第一章 一〇月二九日(木)#3
◆ Meanwhile "Police"
「まだ結論を出すのは早計だと思いますが」
「……確かに、遺書はないようだがね。だが状況というものがねえ」
詰め寄られている方が階級も年齢も上である。
確かに、この建物の最上階である六階の、死亡した女性の住んでいた部屋は、女性が転落したと思われる大きな窓以外、小窓も含めて内側からロックされていた。
そもそも現場の、人が通れるほどの大きさをもった出入口は、この大窓と玄関のドアだけというシンプルな構造のワンルームマンションだ。角部屋なので小窓があるが、せいぜい頭が出るかどうかぐらいの大きさだし、換気口なんかは更に問題外だ。
自分の部屋から投身自殺するには、当然、この窓以外に道がないことになる。
だが、自分の部屋から飛び降り自殺なんて、するものだろうか?
素朴な疑問である。
通常考えられる飛び降り自殺の「飛び降り現場」と言えば、屋上は言うに及ばず、部屋の外の通路や階段の方がむしろ一般的だろう。
更に遺書はない、動機も見当たらないでは、結論を下すだけの材料が十分であるとはとても言えるものではないはずなのだ。
確かにドアにはドアガードがしっかりかけられていたし、この日、と限定せずともかなり長い期間、屋上に誰かが出入りしたという形跡も全く見られなかった。
もちろん、誰かが屋上からこの大窓に侵入した──あるいは脱出した──という形跡もだ。
落下した方の「現場」は大窓の斜め下であり、「窓から落下した」のは確実だろう。
とすれば、「事故」の可能性があり、こんなに早い段階でこれを「自殺」と決めつけるのはいかがなものか、と思うのだ。
死亡推定時刻は午前二時から三時までの間。
季節は秋。少々冷え込んだ明け方だったこともあり、慎重に長めに見積もっても、更なる前後三〇分はおそらく必要ない、とのことだった。
通報があったのは午前五時二〇分。
新聞配達の大学生からだった。
現在、警察では、この時間帯に絞って目撃者がいないか、捜査を行っている最中である。表向きは。
だが、成果は全く上がっていなかった。
捜査員たちの間には、既に「自殺」という流れが出来上がっていた。
誰も目撃者がいない。
おまけに、テレビでも大々的に報道されている今回の事件。
それでいながら、明らかにいたずらだというものを除くと、情報は皆無。
大窓は、標準的な女性の体格ならば通れはするけれど、ベランダがないので、それなりに高い位置にあった。だから、「事故」を起こす理由がない──そんな時間に窓から身を乗り出して何かをする理由がないし、その形跡もない──というのが、「自殺」論の根拠になっていた。
確かに、こうした事実から単純に結論を導き出すとするなら、やはり自分から窓の外に出た──「自殺」という結論が妥当なのだろう。
しかし、ちょうど朝五時からの交代勤務で、たまたま最初に現場に駆けつけることとなったM署の刑事二人の心の中には、この件が自殺だとは思えない何かがあった。
何だろう?
そしてなぜだろう?
それがうまく言葉で説明できないので、上の決定に対し有効な反論を構成できずにいる。
死亡したのは、有名になりかけていた新進気鋭のファッションモデルだった。
こういう華やかな仕事をしている人間で、しかしこうした仕事に向いていない人間というのは、どこかで精神的なバランスを崩し、情緒不安定になるケースが少なくないという。自殺までいくかどうかはともかくとして、そういう事例は別段珍しくはないらしい。
ふと机の上に視線を移すと、『美人モデル、謎の自殺?』のような夕刊紙の見出しが目に飛び込んで来る。
大きな事件もなく暇だったマスコミは、ハイエナのようにこの事件に飛びついた。おかげで今や、M警察署はパニックに近い状況に陥っていた。
上司たちがイライラするのは、心情としては理解できる。
マスコミはこのニュースを、警察を凌駕するスピードの情報収集を裏付けに、午後のワイドショー以後、垂れ流すように報道している。
そして煮え切らない警察をつつくように「自殺」論を展開。早々に、事実上その方向で結論づけてしまっていた。
重苦しい雰囲気が、室内に澱んでいる。
「もう少し、捜査しても構いませんね?」
相変わらずの覚めたような口調。
「……まあ、事後処理の問題もあるしな。二、三日は構わんが。
しかし、あまり目立った動きをするなよ。状況は明らかに『自殺』なんだ。それも九九パーセント間違いない。これ以上マスコミにネタを提供してやることはないんだからな」
「課長!」
課長と呼ばれた中年の男は、やや痩せぎすの、神経質でいかにも胃が悪そうな体を押して、驚くほど俊敏に立ち上がり、刑事課と名のつく部屋の入口のドアの前に進むと、しばらくそこに止まり、そして言った。
「帰るときは普段着で──帰るといいかもな」
そう言い捨ててドアを開け、廊下に出て行った。
覚めた口調の男が、彼よりも更に若い、まだスーツすらも似合っていない、おそらく最初の勤務先であった交番勤務時代には、警察官の制服すらも全く似合っていなかったであろう若者の方を見て、ニヤリと笑った。
「いつもあんな感じなんですか?」
刑事になって間もないのであろう若者は、着慣れないスーツ姿で、目をキラキラとさせている。
「ああ。いいひとだからな、課長は」
周りの刑事たちからも失笑が漏れる。
「じゃあ、ご指示の通り着替えて来るとするか」
今度は、やや感情のこもった口調で指示が飛ぶ。
(スーツじゃなく、カジュアルで出入りしろ。マスコミ相手は面倒だろう?──ってことか)
刑事は忙しいと聞いていたが、この調子じゃ、今週の土曜日もあそこへ行けないな、と大きなため息がもれてしまう。
同僚たちはそんな若者を、同情するのでなく、よしよしよし、と言うような好意的な笑みのこもった目で、見つめていた。
◆ 4
時は既に、夕方の先乗りニュース番組の放送時間になっていた。
相変わらず考えはまとまらない。
が、とりあえず「事実」と考えられることだけを、箇条書きにまとめてはみた。
よっこいしょ──掛け声をあげて立ち上がるなんて、何てババくさいんだろ、と密かに思いながら、今なお疲労の取れていない体に鞭打ち、冷蔵庫の前に向かう。
確か冷凍ラザニアがあったはず。
それほど食欲はない。これで十分だ。
オーブンに入れて一二分後(*著者注:当時の冷凍ラザニアは、このくらい調理時間がかかりました)、時間的にはちょっと早い夕食が出来上がる。
冬場はコタツにすることもできる背の低いテーブルに向かって、カーペットの上に直接座る。一応外出着から、部屋着用のソフトパンツにトレーナー、その上にパーカーという姿に着替えてあった。
この部屋は、小さいながらも、私の力で、私が、私のために借りたものである──という自負が千春にはある。
今の彼女にとっては、おそらく世界中で最もリラックスできる空間だ。
それなのに、この体たらくはどうしたものか。
そう思いながら、「事実」だけをまとめたコピー用紙に再び目を走らせた。
・被害者 さえぐさゆみえ
本 名 三枝祐美恵
一六五cm B・・W・・H・・
一九七九年六月二八日生まれ(一九歳)
・実 家 神奈川県小田原市
一人娘として大切に育てられた
・職 業 専門学校生(デザイン関係)
ファッションモデル(注目の存在)
・対人関係 異性関係は全く聞かない、今時珍しいらしいほどクリーンなプライベートな生活で、友人、親子関係にもトラブルらしいトラブルなし
→ 動機は見当たらない
・その他 自殺するような悩みなどは一切なかった
(・・・・・・)
これらが、千春の知った「事実」だ。
情報源はテレビのワイドショーに夕刊紙。それに、ワイドショーでここぞとばかりに紹介されていた、まさに今日、タイミング良く発売されたレディースファッション雑誌に載っていた「さえぐさゆみえ」の写真──豊かなストレートの髪、やや丸顔だけれど切れの良い顔、そしておしゃれな服装のやや細身の体──と、プロフィール記事だった。
早生まれの千春より学年では一つ下になるが、同年代だ。
その大人びた雰囲気に少なからず嫉妬心をかき立てられながらも、千春は今回のことが、どうしても他人事には思えなかった。
住んでいる場所も近い。だからどこかで会ったことがあるのかも知れない。
第一、女性の場合、髪型一つで印象が大きく変わる。
でも──。
今朝方見た「夢」のシーンがまた蘇る。
千春自身が、あの現場にいたかのようなリアルな「夢」。
一人の女性が、千春と同じ六階の七〇一号室の窓から、何者かに突き落とされて、殺された「夢」──。
コピー用紙の箇条書きの最後の(・・・・・・)に入るはずだった言葉。
思い出そうとするだけで頭が混乱してくる。
(……私は見た。あの、お団子状に纏めていた長い髪の持ち主は、確かにこの人だった──)
◆ Meanwhile "Unknown"
「気をつけてください」
先頭を歩く男が、後ろの二人に声をかける。
運動神経のいい自分の価値観で、残る二人の動作を見てしまいがちになるのは今に始まったことではないが、とにかく、遅い。
イライラが募るのを抑えながら、二人が無事自分のいる、厳しい傾斜がわずかに一部、水平になっている場所に、降りて来るのを待った。
そろそろ陽が落ちてしまう。それなりの道具を持っているとはいえ、ゆっくりはできない。
二人が傾斜のオアシスにたどり着くや否や、体を翻し、更に奥へと向かおうとする。
「ちょっと、ちょっと待ってよ。待ちなさい」
たまらず、二番目を歩いていた女が口を開く。
三番目の人物は、年のせいだろうか、もう既に息が上がっていた。
「でかい声出すなよ。また職質を受けたらかなわん」
「こんな山の、どこに警察がいるって言うのよ?」
ここはいわゆる「峠」として「走り屋」にはそれなりに知られた場所なので、パトカーがたまに通るのだが、それを言って更に険悪な雰囲気にするのは憚られた。
そんな二人のやりとりに、やれやれと言う表情で三番目の人物が口を挟む。
「無駄口は後だ。後二時間で見つけないと、もう一泊多くなることになるぞ?」
「そうだ。明日、横浜に戻りたいんだろう? だったら、ぶつぶつ言わないで、さっさとついて来い」
ぷくっと膨れながらも、ムキになってついて来るところなんか、普段の、日常の彼女からは想像し難いことであり、それを目のあたりにすることができる自分は幸せなのかも知れないと、先頭の男は思う。
しかし、その幸せが、ここ最近脅かされていた。
可能なら、本当は彼女を、一人で横浜に返したくなどないのだが──。
「とりあえず、明日の夕方までには解放してくれるんでしょう?」
「今日、うまく事が済んだらな」
「事が済まなくても、あたしは戻るからね」
三番目を歩く人物が息を切らせながら、とにかく急ごう──と、二人を追い越し、崖と言ってもいいような厳しい傾斜を降りていく。
「あ、気をつけてくださいよ。そこら辺、滑りやすくなってますから」
「ふん、さっきまで無理にでも急がしといてよく言うわい」
「……スミマセン」
今まで偉そうにしゃべっていた男が急に神妙になるのを見て、女はくすくすと笑った。男はその笑いの意味を正確に理解したらしく、バツの悪い顔をしている。
三番目の人物は、二人の男女の会話の意味が分からなかったらしく、ふふん、と笑いながら、
「わたしは今まで色んな地を歩いて来た人間だぞ。こんな山道ぐらいワケはない」
などと、見当違いのことを宣っている。それがまた、逆に微笑ましくもある。
そうこうしているうちに、午後五時を知らせるデジタル時計のアラームが鳴る。日没の目安にしていた時間だったが、陽はもうすっかり落ちていた。
どうにかこうにか今日の目的は達成できそうだが、その後は野営するしかないので、また一日が過ぎていく。
時間が過ぎるほど事態は悪化する──そう信じて疑わない三人からは、その瞬間、確かに笑みが消えていた。
◆ 5
朝あれだけ眠かったにもかかわらず、テレビなら深夜と呼ばれる一一時を過ぎても全然眠れなかった。
もう一時間近くも、眠る準備が整ってから経ってしまっている。
あの夢と、事件のせいだ。
確かに、あの殺された女性は、ワイドショーやファッション雑誌で見たさえぐさゆみえに間違いなさそうだった。わずかな明かりしかなかったから、絶対とは言えないけれど、一〇十中八九は断言できる。そのくらい、一連の動きと、それからあの「視線」が見ていたものは鮮明だった。
問題は、どうして今まで面識もなく、写真でもおそらくお目にかかったことがない、少なくとも千春は認識していない──近所なので、ひょっとしたらどこかで会ったことがあるかも知れないが──人物の顔が、自分の夢に鮮明に出て来たのだろう、ということだ。
千春にとって、これは重大な問題だった。
「もしかしたら、私……」
そう呟いて、即座にかぶりを振り、否定する。
そんな、昔の因縁や恩讐、土着信仰や複雑な親族関係が渦巻く推理小説じゃあるまいし、「夢遊病」だなんて。
それとも、記憶を相互に持たない二重人格?──。
その途方もない想像を「絶対にあり得ない」と否定しきれない自分に、非常なイライラを感じながら、千春は頭の上まで、布団をかぶった。
それだけ、あの「夢」はリアルだった。
視線だけじゃなく、手に感触が残っている──さすがにそれは錯覚なのだろうが、そうであるかのように感じるくらい。
そのとき、僅かだが、時計が──あの掛け時計の針が速く動いているのに、千春は全く気づかなかった。
また夜が、更けていく。
◇
「久しぶり、ね」
いつもの、あのハスキーヴォイスで、あいつは俺に語りかけてきた。
(…………)
何をそんなに緊張しているんだ俺は。
だって、目の前にいるのは、俺にとって世界で一番何でも話せる、信頼できる、心が通じ合っている──人間じゃないか。何を鯱張ることがあるだろう。
久しぶりだから、やはり、照れ──なのだろうか。
彼女は返事を待っているかのように、俺の顔をのぞき込んで来た。
(よ、よう、久し……!?)
な、なんだ……?
こ、声が……、声が──出ない?
「大丈夫よ。聞こえてるから」
(……ほんとか? ほんとに、聞こえてるのか?)
もう一度しゃべろうと試みる。
が、やはり、声が出ているような感覚はない。
しかし、彼女の、だから大丈夫だって──という笑顔が、ちゃんと俺の言葉が届いていることを証明してくれた。
ふわっと、彼女の、肩までのセミロングが風に揺れる。
髪を掻き上げる仕草は女性なら誰でも癖になっているものだが、彼女の仕草は、自然、としか形容できないほど様になっていた。
久しぶりに見る彼女の姿に、顔に、髪に、仕草に、俺は動悸が抑えられなくなってきていた。
彼女に触れたい──自然、そう思った。
巧く操れない言葉を繰り出すより、その方が。
しかし、彼女はそんな俺の気持ちを察したのか、後ろを振り返り俺に背中を向け、そして、こう言った。
「今日は、お別れを──本当のお別れを……言いに、来たの」
(……え?──)
声にならない声を、俺は出していた。
急いで彼女の正面、顔の見える位置に回り込む。
彼女は笑顔だったけれど、その目には、あのときと同じように──いや、あのときよりずっと、涙が、あふれていた。
そう。
あのときより、ずっと──。
水林栄純:#1 神奈川県警M警察署刑事課所属の警部補。28歳。180cm、72kg。23歳で大学を卒業しているため、理論上の最短で警部補に昇進している新進気鋭の若手。また、非常に勉強熱心で、特に電子機器と機械については、ベテランの鑑識課員も舌を巻くほど様々な知識を持っている。