終章 永遠の時を越えて
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春の陽射しが、暖かく感じる季節になりました。
ヒデさんが一二月二六日に二七歳に、そして私が三月一七日に二〇歳になり、そして昨日の深夜、優子さんの五回目の命日を、迎えることとなりました。
彼女の亡くなった現場には、昨夜も辻村さんがいらして、私たち二人は彼を誘って、三人でお花を手向けました。去年までは、ヒデさんがお花を手向けたあと、彼一人で、毎年欠かさず、お祈りをされていたそうです。
新聞の記事にしたら、そんなにたいした量にもならない事件が、多くの人たちの人生を大きく変えてしまう。
人の運命なんて、意外とそんなものなのかも、知れません。
今日は三月三一日。
あんな事件が起こらなければ、五年前、ヒデさんと優子さんが入籍していた日です。
私たちは、その二人が待ち合わせをしていた午前一〇時に、彼のマンションを出発しました。
行く先は、彼女、優子さんお気に入りの丘。
お二人の、思い出の詰まった場所──。
バイクで乗り付けるのは失礼だと思ったので、私たちは歩いて、その場所へ向かっています。
あの事件で爆破されてしまった一二五CCの代車は、とりあえず原付一種のスクーターです。これに乗っていると、どうも今の私は育ちの良い『お嬢様』っぽく見えるそうです。ロングの髪と、この真っ白なカチューシャがいけないのかも。
優子さんは、よく歩いて、その場所まで行っていたそうです。そして、ヒデさんが迎えに行くと、いつも決まって歌を歌いながら、空を見上げていた──と。
『あたしも、風になってみたいなあ。そしたら、優しく頭をなでてあげるわ。へへっ』
彼女はそんなふうに、はにかみながらヒデさんに、口癖のように言っていたそうです。
私のこと、優子さんは、ヒデさんの恋人として認めてくれるだろうか──。
実は、結構不安なんです。こんな私なんかで、いいのかなって。
『彼女が、恋人ができたら、いえ、もし、一緒にやっていけそうな人ができたら、私にも紹介してね』
ヒデさんの「夢」の中で、彼女が遺した、彼への最後のメッセージ。
それは時を越えて、彼女が彼の幸せを求めたもの。
自分の愛する人に、新しい恋人以上の関係の人が現れるのを待つなんて、私にできるだろうか?
だって彼女は──彼女は彼の中で、確かに生き続けて、いたというのに。
水林栄純元警部補は、結局三つの殺人と、私に対する二度の殺人未遂、それに銃刀法違反に死体遺棄等、実に多くの罪で起訴されました。彼は全面的に罪を認めてはいるものの、法廷では一切余計なことを言わず、精神鑑定の必要性を訴える弁護人の申し出も必要ないと断り、迅速な訴訟指揮に積極的に貢献しているそうです。事件の内容、数からすれば、記録的に早く裁判が終わることになるかも知れないと、島野警部はおっしゃっていました。
平川君は、あのあとすぐに大学を辞めました。
私は連絡をとっていませんし、連絡先も知りません。
どこかで元気にしてくれていれば、と思います。
美月ちゃんや雅ちゃん、それに佳奈さんは元気です。
佳奈さんは、お隣から私がいなくなるのをとても寂しがってくれました。
相変わらず、「オトコね。まったく、しょうがないなあ、どいつもこいつも」とか言いながら、快く送り出してくれました。そんなことを言いつつ、自分も今度の六月、結婚することになったそうです。スピード結婚ですよね。私は、結婚はまだきっと、当分先の話なのに。
もし優子さんが私のことを認めてくれなかったら、私は潔く、もう一度一人暮らしをします。
その覚悟はできているつもりです。
今日はまさに、背水の陣です。
優子さんに会うのを今日という日に決めたのは、実は私です。
それが、私が最大限できる、礼儀だと思っているから。
そして、優子さんのお墓でなく、どうしてこの場所に来ることにしたか──それはもう、なんとなく、としか言えません。だだ、私には、そしてヒデさんにも、この場所に来ればきっと彼女が語りかけてくれる、そんな確信があったのです。
ストーカー問題とかもいろいろあったりしたので、一応今でも、私はヒデさんの家に居候状態──まあ、傍目には同棲関係──のようにはなっている私たちですが、あくまで緊急避難を口実にしていました。
なので、あまりべたべたした関係ではない状態で、付き合い始めて約五か月。二人の生活は、要所要所ではさすがに交叉するものの、基本的にはそれぞれ別々にありました。
でもそれも、もう限界。
その限界を見透かしたように、今日という日が訪れました。
「リラックスしなよ。らしくないなあ」
深いため息をついてしまった私を気遣ってか、ヒデさんはやさしい言葉をかけてくれる。その言葉に甘えてばかりではいけないのだろうけど、もう私は彼なしでは──。
一歩一歩地面をとらえて歩いて行く。
目的地までは徒歩で約三〇分くらいだそうです。
時間が経つにつれ、心臓のドキドキが、胸の苦しさが増してきてしまいます。
一人なんだから、強く生きなきゃ──。
孤独──。
ヒデさんの温もりを知らない頃の私なら、そして、彼と知り合うきっかけとなったあの事件に関わっていない頃の私なら、そんな状況にも耐えられたのかもしれません。
でも、今の私には、きっと耐えられない。
あんな事件に巻き込まれながら、今こうして無事でいられるのは、半分は新しく知り合ったヒデさんをはじめとする人たちの、そしてもう半分は、それまでの私を誰よりも愛してくれた人と、そしてきっと、あの人のおかげ。
私の最愛の兄、伸一と、
そして、おそらくは優子さん。
伸一兄さんは、六年前、交通事故で入院し、私が駆けつけてすぐ、私の腕の中で息を引きとりました。
彼の私に対する想いが、最終的に優子さんの想いと私を繋いでくれ、私を守ってくれたのだと、私は確信しています。
私が狙われた日──狙われようとしていたあの時期に、たびたび進んでいた掛け時計。
あれは絶対、偶然なんかじゃない。
「さあ、もうすぐだぜ」
色々と想いを巡らせている間に、私たちは目的の場所にほとんどたどり着いていました。
そして──。
目を閉じて深呼吸。
どうしてもうつむき加減になってしまい、真っすぐに前を見ることができません。
ましてや、優子さんのように空を見上げることなんて──。
「大丈夫さ。心配ないよ、あいつが千春のこと、悪く思うわけないじゃんか」
ヒデさんはそう言って、私の肩を抱いてくれる。
私はもう一度深く目を閉じたあと、意を決して真っすぐ前に、そして斜め上方に視線を向けました。
不安で胸がいっぱいで、両手がいつの間にか、鎖骨の上辺りでぎゅう、っと合わせてしまってて。
ふと、後ろから暖かい風が、私たちを包み込むように優しく吹き抜けて行きました。
私の背中にあったロングの髪が、少しばかり胸のあたりに持って行かれ、でも、去年のクリスマスに、彼がくれたカチューシャのおかげで、私は空を見上げ続けることができて──。
「あっ……」
「ん? どうした?」
(あれは──)
私は、自分の視線の先にある『空』に、優子さんの姿を見つけました。
はっきりと見えたわけではないけれど、間違いなく、あの写真の──いえ、あのとき、私の心の中に現れてくれた、優子さん。
「うん」
「え? どうかしたの?」
彼女の声は、私の心の中だけに響いたようでした。
ヒデさんは、そんな私を見て、キョトンとした表情をしています。
それを見て、私たち二人は、心から微笑み合いました。
「ステキなひとですね、優子さんて」
私がそう言うと、彼はすべてを察してくれたのか、空を見上げながら、小さく頷いてくれました。
「僕には、あいつからの言葉はないのかな」
彼がそう言うや否や、彼の髪を乱れさせる程の風が、彼を襲いました。
「うふふっ、優子さん、怒ってますよ? 『あなたにはちゃんとお別れをしたはずよ』って」
「三人」の笑顔が、暖かい陽射しの中で、何よりも心地良くて。
もう一度、二人を包み込むような優しい風が、後方から吹いてきました。
そして、私の視線の先へと、吹き抜けていきます。
「やっと、風になれた──」
「え?」
更にもう一度、今度は二人の頭をいい子いい子するかのように、風が吹き抜けていきます。
そして、私の目の前から、彼女の姿が、顔が、どんどん薄くなり、そして消えていく──。
(カチューシャ、よく似合ってるよ)
「──ありがとう……」
心地よい風の言葉に、私は、不覚にも、またしても涙を浮かべていました。
そしてその涙が、風に運ばれていきます。
もう何があっても泣かない。
今日、優子さんに認めてもらえなくても、絶対泣かないんだから! って、決めてたのに。
「優子、千春になんだって?」
「…………。ダメです。殿方にはお教えできません。女と女の約束ですから」
「おっ、言いやがったな、こいつ」
私は、涙がまだ乾ききらない目を彼の方に向けたまま、笑顔で、彼から少しずつ離れながら、一分以内に私に追いつけたら、教えてあげてもいいよ、と言いました。
しかし彼はその誘いには乗らず、逆にこう提案してきたのです。
「今日の夕飯の支度なら、賭けてもいいぜ」
「……なにお~~。よ~しっ、その賭け、乗った!」
「手加減しないぜ?」
「望むところです!」
二人が『用意ドン』でスタートを切ると、また心地よい風が、私たちを包み込む。
子どものようにはしゃぎまわっている私たちを、いつまでも、優しい風が見守ってくれていた。
いつまでも、いつまでも──。
自分自身の幸せと 愛する人の幸せと
選ぶとしたら あなたはどちらを選びますか?




