一話 怨霊の魔王
どれほどが経っただろうか。
一組のパーティーが、石の扉を前に佇んでいた。
淀み、湿った空気は、吸うたびに一味の喉を艶かしく撫でる。
「ここが......魔王の部屋かしら?」
杖を持った女が、ひっそりと尋ねる。
「......ああ。人類が初めて相手にする、怨霊の魔王が封印されている部屋だ」
大剣を持った大男が一言一言を噛みしめるように答えた。
そして、続けて問う。
「......生き残ったのは、4人だけか?」
一瞬の静寂。
これは、人数確認でも点呼でもない。
魔王という圧倒的な力を前にし、当初の一国の軍に匹敵する程の戦力は、このたった一つの扉すらをも見ることなく壊滅した。
運良く、ほぼ奇跡的にたどり着けたのがこの四人なのである。
故に、先の問いかけは人数確認と言うより、死にゆく命をせめてもう一度己の心に刻みつけておこう、こう言った意味合いの方が強かった。
「まさか、たどり着くだけで2千人がほぼ全滅とはなー。全く、信じられないな」
そう言って答えるのは腰に剣を携えた青年だ。
胸の防具は半分割れて、たどり着くまでの激戦を物語っている。
「まあ、これから全滅するわけだけど」
言った直後、思いついたように付け加えた。
「魔王の前に見参出来るというだけ、戦士冥利に尽きると言うもの。潔くゆこうではないか」
重い盾をガチャンと構えるのは、齢60程の白鬢の男。
老人、と言うにはまだ早いが、なるほど年の甲を感じる。
「回復は大丈夫?あと一回だけ全回復が使えるわよ」
女が、杖をヒラリと構えた。
「そうだな、せっかく魔王様と対面するんだ、傷だらけじゃ面目ない」
女の気遣いにも、大剣の男は諦め顔で、ため息混じりに答えた。
他の二人も、微笑しつつ頷いく。
だが、顔が物語っていたのだろうか、女は若干、ふてくされた。
「そんな顔しないで、無駄だって事は分かってるんだから」
「いいや、さっきから胸にまで瘴気が染み込んできちゃって。丁度いいさ」
危機に瀕して友情は芽生えるのだろうか。
「ほんと?なら使ってあげる」
女は杖を横に構えた。
「極技:全回復!!」
透き通る声が湿った洞窟の空気を若干浄化した、のは気のせいだろうか。
一味の全員が緑色のオーラに包まれ、戦いの副産物である数々の傷が癒えて行った。
「これで、私の魔力は尽きたわ。後は、皆各々の回復ポーションでも使ってちょうだいね」
杖は、使用できる魔術に制約が無いと言うメリットがあるが、一方で使用者の魔力が尽きてしまうとただの木の棒と化す。
それを防ぐ為に、杖使いは魔力回復のポーションを大量に持ち歩くのがセオリーだが、無論、この状況下でそんなポーションが残っている訳ない。
彼女に出来ることは最早無いのだ。
けれど、ここまで来たのだし、どうせ部屋の中に入ろうと外にいようといずれ死ぬ。
この事を誰もが了解している故、彼女の着いてくることを拒む者など居るはずがなかった。
そして、四人は石の扉の前に立つ。
「では、行こうか」
大剣の男はそう言うと、ゆっくりと扉に手を押し当て、そして力を込めた。
石と石とが擦れ合う重低音を響かせ、扉は重々しく闇への口を開けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ゴ、ゴゴゴ......
レインは、一瞬これが何の音か理解できなかった。
けれど、何年か前など勘定することを諦めた、あの運命の瞬間に最後に聞いた音だと思い出すまで、そう時間はかからなかった。
自らをずっと封印してきた重い石の扉が閉まる音と、まさに同じ音だった。
「誰......?誰か来たの?」
声帯を震わして問いかける。
悲しいほど透き通った声が、闇に吸い込まれていった。
そして、その声に答えるように。
闇の深く底が若干照らされ、ゆらゆらと揺れた。
永遠と見る事は無いと思った、魔術による光である。
その光は段々と大きくなり、近づいているようだった。
レインは、固唾を飲んでそれを凝視する。
そして、光の持ち主は現れた。
屈強な男を先頭に、四人組が、闇をかき分けてレインの眼前へと姿を現した。
「こ、コイツがそうなのか?」
と、現れるなり、ピタリと立ち止まって若い男が言う。
囁き声であったが、レインには恐ろしいほどはっきりと聞こえた。
まるで、耳元で囁かれているように。
「この状況じゃあ、そうだろうな。どうする?話しかけてみるか?」
今度は先頭の屈強な男。
大剣を持ち、一番風格がある。
が、レインはそれ以降の会話を聞こうとはしなかった。
聞こえていないと思われている会話を、あからさまに続けられるのも良い気分では無い。
さらに、そんな事より、とにかくこの場から出たい、その思いが一番だった。
自分の体が、獲物めがける肉食獣のように、出口へと跳ねてゆかないよう抑えるのに精一杯だった。
「こんなかわいい女の子が待ち受けているとは──」
青年の、大剣の男に対する囁きを遮って四人組に問う。
「誰なの......?なんでここに来たの?」
先程と同じ質問。
けれど、さっきと違う所は、答える相手がこちらに注意を向けているという事だった。
彼らは、鷹に狙われた蛙のようにピタリと動きを止め、レインをただ一点に見つめた。
しばらくの静寂が場を支配した後、奥にいた白鬢の男が、一歩前へと進み出て言う。
「お初にお目にかかります、怨霊の魔王殿。早速で恐縮なのですが、願わくば我々をここから安全に出しては──」
しかし、丁寧に頭を下げる彼の声を遮って、レインから思わず声が漏れた。
「今......今、魔王って?」
震えるような声で問いかけるレインに、白鬢の男はハッと面を上げてレインを唖然と見る。
そして、戸惑う口調で言った。
「は、はい、貴方様こそが全ての魔物の頂点に君臨する魔王が一人、怨霊の魔王殿では.......」
そこから先も彼は何かモゴモゴと言っていたが、レインの耳には入らなかった。
レインは、これ程世界を、この世の森羅万象を恨んだことがあっただろうか。
彼女は何者かの企みによる冤罪の末、何年かも分からない、ほぼ永遠とも言える時を暗闇の中で過ごす事となった。
そして、その間幾度となく餓死し、それでも忌々しく蘇る自分の身体に、その都度嘆き悲しんだ。
ようやく今、封印が解かれて自身の無罪を証明出来る、降りかかった汚名や冤罪を返上出来る、そう思っていた。
少なくとも、人間らしい生活が送れる、そう確信していた。
けれど、魔王?
レインの囚われる前にも魔王という言葉は存在していた。
しかし、その意味は、限りない悪の権現、全ての厄災を生み出す者、それ以外に有り得なかった。
多少なり意味が変わっているかと思ったが、違った。
人間という種族から"魔物の頂点"として畏れられる、それはすなわちレインの知っている魔王という単語の意味と変わらない。
レインは、濡れ衣を着させられ、暗闇の中で餓死する事を幾千幾万と繰り返し、そして終いに、悪の頂たる魔王となったのだ。
「ふざけ......ないでよ......」
途端、空気が変わった。
レインの心の底からとめどなく滲み出てくる、憎しみの感情。
同時に、悍しく、腹の底から内蔵が捻り出されるような瘴気が、空間中に蔓延した。
魔王の、復活だ。
「な、何だこ......」
青年が驚きの声を上げたのも束の間、言い終わる前に、血反吐を吐き地面に崩れ落ちた。
他の三人も例外ではない。
白鬢の老人は絶叫しながら頭を掻きむしって倒れ、大剣を背負った屈強な男でさえ、口を抑えた、その指の隙間から血を垂らして崩れた。
最後まで何とか立っていた杖使いの女も、全員が倒れて程なく、血涙を流しながら床に倒れ、こと絶えた。
後には、人間の血と肉の匂いが、ねっとりと空間に漂う。
「......これが......」
レインは、一連の惨劇を見届けた後、自分の手を握ったり開いたりしてみた。
いつの間にか心の中の負の感情は消えている。
特段自分の体に変化は感じないが、何故だろうか、視界が晴れて見えた。
扉が開く前までは暗闇だったはずなのに、今は四人の死体から自分の手まで、更には部屋の岩肌の質感に至るまで、鮮明に見える。
さらに、四人の人が目の前で血を流しながら死に絶えたと言うのに、動揺も悲しみも、憐れみすら一切感じない。
「認めたくない.......」
ポツリと出たが、それはただの望みでしか無かった。
四人もの命を一瞬で葬っておきながら同情等は一切感じない。
超常的な五感を手に入れ、この感覚は人間ではあり得ないと、この瞬間も見を持って感じる。
自分は、彼らの言う通り、魔王なのだ。
認めざるを得なかった。
けれど、せめて人間らしく、そういう感情だけは残っていた。
魔王だとしても、人々が自分の命を狙うとしても、それまでは人間らしい生活をしよう。
触れぬ神に祟りなし、と言う。
なれば、自分は神になったつもりで、人が触れるまで彼らに危害を及ぼす事はやめよう。
超越的な目線で下々を見下しながら、彼らが自分を倒すまでの過程を見るのも一興ではないか。
そう考えたりもした。
耳をすませば、上の方から獣の咆哮や人ならざる物の鳴き声やらが聞こえてくる。
更には、位置も個体の大きさも、その強さすらも手に取るように分かる。
そうか、これが魔王なのか。
人ならざる物の頂点、五感など人間の範疇を超えて、然るべきだろう。
空気の流れは、出口を指し示す。
触覚は、微細な気流を立体的に感じ取り、レインを出口へと導く。
レインは、外界へと歩み始めた。