第二章 一〇月三〇日(金)#1
◆ Meanwhile "Friend"
「………………ああっ!……」
お隣二人はいずれもカタギだ。
こんな時間に大声を出すことはあまり好ましいことではない。
ましてや、グラスを机や床に叩きつけて割ってしまうことや、ウイスキーの空ボトルを壁に投げつけたり、この六階の、七〇二号室の窓から外へ放り投げたりすることは、言語道断──という判断ができる程度の理性は、まだ残っていた。
だいたいあんなことで、ここまで取り乱すなんて。
いい年してどうかしてる。
そう割り切ろうと何度思っただろう。
色恋沙汰はいくつになっても冷静さを失わせるものだわ、と今また、強く思う。
グラスに残っているワインを一気にあおる。
すぐ脇にはウイスキーの空ボトル。
彼とクリスマスに一緒に飲もうと思って最近手に入れたシャンパンは、一番初めに開けてとうに飲み干してしまっていた。
空になったグラスに、更にワインを注ぐ。
これだけ飲んでまだ理性が残っている。
真っ暗な部屋の中なのに、そして酔っ払っているはずなのに、上手にお酒を注げる自分に腹が立つ。
一方で、どこかでその理性に感謝している部分もある。
これ以上の醜態に陥りたくはない、そう思う微かに残ったプライドが完全に壊れる前に、自分を押し止どめてくれているのだ。
しかし、そう考えるとまた、涙が出てくる。
なんてアタシは惨めなんだろう──。
そんな惨めさがプライドを逆撫でする。
その苦しみから逃れようと酒を飲む。
悪循環だ。
二年、か。
結構、何だかんだ言って、幸せだったんだよなあ──。
グラスを持ったまま、口に運ぶことなく思い出にふける。
やれやれ、壊れなくて済んだか──という声が聞こえてくるかのようだ。
それがしゃくでグラスを口に運ぶが、もはや味などまるでない。
酔いも何かシラケてしまった。
やり切れなさだけが、周囲に漂っている。
飲みかけのグラスを机の上に置き、ベッドに仰向けになる。
木曜深夜──つまり金曜の午前に、この部屋にいるのは本当に久しぶりである。
何年ぶりだろう、と記憶を辿ろうとすると、やはりというか当然というか、彼の顔が頭に浮かんでくる。
彼と過ごした二年、正確には二年と四か月──。
幸せだった。
こんなアタシでも、幸せになれるんだ──そう思っていた。
「しょうがない、よね」
かすれた声でつぶやくと、また涙が出てくる。
今晩は、いっそのこと、彼との思い出について徹底的に思いを馳せて、とことん泣こう、と思う。そして明日、つまり日付としては今日──からは、いつものアタシに戻るんだ。
戻れる?
いや、自信はないのよ、やっぱり。
でも、過去はもう取り戻せない。ならば、前を向いて歩くしかない。
例えそれがどんなに辛いことでも、そうするしかないのだから。
だから今晩は、とことん、彼のことを、この二年四か月のことを想おう。そして、彼への想いをできる限り断ち切ろう……少なくとも、細くするぐらいはしとこうよ──五島佳奈、あなたはそれができる女なんだから。
夜は確実に更けていく。
もっともっと長ければいいのに──。
今まではそう思っていた木曜深夜のこと、今晩はいやに長い。
時刻は現在、一〇月二九日、二五時三〇分。
◆ 1
階段を上って行く。
ゆっくりと、一歩一歩確実に。
ふと、笑みがこぼれたような感覚を覚えた。やはり──。(!)
長い長い階段を上り切るまで、例によって誰にも会わない。(この階段は──)
予定通りだ。(!……どういう、こと?)
階段のすぐ傍の部屋、七〇一号室の前に立つ。(この階段、この手摺り、この壁、このドア──)
(私の部屋──私の部屋だ! 間違いない! 紛れもなく、ここは私の……)
一瞬、目の前が大きく歪む。
渦を巻いている。
視界の中心の丸い光へ向かって、何もかもが呑み込まれていく。
(! また?──。……まさか!?──)
ドアのノブが何の抵抗もなくまわる。(「犯人」は、私!?──)
時は深夜、静かな場所だ。
余計な音をこれ以上立てることはない。
昨夜は巧くいったが、今晩巧くいくとは限らない。(!?──)
とはいえ隣──七〇二号室──の住人が外出していることは間違いないはずだ。(……隣──佳奈さん?)
ということは、自然、難度は昨夜よりも下がる。(……佳奈さんなら、確かに外出、してるはず──)
問題は、むしろ自分の方にある。
こちらに慢心がなければ、きちんと冷静に事を運べば、きっとまた成功する。(……また、成功、する?──!)
心配をするよりも、堅実な行動だ。
行動しなければ何も変わらない。(……何を変えると、いうの? いったい──)
大丈夫、また、やれる。(…………)
静かに中に入る。
以前来たときとほとんど変わってない。(……以前、来たときって、え?──)
変わった所と言えば、六一鍵盤のシンセサイザーが、スタンドの上に置かれず、壁に立て掛けてあることぐらいだ。(……シンセを壁に立て掛けてあるって? 前は、スタンドの上だったって、こと?──)
おっともう一つ。
そう、彼女が、ベッドで寝ていること。
これも当然、以前と異なるところだ。(……私じゃ、ない?──)
フフッと笑ったような感覚が、「身体」を貫く。
ベッドの上の、今まさに、平穏そのもののように眠っている人物の顔を、微かな光の中で見、そして、自らの持つペンライトの明かりの隅で捕らえることによって、その顔を確認する。
相変わらずの、長い髪──。
毛先と首筋の根元の二か所で束ねている様がなかなかいい。(……!!)
確信する。(……そんな、ウソよ──)
こいつを殺したかったのだ。(……私、殺される、の? どうして? 何のために? 誰が? 何で──)
頬の筋肉が、またしても持ち上がる。
そうだ、この瞬間を、待ち焦がれていたのだ!(!!──)
それにしても良く眠ってやがる。(……早く起きて! 目を覚まして! お願い──)
頬の筋肉が更に持ち上がる。(……早く、目を──。早く、お願い!)
ついに、ここまで来たのだ。長かった。(!?──!!)
時計は、例によって二時二九分を指している。
いくぞ!(……起きて! 起きなさい! 千春──)
昨夜やったのと同じようにカーテンと窓を開ける。
ベッドの上の人物は、昨夜と違い目を覚ます気配はない。
──ついてるな、と思う。
すぐさま次の行動に移る。
事は迅速に、かつ、冷静に運ぶ。
これが、つまらぬミスを防ぐ最大の方法だということは、よく理解しているつもりだ。
そして自分は、それを行い得る人間である。
そう、選ばれた人間なのだ。
今日を境に、その自信はより強固なものになるだろう。
音を立てないように彼女の体に近づく。
よく眠っている。
もちろん、より一層気を引き締めなければならない。
油断はしない。
失敗は絶対に許されないのだ。
昨夜と違い、彼女の方があまりに無防備なので、タイミングがかえって掴みづらい。
こういうこともあるんだな、と、そんなふうに思う。
余裕があるな──。
苦笑する。しかし時間はないのだ。
意を決して、彼女の口を塞ぐ。
彼女はそこでやっと何事だ、というように目をパッチリと開け声を上げようとする。
しかし、その顔を、表情を見たら、逆に闘志が湧いた。
左手で口を抑えたまま、右腕を彼女の腹部へ。そして彼女の体を抱え上げ、瞬く間に窓際へ。
彼女の抵抗は時間が経つにつれ確実に強さを増していったが、もう遅い。
スムーズに、彼女の体を窓から降ろす。
さあ、君の行くべき所へ連れてってあげるよ──。
心の中で、そう呟いていた。
──またも視点が移る。
近づいてくるのは地面だ。
真っ暗な闇を照らす街灯の明かりで、かえって黒く、禍々しさを感じさせるコンクリートの壁が眼前に迫る。
──ああ、これで私の人生も終わりなのか。
『マジメに生きてれば、いつか必ず、幸せになれる時が来るさ』
色々なことがあったけど、やっぱり短かったかな。
『お前なら、絶対幸せになれる。俺が保証する。俺はいつもお前の味方だ。
……お前、兄ちゃんの言うこと、たまには信じろよな』
呆れるように、彼はよく溜息をついたものだ。
ごめんね、ごめんね伸ちゃん。
幸せに、なれなかったよ、私。
ごめんね、兄さん──。
◆ Meanwhile "Friend"
いつの間にか意識が遠のいていた。
しかし、その遠のいた意識の中で、微かに違和感を覚える瞬間があった。
それが心に引っ掛かる。
眠りたい。
眠らせて──そう欲する心の中で、しかし、その違和感は確実に成長を遂げていた。
今、自分は何をしているのだろう?
その答えを見つけるのに、さして時間はかからなかった。
テーブルの上に、飲み散らかした跡がある。
どうして自分がお酒を飲まなければならなかったのか、その理由の追求は必要ない。
彼との思い出に浸り、彼との思い出を思い出として断ち切るため。
「明日」からの自分が、いつものアタシでいられるように、気持ちを整理するため──。
時計を見ると午前二時二〇分過ぎ。
丸一日以上眠っていたのでなければ、酔いが多少冷め、気持ちを整理しようと決めたあのときから、まだ一時間足らずしか経っていない。
モノは自分にとって良いように考えるべきだ、と五島佳奈は思うことにしている。
そうでも思わなければやってられない、というこれまでの人生経験からくるポリシーなのだが、それはこうした場面にこそ相応しい。
(すぐに忘れて寝ちゃうぐらいの、その程度の思い出しか、あの人はアタシにくれなかった。そんな程度の、人だったんだ──)
逆に考えれば、整理しきれないほど思い出があり過ぎて、佳奈の心がオーバーヒートしてしまったとも言えるのだが、その可能性についてはあえて考えない。
眠気の中に再びまどろみかけたとき、起き抜けに感じていた違和感のことを思い出す。
睡魔と闘いながら、先ほどの感覚について考えてみる。
それは彼のことを考えないようにするための逃げであるかも知れないが、今はそんなことはどうでもいい。
目の前の疑問に対する答えを探す方が先だ。
だんだんと意識が正常に近づいていく。
いや、それはきっと買いかぶり過ぎだ。
あれだけアルコールが入っていれば、「正常な状態」とはほど遠いに違いない。
しかし、そのことも十分冷静に把握できている。
その上で、意識を「正常」に近い状態へ近づけようと努力してみるのだ。
すると──。
『………、××で………』
『だ××ね、×××困っ×××た×××だった×××らぁ』
『………、でも×れっ×……、いつ××らな×××けないことだろ』
『……、け×さあ……』
微かに話し声らしきものが聞こえてくる。
違和感の正体はどうやらこれらしい。
このワンルームに住んで六年目。
そういえば今まで、ただの一度もこのような瞬間に出会うことはなかった。
考えてみれば、これはすごいことだと思う。
「オトコの、声──」
酔っ払った意識にも、するりと溶け込んでくる低い声は、テレビのものではなさそうだ。断言してもいい。
テレビなら、こんなしゃべり方、あるいはしゃべらせ方はふつうしない。
そして、その会話の相手が隣の住人、早野千春であることもまた、その事実を補強する重要証拠だ。
千春の特徴のある猫なで声を、聞き間違うはずがない。
「千春ちゃん……」
怒りの滲んだ声が口をついて出る。
こんな時間にオトコの声がするのは、常識的に考えて一つのケースしか考えられない。
このマンションは、四階から六階までの三つのフロアが女性専用になっており、原則として男性の立ち入りを禁じている。
階段は各階に通じているが、エレベーターは二階、三階には止まらない。業務以外での男性の使用も禁止だ。エレベーターの前にはドアがあるが、それを開けることができるのは住人の女性だけ、という特殊な構造である。
なぜ建物全体を女性専用にせずにこんな煩わしい方式をとったのかは正直疑問だが、小耳に挟んだところだと、男性が階下にいる方がむしろ防犯性が高まる、という思想に基づいているのだという。
そして、もしこの規約を破った場合は、最悪立ち退きの場合さえあり得る。
直接は知らないのだが、過去、立ち退きを命じられた女性も実際にいたらしい。
「許せない(この佳奈様がこの木曜の夜に一人でいるというのに!)。
このアタシでさえ一度もここにオトコを連れ込んだことはないのに!(よりによってあの千春ちゃんが!)。
あのコ……ったらあっ!」
……!
閃いた!
いくら不貞(?)を働いている現場がすぐ隣にあるとしても、いきなり怒鳴り込むのも芸がない。
少なくとも会話の内容を把握しておき、その二人の会話の声やその他諸々でどれだけ迷惑を被ったかの証明にし、彼女を立ち退きに追い込むのもまた、それはそれで一興だろう。
ならば、と台所からコップを持ってくる。
もはや冷静さを失っている失恋直後の酔っ払い女には、物事の是非を考える余裕など全くなくなっていた。
佳奈の部屋のベッドと千春の部屋のベッドとは、壁を隔てて接している。
そういう意味では距離的にはかなり近いのだが、以前テレビの推理ドラマでやっていたこの方法を試してみたかった。もちろんこれが初めての試みだ。
コップの口の方を壁につけて、コップの底の部分に耳をつけると、『……、あ あ、××とうに×つかった××××ね、せ×にん取って×』。
………………。
あまり効果がないようだった。
酔った頭にはこの事実は非常に腹立たしいものであり、飲んでいる最中でさえ投げなかったコップを思わず──ベッドの上にだが──叩きつけてしまい、ふと我に返る。
そして、冷静に考えてみて、そのまま壁に耳をつけて聞いた方がはっきり聞こえるのではないか、と思った。
『へえ、いいじゃん、それ』
オトコの声がそう言うと、しばらく間があってから、
『……そうね、……その、ええと……』
千春は返答に困っているようだ。
その後、会話が途切れた。
そういえばちょっと前、確か、『せきにんとって』などという言葉が聞こえた気がする。
この展開で会話が途切れるということは──。
佳奈の頭に良からぬ考えが浮かぶ。
いよいよこれからなのか?
それとも終わった直後なのか?
……どっちにしろ、そんなこと許しはしない。
このアタシが一人なのに、そんなこと許せるはずがないじゃない!
酔っ払いには理屈は通用しないということを証明するかのように、佳奈はドアの方へ向かった。
もちろん、向かうは七〇一号室。
その部屋の主が千春であることに、意識下で抵抗を感じながら、彼女は七〇二号室のドアを開けた。
◆ 2
(まずい──)
取り返しのつかないことをしてしまった、という後悔の念よりも、迫りくる恐怖の方が大きかった。
体が硬直して動きが止まる。
準備は整っていることはいる。
ボタンひとつで一一〇番通報できるようにしてある。
両手はマウスとキーボード(鍵盤)の方に取られてはいるが、右手のすぐ近くには畳まれた楽譜立て。少し重いが、この部屋にある物の中では、包丁やナイフ以外では最も強力な武器になりうる。
しかし──。
額といい首筋といい、腋の下といい背中といい、少しも暑いことなんてないのに、汗が冷たく流れてくる。
金縛り状態から抜け出そうと楽譜立てに手を伸ばそうとすると、自分の手が震えているのが分かる。
こんな調子じゃ、いざというとき戦えないではないか。
そう認識してしまうことが、かえってより一層、自分の体を動けなくしてしまう。
そういう悪循環について、千春も本能で気づいてはいる。
ただ、それを認めたくはない。
この五年近く、一人で生きてきた。
生存している唯一の肉親である母親とは、高校入学以前から別居。
実際上も精神的にも、いつも独りだった。
『お前とは重たすぎてやっていけない』
高校時代に付き合っていた男性に言われた言葉。
苦しかった。
『重たすぎる女』
その言葉が、千春の本質を完全についていた。
もちろん千春も、少なくとも今は、それを理解しているつもりだ。
いつも誰かに、支えていて欲しかった──。
普通に接している分には、きっと周りはほとんどそれに気づくことはない。
明るくて外向的で、はっきりとものを言うタイプで、自分というものを持っていて、それでいて真面目で、結構気も強い女。
しっかりしてて隙がないように思える──そんなふうに言われたことも一度や二度ではない。
一人で生きてきたという自負、自信。
実際大変だったし、つらいこともたくさんあった。
そんな経験が、逆に大きなプレッシャーとなっていく。
そんなはずはない。
私は強い、私は強い女。
大丈夫、どんな奴が来たって、返り討ちにするぐらい──。
精神的に限界に達していた。
ただ、震える手を畳んだ楽譜立てに添えながら、体を堅くし、小さくなっていることしかできなかった。
ただ、震えながら、ドアの方をじっと見つめることしか、できなかった。
そんな緊張が、極度に達する瞬間が到来した。
千春は、思わず悲鳴にすらならないようなかすれた叫び声を上げていた。
喉がカラカラだったのに気づいたのは、それから数分後のことだった。
五島佳奈:#1 千春の隣人、友人。24歳。162cm、47kg。大学の学費や生活費を工面するために18歳で水商売の世界に身を投じ、そのまま自らを律し続け無事4年で大学を卒業。超就職氷河期時代だったから、というのもあるのか、その後も水商売の世界に止まっている。一貫してキャバクラ嬢で、仕事自体は嫌いじゃなく楽しんで続けている。お酒にはものすごく強い。
根本的には真面目な性格で、やや強気な姉御肌。男性にも必要以上には媚びず、ビジネスとして自分の仕事をとらえており、高いプロ意識を持っている。
結婚には憧れている。