃をわたしは知っている。その温もりを知っている。それがゆえに、新しい母雪乃の愛情を受け入れ難かった。しかし、弟は知らない。弟は無邪気に雪乃へ甘えた。最初はそれが理解できなかった。どうしてそんな女に甘えるのだと腹が立った。だが、成長するにつれ、弟は仕方ないのだと思えるようになった。弟は実母を知らないのだから。実母の愛情を思い出せと言っても、無理なことなのだと。貴恵は彼女なりに我が身に降りかかった不幸を消化しようとした。二人の母がいる。そのどちらかを否定しようとすれば歪が生まれる。母が二人という事実は消せないのだから。貴恵は実母琴乃を自分の母とし、雪乃を貞之助の母とした。それが自然だと思えた。そうして割り切って、自分の感情を封印したのだ。琴乃を懐かしむ自分が表に出てしまえば、弟が混乱する。弟は琴乃の存在を知らない方がいいのだ。知ったところで、弟は琴乃には会えないのだから。琴乃の愛情を感じることはできないのだから。弟を悲しませるだけなのだと。だが、弟を守るために消したはずの歪が、いつの間にか彼女の中に生じていた。それがここにきてようやく薄れつつある。弟を守る壁という立場でしか自分を表現できなかった彼女が、知ってか知らずか、里久の導きで商いの道に踏み込んで、わずかずつではあるが、新たな自分の歩む先を見つけたのだ。
「どうしてわたしに教えては下さらなかったのですか?」
拗ねるような口調ではなかった。姉の気持ちがなんとなくわかるようになった。言わないという選択が世の中にはあるのだと鬼たちが教えてくれた。だが、それでも一度は聞いておきたかった。漠然とではなく、しっかりとした姉の考えを知りたい思いもあった。少し前までは、姉の心を打ち明けてもらって、これからはわたしが姉の庇護をするのだと思っていた。しかし、今姉を前にして、その必要はないのかと思う。多少の気落ちはあるが、変わった姉に対する安堵の方が強い。
貞之助の問いかけに貴恵はしばらく押し黙った。どう答えればいいのか考えあぐねているのだ。弟の心がわからない。拗ねた口調でなかったところをみれば、教えなかった自分に苦情を訴えているふうでもなかった。その落ち着いた眼差しを見ていると、わたしの気持ちを察しているようにも思える。思えるが、確かではない。ただ感情を押し殺している、ともとれる。わたしの思いが伝わるだろうか。正直な話に頷いてくれるのだろうか。と言って、偽りで覆い隠しても仕方ない。貴恵は迷っていた。
「雪乃さんからどこまで聞いているのですか」
ようやく口を開いた貴恵の言葉はさらに探りを入れるものだった。
「詳しくは聞いていません。実の母さまが琴乃という雪乃さんの姉さまであること。それから……」
貞之助はその後を言い澱んだ。自分を産んで死んでしまったことが、どうしても言葉にできなかった。その背後にあるかもしれない事実が頭をよぎる。おそらく違うだろうとは思いながら、やはり勘助の言葉が気になる。鬼たちの態度や言葉から違うだろうと積み上げた理屈が脆くも崩れてしまうことに。姉の口からはっきり違うと言ってくれればいいのだが、もし事実だったとしたら。それを聞くことが怖い。怖いが、はっきりさせたい思いもある。どうか違うと言って欲しい。雪乃を実母殺しの下手人にしたくない。姉殺しの下手人にしたくない。雪乃を母として慕う心が貞之助の奥底で今も消えることなく燃えている。
「母さまが既にお亡くなりになっていることも聞いているのですね」
貞之助はこくりと頷いた。その後に貴恵がどんなことを言うのか、固唾を飲んで待つ。ずっと姉に確かめたくて、しかし、聞かずに済むのならそのままで済ませたかった。だが、自分の中にわだかまるしこりをもう放ってはおけなくなっている。
一方で、貴恵は言葉を選んでいた。弟を傷つけずに、悲しませずに通り過ごせる言葉はないものかと。そして、迷いあぐんだ挙句彼女が選んだ言葉は、しかし、彼女の意図とは反対に弟の心を貫いた。
「母さまはお前を産んですぐにお亡くなりになりました。難産だったようです。あるいはそなたの顔すら見ることはなかったかもしれない」
「難産だったのですか。わたしを見届けることもならないほどの」
貞之助の顔からサッと血の気が引いた。それは貴恵にもはっきりとわかる表情の変化だった。
「わたしが生まれて母さまは」
実母は雪乃に殺されたのではなかった。しかし、その確証を喜ぶ隙もなく、貞之助の心は新たな事実に覆われていた。それは恐怖と言ってもいい。
わたしが、わたしが母さまを殺したのだ。わたしが生まれて、母さまは死んだのだ。
「貞之助。貞之助」
貴恵が呼びかけても貞之助の耳には入らなかった。自分の出生が大きな罪を犯していた。わたしは地獄に落ちて当然の子だったのだ。自らを責める声だけが貞之助の中でこだましていた。
何故わたしはここに来たのだろう。
貞之助は神社の境内に一人立っていた。日中だというのに、他に誰一人としていない。木々に囲まれ、生い茂る枝葉で陽射しが遮られ仄暗くさえ感じられる。ここだけ隔離された空間のようだ。鳥のさえずりさえ聞こえない。異世界へ紛れ込んだ錯覚に陥る。
うつろに見上げた視線の先に拝殿があった。あの時は雪乃に会いたくない思いからここに来た。今はどうか。同じだ。問い詰める雪乃から逃げ出したのだ。いや、違う。違うのだ。わたしは、わたしの罪を背負いきれずに逃げ出したのだ。せめてもの罪滅ぼしにと写経を始めた。それで母さまが成仏してくれないかと念じて。成仏できない母さまの無念がわたしに向けられないようにと願って。その見え透いた心を雪乃に見破られるのではないかと恐れたのだ。上辺だけの信心が御仏に通じるものか、と言われるのが怖かったのだ。ああ、情けない。本当なら、わたしは姉さまから真実を聞かされたとき死ぬべきだったのだ。だが、死ねなかった。死んで地獄に落ちるのが怖かった。恐ろしかった。亡者になどなりたくない。地獄になど落ちたくない。あの後、わたしを救って下さるのは母さましかないと思った。母さまの慈悲にすがって地獄に落とさないで欲しいと願った。なんてわたしは身勝手なのだ。わたしが殺した母さまに情けを、慈悲の心を求めるなど。わたしは既に亡者なのだ。地獄に落とされて当然なのだ。だけど、だけど、落ちたくない。地獄に行きたくない。母さま助けて。助けて。
貞之助は地面に伏して嗚咽した。
「坊。坊」
耳慣れた声がした。伏していた顔を上げる貞之助。いつの間に現れたのか、拝殿の前に二人の大男がいた。
「赤鬼。青鬼」
貞之助はつぶやいた。なぜ二人がいるのか信じられない顔つきだ。まだ砂は撒いていない。
「母の子を思う心は海よりも深しだ」
「どうして……」
歩み寄る鬼たちにまだ信じられない貞之助だった。
「まったく。坊のおっかさんは大したもんだ。坊が来ると伝えたら、涙を流して喜んでの。それがどうだ。いくら待っても坊は砂を撒いちゃくれん。今日か今日かと待ち侘びておった。おいらたちでさえ待ちくたびれたほどだ。おっかさんにしてみれば一日千秋の思いだったじゃろ。それがどう虫が報せたものか。先ほどおいらたちの元へ来て、しきりに見に行ってくれと言うのだ。そうして来てみればどうだ。坊がいるではないか。いや、まったく母とは偉いものじゃの」
「母さまがわたしを」
貞之助の乾きかけた頬を新たな涙が濡らした。
「なんだ。また泣きべそに戻ったのか。おっかさんが悲しむではないか。顔を拭け。その涙をすっかり拭って、誇らしい顔にするのだ。さ。参るぞ。おっかさんに会いに行こうぞ。首を長くして待ってなさる」
赤鬼は貞之助の手を取り立ち上がらせた。しかし、貞之助は赤鬼の手を振り払い、俯いた。首を激しく振った。
「会いたくないのか?」
怪訝な顔で赤鬼は貞之助の前にしゃがんだ。
「わたしが母さまを。わたしが母さまの命を縮めたのだ」
絞り上げるような声で貞之助は言った。
「坊が? 坊がおっかさんを殺したというのか」
赤鬼は立ち上がって腕を組んだ。その見下ろす目が次第に怒りで満ちていく。
「思いあがるのもいい加減にせい! お前のような細腕でおっかさんを殺せるものか! 虫も殺せぬお前に人など手にかけられるものか!」
怒る赤鬼の目から涙が溢れこぼれ落ちた。
「わたしが生まれたことで母さまは亡くなったのだ!」
貞之助はキッと顔を上げた。そして、赤鬼の顔を見上げて驚いた。泣いていると気づいたからだ。
「坊。思いあがるではない」
赤鬼の声はやわらかく貞之助の心に響いた。
「子を産むは母にとって最上の喜びなのだ。たとえ我が身の命を代償にしようとも、子さえ無事であればと願う。それが母というものだ」
「そうなのか。母さまも、そう、だったのか」
「当たり前だ」
「母さまに悔いはないのか。わたしを恨んではいないのか」
「信じられないのであれば、じかに聞いてみることだ」
貞之助はじっと赤鬼を見つめた。
「さ。参るぞ。おっかさんのもとへ」
赤鬼は貞之助を抱き上げた。
「貞之助。そなたは貞之助なのですね。ああ。間違いない。その目元。愛らしい口元」
琴乃は泣き崩れた。
その姿に赤鬼や青鬼はおろか親方までもらい泣きしている。貞之助が地獄に落ちた時、鬼の親方と面会した場所。その奥座敷に貞之助はいる。地獄と言われなければ、人の住む屋敷の中と何ら変わらない。
目の前で泣く女を見て、貞之助は母だと確信した。雪乃に瓜二つだ。
「母さま」
貞之助の声はすぐに涙で途切れた。嬉しさと悔しさと懺悔の思いがぐるぐると胸中を巡った。
「何を遠慮しておる。もっと近寄って、母者にその顔を見せてやらんか」
涙声で親方がせかした。
「親方。おいらたちがいたんじゃ」
赤鬼が親方に目配せした。
「おお、そうか。わしらは席をはずそう」
鬼たちを促して親方は立ち上がった。そして、座敷から出て行く手前で振り返った。
「誠にすまぬが、これも掟だ。いつまでもというわけにはまいらん。大目に見て半刻。半刻だけ許す。それ以上は、この地獄にも、またそなたらにもよろしくないことが起きるでな。半刻経てば、また戻ってくる。それまでしっかり親子の情を交わすがよい。くれぐれもおかしな考えは持たぬように」
そう念を押して三人は出て行った。
二人きりになった。しかし、一向に貞之助が琴乃に近寄る気配がない。頑なにその場に座して動かないでいる。俯いたまま顔さえ上げない。琴乃はすぐに我が子の異常に気づいた。泣き濡らしていた頬を袖口で拭うと、すっくと立ちあがり、我が子のもとへ歩み寄った。そして、子のかたわらに着座すると、伸ばした両手で子を包み込んだ。
「貞之助。会いたかった。そなたには不憫な思いをさせました。どうか許して下さい」
「母さま」
貞之助は母にすがりつくこともせず項垂れたままでいる。
「どうしたのです? そなたは何をそんなにおびえているのですか? 母が怖いのですか? 死者となった母が恐ろしいのですか?」
その声音は穏やかだった。母の子を思う心が染み入ってくる。子の中で幾重にも巻かれた感情が薄皮をはぐようにはがれていく。
「母さま!」
子は母に抱きついた。素直な心がようやく姿を現したのだ。
「貞之助」
母は胸にしっかり抱き締め、子の髪に頬ずりした。
「許して下さい。母を。どうぞ許して」
また涙が母の頬を濡らした。
「母さまはわたしを……わたしをお恨みではありませんか」
「どうしてそのような」
母は抱き締めていた子を胸元から離して見つめた。思いも寄らぬ子の言葉に驚きを隠せない。
「わたしが生まれて母さまは亡くなられたと聞きました。わたしなど生まれなければよかったのです。わたしなど……」
子はさかんに泣きじゃくった。言葉を発するのももどかしいほどに。
「貞之助」
それまでとは一変して母の顔は険しくなった。
「そなたは何という悲しいことを言うのですか。母がどんな思いでそなたを産んだのか、わかっていなのですね。わかっていないから、そのような愚かなことを平気で言うのです」
「母さま」
子は泣くことも忘れて母を見つめた。
「そなたはわたしの命です。宝です。そなたさえ生きてくれていれば、母は喜んで死ねたのです。わたしの命はずっとそなたに引き継がれていくのですよ」
「母さまの命を私が引き継いでいく?」
「そうです。それが命というものです」
母はやさしく微笑んだ。
「でも、母さまは成仏できずに迷道界というところでさまよっておられると聞きました」
「そうですか」
母の顔が曇った。しかし、それはすぐに消えてまた穏やかに頷くと微笑んだ。
「もう大丈夫です。心配をかけましたね。そなたの行く末が気がかりで、わたしは死に際に心残りがあったのです。でも、安心しました。そなたはわたしが思うよりもしっかりしたおのこに成長してくれました。母はそれが何より嬉しい」
「そうでしょうか。わたしは自分が泣きべそで少しも男らしくないと思っております」
「それは、そなたがやさしい心根を持って生まれたからです。何も恥じることではないのですよ。きっとそなたは強い男になります。この母が保証してあげます」
母の言葉に子は照れ臭そうに笑った。
「やっと笑ってくれましたね。その顔が見たかったのです」
「母さまはわたしが生まれたとき、わたしを見ることなく亡くなったのですね」
「そんなことはありませんよ。そなたが生まれてすぐに産婆殿がそなたをわたしの枕元に見せてくれました。元気な赤子ですよと。そなたは微笑んでいました。生まれてすぐにそんな笑い顔を見せる子は珍しいと産婆殿が驚いたほどです」
「わたしは笑っていたのですか」
「そなたが覚えているはずもありませんが、そうだったのですよ。その笑顔を見て、わたしはすっかり安心したはずだったのですが、やはり何処かにそなたへの未練があったのですね。そなたには苦しい思いをさせました。この通りです」
母は子に深々と頭を下げた。
「お止め下さい。どうしたらいいのかわからなくなります」
「そうですか?」
母は顔を上げると笑った。それにつられるように子も笑った。二人して声を上げて笑った。
それからはたわいもない話で時間が埋め尽くされた。幸恵という妹が出来て、それが甘えん坊でいつも自分に着いて回って困ること。思いつく妹の我がままや拗ねた出来事を一つ一つ上げては、母を笑わせた。姉の貴恵はずっと弟の自分に厳しく、いつも一歩離れたところから見ているのだとも話した。母に話しながら、実はそう感じていたのだと、改めて気づいた。しかし、祖母の里久から家業を仕込まれ、最近では少しずつ変わってきたと付け加えた。あまり姉の悪口ばかりでは気の毒だと思ったのだ。それに、口では言いながら、実は一番頼りにしているという思いもある。母の頷く顔を見ていると、そんな裏側の気持ちなどとうにお見通しのように思える。もしかしたら母はずっとわたしたちのことを何処かで見守ってくれていたのではないだろうか。そんな気がした。
「雪乃はやさしくしてくれていますか?」
母が聞いてきた。聞かれて子は少しどぎまぎした。敢えて触れないようにしていたのだ。話してはいけないと思っていた。だが、聞いた母の表情に変化はなかった。
「雪乃さんは」
子の言葉を打ち消すように母はすぐに首を横に振った。そして、こう言った。
「雪乃さんではありません。今はそなたの母ではありませんか。わたしに言うように、母さまとおっしゃい」
「はい」
子は力なく返事した。母さまはわたしの気持ちをおわかりではない。その不満が声音に現れたのだ。
「わたしに遠慮など無用です。そなたは雪乃が嫌いですか?」
子はためらいながらもかぶりを振った。
「貴恵や幸恵に対するように、雪乃にも素直になればよいのです。そなたの心は雪乃を慕っています。違いますか?」
母はやはりすべてを知っていた。
「雪乃はわたしです。そなたを乳飲み子のときから育て上げ、立派にここまで成長させてくれました。いくら感謝してもしきれない。そなたが知らぬのも仕方ありませんが、雪乃はいつもわたしに寄り添っていました。いつもわたしに話しかけてくれていました」
「母さまが」
子は無意識に呟いていた。
「雪乃はずっとそなたの母ではありませんか。これからもそなたの母として見守ってくれます。これまで母として慕ってきたのではありませんか。これからも同じです。そして、これまで雪乃から受けた恩を少しずつ返して行くのです」
「恩を返す……」
「そうです。それは何より、そなたが真っすぐ素直に生きていくことです。そのことを雪乃は一番望んでいるのですよ」
真っすぐ素直に。貞之助は雪乃の顔を思い出した。写経をしながら振り返ることもしなかったわたしに、母さまは「おかしい」と言ってきたのだ。見え透いたわたしの心を見破られることが怖さに、思わず「わたしの母ではない」と叫んだ。その時に見せた母さまの驚きと悲しみに満ちたあの顔を。去りしな、わたしは見てしまったのだ。
何という馬鹿なことを言ってしまったのだ。今更ながら悔いても悔やみきれない。母さまはわたしに、悲嘆のあまり心を失くしかけたわたしを正しに来てくれたに違いない。それをわたしは。
貞之助は突っ伏して泣いた。失って初めて気づいた。雪乃の大きな愛情に。
「わたしは、なんて愚かなことをしてしまったのでしょう。なんて愚かなことを」
「貞之助」
「……」
「貞之助。顔を上げなさい」
琴乃は毅然と言った。見上げた貞之助の目には雪乃が。琴乃と雪乃が重なって見えた。
「母と子の絆は割こうとして割けぬもの。そなたさえ素直な心で接すれば、心配には及びません。もうそなたには充分にわかっていますね。自分自身を信じなさい。そして、母を信じるのです」
話しかける琴乃の姿がスーッと遠のいていく。そのまま消えてなくなってしまうように。
「母さま。母さま!」
貞之助は琴乃を追いかけた。しかし、追いかけても、追いかけても、琴乃は遠ざかる。
「母さまーっ!」
琴乃は消えてしまった。
「わたしはまだ母さまに何も。何も伝えて……ないのです」
貞之助は膝から崩れ落ちた。すると、再び琴乃の声が届いた。
「貞之助」
貞之助は起き上がり辺りを見回した。しかし、何処にも琴乃の姿は見えない。
「そなたの思いは母に伝わっています。安心しました。そなたは良い子に育ってくれました。雪乃にも礼を言わねばなりませんね。そなたから伝えて下さい。わたしは今極楽浄土へ上っているようです。わたしから迷いがなくなった証です。間もなくわたしの声も届かなくなるでしょう。一人悲しいときはわたしを思い出して。いつもそなたの心にわたしはいます。貞之助。元気で。そして、真っすぐ素直に生きていくのです。貞之助―」
琴乃の声は小さくなり、やがて途切れた。
「母さま! 母さま! 行かないで。行かないで!」
貞之助の嗚咽する声だけが静寂の中で続いた。
三人の鬼たちが座敷に戻ったとき、そこには貞之助一人がいた。
「おい。おっかさんは?」
赤鬼が驚きの声を上げた。
「行ってしまわれた」
「行ってしまわれたって、まさか」
「極楽へ行ってしまわれたのです」
「え!」
三人の鬼たちは一様に声を上げた。
「そうか。そなたに会えて安堵したのだ。よかったではないか」
親方はそう言って貞之助のかたわらに腰を下ろし肩に手をやった。
「そう気落ちするな。母者は安心して行かれたのだ。何も思い残すことがなくなったのだ」
「そう言っておられました」
「そうだろう。何をそんなにしょげているのだ」
「わたしは母さまに何も。何もわたしは」
「おいおい。また泣くのか? それでは浮かぶものも浮かばれんというもの」
「また母さまが戻って来られるのなら、いくらでも泣きます」
鬼たちは互いに見合って肩を落とした。これでは堂々巡りだ。
「よいか、坊。いや、貞之助。そなたが何を母者に伝えたかったは知らんが、それは充分に母者に伝わったのではないか? だから、母者は極楽へと旅立たれたのだ。迷いがなくなったのだ」
「そうかもしれません。でもわたしは」
「言葉か。もっと言葉を尽くして伝えたかったか」
「はい」
「貞之助よ。伝えるとは言葉だけではないぞ」
「え?」
「いいや。言葉などいくらも伝えきれん。むしろ言葉では伝えられんことの方が多い」
「……」
「心はどうじゃ。そなた、自分の心を上手く言葉にできるか?」
「それは」
「難しかろう」
「では、どうせよと言われるのですか!」
「そう怒るな。だがな、心は伝わるのじゃ。言葉にしなくとも、心は伝わる」
「どうやればいいのですか」
「ほう。やっと真剣に耳を傾ける気になったようだの」
「教えて下さい。どうすれば」
「それだよ」
「え?」
「心を伝えたい相手と真正面から向き合えばよいのじゃ」
「真正面から」
「そうすれば自ずとそなたの心は伝わる」
「親方。いったい何処でそんな技を」
赤鬼が横から口出しした。
「うるせえな。お前たちは黙ってろ」
親方は赤鬼と青鬼をじろりと睨み返した。青鬼にはとんだとばっちりだ。
「へい」
赤鬼と青鬼は委縮した。その間、貞之助は親方を見据えてじっと考えている。
「その姿だ。その目。その口。すべてが今わしを向いておろう。わしが言った言葉の意味を真剣に考えて。その姿こそがお前の心を、気持ちをわしに伝えておるのじゃ。お前は今知りたいと願っておる。それだけしか頭にない。だから、わしにもわかるのだ。言葉では言い表せんが、お前の気持ちが痛いほどわかる。それが心を伝える唯一の手段だ」
「へー」
感心の声を上げたのは赤鬼だった。すかさず親方の睨みが赤鬼を黙らせる。口を押える赤鬼。
「母者はそなたの姿を見た。真剣に向き合うそなたの姿をな。そうではないか?」
「はい」
貞之助ははっきりと答えた。悟ったのだ。自分の奥深くでもやもやとしていたものが何であるのか。それは雪乃への思いだった。捨て去れない思いだった。母と慕う思いだった。
琴乃母さまは知っておられたのだ。雪乃母さまを母さまと慕うわたしの心を。そして、いつの日か琴乃母さまが実の親であることを知らされた時、迷うわたしを心配されていたのだ。迷っていたのはわたしだった。その迷いが消えた今、琴乃母さまは安堵されて極楽へと旅立たれたのだ。琴乃母さまは最後に言い残して行かれた。素直に真っすぐ生きよ、と。わたしは琴乃母さまを忘れない。琴乃母さまが残された言葉を忘れない。そして、雪乃母さまを母と慕い、敬います。見守っていて下さい。素直に真っすぐ生きるわたしの姿を。
「吹っ切れたようだな。目つきが違う」
親方はニヤリと笑った。
「そうとなれば長居は無用だ。お前たち。坊を。いや、もう坊ではないな。貞之助殿をお戻しするのじゃ」
「おー」
掛け声と共に赤鬼が貞之助を抱き上げた。そして、ひと息つく間もなく駆け出し勢いよく座敷から飛び出た。
「坊。元気でな。達者で暮らせよ。前にも言ったが、二度とここへは来るな」
「……」
「言いたいことはわかってるって。わたしの所為ではないと言いたいのであろう。だがな。坊が逃げたいと願わねば、この地獄へ来ることにはならんのだ。何事からも逃げてはならんぞ。逃げれば、何も事は解決せん。それだけは言うておく」
「こいつ本当はまた坊に会いたいんだぜ」
青鬼が赤鬼をちゃかした。
「何を言うか。お前こそ坊に会いたいのではないか」
「お前な。言うにことかいて。おいらをだしに使うな」
急に仲間割れを始めた鬼たちの間に貞之助は割って入った。
「違うよ」
なんだという顔つきで貞之助を見下ろす鬼たち。
「赤鬼さん。青鬼さん」
「だから、さんは止めてくれって」
「言わせて。お願い」
鬼たちは神妙に聞き入る姿勢となった。真剣に向き直っている。これなら伝わる。貞之助は微笑んだ。
「赤鬼さん。青鬼さん。二人に会えてよかった。本当によかった。正直、最初は怖かった。でも」
そこで貞之助は声を詰まらせた。思いが込み上げてきたのだ。堪えても涙が止まらない。貞之助は手で頬を拭いながら言葉を続けた。涙もろい鬼たちも鼻をすすり上げた。鬼とて別れはやはり辛い。
「でも、二人はとても温かくて、やさしくて、それから、いろんな事を教えてくれて。ありがとう。本当にありがとう」
言い切ると、どうにも堪え切れずに、ワーッと声を出して赤鬼に泣きついた。
「坊。坊はえらいの。まだおっかさんが恋しい年ごろなのに、よう我慢した。よう頑張った」
赤鬼はしゃがんで貞之助をそっと抱き締めた。青鬼も貞之助の頭をやさしく撫でた。
赤鬼に抱きかかえられて戻った先はやはり神社だった。
「元気でな」
言葉少なに鬼たちは背を向けた。立ち去る姿を見送る貞之助の目に、ふと鬼たちが違う形に見えた。それは縦に細長く、首と胴しかない。あれはもしや地蔵様ではないだろうか。ああ。きっとそうなのだ。地蔵様がお姿を変え、わたしを導いて下さったのだ。救って下さったのだ。知らず知らず、貞之助は両手を合わせて見送るのだった。
日が傾きかけていた。貞之助は帰り道を急いだ。母さまがさぞかし心配されていることだろう。帰ったら、まず謝ろう。素直な気持ちで正直に謝ろう。きっと母さまは許して下さる。わかって下さる。母さまに会いたい。早く会いたい。はやる気持ちを抑えきれず、いつしか駆け出していた。
山城屋が近づくと、遠目になにやら店先が慌ただしい様子だ。歩いていくほどに、奉公人たちが数人出ては何やら大声で言い合っているのが聞こえる。中には何処かに行って帰って来たらしい奉公人もいて、何度も首を振っている。何か騒動でも起きたのだろうか。貞之助は胸騒ぎがした。
店先に居た一人が貞之助に気づいて走り寄ってきた。奉公人の吉兵衛だった。昨年山城屋に雇われて、貞之助より二つ年上だが、貞之助とは仲が良かった。
「坊ちゃん。何処に行ってなさいました」
いきなりかけてきた声がそれだった。吉兵衛の顔には安堵と不安が入り混じっている。安堵は貞之助の無事を思ったもので、不安は何に対してなのか。
「何かあったのですか?」
「若奥様が居なくなってしまわれたのです」
「え? 母さまが?」
貞之助は棒立ちとなった。
「それで、みなで四方を探し回っているのですが」
吉兵衛は首を横に振った。
何があったのか。あの後。わたしが母さまに暴言を放って、その後の母さまに何があったのだ!
「わたしも探します。手伝わせて下さい」
貞之助が吉兵衛に申し出た時、声がかかった。見ると、貴恵の姿があった。
「貞之助。こちらへ来なさい」
そう言うなり、貴恵は店の中へと消えた。有無を言わさぬ口調だった。貞之助は仕方なく吉兵衛を残し、姉の後を追った。
貴恵は店の奥、自分に宛がわれた部屋で待っていた。その前に着座する貞之助。それを待って、貴恵は口を開いた。
「そなた、雪乃さんがいなくなったことは聞きましたね」
貞之助はこくりと頷いた。まるでお白洲での尋問のようだ。
「そなたに心当たりはありませんか」
問いかけた貴恵の顔をじっと見据えた。姉はどこまで承知なのかと思いながら。しかし、躊躇している場合ではない。姉に呼ばれた時から、貞之助の覚悟はできていた。正直に話す。それで自分が非難されようとも構わない。母さまが戻ってこられるなら、わたしは幾らでも悪者になる。
「母さまに暴言を吐きました」
「暴言を?」
貴恵は怪訝な顔をした。およそ普段の弟の態度とは結び付かない言葉だ。
「お前なんか母ではないと」
「そうですか」
貴恵は何度も頷いた。腑に落ちることがあったのだ。
「暴言を言ったきり、わたしはその場から家を出てしまいました」
「それで急に雪乃さんが外出された理由がわかりました。大事な得意先との約束があったのですよ。いつもなら決して約束を違えない人なのです。おかしいではないですか。行先を言わずに出てしまわれたことなど、今まで一度もない人です。しかも、一刻近く経っても戻ってこない。考えたくはないが、何かあったとしか」
「母さまは外出されたのですか」
わたしの後を追ったのだ。わたしを心配して。母ではないと言い放ったわたしを心配して、母さまは。
貞之助は苦悶した。居たたまれずに身をよじった。
「そなたと雪乃さんとの間に何があったのかは知りません。ですが、今はそれを確かめている暇はないのです。早く見つけなければ。わたしには不吉な予感がしてならない」
不吉な予感。その言葉に貞之助は戦慄した。誰かに襲われたのではないか。それとも、かどわかしか。彼の頭の中を嫌な想像ばかりが巡った。
「それともう一つ気になることがあります。勘助が見当たらないのです」
「勘助さんが?」
「勘助は山城屋の手代です。商いを任されている者が、店が開いている間中ずっと姿を見せないのは異常です。それも雪乃さんと時を同じくしている。まるで二人揃って出かけたような。と言って、二人が連れ立って出かけたところを誰も見てはいないのです。たまたま見かけた吉兵衛の話では、雪乃さんが『ちょっと出てきます』と店の者に挨拶して出かけられた後、勘助はそれを追うように無言で出て行ったらしい。怪しいとは思いませんか。わたしは何人かには、雪乃さんだけでなく、勘助も探すようにと命じています。勘助を見つければ、そこに雪乃さんがいるような気がしてならない」
姉の話を聞きながら、貞之助は先日の勘助を思い出していた。実母琴乃を雪乃が殺したのだと言った、あの時の勘助を。琴乃に会って、雪乃の潔白は証明された。そうなると、勘助はウソをわたしに言ったことになる。それはなぜだ。そうしなければならない理由が勘助にはあったのだ。それは何だ。
「勘助は仕事熱心な反面、人づきあいは苦手だったようです。そういう手合いにはよく陰口や噂がつきまとうものです。勘助は雪乃さんに横恋慕していたと聞いたことがあります」
「横恋慕?」
貞之助の記憶の中で、雪乃を語る勘助の顔がみるみる歪んだ。しまいにはひび割れて中からとかげのような黒い顔がのぞいた。「わっ」と貞之助は声を出して驚いた。
「え? どうしたのです?」
いきなり声を出した貞之助に貴恵は怪訝な顔をした。
「い、いいえ。なんでもありません」
まさか自分が作り出した想像の中で勘助が黒いとかげになったから驚いたとは言えない。
「とにかく早く見つけなければ」
珍しく貴恵は唇をかみしめた。
「そなたも他に思いついたことがあれば、すぐわたしに教えるのです。いいですね」
「はい」
貞之助は喉元まで出かけたものを飲み込んだ。勘助が自分に言った、琴乃の死に関わる疑惑を。伝えてしまえば、それが根も葉もない偽りだと判明した今、いたずらに姉の不安を煽るだけだろう。
「ここでじっとしているより、わたしもみなと一緒に探しに行かせて下さい」
貞之助は詰め寄って姉に懇願した。
「それはなりません」
貴恵は即座に拒否した。
「わたしもそなたも、いわば大将です。勿論、総大将はおばばさまです。大将は動いてはいけません。大将は兵を動かし、戦況をよく見極め、道筋を立てねばなりません。大将が自ら動いてしまって、その場限りの判断で進むべき道を間違えれば、どうなりますか」
「しかし、今は戦場ではありません」
「同じです。奉公人たちは勝手に走り回っているのではありません。江戸は広い。それに引き換え奉公人の数は限られています。無駄に動き回っても時間が費えるばかりです。そなたに声をかけたのも、何か知ってはいないかと思ったからです。何も知らないのであれば、自分の部屋にいなさい。よいですね」
貴恵の主張は正論だった。しかし、押し付けられるように言われると、どうしても反発が頭をもたげる。貞之助はここのところ胸の奥でくすぶっているしこりを一つ吐き出した。
「姉さまは冷とうございます」
「どうしてわたしが冷たいと言うのですか」
貴恵は突然の貞之助の反目に驚きの顔だ。
「雪乃母さまが実の母さまではないとずっと黙っておられました」
「またそれを。教える必要がないでしょう」
「なぜですか!」
「あなたと雪乃さんは実の親子のように仲睦まじい。それに水を差すようなことがわたしにできると思うのですか?」
正論を突きつけられて貞之助は言葉に詰まった。それでも一度噴き出した思いは抑えられない。絞り出すように言った。
「それでも教えて欲しかった」
「貞之助。世の中には知らなくてよいこともあるのですよ」
姉弟の言い合いは姉に軍配が上がった。
「はい」
弟は姉にあっさりと白旗を上げた。やはり姉はわたしより数枚も上手だ。
しかし、と貞之助は部屋を出る手前で振り返った。日頃の貴恵には見られない姿だと思ったからだ。これまでにない貴恵がそこにいた。雪乃には決して寄り添わない貴恵だった。それがこんなに必死で雪乃を心配している。貞之助は姉を見直す思いだった。
「なに?」
貴恵は怪訝に貞之助を見上げた。
「いいえ。何でもありません」
貞之助は一礼して部屋を出た。
ただ、それで引き下がる貞之助ではなかった。自室に戻る途中に雪乃の部屋がある。怪しまれぬように何食わぬ顔を作って、貞之助はその部屋に入った。そして、ざっと一瞥すると、家人が入ってくる前にと急いで箪笥から雪乃のものと思われる着物を取り出し、懐に押し込んだ。押し込んだ着物で腹が膨らんだことを気にしている暇などない。貞之助は素知らぬふうで悠然と自室に入り、襖を閉めるや、大きくため息ついてしゃがんだ。早速、押し込んであった着物を懐から取り出した。それを眺めて、ちょっと困った顔をした。それは腰巻だった。よりによってこんなものを持ち出してしまった。しかし、今更戻しに行くわけにもいかない。仕方なく頷くと、貞之助は腰巻を収めるものはないかと探し始めた。
それからしばらくして、一人の奉公人が山城屋を出て行った。実は貞之助である。衣装は吉兵衛に借りた。小脇に抱えている風呂敷には例の雪乃の腰巻が収まっている。
貞之助は神社へ急いだ。あの鬼たちと別れた神社だ。
神社に着くと、貞之助は懐から巾着を取り出し、中の砂を鷲掴みにして拝殿の前に勢いよく撒いた。そして、しばらく様子を見る。すると、拝殿の奥まった暗闇がもやもやと動いているように見える。何だろうと見つめる貞之助の耳にいきなり声が届いた。
「まったくよ。今さっきお別れしたばっかりではないか」
そう言って暗闇からポンと突き出た顔はやはり赤鬼だった。苦情を言いながらも、まるでずっとそこで貞之助からお呼びがかかるのを待っていたような登場の仕方だ。拝殿からは赤鬼に続いて青鬼も現れた。
「坊。さっき惜しみながら別れたばかりだぞ」
赤鬼は同じ苦情を言った。どうも誰かに言い訳しているようだ。
「赤鬼。急いでこの匂いを嗅いで欲しいんだ」
鬼たちとの再会を喜ぶ間もなく、貞之助は抱えていた風呂敷を広げた。そして、雪乃の腰巻を差し出す。
「坊。こんなものをどうした」
赤鬼は困惑の表情だ。鬼とて戸惑いがある。ましてその匂いを嗅げなど。貞之助の真意を確かめずにはおけない。
「坊。これが何なのかわかって言っておるのか。ん? 本気か? これはおなごの」
「本気だよ。これは母さまのものなんだ。母さまがいなくなってしまわれた。赤鬼たちに行方を捜してもらいたいんだ!」
「なんだ。それなら早く言え」
赤鬼は貞之助から受け取ると自慢の鼻で匂いを嗅ぎ取った。貞之助は覚えていたのだ。赤鬼の嗅覚が優れていることを。着物についた雪乃の匂いを嗅げば、赤鬼が雪乃の行方を探し出してくれる。そう願って雪乃の腰巻をここまで持ってきたのだった。
「どう?」
期待と不安の眼差しで赤鬼を見上げた。赤鬼はまだ腰巻に顔を押し付けて匂いを嗅いでいる。じっと匂いを自分の記憶に深く刻み込んでいるのだ。
「よし!」
一声発すると、持っていた腰巻を貞之助に放り投げて、今度は辺りの空気をぐっと鼻から吸い込んだ。まるでヒューっと音がするほどの吸い込みだ。
「よしっ! こっちだ」
言うが早いか、赤鬼は凄い勢いで駆け出した。それを、貞之助を抱えた青鬼が追いかけた。これも負けず劣らずの速さだ。
時はしばらく戻る。
「お前なんか、わたしの母じゃない!」
そう叫んで出て行った貞之助。一人取り残された部屋で雪乃はしばらく身じろぎもせずにいた。何を考えるということもなく。不思議と、貞之助が生まれてからこれまで一緒に過ごした日々が走馬灯のように頭の中を巡っていた。昔の記憶を懐かしく思い出していた。お宮参り。お食い初め。初節句。七五三。そうした節々の行事の他に、花見、川遊び、花火見物、七夕、月見、紅葉狩り。
そう言えば、よく小屋にも出かけましたね。芝居は勿論、いろんな見世物も。あなたは怖い者見たさの泣き虫でしたこと。因果ものやらお化け屋敷に入ると言って聞かず、いざ入ればいつもわたしの背中に回って泣き震えていました。あなたは本当に……。
ふと頬を涙が落ちた。泣くつもりなどなかった。貞之助の癖がうつったのだろうか。それ程に今の自分が自分ではない気がした。いつもと変わらぬ冷静な自分なのになぜ。冷静でいる自分がなぜ泣くのか。そして、こんな状況でなぜわたしはこんなに冷静でいられるのだろうか。まるでもう一人のわたしが、この可哀そうなわたしを見ている。可哀そうねと笑っている。そんな同情なんていらない。そう。わたしは、そのもう一人のわたしに突き返してやろう。わたしは少しも可哀そうではないのだから。
雪乃はようやく我に返って立ち上がった。
わたしはいったい貞之助の何を見てきたのだろうか。何を知っていたというのだろうか。何も見ていない。何も知ってはいなかった。わたしは貞之助の母ではなかった。本当の母ではなかったのだ。
自身に言い聞かせながらも、違うと叫ぶもう一人の雪乃がいる。雪乃は立ち上がりかけてよろけた。強いめまいに襲われていた。目の前がくらくらする。立っていられなくて襖にもたれるようにしゃがんだ。
どれほどの時が経ったのだろうか。一昼夜か。いや、幾らも過ぎてはいない。まだ欄間を通る陽射しはそれほど翳ってはいないようだ。せいぜい四半刻ほどかもしれない。めまいは治まっていた。だが、無理に立ち上がろうとすれば、再び立ちくらみがあるかもしれないと、そのままの姿勢で襖を開けた。途端に風が吹き抜けた。新緑の香りがする。新しい命の匂いだ。
「琴乃姉さん」
雪乃の視界に琴乃が映っていた。
内庭に面した縁側。そこへ琴乃はゆっくりと腰かけた。雪乃の回想の中、琴乃は穏やかに微笑んだ。
「姉さん。わたしはこれからいったいどうすればいいのでしょうか」
訊ねた雪乃の声をかき消すように、一人の娘が駆けてきた。それはまだ若い雪乃だった。
「姉さま。これを髪に挿しては下さいませんか」
若い雪乃は赤いかんざしを姉に差し出した。桜を模した細工が見事な花かんざしだ。美しい雪乃によく似合うだろう。
「あら。きれいなかんざし。どうしたのですか?」
琴乃はかんざしを雪乃の髪に挿しながら問いかけた。
「与兵衛さんがくれました」
照れながらも、しかし、どこか自慢気な雪乃の顔だった。
「まあ。与兵衛さんが? 大切にするのですよ」
「はい」
雪乃ははにかんだ笑顔で頷いた。
場面は変わり、季節が流れた。冷たい雨が降っている。この分では夜中には雪に変わるだろう。日も暮れ、内庭で一人佇む雪乃。傘もささず、ずぶ濡れとなっている。そこへ誰かが後ろから傘を差し出した。琴乃だった。
「恨むなら、このわたしを恨みなさい。与兵衛さんに悪いところは少しもないのです。あなたの気持ちを知っていながら、あなたから与兵衛さんを奪うわたしを恨みなさい」
「姉さん」
琴乃に抱きつく雪乃。しっかり受け止めた琴乃も泣いた。山城屋のためと自らに言い聞かせる二人だった。
あの時、雪乃は知っていた。琴乃には想いを寄せる人がいることを。その想いを胸の奥にぐっと堪えて、琴乃は母里久の命に従ったのだと。山城屋という身代を支え受継ぐために、姉は我が身を犠牲にすると決めたのだと。
「どうしてわたしがそんな姉さんを恨めるものですか」
回想する雪乃は呟いた。
それからまた場面は変わる。部屋に琴乃と二人だけでいる。琴乃は病床に伏せっている。貞之助を産んだ直後、琴乃の容態は急激に悪化した。やつれた姉の額に浮かぶ汗を雪乃はかいがいしく拭いてやる。
「雪乃。あなたに頼みがあります」
かすれた声で琴乃が言った。
「わたしはもういけません」
「姉さま。そんな弱気なことを言ってはいけません」
雪乃は必死でかぶりを振った。医者は難しいと宣告した。そんなことがあるものか。やさしい姉が、強い姉がわたしの前からいなくなってしまうなんて。そんな理不尽なことが許さてなるものか。自分が懸命になって否定していれば、きっと死神は姉の前を素通りしてくれる。縋る思いで雪乃は首を振るのだった。
琴乃は右手を差し出した。手はかすかに震えていた。その手を雪乃は大切なものを受け取るように両手で包んだ。
琴乃は微笑みながら言った。
「あなたには苦しい思いをさせました。どうか許して欲しい」
「そんな……」
雪乃は言葉を詰まらせた。包んでいる琴乃の右手に頬を寄せ、必死で涙を堪えた。ここで泣いてしまえば、行き過ぎようとしている死神に気づかれてしまう。しかし、どんなに堪えようとも悲しみが奥から込み上げてくる。
「あなたには幸せになって欲しい。わたしの分まで。わたしの身勝手な思いかもしれませんが、あなたには与兵衛さんが必要です。与兵衛さんにもあなたが」
はっとして、雪乃は顔を上げ姉を見つめた。
「罰が当たったのです。御仏の罰が。あなたから幸せを奪ったわたしに」
「いやです。いやです。姉さま。姉さまはわたしの心の支えです。いつまでもそばにいて。ずっとずっとわたしを見ていて下さい」
「ありがとう。あなたからそう言ってもらって、心のつかえが取れました。あなたがそばにいてくれて良かった。わたし一人が幸せになってしまって」
ごめんねと口が動いた。力ない声は雪乃の耳まで届かなかった。雪乃は首を振るのが精いっぱいだった。琴乃は雪乃の手を握り返した。それはわずかに力を込めたほどにしか感じなかったが、琴乃のすべての思いが伝わった。ついに堪え切れず、雪乃は涙を落とした。
「貞之助を」
その声は琴乃に残る最後の力だった。一瞬、琴乃が何を望んだのか判じかねたが、すぐに気づいて雪乃は頷くと立ち上がった。そして、生まれたばかりの貞之助を胸に抱いて戻った雪乃は、琴乃の枕元に貞之助を寝かせた。貞之助はおとなしく、その愛らしい瞳をしっかりと見開いている。
「笑っている。姉さま。貞之助は笑っていますよ」
「そう」
声にはもうならない。しかし、幼子の方へわずかに向けた顔には母の微笑みがあった。琴乃の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
その数日後、琴乃はこの世を去った。
「姉さん。あなたはずるい。こんなに愛しい思い出を残していくなんて」
雪乃は泣き笑いした。不思議と、そう呟いたことで気持ちが静まっている自分に気づいた。揺れていた心の波が今は穏やかになっていると。そして、大きく息をついた。それはため息ではなく、自分の中にややもすれば巣くおうとする後悔の念。この道を選んだ迷い。そして、亡き姉への想い。諸々の負なる感情を吐き出して、これまで幾度も乗り越えてきた。気持ちを入れ替えてきたのだ。こんなことで立ち止まってはいけない。立ち止まっていては何も解決しない。そう言い聞かせてきた。
前を向くしかない。そうですね。姉さん。
そうですよ。自分を信じて。
ふと声がした。それは懐かしいあの声。
「姉さん?」
内庭に立つ琴乃の姿があった。こちらに向かってにっこり笑っている。
「姉さん」
雪乃は思わず立ち上がった。しかし、近寄ろうとする前にその姿はかき消えた。
「姉さん」