第三章 一〇月三一日(土)#1
◆ 1
夜道とはいえ、誰の目にも触れずに歩くというのは現実的なことではない。
しかし、仮に誰かの目に触れたとしても、全く印象に残らないような、際立った特徴のまるでない人物であることは、そんなに難しいことではない。(……)
その点は、かなり恵まれている。
運もいい。
幸い、この辺りで目立つような人間では、少なくともまだ、ない。(……)
歩みを進める。
余程運がいいのか、誰にも出会うことなく、目的の建物までたどり着いた。
ここからは、より慎重でなければならない。
既に消灯され、メインエントランスの一部の明かりを除いて、非常口の緑色と消火設備の赤ランプ、自販機の明かりを中心に照らし出す風景は、蛍光灯が点いていた四時間余り前と何ら変わっていなかった。(……?)
何も問題ない。
あとは、誰にも見られずにコトを行うだけだ。(……!?──)
周囲を窺うことに、いつも以上に慎重になる。
失敗は絶対に許されない。(……ダメ!──)
移動中と異なり、こんな時間にもしこの場所で誰かと出会ったならば、それはきっと、その人物に大きな印象を残してしまうだろう。
それだけは避けたい。
一般人の日常からはやや乖離した場所──そんな場所に足を踏み入れてしまっているのだ。
それにしても、こんな綱渡りに追い込まれるとは、昨夜までは考えもしていなかった。
予測のできない状況、というものは、えてして予期せぬ事故を生むものだ。(…………)
いやいや、物事は悪く考えていいことなんて何もない。
現実問題として、迷宮入りになった事件というのは決して少なくないのだ。
何も考えずに犯行に及んだって、捕まるとは限らない。
いやむしろ、動機なき殺人こそ未解決になる可能性は高い。(!?)
動機なき殺人──。
動機のない殺人なんて本当はありはしない。
ただ、その動機を常人が理解できるかそうでないか、ということだけで、理解できない者がそう認定するに過ぎないのだ。
それにここは、犯罪を行うにはある意味、うってつけの場所である。(……ここは──)
人通りは極めて少なく、むしろ誰もこの一キロメートル四方にいないという可能性さえある場所。(……ウチの──大学?)
ざっと見たところ、幸いにも、多数ある部屋のどこにも電気が点灯している様子はない。
目的の部屋も含めてだ。
よくよく運が良いらしい。
改めて周囲の様子を窺うが、何も変わった所はない。
いける。
必ず、成功する。(! ……)
時計を見ると午前二時二七分になろうというところだ。
行くか──。(!?……)
こういうときは、堂々と行動するのが最良の策である。
下手に人目を忍んでいて見つかったら、それこそ相手の意識に深く刻まれてしまう。
とは言え、堂々としすぎて、いらぬ目撃者まで作る必要はない。
コトは、できるだけ慎重に運ぶ必要がある。
慎重かつ大胆に。
ふと、笑みがこぼれたような気がした。
どうやら、冷静さを完全に取り戻すことができたようだ。(…………)
この学生部棟の一階エントランス付近には、給湯場、トイレがあり、都合の良いことに、目的の部屋はその給湯場の近くにあった。
この時間、外を出歩く者があるとすれば、それらを利用するか、少し離れたところにある自動販売機へ行くかの三通りぐらいしか考えられない。(……え?──)
ということは、この辺りの動向に細心の注意をし、かつこの辺りを堂々と動きまわることができれば良いことになる。(……)
人と出会う、あるいは人に目撃される可能性の、最も少ない行動を導き出すため素早く計算に入る。
そしてその解は、すぐに出た。(……!?──)
ホールの入口付近から出、裏の方へ回ると、そこには果てしない闇だけがあった。
辺りには人の気配はない。
素早く、音を立てないよう滑るように走る。
エントランス裏の現在位置から給湯場までは一本道だ。
しかしその道には、ある場所から、ほんの少しの範囲だけ光が当たる場所がある。光が当たるということは、視界の及ぶどの暗がりからでも、そのスイートスポットにはまった瞬間、姿を見られる可能性がある。
しかし幸いにも、この道の横には──。(……道の横には、植え込みが、ある?──!)
当たり前のように土の上を進む。ここ何日も雨が降っていないので、足跡を残す危険性はないし、落ち葉が証拠を残さないよう手助けをしてくれている。
そして無事、給湯場にたどり着いた。
なんの異状もない。
やはりツイている。(!!……)
神がもし、この世にいるとするならば、やはり味方として認識していいらしい。
何らの障害もなく、目的の部屋の前に立つことができたのだ。
四時間以上前に来たときにも周囲に気を配っていられたが、それは今でも変わらない。
必要十分なほど、冷静さを維持できている。
昨夜の失敗は、ただ単にあの女の悪運の方が強かっただけだ。(!! …………)
ただ、それだけのこと。
再び、目の前が大きく歪む。渦を巻く。
そして、その歪みが晴れて三度、またも造作もなく扉が開かれた。
ドアを静かに開く。
目の前には一人の女性が、あまり綺麗なものとは言い難い寝袋に入って横たわり、眠っていた。
明かりの面についてはまったく問題がなかった。
建物内を照らす明かりは僅かであるにもかかわらず、室内の必要な箇所を必要十分なほど照らし出してくれている。
頬の筋肉が微妙に吊り上がっていく感覚を覚える。(! ……)
彼女は、体は仰向けに、顔はやや左を向いて眠っている。
髪については全く気にも留めてないらしく、長い髪が頬にかかったままだ。
寝袋のファスナーを下げる。
寒いのだろうか。
体が自然と横を向き、体が縮こまる。
これでもまだ起きないとは、楽な相手だ──。
! ──!?
そう思った瞬間、眠っていたはずの彼女が、寝袋を脱ぎ捨てようともがき出した。
ファスナーを下ろしていたので、みるみるうちに寝袋から体が出てきて、立ち上がろうとしている。
そしてドアの方向に向かおうとする──。
!! ──。
一瞬、何が起きたのか、現実を見失うところだった。
が、我ながら冷静だった。(!? ────)
彼女の体を後ろから捕らえ、右腕の関節をきめ、口を手で塞いで体を床へねじ伏せる。(!……)
彼女は身動きをとることもできず、声も出せない。
──これで終わりだ。
彼女の体を後ろから抱えたまま、懐からいわゆるサバイバルナイフを取り出す。
そしてそれを、躊躇なく彼女の胸に突き刺す。
ナイフが皮膚を貫き、そして肉に食い込む。
あまり心地よい、感覚では、ない──。
またも、視点が移った。
今回は視点だけではない。
──厭な感覚だった。
体の中を、ノミのようなものでくり抜かれているような感覚──。
痛み自体は麻痺でもしていたのか、内蔵をえぐり出されるような感覚だけが脳に認識を求め、そして脳は、それも認識した。
室内の様子が、僅かの間に急速に狭まっていく新たな視界のその中に、ほんの一瞬だけ──確かに映っていた。
「っ──!!」
声にならない叫び声を上げ、千春はまたも跳び起きていた。
自分の胸のあたりを見る。
もちろんなにも刺さっていない。
血ももちろん、出ていない。
「…………ぅ、はあっ」
ほっとしたのも束の間、ナイフが自分の胸に食い込んでくるあの不快感を、千春はすぐに思い出した。
まるで自分がその場で、当事者としてそれを体験したかのような、不気味なほど現実的なシーン。
これまでの「夢」の中でも一際、総毛立つような感覚──。
まさかまた、誰か、殺されたとでもいうのだろうか?
暗かったからはっきりと見えたわけではない。
が、細部に及ばなければ、なんとか彼女の顔を思い返すことはできた。
はっきり「覚えている」と言ってもいい。
またしても、千春のまったく知らない人物が、「夢」の中で──。
(!? そういえば!)
あの現場は、国立Y大学ではなかったか?
千春は、さすがに一〇〇パーセントとまでは言わないが、かなり高い確率で、そうだ、と言い切れる自信があった。
どういうわけか今回は、過去二度に比べ、犯人の思考が手に取るように伝わって来た。
犯人の思考、つまり犯人の心の様子が。
どうしてこんなふうになったのかについては置いておくしかない。
とても説明のつくことではない。
しかし、この犯人の心の動きをとりあえず真実のものと仮定してみたとしたなら、一つの推論が明確に成り立つ。
まず、犯人は、千春の通う大学である国立Y大学の内部の地理にかなりの程度詳しい、予備知識のある人物であり、そして、キャンパスに出入りしても、ことさら違和感のある人物でもない、ということ。
『仮に誰かの目に触れたとしても、全く印象に残らないような、際立った特徴のまるでない人物であることは、そんなに難しいことではない』
『幸い、この辺りで目立つような人間では、少なくともまだ、ない』
犯人の心は、確かにそう語っていた。
ベッドから這い出し、時計を見る。
一〇月三一日、午前二時三二分──。
またしてもこの時間帯だ。
明かりを点けて確認する。
今回は掛け時計は狂っていない
これはいったい、何を意味すると言うのだろう?
しかしやはりこれも、考えたって判るものではない。
とりあえず気持ちを切り替え、今日見た「夢」について更に検討を加えることにする。
今日の「夢」は、大学──それも千春の通う国立Y大の学生部棟を舞台にした「殺人事件」だった。
客観的に言って、Y大のキャンパスは、原則として、外に対して極めて広く開かれている、と言っていい。
地理上、大学付近は、住宅地A─大学─住宅地B─駅・バスターミナル、となっている。
つまり、住宅地Aに住む人々は、通勤や通学、買い物等の近道のために、キャンパスを通路として使う。それが、この辺りでは割と自然な、よくある風景なのである。
すなわち、単なる日常生活の中でも、この付近を通りかかる人間は決して少なくないのだ。
加えて、学会や大学入試ガイダンス、学士入学の説明会に社会人向けの講座と言った、出席者が限られるとはいえ外部を対象とした催し物に加え、最近では市民講座のような参加者を特段限定しない講座の開講も積極的に行っている。
また、一一月五日・六日にある市立Y大との定期対抗戦の準備のため、学内に入り込んでいる業者の人たちもいる。大学内部についてそこそこ詳しいからと言って、そのことだけをもって、犯人が大学内部の者であるとの断定をすることは、軽率の誹りを免れないだろう。
しかし──。
だからといって、学生部棟の内部にまで詳しい一般の人が、いったい何人いるだろう? それは疑問だ。
千春のように毎日大学に通っていても、サークルに入っていない学生は、この辺りの情報については基本的に疎い。
まして、一般の人にはそこに入る理由がない。
また、近未来の都市空間をテーマに作られたというY大のキャンパスは、はっきり言って、全体として、その構造が非常に解りにくいレイアウトで構成されている。
現役の学生でさえ、知らず知らず目的地まで遠回りし続けている、という話さえあるくらいだ。
そうした観点から考えてみると、あの犯人は、随分と的確に動き回ってはいなかっただろうか?
断定はできないにしても、やはり──。
いやしかし、そもそも本当に、あの「第三の事件」は起きているのだろうか?
それが何よりも問題だ。
もし起きていたとしたら大変なことだ。
記憶を呼び起こす。
まだまだ鮮明な、新鮮な記憶。
ソレは語る。
学生部棟のあの部屋(何の部屋だかは判らないが、位置だけははっきりと覚えている)で、寝袋の上で、髪の長い、ストレートヘアの女性が、背後から体をねじ伏せられ、前から胸を、ナイフで刺されたのだ。
……そうだ!──。
まだ、「彼女」は死んでいるとは限らない。
死んではいないかも知れないじゃないか──。
ふと、千春は自分が、重大な責任を負ったような気がした。
もし犯人があのあとすぐ逃げていて、彼女にまだ息があって、自分が今、一一九番すればまだ助かるのだとしたら?
大変だ!
跳ねるように起き上がり、すぐさま電話機に向かう。
が──すぐに思い止どまる。
もし、あの「夢」が本当に単なる「夢」で、実際には何も起こっていなかったら?
実際はあの見知らぬ女性が、あの場所にいなかったら?
いてもぐっすりと眠っているだけだったら?
その誤通報のせいで、彼女に迷惑をかけたとしたら?
……それなら自分で確かめに行けばいい。
自分の目で確かめ、そしてもし、「事件」が本当に起きていたら──。
いや、ダメだ。
あの「夢」が、いや、そもそもここ三日間の一連の「夢」が、もし、現実と全くのリアルタイムに起こっている出来事だとしたら──いや、それは昨日、千春が殺されなかったのであり得ないが──もしあれが予知夢のようなものだったとしたとしたら、千春も依然、狙われているままかも知れないのだ。
それに今回の「事件」が現実なら、過去の「二件」から、犯人は犯行の手口を変えてきたことになる。
ナイフを使った、誰が見ても完全なる殺人事件または殺人未遂事件。
これを、犯人がなりふり構わなくなった、と理解するなら──。
そうこうしているうちに、時間は確実に過ぎていく。
千春は、自分の夢の内容の現実感と、本当の現実の存在との間で悩みながら、依然、空想の世界をさ迷っているような感覚だった。
刻一刻と過ぎていく時間──。
(もう、仮に息があっても、助からないよ)
(いや、あれじゃあ彼女は即死だったはず)
(でも、ひょっとしたらまだ、助かるかも知れない)
(ムダよムダ。それどころか、私が容疑者になるかも……そんなのごめんだ)
時間の経過は、選択肢を減らすという働きを確実に持っている。
諦めと苛立ち。
次第に、自分を納得させるだけの言い訳について、あれこれと考えを巡らすようになっていく。
(だってあれは夢よ?「夢」。
もし本当のことだったって、私には関係ないんじゃない?
関係あったとして、だったら、のこのこ現場まで行って、犯人とばったり会ったらどうなるのよ?
私だって殺されるかも知れないじゃない!
犯人は今回、自殺に見せかけるような小細工を全くしていない。
なら、いきなり通り魔的な犯行に出る可能性だってある。
それに、苦労してバリケードやトラップをつくった意味もなくなるし──)
──何なのよ、もう!
思わず枕を壁に叩きつける。
落ち着かない心を必死に押さえ込みながら、あの夢が──リアルすぎるあの「夢」が、虚構であることを祈らずにはいられなかった。
千春はこのとき、大いなる妥協案を思い浮かべていた。
そうすることで、少しでも気持ちが楽になれば──。
何かにすがりたい、そんな気持ちが、数時間後、千春を中途半端な行動に駆り立てることになる。
◆ Meanwhile "Police"
まさか、本当にあるとはねえ──。
これが水林警部補の第一声だったそうだ。
阿部刑事が事件の一報を受けて現場に着いたのは午前七時五分前。もちろん寮で寝ているところをたたき起こされることになったわけだが、これも刑事という職業の宿命、仕方ない。
一方、水林が事件の報を受けたのは、午前五時半頃、M署の刑事課でのことだった。
三枝祐美恵の「事件」を捜査する時間をより多く確保するため、早朝から出勤して調べものをしていたところ、M署の刑事課直通のタレコミ電話をとったらしい。
そのタレコミ電話は、くぐもったような声(おそらくハンカチか何かで通話口を押さえながらかけたもの。水林の印象では、女の声のような気がする、ということだが)で、市内の公衆電話からかけられたものだった。
調べてみると、その公衆電話は、M署からそう遠い場所ではなく、「現場」である国立Y大学からもそう遠い場所ではなかった。移動手段によっては、「近い」と言った方が良いのかも知れないくらいの位置関係だ。
そしてその肝心の内容だが、
『国立Y大学の学生部棟一階奥から二番目の、給湯場から向かって左側の部屋を調べろ。
若い女性が殺されているかも知れない』
というものだった。
タレコミであるにも関わらず、「かも知れない」というのにも違和感がある。水林警部補も当然、ガセかどうかで迷ったらしい。
しかし、わざわざこんな早朝に、しかも直通で刑事課にかかってきた電話だということもあって、思い切ってその指定された場所に出向いたみた。
そしてそこで、言葉通り、若い女性の遺体を発見したのである。
現場となった学生部棟には多数の部屋がある。基本的にそれらは、大学の各サークルの部室として使用されているらしい。
そして重要な点は、現場となった部屋には鍵がかかっていた、ということだ。
当初、ドアが開けられなかったため部屋の中を見ることができなかった水林は、せっかく来たのだからとドアと部屋を挟んだ反対側、つまり窓側の方に回り込んで室内の様子を窺った。そしてそこで初めて異常を認識。即、阿部刑事を含む刑事たちと鑑識を呼び出したのだ、という。
ドアの鍵は、後発で駆けつけた鑑識の一人が開けた。
このドアの鍵は単純な構造のものらしく、ある程度の技術があれば、開けるのは難しいことではないらしい。ベテランの鑑識課員がものの二、三分で開錠してみせたことからも、その事実を証明していた。
もしこれが開けられていなかったら、窓ガラスを破って中に入ることになっただろう。反対側の、窓の方にも鍵がかけられていたからだ。
『密室殺人』──。
三枝祐美恵の「事件」に続いて、またしても「密室」の登場だ──阿部はこの時点で、そんな着想に捕らわれていた。もちろん、鍵を持つ者が犯人だったなら、密室でも何でもないわけだが。
現場に入るときにマスターキーや合い鍵を使おうとしなかったのは、まだ早朝であり、しかもこの日が土曜日で、大学の事務局が休みだったからである。
また、同じ理由で、この部屋の主である「オカルト研究会」のメンバーのことについて調べようがなかったことも一因であった。合い鍵を持つ者を調べるのにかかる時間を考えた場合、優先順位は明らかに、遺体──死んでいるかどうかは確定してはいなかったので、被害者の救助及び現場検証の迅速性の方が高かったのである。
今度の事件が一昨日の「事件」と異質であるのは、これは誰の目にも明らかであった。
「殺害」方法、現場、凶器、通報(犯行声明?)、第一発見者。
それに比較的開錠、施錠が容易な鍵。
三枝祐美恵の部屋がドアガードまでかけられていたのとは大きな違いだ。
本件は争ったような跡もあり、当初発生していた密室の構成要件がどうであったとしても、誰がどう見ても他殺なのである。
現場の部屋の中には、依然、厭な臭いが立ち込めていた。
ガイシャは女の子独特の正座に近いが正座でない、アヒル座りとかペタンコ座りとかいう両足の間にお尻を置く座り方の形で、うつ伏せになった状態で絶命していた。
大量に流れ出た血液が、使っていたのであろう寝袋に、一部はまだ液体の状態で溜まっていた。素材が水を弾くものだったからだが、そんな血溜まりももうかなり乾いており、死亡したのが少なくとも数時間前で、タレコミは犯行後、数時間経ってから行われたらしいことが窺われた。
凶器は刃物──サバイバルナイフで、被害者に突き刺さった状態で、被害者の指がかかった状態で発見された。
が、それは事切れたあとで握らされたのであろうという推測が成り立つ程度に添えられたものに過ぎず、「これが自殺とは考えられない」というのが、ベテラン鑑識課員の見立てだった。
彼がそう確信するのは、もう一つ根拠があったからだ。
それは、凶器が一度引き抜かれており、二回刺されているからだ──という。
単に刃物で刺されただけでは、ここまで出血することはない、と彼は言った。
また、二回とも刃を横にしてして刺されており、これは後に司法解剖で判ったことだが、一回目については、かなり深くまで刺され、かつその状態グリグリと動かそうとしていたらしい。
いずれも、強い殺意を感じさせる「証拠」であった。
その鑑識課員の話によると、死亡したのは午前二時から四時ぐらいまでの間で、もっと思い切って詰めるなら、二時一五分から三時一五分までの一時間程度に絞れるのではないか、ということだった。正確には医師による司法解剖の結果を待たなければならないし、そこではおそらく、時間的にはもう少し広くとられるだろうがね、と。
権限と責任のある者は、どうしても慎重になるものである。
しかし、発見が早かったことが、鑑識にここまで大胆に時間を絞らせる要因になった。
口に出しては決して言えないが、また不幸中の何とやら──か、と阿部は思った。「オカルト研究会」がどの程度の規模のサークルなのかは知らないが、名前からして大所帯ということは考えにくい。今日が土曜日であることを考えると、そのタレコミ電話がなかったら、発見は月曜日以降になっていた可能性が高い。
しかし、そのことと表裏一体で、目撃者に関しては、はっきり言ってお寒い限りだった。
警官隊が到着したときにこの建物内にいたのは、この建物を住居代わりに使っている、自称劇団所属の貧乏七年生という男子学生だけだった。
その彼がいたのも現場とは二〇mは離れている別室で、ぐっすり眠っていて何も知らない、という。
もちろん、この七年生が犯人の可能性もあるが、その確率は常識的に言って相当低い。
彼は、七年生をやっているだけあってこの学生部棟では有名人であり、かつ、警察の呼びかけにも迷惑がりながらも素直に自分から応じてきた。そもそも、彼が犯人ならわざわざ現場近くに居続ける必要はないし、この学生部棟に「住んでいる」人間が、同じ建物内でこんな事件を起こすのは全く合理的ではない。
別の事件とセットであるならあり得ることではあるが──そんな形跡はないそうだし、胸くそが悪いので、阿部は一度、考えるのをやめた。
現場検証が進むにつれ、他にも色々なことが分かってきた。
最後にドアノブを触った者は、おそらく手袋をはめていたであろうということ。
犯人は見事に、急所を一突きにしている、ということ。
財布の中身に、まったく手をつけられた形跡がないこと。
被害者の名前、及び身分。
そして被害者が、この部屋の鍵を持っていたこと。
つまり、部屋の中に鍵があった、ということ──。
被害者は、このY大の学生で、持っていた学生証によると、名前は井川恵、二一歳。所属は理学部。
阿部と同い年であり、顔写真を見るなり、阿部は怒りを禁じ得なかった。
なかなかの美人だ。
苦悶の表情の遺体の顔とはやや違って見える。
こんなかわいい女性に、こんな表情をさせるなんて許せない──そんな私憤が沸き起こる。
そんな阿部の表情を見て、先程のベテラン鑑識課員が話しかけてきた。
ドアの鍵を開けて見せたのもこの男である。
「そんなに気負ってたら、刑事なんぞつとまらんぞ」
ふと水林の方を見ると、相変わらず感情があまり感じられないクールな面持ちで、淡々と作業をこなしていた。
「ま、あいつほど冷めた人間になれとは言わんがな。あいつは特別だから。
あいつも、昔は割と感情の起伏のある方だったらしいが──おまえさんも頑張るこった」
……感情の起伏がある方?
水林警部補が?
あのクールさが地ではないって?
ふと疑問に思って聞いて見る。
「何だおまえさん、知らんのか……ってまあ、それが当然か」
初老の鑑識課員は口を濁したが、追求すると、「詳しいことはオレも知らんのだが」と前置きした上で話してくれた。
その話は、阿部には衝撃的なものだった。
数年前、水林は、横浜市内のT署に勤務しているとき、結婚を考えていた恋人を、目の前で失ったことがあったらしい。T署の当時の同僚が、あまりに元気のない、喪失感に駆られている水林を見て、酒を飲ませて聞き出そうとしたところ、呟くようにそう応えたのだ、と。
以降、水林は感情をあまり表に出さない、クールで冷静な人間へと変貌していった。
M署に配属になったばかりのときは、あまりに付き合いづらい上に急速な昇進もあって、反感も買ったそうだ。
しかし、この話を内々に伝え聞いて以降、反感は引き潮のように引き、そして今のバランスが確立したのだ、という。
『最愛の人を失った悲しみは、その人でなければ分からないもんだよ。
そして、その後、その人がどうなってしまうか──もね』
阿部が最も尊敬する刑事の言葉が重なった。
交番勤務時代に、ひょんなことから聞いた言葉だ。
「おい、そこで何やってんだ」
水林の声で我に返る。
阿部は再び、遺体を見て気を引き締めた。
水林の過去を聞いたからといって気を遣うのは、逆に彼に対して失礼だ。だから彼に対してはいつものように振る舞うことにする。
そして今は、何よりも、この女の子を殺した犯人を逮捕することが、せめて自分ができる、やらなければならない勤めなのだ──と、阿部刑事は現場の最前線へと戻る。
一つの命が失われることが、どれだけ大きな損失となるのかを、僅かに肌で感じながら──。
早野千春:#2 高校時代にプロの作詞家とメジャーデビューしており、大学2年生に進級した頃には、印税収入だけでなんとかやっていけるようになっている、「上昇気流に乗った売れっ子」という顔を持つ。父と兄の遺産があり、高校時代まではそれに支えられていた部分も多かったが、大学2年生現在ではそれに頼らず、学費、生活費ともに自力で賄っている。
作詞家としては覆面作家で、筆名は「葛野深雪」。客観的には美人の類いだが、本人はあまり自覚的ではなく、年齢も容姿も伏せて活動している。ちなみに、依頼主諸氏からは、20代の中盤以降~40代前半くらいだと思われていることが多いとか。