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Message~永遠の時を越えて  作者: 笹木道耶
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第二章 一〇月三〇日(金)#2

     ◆ "Friend"


 ドアのチャイムを押すと、中からかすかな悲鳴のようなものが聞こえたような気がした。


 それはそうだろう。

 気づかれたら、それはそれは大きな損失を被ることになる。


 もう一度チャイムを鳴らす。

 敵も心得たものらしく、何の反応もない。

「やるわね……」

 独りごちて、三度目のチャイムを鳴らしたあと、ドアを乱暴にノックしまくる。

 そして佳奈は、千春ちゃんいるんでしょう? 開けなさい!──と何度も叫んだ。


 自分が何をしているのか、佳奈は冷静に把握できていなかった。

 ただ酔いに任せ、失恋の痛手の勢いに任せ、オトコとよろしくやっているであろうという状況に嫉妬するという感情に任せ、こんな行動を取っているに過ぎなかった。

 その行動が、心通じ合う、年下だが少し大人びたところのある友人を、失わせしめるかも知れないことに、深層心理では気づいていながら、そんな行動が止められない自分に本心では腹を立てながら、その怒りを七〇一号室のドアにぶつけるかのように、何度も何度も強く叩きまくった。

 いつ果てることもなく、長々と続くかに思われたこのむなしい時間は、しかし、思いもかけない出来事とともに終わりを告げた。


 ドアが静かに開いた。


 伸び切ったドアチェーンの向こう側にいたのは、目の下にクマを作り、ただでさえ少し痩せぎみの体が更にやつれたように見える「少女」だった。

 その顔は、とてもオトコとよろしくやっていた「女」の顔ではなかった。


 そしてその少女は、佳奈さん? 佳奈さん、だけ──だよね。……よかった──と言うと、ドアの向こうで、高層ビルが崩壊するときのように、ガクン、と崩れ落ちた。


 その疲れ切った目には、涙が、浮かんでいた。



『ふうん、それで?』

『う~ん、でもそれって……いつもやらなきゃいけないことだろ』

『へえ、いいじゃん、それ』


 他にも、こんな言葉が同じ男性の声で語られていた。

『もしもし』

『ふうん、他には?』

『いけるいける』

『もしも~し』

『へえ、やるなあお前』

『がんばろ、お互い』

『イイ感じじゃん』

『あ、オレオレ……。今、時間ある?』

『まあ、そのヘンは……』

『ま、そうだよなあ』

『つらいとこだよね』

『はっはっはっは……』

『いい、いい、それイイ』

『じゃね、ばいば~い』


 特定の鍵盤を押すと、その鍵盤ごとに割り当てられた言葉が呼び出される。

 連打したりすれば、よくクラブなどでディスクジョッキーがやっている「スクラッチ」のようなのも可能だ。


 佳奈が千春が男性を部屋に連れ込んでいると誤解したのは、何のことはない、千春の一人言ならぬ一人芝居だった。

 この男声は、以前千春が作曲した曲の間奏部分に、伴奏の一部のサウンドエフェクトとして男女の電話での会話を挿入したくて、大学の放送部の知り合いに頼んでサンプリングしたものだったらしい。

 そして、最後の最後、『へえ、いいじゃん、それ』を誤って選んでしまい、会話が続かなくなってしまったところで、佳奈がチャイムを押したのだという。

 それを聞かされたとき、佳奈は思わず、真夜中であるにもかかわらず大笑いしてしまった。


 ドアの向こうで千春が崩れ落ちたときは、酔った状態の攻撃的な頭でも、一体何が起こったのかと気が動転しかけた。

 何とか千春にドアチェーンを外させ中に入ると、当初の目的だった糾弾すべき情事の痕跡などはかけらも見当たらず、パソコンをはじめ各種オーディオ機器が煌々と光を放っていただけだった。

 千春は力尽きたようにぐったりし、僅かながら涙さえ浮かべていた。

 佳奈が千春の部屋に入ってから少し時間が経って、ようやく二人とも落ち着いてきた。そこで初めて、佳奈は千春に、ようやく何があったのかを訊ねることができた。

 千春はポツポツと、ゆっくりと語り出した。


 言葉を選びながらのその話は、にわかには信じられないようなものだった。

 いつも、どちらかと言えば気丈で、自立心というか自信というか、いい意味でのプライドを感じさせる早野千春。

 四歳──約五歳という年齢差を感じさせることなく、これまで一年半、付き合ってくることのできた早野千春。

 その彼女をここまで憔悴させる出来事を、僅かの間に想起することは、佳奈にはとてもできそうになかった。


「すう……、すう……」

 千春のかわいらしい寝息が聞こえる。

 一通り、話すだけ話して、崩れ落ちるように眠りに落ちてしまった。余程疲れていたのだろう。

 アタシが男だったら、襲わずにはいられないほどカワイイ──。

 アブナイ発想だ。

 元々、自分がこの部屋に何しに来たのか考えると、情けなくもある。


 それにしてもあの、一九歳にしては大人びた感のある千春が、こんなにもかわいらしく、反対に言えば頼りなげに見えたのは初めてだった。

 水商売も、はや六年目となる佳奈は、これまでいろいろな人間模様を多数、その目で間近に見てきた。今でも、同世代の普通のOLよりは世間や人間が見えている、と自負している。

 その佳奈が、人生で初めて、年下で尊敬すべき人だ、と思わせた人物。

 それが早野千春だった。


 健全無比の昼型生活を営む千春と、夜のお仕事の佳奈。

 時間帯が合わないように見えて、夕方や早朝、廊下や入口、マンション付近でバッタリ出会うことが何度もあった。

 何となく、お互い気になるところでもあったのだろう。自然と挨拶をするようになり、一言二言の短い会話をするようになり、そして普通におしゃべりするようになり──今では、お互いの部屋に呼んだり呼ばれたりすることもある、そんな仲になっていた。


 聞けば、千春はあまりいい家庭環境で育ったのではないらしい。

 一人暮らしが六年目となり、料理洗濯掃除と、ようやく一人前の主婦並にこなせるようになってきた佳奈だが、千春はこの部屋に来たときから、料理洗濯掃除に裁縫まで、家事を一通り完璧にこなすことができた。

 自分でやらなきゃいけなかったから──と、当然のように、しかしどこか淋しげに言っていた横顔を、佳奈は今でも忘れることができない。自らドロップアウトした経験を持つ佳奈とは、そのあたりが決定的に違うところだ。

 彼女は必ずしも、望んでそうなったわけではないのだから。


 千春はよく頑張ってきたと思う。

 誰からの学費の援助も一切受けない、完全自活の大学生という身分。

 高校時代、バンド活動である大きなコンテストのグランプリを取り、メジャーデビューのチャンスがありながら、その誘いを断った、という経歴。

 現在、彼女は「葛野深雪」という芸名(筆名)で、作詞家として、メジャーのミュージシャンの多くに詞を提供している。すごく有名、というほどではないが、ここ最近の邦楽に詳しい人なら、必ず一度は目にしたことがあるくらい、メジャーな名前である。

 もともと才能があったから、というのもあるのだろうが、彼女の作詞家人生はすこぶる順調のようだ。


 彼女はプロからの誘いを受けたとき、自分が歌手としてデビューしたときの未来について真剣に考えたらしい。そして、彼女は作詞家としてデビューする道を選んだ。

 当時の自分の力量では、歌手デビューしても一年ともたないかも知れない。でも、作詞家としてデビューすれば、ヘンな色に染まることなく、仕事を長く続けていけるのではないか──そういう結論に達した彼女は、作詞家としてのデビューを決意し、プロの世界への扉を叩いたのだった。


 大き過ぎるリスクはさすがに背負えないし、一攫千金を狙う必要もない。

 大学にもきちんと通いたい。

 そんな気持ちが、おそらくはあったのだろう。


 彼女には、帰れる場所がなかったから。


 しかし、順調に行っているからといって、彼女の苦労が並大抵のものでなかったことぐらい、同じく親の援助を一切受けず、四年制大学へ通った経験のある佳奈には、痛いほどよく理解できた。

 まして千春の場合、高校時代からそんな状況だったのだ、というではないか。


 しかし今は、そんな千春が年下の女の子として、妹のような存在として見えている。

 年相応の女の子として。

 やはりこの子は尊敬に値する。

「すごいコよね、千春ちゃんは」

 思わず口に出して言ってしまったその言葉は、佳奈の、偽らざる本心だった。


 ──彼氏でもいれば、精神的にもう少し楽になれたんじゃない? 


 心の中でそう問いかけようとして、はっと思う。

 そういえば、田舎の両親の反対を押し切って上京し、自ら望んで四大へ在学、学費と生活費のために水商売の世界に身を投じ、未だその世界を離れられない自らの惨めさに、何度か自分が潰されそうになったとき、その時々のカレたちに、精神的にずいぶんと助けてもらったものだ。

 そう、別れたばかりのあの彼にも──。


 再び淋しさが込み上げてくる。

 でも、そんなことで泣いていたら、年下である千春に示しがつかない。

 むしろ今までありがとう、そしてさようなら、幸せになってね──って言えるぐらいの度量がなければ、この早野千春という女性と、これからも付き合っていく資格なんてない。

 佳奈はこのとき、そんなふうに思った。

「がんばらなきゃ、ねっ!」

 アルコールはまだ残っているが、すっかり酔いの醒めた体をくの字型に折り、ベッドの側面にもたれ掛かる。

 寝相のいい千春のいるベッドの下で、毛布にくるまって眠ることにする。


 今晩は、一緒に寝てあげるから──。


 怖がりの妹か、それとも、ちょっとばかり大きな娘に声をかけるように、唇だけ動かす。

 佳奈は、今日のことで自分が少しだけ、大人になれた気がした。


 おやすみ──千春ちゃん。


     ◆ Meanwhile "Police"


 もう一一月にもなろうかというのに、額から汗が滲み出てくる。

 着慣れないスーツ。童顔。

 はっきり言って迫力はない。


 職業柄、どうしてもスーツでなければならないわけではないが、コンビを組んでいる相手がいかにもエリートサラリーマン然とした人物だけに、引きずられるようにスーツに着られる羽目になってしまった。

 災難だ。

 カジュアルの方が絶対似合うし、違和感も持たれないだろうに。


「手がかりなし、か……」

 エリートサラリーマン然とした相方の男が言った。

 長身でスラリとしたこの男は、こんな何でもない言葉を吐くときでも、普段と変わらぬクールさを醸し出す。

 この人が取り乱すことって、あるのだろうか?

 阿部智幸刑事は、いつもそんなふうに、この男のことを見ていた。


「こっちもダメみたいです」

 みたい、などという曖昧な言葉を使ってしまうのは、まだまだ自分に自信がないからである。しかし刑事足るもの、自信過剰と同じくらい、自信過小であることもマイナス要素だ。

 案の定、お叱りを受ける。


 それにしても。

 若い女性らしくなく、さえぐさゆみえのシステム手帳は、純然たるスケジュール帳以外のなにものでもなかった。

 それ以外にも日記とおぼしきものはなく、電話の横にあるメモ帳にも特に何も書かれていない。

 ゴミ箱にもこれといったものはない。

 「自殺」をほのめかすような手がかりは、全くもって何もない。

 もちろんこれは、昨日の捜索の時点で判っていたことではあったのだが。


「やっぱり自殺か? だとしたら、おれの勘も焼きがまわったもんだ。ついでに、阿部君の勘もたいしたことはないってことかな?」

 こんな口調で皮肉を言われると、少なからず腹が立ちそうなものである。

 しかしこの男に限っては、それが嫌みに感じられないから不思議だ。

 基本的に不器用な彼は、こんな言い方でジョークを飛ばし、部下をほっとさせる術しか知らないのである。


「警部補」

 ついつい、肩書きで彼のことを呼んでしまう。

 普段はそれを好まない彼だが、このときばかりは怒る気力もないらしかった。

 まだ、さえぐさゆみえの母親にこのワンルームを見せる、という仕事が残っているが、こんな状況ではもうおそらく何も出ては来まい。

「聴き込み、だけだな」

 冷たく水林警部補が言い放つ。

 これが彼の厳しさであり、優しさであることを、この一か月の間、阿部は学んできた。

「仕方ないスね」

 特に根拠はないが、この事件は何かしっくりこない、そんな思いが阿部にはあった。


 あの恐怖に満ちた、アスファルトの地面に砕かれた、さえぐさゆみえの端正な顔──。


 頭から地面に突っ込んだ割に表情がまだ残っていたのは、第一発見者にとっては不幸だったかも知れないが、自分たち警察にはラッキー──もとい、好材料だったと思いたい。

「意外とへこたれないな? 人は見かけによらない。昨日も、あの現場を朝から見せられて、吐かずに飯もちゃんと食ってたもんな」

「それが刑事の仕事だって、聞いてましたから」

 とはいえ、実際昨日は、昼はおにぎりとあんパン、夜は具を全く入れないインスタントラーメンだった。

 まともな肉料理は、さすがに食べる気分になれなかった。


『刑事の仕事は、どんな優秀な捜査官でも、大半は無駄骨だ。

 根気と知力と体力と、あとは──経験と勘と運。

 人の言う言葉を、証言を、他方面から自分の頭の中で検証する、眺めて見る、視点を変えて見る──粘り強くなければ決して務まらない。

 食えるときにしっかり食い、休めるときはしっかり休む。

 それもまた、仕事のうちだぞ』


 阿部は、最も尊敬する知り合い──先輩の刑事の言葉を思い出していた。

 水林警部補が動いてくれているうちに、何か手がかりを見つけておきたい。

 となれば、とにかく速く、動くことだ。


 突然、水林の携帯電話が鳴った。

 バイブレーションの音は、静かな所だと立派にうるさい。


 電話を切ると、水林は気乗りのしないような顔で言った。

「この近くのマンションから、緊急でない一一〇番通報があったらしい」

「……緊急じゃない一一〇番ですか?」

「ああ。いくぞ」

 いきなり出鼻をくじかれたような気が、このときはしていた。

阿部(あべ)智幸(ともゆき):#1 市立M高校を卒業してすぐに警察官になった21歳。神奈川県警M警察署所属の刑事。警察官3年目の巡査。173cm、65kg。型にはまりすぎず、柔軟に物事をとらえることができるのが持ち味。

 童顔で、未成年のように見えるのに止まらず、人に敵視されにくい柔和な印象を与える風貌で、普段はやや惚けたような態度であることが多いが、警察学校時代は高卒採用者の中では主席で卒業しており、上層部から期待されている。そのため、教育係的な立場として、最短コースを走る水林が配置された。

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