第七章 一一月〇四日(水)#4─過去─
◆ 6
千春が刑部大介と辻村功の二人に車で送られて西脇英俊のマンションに到着したのは、午後九時過ぎだった。
入口で西脇の家の呼び鈴を鳴らすと、西脇は既に帰宅していた。先程戻って来たばかりらしく、ついさっき辻村の事務所に電話したところだった、ということだった。
「心配しないで、彼は──」
辻村が言い終わる前に、千春は大きく頷いた。
胸の高鳴りがまた始まる。
(もう戻れない。彼の、すべてを──)
マンションの入口が開く。
大介と辻村とは、ひとまずここでお別れだ。
あとは──。
西脇は、コンビニで買って来たらしい菓子パンを食べながら、「やあおかえり」と千春を出迎えた。
千春が辻村の事務所で食事を済ませて来たと告げると、よかった、僕だけ先に食べてるとしたら、何だか申し分けないから──とおどけながら明るく言った。
もちろん千春の方は嘘だ。
とても食事が喉を通るような気分ではない。
時々、急に表情を曇らせることがあることは、前々から気になっていた。だが、基本的にいつも、彼は笑顔で、優しさいっぱいでいてくれた。
「…………? どうしたの? 顔色が悪いなあ、大丈夫?」
西脇の優しさが心に痛い。
「西脇さん!」
「……!? 何か、あったの?」
不意に千春が大声で自分の名前を呼んだので、西脇は面食らったようだった。
ポカンとしながら千春の方を見つめている。
「どうして私なんかに、こんなに親切にいろいろ、協力してくれるんですか?
どうして私なんかに」
こぼれ落ちる言葉が止まらない。
「西脇さん、四年前の三月三〇日──」
支離滅裂になってしまったが、涙で視界を滲ませながらも、千春の目は真っすぐに西脇を見つめていた。
強い意志を込めた視線が、西脇の元に届く。
「どうしたの、急に──今日、何かあったの?」
西脇の冷静なリアクション。
千春は勇気を振り絞って今日二度目、雅の推理のことを話して聞かせた。
つい数時間前に辻村に向かって話したので、すっきりと要点をまとめた形で話すことができた。
あえて、客観的に第三者の目から見た考え方ですが──と、断っては話さなかった。
「……なるほど──そういう、ワケか」
西脇はそう言うと、リビングへ向かった。
千春もその後を追う。
千春がソファーに導かれ、ちょうど座ろうとしたとき、西脇は棚の上にあった、例の女性の写真を手にとっていた。
「僕が……君に、早野さんに、いろいろと協力をしようとしたのは」
西脇は例の写真を見ながら、淡々と、一言一言を順番に連ねていった。
その話し方が、千春には痛かった。
「あんな思いをする人間を、一人でも減らしたかったから」
西脇は、窓──ベランダの方に向かって歩き出した。
その視線は、遠く広がる、星のあまり見えない都会の夜に、向けられていた。
「三月三〇日か。辻村さんに、聞いたんだね?」
千春が頷くのをガラスに映った姿で確認したのか、西脇は何度か小さく頷いたあと、また、少しの星しか見えない窓の外へと視線を向け、立ったまま話し出した。
「一〇月三〇日、先週の金曜日と、三一日土曜日に、ある人たちから電話をもらったんだ。まずはそれから話そうか」
▲
「深夜、午前零時少し前に、『女性が刺されて倒れている』との一一〇番通報がありました」
タバコを灰皿に押し付け、もう一本の新しいタバコに火をつける。
「当時、横浜ではある限られた範囲内で、通り魔事件が頻発していました。
その一連の通り魔事件は、若い女性ばかりをねらって石を投げ付けたり、木の枝で殴りつけたりと、大けがをさせたり殺すことが目的ではないとは考えられるものでしたが、犯行を重ねるにつれ、金属の棒や刃物へと、凶器がエスカレートしていっていました。
ただ、それでも、金属の棒も刃物もちらつかせる程度、殴りかかったり切りつけたりはしていたようですが、直接当てようという感じではなく、相手のリアクションを見て、楽しんでいるようだった──そんな事件でした」
白い煙を一度大量に吐いてから灰皿に灰を落とすその動作には、何とも形容し難い感情の動きが現れていた。その感情がプラスのものでないことだけは、明らかだった。
「それでも、事態を重く見た神奈川県警では、当時最も注目されていた捜査官の一人である、ある警部を捜査主任に任じ、その警部が選んだ選りすぐりの捜査官と、所轄の刑事や制服警察官まで含めた大人数の捜査員で、犯人逮捕に全力を挙げようという体制を作り上げました。
その捜査主任の警部は、当時ある警部補の台頭で、本部のエースの座を脅かされていました。プライドの高い警部は、その事件を解決することで、自分の地位を保とうと考えるような、懐の浅い、器の小さい人間でした。
捜査陣は、それまで事件の起きていた狭い地域を中心に捜査に着手しました。事件は、地元の地理に詳しい者が犯人であるという捜査主任の方針で、大量の捜査員を警戒にあたらせていたのです。
それが功を奏したのか、結構な頻度で出現していた通り魔が、数日間、出て来ませんでした。
こんなとき、警察は現金なものです。捜査主任を含めた捜査員たちの多くが、『早くもう一度やらねえかな。そしたらそれをきっかけにして捕まえられるんだが』というふうに考えていました。防犯思想などなく、手掛かりが一つでも欲しい、というのが警察の本音だったのです。
どうせ起きてもたいした事件じゃないしな、なんて楽観的に考えていたんです。
ですが──」
辻村は吸っていたタバコを灰皿に置き、タバコを新たにくわえないまま、続けた。
▼
「金曜日に電話をかけてきたのは、阿部智幸君。
M署の刑事課に配属になったばかりの、新米の刑事。
内容は、『今日シゴトで、かなり本格的に音楽をやってるらしい人に出会いましたよ。Y大の学生で早野さんていう女子大生ですけど、御存じないですか?』って感じのものだった。
警察官が守秘義務を無視してこんな情報を提供して来るのもどうかと思うけど、彼は彼なりに、僕に気を遣ってくれたんだろうね。そんな電話をくれたんだ」
阿部刑事と言えば、あの千春の家の盗聴器問題のときにやって来た若い方の刑事で、バイク事件のときも顔を合わせた人だ。
今では、島野警部とともに捜査に当たってくれている。
その彼もまた、もともと西脇と知り合いだったとは、千春は今まで知らなかった。
そのことを告げると、西脇は少し照れたように、一瞬だけ千春の方に顔を向け、そして言った。
「うん。彼はM署に配属される前、横浜駅西口にある交番に勤める、制服の警察官だった。彼は、毎週土曜日の僕の弾き語りライブの時間に、数か月にわたって『警備』に出向いてくれた、恩人の一人なんだ。
あの『ライブ会場』があんなふうに統率されているのは、固定ファンのみんなと、警察の『事実上の』指導によるものなんだ、実は。安全確保というか、治安の確保のためにね。
ああいう人ゴミで、人が何かに夢中になって棒立ちでいると、結構いろんなトラブルがあったりするんだ。スリなんかに遭ったりもする人も出て来ちゃったりね。
それ以前に、そもそも、通行の邪魔だしね。
だから僕も、あの場所を必要以上に盛り上げることは許されてなくて──でも、あれだけの聴衆が集まるのを黙認してくれるばかりか、事実上警備してくれるわけだから、普通はあり得ない、すごくありがたいことだった。
警察にとっては、『禁止する』のが一番手っ取り早いのにね。
そして、阿部君はプライベートで島野警部とも知り合いで。
その二つがあって、僕とも割とすぐ仲良くなったんだ。
と言っても、ここ半年ぐらいの友人なんだけど」
そうだったのか──。
そう納得しようとしたとき、千春の頭は何か、引っ掛かりのようなものを感じていたが、それが何だか、具体的には思いつかなかった。
「三〇日、土曜日に電話をくれたのは、ご存じ美月ちゃんだ。『何だか今日は暗く沈んでる、若き女性ミュージシャン葛野深雪こと早野千春さんと会ってみませんか?』って感じの、軽いノリでね。
美月ちゃんは、以前から僕の家に来たがってたんだけど、二人きりじゃさすがにだめだよ──とかいろいろ言って断ってたから、ミュージシャンでプロでもある早野さんと二人なら、上がり込めるかな~、なんて下心があったみたいだね」
そう、そうだった。
あの日の美月は、結構いろんな意味で強引だった。
しかし、あの人ゴミの中、いいポジションでライブを聴くことができたのは、美月のおかげだ。
あの『ライブ会場』の特殊な雰囲気が、実は治安維持のためだったなんて、今初めて知った。
あのときは嫌悪感を持ったものだったが──。
そういえば、あの日スタジオで練習中に、美月は電話をかけに席を外したことがあった。今思えば、あれがそうだったのだろう。
「二人から全く別々のルートでかかってきた電話に出てくる、話題の人の名前が、『早野』っていうあまりメジャーな名字じゃないこと、ともに若い女性でしかもミュージシャンであるという事実を合わせてみると、同一人物である可能性が高いことが窺えた。それに今の阿部君が仕事で出会った、っていうことは、その早野さんという女性が、何らかの事件性のある事柄に関わっているという可能性を示している。
そして、その女性はその翌日、暗く沈んでいるという。
これは何か、力になってあげられたらって、そう思ったんだよ。
それが、君に協力した、最初の理由かな」
千春はそれを聞いて、ホッとしたようながっかりしたような複雑な気分になっていた。
だが、それだけの理由で納得できるはずがない。
「でも、それだけの理由で、あそこまでしてくれるなんて、信じられません」
きっぱりとそう言うと、西脇はやつれた病人のような顔をこちらに向け、そしてすぐにまた窓の方に向き直った。
「それだけの理由で、動くヤツもいるさ」
真っすぐ空を見据えながら、西脇は言った。
そして──。
「四年前の、三月三〇日のことを、話せばいいんだよね」
△
「じゃ、ここで……今日は、お別れ~」
シャギーのかかったセミロングの髪が揺れ、頬をくすぐる様は、彼女の表情の中でも、彼が最も好きなものの一つだった。
普段は多少不良っぽくて、いかにもロッカーという感じの彼女だが、二人でいるときは結構甘えん坊だった。
芯が強そうでいて、実は脆くて、寂しがり屋で──。
彼女の友人の女の子たちは、彼女のことを「カッコイイ」とか「二枚目」とか言うが、彼にとっては「カワイイ」女性だった。
文字通り、世界一、誰よりも。
「送って行こうか?」
それまでにも二回、今日はこの台詞を吐いていたのだが、これが最後、と言わんばかりにもう一度言ってみる。
しかし、彼女の反応は、「案の定」だった。
「ダ~メ、今日は独身気分に浸れる最後の日なんだから。今日はこれから、独身気分を満喫するのだ」
「それだったら、今日、デートなんてしなきゃよかったのに」
「あらあら、それってマジで言ってる? ……もう。
だって、今日が独身最後のデートだったんだもん。しょうがないじゃん?」
「そんな『独身』にこだわらなくても」
「イヤ。だって、あたしもうあなたと離れる気なんてさらさらないもんね~。覚悟しといて。
だから、形式的に一人でいられる夜って、もう今日しかないんだもん。
それに──」
「それに?」
「うふふっ、今日そうしておくと、明日婚姻届出してから、新たな気分になりやすいかな~なんて。だってあたし、名字変わんないし。実感涌かないかも、なんて」
「俺だって出張とか、あると思うよ、これから。一人になる機会はあるさ」
「それはだって、もう夫婦になっちゃてるもん。今と状況が微妙に違うもん。
──いよいよ、明日だね」
「……うん」
二人は路上でキスを交わすと、それぞれの目を見つめながら、お互い、しばらく離れようとしなかった。
だが、少しばかり年上の彼女の方が、少しばかりのイニシアティヴをとって、こう言った。
「じゃあ、明日、一〇時に」
「……ああ、迎えに行くよ」
「じゃあ、独身最後の夜を」
二人はもう一度、今度は「独身最後の」キスを交わした。
その瞬間が、これまでの二人の人生の中で、幸福の絶頂であることは、疑いのない事実だった。
季節柄、ひんやりとしていた彼女の唇の感触を、彼は幸せの感触という意味で感じていた。
唇を離すと、二人は目で合図しあって、住宅街の狭い路地の交差点を、それぞれの家に向かって歩きだした。
独身最後の、夜のために──。
▽
▲
「捜査対象地区から十数キロ離れた別の地区で、通り魔殺人が起こりました。
目撃者の証言による犯人の人相、というよりも服装や背格好と言った体の特徴が、それまでの通り魔事件とほぼ同一だったため、県警上層部では、これを同一犯と考え、捜査本部を設置するにあたって、そのまま主任にその警部を起用する、というスタンスをとりました。
その主任の名前は辻村功警部。
事件の目撃者の名前が西脇英俊さん、当時、大学の卒業式を終えたばかりの二二歳の男性。
そして、事件の被害者が『西脇優子』さん、二三歳」
ニシワキ、ユウコさん──。
淡々と事務的な口調でしゃべろうとしている辻村をよそに、千春はその名前を頭の中で復唱していた。
その名前は、あの西脇のマンションのリビングで見た、写真に書かれていた文字。
そう、筆記体で書かれていた、あの──。
「彼女は目撃者と同じ大学を、同じ日に卒業した女性で、目撃者の男性とは、翌日に婚姻届を役所に提出しよう、という約束をした間柄でした」
…………。
コンイン、トドケ!?──。
▼
「その写真のひと、優子さん、ですよね」
千春が訊ねると、西脇は写真立てを両手で胸の高さに持ちながら、黙って頷いた。
彼は、彼女の写真を、どんな気持ちで今、見ているのだろう?
「カッコイイ、ひとですね。それに、西脇さんに、なんだか似てる。私、お姉さんかなって」
「……姉さんさ。ほとんどそんな感じだった。僕より一つ上だしね。あいつ、浪人してたから。
我が儘で強引でマイペースで、それでいて面倒見がよくて。
姉さんであり、時には妹であり、母であり、恋人であり──そして僕自身だった。
そんなひとだった」
△
「あ、あなた、ウチのクラスのニシワキクンじゃない。ひとり?」
妙に親しく声をかけてきたのは、決して多い名字でもないはずなのに、たまたま同じ大学の同じ学部に在籍したために、そしてこの大学がクラス制をしいていて、かつ名前順に機械的にクラス分けされるという偶然が生じた結果、必修授業での席が前後の関係になってしまった、「ウチのクラスのニシワキサン」だ。
「俺が二人に見える?」
「あらら……」
彼女は呆れたような反応を示したが、すぐに気を取り直してあれこれと話しかけてきた。
何で俺のところに来るんだ? と思ったら何のことはない。クラスの人間が俺しかいないのだ。
まだ入学したばかり、知り合いのいない新入生の多くが、クラスの連中と固まって行動している、そんな時期だった。
だが、俺はそんな中でも一人。
一人が楽だから。
「ニシワキクンて、地元の人?」
「え? ああ。一応ずっと、横浜」
「へえ、じゃあ一人暮らしじゃないんだ」
「一人暮らしさ」
「え?」
▽
▲
「当時、捜査本部では、第一発見者である目撃者、西脇英俊さんに重大な関心を寄せていました。
というのも、実は、一一〇番通報したのはたまたま通りかかった近所に住むサラリーマンで、西脇さんは被害者の体にじっと黙ったまま寄り添って離れず、声をかけたサラリーマンに対して『救急車を呼んでください』と何度も言っていた、というんです。
ところが──」
辻村は大きく力強い息を吐き、一度天を仰いだ。
「事情聴取を行ってみると、妙な印象を受けたんです」
「……妙な印象、ですか?」
「ええ。実に妙だ、と当時わたしも感じましたよ。というのは」
辻村は、再びタバコを手に取り、一息ついたあと、少し間をおいて再び話し出した。
「目の前で殺人が起きて、それを自分が目撃したというのに、全くもって冷静に、状況を詳しく、しかも訊かれたことすべてに、的確に応えるんです。どんな質問にもです。
まるで事前に、綿密に用意していたみたいに。
普通なら、気が動転していてつっかえつっかえしながら、ようやくなんとかしゃべれる程度になれるものなんですが、彼はあまりに落ち着いていました」
辻村は再びタバコを吹かしたあと、更に言った。
「そして、彼と彼女の関係が判明してからは、そうなるべくして急速に、捜査本部は彼に関心を寄せ始めたのです。
そう。最有力、容疑者として」
▼
「婚約、してたん、ですよね?」
千春は、その言葉を言うとき、胸が張り裂けそうになるぐらい苦しかった。
西脇の返答はない。
身振りで何かしているのかも知れないが、なんとなく怖さが先に立って、ソファーに座ってガラステーブルの上を見つめたまま、千春は顔を上げることができなかった。
「同棲、してたんですか?」
西脇のマンションの各部屋は、女性的とまでは言えないが、どこか男性的ではない、中性的な雰囲気が随所に感じられた。西脇自体が、ルックス的にもファッション的に中性的ではあるのだが、それだけでない何かがあるような気が──確かにしていた。
それに今、千春が泊まっている洋間に、なぜ二人でも十分寝られるようなベッドがあるのか。
あの部屋が、どうして他と比べて生活感に乏しかったのか──。
「うん。半同棲って感じだったけどね」
薄々感じてはいたことだったが、それは、それら全部に、綺麗に説明ができる応えだった。
「でも、西脇さんって、お姉さんが──」
「……実の姉は、僕より一一歳上。大学のときに家を出て以来、ほとんど会ってもいないよ。
この家には、入ったこともない」
しばしの沈黙のあと、西脇は窓の傍から離れ写真立てを元に戻すと、千春と向かい合うようにソファーに座った。
「──長くなるけど、それでもいい?」
千春は、机の上を見つめたまま、コクリと頷いた。
△
ドキッとした。
あの明るくて、多少不良っぽいが社交的に見える彼女が、まさか──。
「あれっ? どうかしたの?」
「あ、え、いや──何でも、ない」
気のせいだろうか?
いや、まさか、そんな──。
近くの席になることが多かったせいか、彼女は俺に何度も話しかけてきた。
そして互いの趣味が音楽だ、ということが分かった。
それも半端なレベルじゃないらしいことも。
だからだろうか?
すっかり意気投合状態で、最近、二人きりで話すことが多くなっている。
しかし。
「何かヘンよ、ニシワキクン。あ、まさかあたしに惚れちゃったとか?」
なんだよ、赤くなりながら言う台詞じゃ、ないじゃないか──。
▽
▲
「そんな……訊かれたことに的確に応えていったっていうことは、実際に目撃してたからできることなんじゃないんですか?」
千春の反論に、辻村は大きく首を横に振って、そして言った。
「捜査本部の多くの人間が、そうは思わなかったんです。
人間、とっさにウソをつくときには、証言が二転三転することがよくあるので、ウソか本当かは割りと分かりやすいんですが、初めから突き詰めた計画を練って挑んできている場合は、証言は一貫しているは、物証は証言通りのことを示しているはと、ウソかどうかを見分けるのは非常に難しくなるんですよ。
そういうとき、ウソ判定の手掛かりの一つとなるのが、その被疑者の態度と、捜査員がそこから受ける印象になるのは、ある程度はやむを得ないことなんです。
そんな態度の例を挙げるなら、例えば、妙に饒舌で聴きもしないことまで応えるとか、普通ならそうそう覚えてないようなことをやたら正確に事細かに、まるで練習してきたかのように答えるとか、あわてふためいて取り乱しても良さそうな状況で妙に落ち着いているとか、逆にそんなにあわてる必要のなさそうなことにあわて過ぎているとか、です。
つまり、あのときの西脇さんの態度には、そんな感じの、捜査側から見て腑に落ちない点が、いくつもあったのです」
「でも……」
千春は、四年半以上も前のことであるにも関わらず、西脇を弁護するため反論しようとしていた。
なぜだか分からないが、辻村の話す警察の考え方が許せない気がして、そうしないではいられなかったのだ。
「でも、西脇さんの証言は的確だったんですよね? だったら、犯人の特徴とか背格好とか、いろいろ有益な情報を聞けたんじゃないですか? 新情報も含めて」
「そうですね、ありましたよ。新情報が。今までで一番、具体的で細かい犯人像が描けそうでした。彼の証言のおかげでね。ですが」
千春は辻村が何を言うかまでを具体的に推測することはできなかったが、どういう内容の言葉が返ってくるかは、予想ができた。できてしまった。
「具体的で緻密過ぎた。刑事の目には、そんなふうに映ったんです。
だから逆に信じなかった。信じられなかった」
▼
「僕の母は、僕を生んでから体調が思わしくなくなり、約一年後に他界したらしい。
姉にはそのことで散々言われたよ。『お母さんが死んだのはあんたのせいだ。あんたとあの親父のせいだ。親父のせいで体を壊し、あんたのせいでとどめをさされたんだ』って。
そして、『あんなにやさしいお母さんを殺すなんて絶対に許さない』って。
今でこそ、『人権派弁護士』だとか何だとか言われてるけど、大人になる前はそんな感じだった」
千春の家もたいがい、酷い方なのだろうとは思うが、それでもさすがにそこまでのことはなかった。
千春の小さかった頃はまだ母も優しかったし、なんといっても八歳年上の兄が優しかった。
多忙だった父親の代わりでもあり、兄であり、働きに出ていた母に代わって兄に育てられた、と言ってもいいくらいだった。
兄の存在があったからこそ、千春は彼の死後も、道を踏み外す事なく生きて来れたのかも知れない。
それが──。
「僕と姉は、さっき言った通り一一歳離れてる。ケンカをしたって勝てるはずないし、第一姉は、僕と関わろうとしなかった。僕を徹底的に避け、避けられないときは当たり散らす。物理的な暴力だけはなかったけど、僕が姉を、姉同様嫌いになるのは必然だった。
更に、姉は僕以上に親父を嫌っていた。
親父はほとんど家に帰らない人間だったけど、姉は少しでも顔を合わせたくないからと言って、大学進学と同時に実家を出て行った。僕が小学二年のときのことさ。
彼女の僕に対する最後の台詞は『これであんたと会うことももうないでしょう。せいせいするわ』だったよ」
「──そんな……」
「経済的に裕福だったウチは、通いの家政婦を雇っていた。だから僕と姉は、基本的に食事の用意や掃除や洗濯を自分たちですることもなかったし、食事も一緒じゃなかった。そういう意味でも繋がりはないに等しかったんだ。
だから、姉が出てって、逆に僕はホッとしたぐらいだった。
これで明日から、たまにでもいじめられずに済む、ってね。
だから僕は、親父にも姉にも育てられてなんていない。家政婦さんだって通いだったし、無口で無関心な人だったから。今考えても、よく言葉をしゃべれるようになれたなって、思うぐらいだよ──って、まあそれはちょっと大げさだけどね。
でも、その代わりとと言ってはなんだけど、テレビなんかはよく見てたなあ」
信じられない。
この気配りのできる、優しい人がそんな──。
千春は驚きで、声を出すこともできなかった。
自分は「恵まれてない」と、いつもそれが、何かあったとき、今の自分の心を支える要素になっていた。それは否定できない事実。
だが、それが足下から崩れてしまいそうになるくらい、その話はショックだった。
「ところがその家政婦さんも、僕が一〇歳の誕生日を迎えた日に、突然解雇されてしまった。
親父は相変わらず帰って来ない。
姉もいない。
でも、金はある。
親父が月に一度は最低でも戻って来て、『これで生活しろ』って一五万ぐらいポンって置いていったんでね。
で、それからの僕は、まさに生活をしていくため、家政婦さんがやっていたのを見よう見真似というか思い出しながら、自分一人で洗濯や掃除をしなければならなくなった。
料理の方は、昼食は給食だったからいいけど、夜はファミレス巡りの状態だった。
おかげでその日一日暮らしていくのに精一杯で、不満をどこかにぶちまけるなんて発想を持つ余裕さえ、当時の僕にはないぐらいだった」
千春が一人、放り出されたのは中学三年生のときだった。その話に比べれば、千春はまだマシだ。
もっとも、経済的には、彼よりもずっと苦しかったが。
……別に、不幸の競争をしているわけではない。
そんな必要などまるでない。
「料理をまともにするようになったのは小六の夏休みからかな。家庭科の授業もあったし、いいきっかけだった。
教科書や資料集をよく読んで基礎知識を得て、その上で家庭料理の本を買ってきて──ね。横浜は中学校は給食が出ないから、危機感があった、っていうのもあった。
それ以外の家事は、だいたい、幼くても誰かがやってるのを見てれば判るようなことが多いから、何とか自分一人で、できるようになってた。
ふふっ、で、中学高校になると物事も分かってきたし、おかげで今でもこうして一人でも、家事全般、少しも不自由しないで暮らせるようになったよ。
小学生当時のことを考えると、僕はいわゆるアダルト・チルドレン予備軍のガキだったんじゃないかって思う。金銭感覚も、予算が限られていたからね、時に貯金し時にパーッと使いと、結構しっかりとしたものになってた──けど、これは一つ間違えば何が起きてたか判らない、危険な状態だったとは思う。誰も窘める人間がいないし、参考にできる人間も身近にいないんだから。
音楽にハマッて楽器を買い出したのは中学から。もうある程度は分別がつくようになった頃。結構大きなお金を使えたはずなんだけど、根がビビりな性格だったんだろうね。ある程度倹約しながら、少しずつ機材をそろえるようにしてた。
だからかな? おかげで親父の遺産を相続したときも浪費せずに済んだ。そう考えていくと、まさに実戦で鍛えたことばかりだった」
千春も、一人になってから学んだことが多かった。
そういう意味で、自分たちにこんな共通点があったなんて──。
「このマンション全部が僕の相続分になったのは、姉が親父のことを心から嫌っていたからだった。
以前言った通り、姉はもう、当時弁護士だった。自分で財産を築ける力も、社会的地位を自分で築いていく力も、そして親父の力を完全に排除するだけの力も、彼女は既に手に入れていた。
そして彼女は、実際に親父の影響力を完全に排除しようとした。そういう意味では、僕は姉を尊敬しているよ。もちろん本心からね。とてもじゃないけど、簡単にはできることじゃない」
ものすごい財産を全部放棄した──ということか。
確かにそれは簡単にできることじゃないだろう。
「当時はまだ、不動産が高かった頃だったからね。相続税とか払ったら、まあ、時代の問題もあって、ほとんどこのマンションと、それからここを管理している不動産会社の株くらいしか残らなかったんだけど」
西脇はひと呼吸置いてから、言った。
「姉は全額、相続を放棄した上で、税金を払うための財産の処分を、弁護士業務として、淡々とやってくれた。
負債もかなりあったらしいし、資産も有価証券がそもそも多くて、更に方々に不動産を所有していたらしいから、結構大変だったはずなんだけど、ごく普通の報酬額で、桐山義朗弁護士──彼女の旦那さんと二人でね。
窓口は桐山先生の方がやってくれて、結構声をかけてくれたよ。
見るに見かねて──って感じだったんだとは思うけど。
何かあったら自分が力になるから、って。
彼は彼で、僕と姉の、そして父の間の異常な関係についていろいろ気を遣ってくれてたみたい。
でも実際、いろんなことで、未成年だった僕の代理人になってくれたりもしたし、そういう意味では、あの弁護士夫婦には、本当に感謝してる。
父の顧問弁護士っていうのが実はいて、これが金の亡者みたいな、あまり善い人じゃなかったんだけど、これを排除するのにかなり苦労したっていうのは、かなり後で知ったことだったり──とかね」
△
「どうして、そんなこと聞くの?」
俺は彼女に問い返していた。
こんなこと話しても自慢にも何にもならないし、それで同情されるのも嫌だった。
特に、このひとには。
「どうしてって……知りたいからよ」
外から見れば一般に言う恋人のような関係になって約一か月。
これまでは、今現在のことと、未来に向けてのことばかりが話題だった。
過去について触れられたのは、まだ話すようになって間もないころ、「地元の人?」と訊かれたとき以来だった。
彼女は最近、「あの目」をすることが多くなったような気がする。
そして、その当然の帰結として、俺がドキッとする回数も比例して多くなってきた。
何だというんだ?
彼女に、何が?
「俺は、君の過去について、一度も訊いたことないじゃん。それじゃ、だめなの?」
俺は本心とは別の言葉を吐いていた。
本当は知りたいのだ。彼女のことを。
だけど、もし彼女の「あの目」が、俺と同じものなら、きっと彼女の過去は──。
「お互い、無理するのやめよ。ね?」
「無理してる? ……俺が?」
「うん……無理してる」
長い沈黙のあと、彼女は爆弾発言をした。
思えば、このときから、俺と彼女の人生は、本格的に変わったのかも知れなかった。
「あたし、あなたのことが本気で好き。だから、あたしのすべてを、知っておいてもらいたいの」
「え?」
突然の告白に戸惑っている俺に、彼女は追い討ちをかけるように言った。
「そして、あなたのことを、全部知りたい。
……だってヒデクン、あたしとおんなじ目、してるんだもん」
「…………」
いつもは割りとクールで飄々としている彼女が、思い詰めたような、苦しそうな表情で立っているのを、俺は見ていることができなかった。
そして、気がついたら周りの人目を気にせず、彼女の体を抱き締めていた。
「優子、君も──なのか……?」
初めて抱き締めた彼女の体を少しだけ離し、初めてのキスをした。
そのあと、彼女がこう呟いたのを、俺は一生忘れないだろう。
「いつだったかな……鏡の中にね、あなたがいたの。あたししかいないはずの、鏡の中に」
▽
▲
「彼のお父さんについては、ご存じですか?」
「え? ……いいえ」
突然、辻村が話題を換えたように思えたので、千春は面食らった。
だが、それは話の流れの中で、当時の警察の心証を表すのに、外せない事柄だった。
「彼の父、西脇英毅氏は、一〇年前に既に亡くなっていますが、当時の日本を代表する天才的な投機投資家でした。
旧財閥系とかそういうのとは無縁で、裸一貫からそこまで上り詰めた人物ですから、彼は業界では知らない者がいないとまで言われるほどの有名人な成り上がり者でした。が、同時に孤高でもあり続けた。
天才個人投資家という立場から、そして成り上がり者である、ということからも、恨みを買うことも多くて、活動時期の半分以上は四方八方敵だらけ、味方はいてもハイエナのような連中ばかり、という境遇だったそうです。
ですから、そういうこともあってか、彼は、特に最後の一五年余りの期間は、ひどく抑制の利いた、冷静で表情のない、冷酷かつ残忍な人間として、周囲からは畏れられていました。そしてそれが故に、日本人最強格の個人投資家としての評価を、少なくとも表面上は、確固たるものとしていたのです。
彼は実際に相場に影響力を持っていたし、いくつかの企業は対応に苦慮していました。まるで総会屋のような扱いだったのを、畑違いで仕事をしている我々でも知っていたくらいですから相当なものです。いわば、バブル崩壊後に日本でも台頭してきた外資系ファンドや、物言う株主の、走りのような存在ですね。
実際には、大勝ちも多かったようですが、当時はまだ、閉鎖性が色濃い世の中でしたし、孤高と言っても孤立した存在でしたから、大企業に徒党を組まれて押し返されたりとか、途中まで相乗りしていた連中に一気に逃げられて負け分を押しつけられたりとか、大負けも多かったらしくて──そういう事情もあって、厳しい態度になっていたのだろうというのが、当時の本当の意味での事情通の評価だったようです」
ひと呼吸終えて出た辻村の言葉は、千春の予想したものとほぼ同じ言葉だった。
「捜査本部は、そんな西脇英毅氏と同じイメージで、彼のことを見てしまった。
そういうことなんです」
「そんな……でも、西脇さんの言葉を信じた人は一人もいなかったんですか? みんながみんな、西脇さんが通り魔事件に便乗してやった計画殺人だ、とでも思っていたんですか?」
千春は、そんなの信じられない──という気持ちを体で表現するかのように、腕を大きく左右に広げた。辻村のそれに対する応えは、千春の予想とは違う常識的なものだった。
「いいえ。捜査本部の意見は、半々でした。通り魔本人の事件だという派と、西脇さんの便乗的犯行だとする派と、二つに別れたんですよ。西脇さんが一連の通り魔だ、という意見が出なかったのは、西脇さんの体格が、それまで寄せられていた目撃情報よりもかなり小柄だったためです。ですから、警察はその両面で捜査を、という体制で臨んだ──というわけですが」
「まさか──」
「そうです。馬鹿で無能な捜査主任は、心証的に言って西脇さんが犯人ではないか、と本気で思っていました。そして西脇さんを無実だと示す状況に気づいていながら、彼を犯人とする説を否定しきれずに、むしろ後押しする立場で動いたのです。
愚かなことに、主任が西脇さん犯人派についたのです。
そして、それによって捜査本部は、その方向を主として、動き出してしまった」
「……西脇さんを無実だと示す状況、というのは?」
「凶器が、無かったんですよ。現場にも、現場近くにも」
そんな──。
そんな根本的な、基本的な要素が欠けているのに、一体なぜ?
「新たに殺人事件の捜査本部を設置するにあたって、事件の翌朝から、多くの捜査員の増員がなされました。
警戒している中で殺人事件になってしまいましたからね。警察の威信をかけての大幅増員ですよ。そしてその中には、次期エースと呼び声の高かった島野康夫警部補もいました。そして彼は、通り魔犯行説派の急先鋒となり、彼の、西脇さんの証言を元に捜査を始めると宣言して、ごく少数のメンバーを従えて独自捜査に乗り出してしまったんです。
だからわたしは、自分は」
自嘲を表す笑いとともに、彼は絞り出したような声で、静かに言った。
「自分は西脇犯人説に固執しなければならなくなった。そうしなければ彼に勝てない。それに彼が犯人なら、通り魔事件捜査本部の主任として、その事件を防げなかったことに対する自分の責任も逃れることができる。これは一石二鳥じゃないか──なんてくだらないことを」
……おそらくこれは彼の誇張だろう。
支持していた説を唱える人の中で、おそらく立場が一番上だった手前、旗を降ろせなくなるところまで追いつめられていた──そんなところではないだろうか。
千春には、辻村が、自分を実際以上に悪く言おうとしているように、自分をそうすることによって責めているように思えてならなかった。
自分の保身のために、冤罪の可能性がありながら、なおも強引に捜査をするような人間には、とても見えない。
そして何より、基本を外す材料がありながら、それを無視して直感だけに頼ったような捜査をするとは、到底思えない──。
だが、辻村にそう言わせるだけの何かがこの事件にはあったのだ──ということだけは、確かに分かったような気がした。
「そして翌日、三月三一日、島野警部補が真犯人が別にいることを突き止めました。
自分の、完敗でした。これ以上ないくらいの。
なぜならその犯人は──」
▼
「優子も、ちょっと普通じゃないような育ち方をしてたんだ。
あいつの両親は、国家公務員上級試験で採用されたエリート、つまりキャリア官僚だったんだけど」
西脇は視線を斜め下、テーブルの方へ向けながら話すようになっていた。
代わりに、千春の視線はやや上に向き、西脇が両足の太ももの上に両肘を置いて、手を祈るような形で組み合わせているその辺りを、見つめていた。
「両親とも出世にすべてを燃やすタイプだったらしい。二人が結婚したのは、ただ単に、『いい歳して結婚していないのは体裁が悪い』っていう、世間体を気にしただけの、言わばお互いの出世のためというか、利害が合ったからっていうだけのものだったらしいんだ。
まさに、ただ結婚式を挙げ、籍を入れて、体裁を取り繕っただけ」
「……そんな目茶苦茶な」
「そう、無茶苦茶な話だよ。頭が良いはずなのにすごく悪いっていうか、何考えてるんだ? と思うよね。
でも、今から三〇年も前っていうのは、そう言った古い考え方というか家意識というか……そういう体裁から生じる『制約』を当然に乗り越えてないと、決して一人前とは言われない世の中でもあったんだろうとは思う。
特に官の世界っていうのは時に、異常なほど保守的な顔を見せることがあるみたいだしね。今の世の中だったら、二人とも独身で通していたかも知れない。
いや、官の体質の古さは今でも変わりないのかも知れないけどね」
一瞬目が合ったが、西脇の方が視線を外した。
「しかし、結婚してしまったことによって、二人は新たな問題をしょい込んだ。
『子ども』さ。
結婚した以上子どもがいないのは何とも体裁が悪い。体裁を取り繕うために結婚したのに、また同じことで悩むなんて皮肉な話だ。
──そして、その解決のために最低一人は子どもを作らなければならなくなった。
そこで生まれたのが」
「……酷い、そんなの酷すぎる」
「そう。酷いよな。酷すぎると思うよ」
千春は、西脇の話にすっかり引き込まれていた。
人間関係抜きにして、その悲劇の子どもの運命がどんなものだったのか、知らずにはいられなくなっていた。
「生まれた子は、『優子』と名付けられた。
彼女の母親は、出産のためにハンデを背負ってしまった出世レースに復帰するために、すぐさま職場へ戻って行った。父親の方は体裁もしっかりしたので、心置きなく仕事に打ち込めた。
おかげで優子は、二四時間保育を行っている高級保育施設で育てられることとなった。
結果、社会的に地位のある、経済的にも何の問題もない両親を持ちながら、非常に孤独な幼少時代を過ごさざるを得なかった」
──怒りが込み上げてくる。
「でも優子は強い子だった。
両親は、自己の体裁のため彼女を有名私立小学校に入れた。
成績優秀だと、はじめて二人は娘を褒めた。
休日に、外食に連れて行ってくれたりした。
最高でも年に三回だけ。学期末の通知表の結果でね。
娘はそのささやかな優しさを求め、勉強に励んだ。
優等生をやった。
ピアノやギターを習い、ひたすらそれに打ち込んだ。
発表会には両親も来る。それだけを楽しみに。
だけど、学年が上に上がるにつれてそうではなくなっていった。
父親は、娘が好成績を残すのを、自分の娘なのだからそのぐらい当然、という態度になった。
母親は出世が頭打ちになり、上手く行かなくなった出世レースの中でのストレスから、娘の事など構っていられなくなった。
そして、娘の優等生としての学園生活は、ピアノやギターの練習は、よりむなしいものになっていった」
「…………」
「娘の方も精神的に参っていった。
そしてある日、万引きを見とがめられて警察へ──両親は呼び出しを食らうことになった」
「そんな──」
「娘は、両親に怒られたことを苦痛には思わなかった。むしろ両親がちゃんと迎えに来てくれたことを嬉しく思った。
だけど、中等部を卒業し、高等部へ上がる頃には、状況は悪化し、悲劇的状況に陥ってしまった」
「……まさか」
千春は、喉が渇いているのを生理的に感じ、無意識のうちにツバを飲み込んでいた。
高校時代の優子の姿が、なんとなく想像できてしまったのだ。
「娘は勉強そっちのけで都会に繰り出し、遊びまくった。
ヤバイこともそれなりにやったらしい。
化粧を覚え男も覚え、万引きタバコ酒──そんなもので済むならなんてカワイイんだろう──って言えるような、何というか、爛れた生活になった。
露出の多い衣装を来てギターを抱えて踊りまくると、お金には全く困らなくなった。
そのうち、ギターも放り出してのセクシー・ライブさ。そうすることによって、多くの『ファン』がついた。
例えそれが下心丸出しの感情からのものでも、そうでもしてないと、自分の存在価値がないような気がして、仕方がなかった。
淋しかった──。
補導されると、逆に体裁を重んじる両親は必ず迎えに来てくれる。
後でどんなに怒られても、そのときだけは自分に両親がいる、ということを実感できる。
そしてまた、『非行』に走る。
……典型的な、最悪の悪循環さ」
やり切れなかった。
両親の愛情が欲しい、ただそれだけのために、いや、その愛情への期待が大きいからこその「反抗」──。
中三以降の千春や西脇は、甘える相手がそもそもいなかった。
だからこそ、優子のような状況には陥らなかっただけなのかも知れない。
「退学寸前まで追いつめられたとき、初めて彼女の母親は、そんな娘の心と置かれた状況に気がついた。
出世レースから完全に脱落し、精神的に一段落したからだった。
そのおかげで、娘はかろうじで踏みとどまって、なんとか高校を卒業することもできた。
もともと勉強だけはできる両親の子どもだ。頭は切れる。一年間の必死の勉強で、何とか国立であるウチの大学へ、合格することができた。
あいつが一浪したのは、そんな理由からだった」
初めからいなければ、人は頼らず生きて行くより他、道はない。
だが、頼れる人間がいると、人は頼ってしまう、頼りたくなってしまうものだ。優子の場合は、頼る権利も、確かにあった。
その二つの典型例が、英俊と優子のそれぞれの人生だったように、千春には感じられた。
「しかし、大学受験に際しても、父親は未だ愚かだった。国公立か、WK大クラスの大学でなければ絶対に許さない、とか言ってたらしい。
あいつは、父親と対立するのは意味がない、と割り切って、代わりに一年間の勉強でなんとかなりそうな国立の、しかも一人暮らしができそうな大学を選んだ。一刻も早く両親から独立したいから、ってね。
それでも、両親が卒業した法学部を選んだのは、どうしてだろうね」
千春には、解るような気がする。そのときの優子の気持ちが。
千春だって──。
「彼女は都心で遊び回ってた経験があるぐらいだから、話し上手で人見知りもしない。だからクラスではすぐに人気者になった。それも女の子で、見た目もコレだしね。
逆に俺は友達はいない、しゃべらない、遊び下手で、打ち込みとキーボード演奏以外能のない、つまらない人間だった。
なのに……」
西脇は大きくため息をついたあと、顔を上げた。
千春は一瞬それにドキッとしたが、西脇の視線は目の前の千春にではなく、もっと遠くの方に注がれていた。
それが千春には、とびきり痛かった。
「俺とあいつは、妙に気が合った。
友達がいた経験すらほとんどない俺が、気が合っただぜ?
奇跡──だと思った。
そしてしばらくして、俺はあいつが俺と同じ『目』をしているのに気がついた。
あいつ、優子の方も、それは同じだった」
西脇が優子のことを「あいつ」と呼ぶのが痛い。
自分のことを言うときの言い方が『僕』から『俺』に変わっているのが──痛い。
「あるときあいつは俺にこう言ったんだ。
『鏡の中にね、あなたがいたの。あたししかいないはずの、鏡の中に』」
△
「何見てんの?」
「……星空」
優子は、リビングの窓の方を見たまま、俺にそう応えた。そして、ふとこちらを振り返ると、クスッと小さく笑って、寝室の方に走って行ってしまった。
寝室の洋間は、二人の寝室兼優子のプライベートルームになっている。用事があって徹夜したりするときには、俺のプライベートルームか、スタジオルームに行く、というのが日常だった。
俺とあいつに垣根はない。
完全な共同生活だ。
すぐに優子が戻って来た。ノートとシャーペンを持って。
「うふふっ、いい詞が浮かんできたのよねー」
そう言って、彼女はすらすらと窓の外を見ながら書き出した。
「どれどれ?」
「ダメ。完成するまで、見せたげない」
俺は苦笑して、じゃあお茶でも入れてくるよ、と言ってキッチンへ向かった。「麦茶にしようよ、寝られなくなるから」というハスキーヴォイスが返ってくる。
冷蔵庫から麦茶を出して、それを二つのグラスに注ぎ分けて持って行く。
グラスを渡し、しばらくは俺だけがソファーに腰掛ける。
待つこと数分、優子がようやく口を開いた。
「電気、消して」
電気を消したら、せっかくの作品が見れなくなるんじゃないか──そう思いつつ、言われるがまま電気を消した。
予想外に、月の光と星の光のおかげで、そこそこの明るさが、優子の姿を照らし出した。
優子は窓を開け、バルコニーに出た。そして、まだ室内にいる俺を手招きする。
相変わらずマイペースなヤツだ。
「何か、今日の空、イイ感じでしょう?」
まだ、夜の空気は少し肌寒い。
でも、そのおかげか、いつもより空気が澄んでいるような気も、確かにした。雲もなく、星がいつも以上にはっきりと、たくさん見える。
「ね、ねえ……こんな詞なんだけど、どう思う?」
優子からノートを渡され、俺は書かれている優子の字を一字一字、順番に目で追った。
優子はなんだかはにかんだように、少し上目遣いで、俺の顔を覗いていた。
「……おいおい、いつからこんな、メルヘンチックな人間になったんだ?」
ついつい正直な感想を漏らしてしまう。
もちろん照れ隠しなのだが。
「ぶ~~っ。あたしだって、女の子なんだから……。
ふふっ、でもおかしいよね、やっぱり」
優子は微笑みながら、少しうつむき加減になった。
そして、その目には涙が、うっすらと浮かんでいた。
「あっ、ご、ごめん……バカにしたつもりはないんだけど」
「ううん、違うの。ごめんなさい。あなたのせいじゃない。いや、あなたのせいか……」
優子はそう言うと、俺の方へ顔を向け、俺の目を真っ直ぐに見ながら、言った。
「……昔だったら、こんな詞、絶対書けなかった。書けるわけなかった。
でも、今は書ける。ガラでもない、こんな詞が」
俺が無言でいると、優子は、少しだけ顔を横に、空の方に向けて、そして言った。
「幸せなの。きっと、あたし」
微かに震えている優子の華奢な体をそっと抱き締める。
彼女の目にはうっすら涙が浮かんでいて、それが一筋、こぼれ落ちた。
二人の体温が、抱き締めてくる腕の力が、聞こえてくる心臓の鼓動が、心地よい。
「愛してる。優子──」
涙の奥にある瞳に、以前の優子とは違う、以前の俺とも違う光を見ながら、そっと唇を重ねた。
二人のいるバルコニーには、詞の書かれたノートが落ちる音が、心地よく、響いていた。
▽
▲
辻村は、淡々と犯人を告げた。
名前ではなく、その肩書を。
辻村の言葉を聞いて、千春は、彼がなぜここまで責任を感じているのかの一端を、ようやく見ることができた。
「奴は自分の直属の部下ではありませんでした。しかし、大人数とはいえ同じ課ですし、いろいろな仕事ぶりを見聞きしていくうちに、自分は奴の実力を買うようになっていました。
奴は仕事は真面目で、嫌な役回りも進んで引き受け、そして確実に結果を出してくれる、そういう刑事でした。それだけじゃなく、一連の通り魔事件が起きていた区域というのが、奴の地元──自宅のある地域だったんです。だから自分は、上司に頼み込んで奴を捜査員に加えました。
その成果ははっきりとした形で出ました。奴が指摘する『犯行スポットにふさわしいと思われる場所』を重点的に警戒したら、事件が起こらなくなったんです。
これは間違いなく奴の手柄であり、そして奴を無理にでも起用した、自分の手柄でもありました。
愚かにも、真相を知らない自分は、そんなふうに悦に入ってたんですよ。
……反吐が出る思いです」
「…………」
「奴は、そんな仕事でのストレスを『通り魔する』ことで発散していた。
だからストレスが重ならず、発散行為が小出しであるうちは、大事件にはならなかった。
もっとも、慣れて来たのか、刺激を増すためか、少しずつ凶悪化はしてはいましたがね。でもそれでも、それはそんなにハイペースじゃなかった。そしてそんな小出しの事件ならば、被害者となる方々には申し訳ないことですが、捜査陣にとっては、奴が手がかりを残す大きなチャンスでもあったわけです。
しかし自分は、結果的に、その機会を完全に奪ってしまった。
奴自身が捜査する側に入ってしまったことで、奴は発散方法を失ってしまったんです。
もちろん、奴が捜査陣の裏をかくことは簡単です。何せ自分を信頼して意見を聞き入れてくれる間抜けな上司がいるんですから。
ですが、奴はそうはしなかった。奴自身が捜査に関わっているのに、それも自分が土地勘や実力を買われて抜擢されて来たにも関わらず、次々と犯人にしてやられたんでは、自分のキャリアに傷がつく、とでも思ったんでしょう。
そしてストレスは激しく溜まる一方となった」
「……そんな──」
「捜査本部が警戒していない地域で犯行を犯す分には、自分の失点にならない──ある意味追いつめられていたんでしょう、そう踏んだ奴は、今までの溜まりに溜まったストレスを一気に放出するように、それまでの一連の事件のレベルを一気に越えた、殺人を実行したんです」
聴きたくなかった。
千春はそう思った。
しかし同時に、なぜだろう?
西脇から話を聴きたい、と思った。
聴かなければならない、そう思った。
事件のときのことを。
そして、婚約していたという、優子の、ことを──。
▼
「……幸せだった。
人と関わるのが、あんなに楽しくて、嬉しいことだとは知らなかった。
初めて、本当の愛情を、本当に愛してくれる人を、見つけた気がした。
……ホントは、一人でいつも、寂しかったから。
ただ、誰もいない生活に、人よりちょっと、慣れていた、だけだったから──。
初めて、人のホントの、温かさを、知った。
初めて人に優しくされて、初めて人に優しくできるようになれた。
人と普通にしゃべれるようになって、友達もできたるようになった──俺自身、こんなに経済的に恵まれているのに、こんなに幸せになっていいのかな、って正直思った。
世の中には、もっとつらい生活を送っている人がたくさんいるのに、自分がこんなに幸せになっていいのかって。
俺は優子と出会うまで、『自分に財産があるのは、愛情の代わりだから』って、自分を納得させて生きてきたから」
強く生きる──。
千春は、強く生きようと努力に努力を重ねて来た。
見せかけの『強さ』のための努力を──。
西脇は、千春が必要とした『強さ』をはるかに凌ぐくらいの『強さ』を持っていなければならなかった。
そして、その『強さ』を持って大学まで行ったのだ。
西脇は、再び立ち上がって、優子の写真が置いてある棚のところに歩み寄った。
彼が今、何を考えているのか、千春には想像もつかなかった。
△
「きゃあっ、ちょっ……」
二人が別れてから、まだ一分も経っていないかも知れないうちに、わずかな悲鳴を、彼は聞いた。
彼女と四年に渡って築いて来た思い出に浸っていた彼の心から、冷静さを一切奪う、急速に頭から血の気が去っていくような、そんな悲鳴だった。
「優子? 優子っ!!」
あの声は──。
悪い予感がした。
彼女は冗談好きではあるが、こんな悪趣味なジョークを展開するほど困った人間ではない。そのことを誰よりも知っているだけに、不安が雪だるま式に膨れ上がってくる。
考えるよりも先に、彼の足は、二人が別れたあの路地の交差点へと向かっていた。
彼女の名を小さく連呼しながら──。
彼が交差点にたどり着き、彼の視線が、彼女の歩いて行った道の方を向いたとき、彼の目に映った光景は、彼にとって、あまりに残酷なものだった。
彼女のワインレッドのハーフコートの四つボタンの上の部分、ちょうど胸の辺りから、何やら黒いものが徐々に大きく迫り出してくる。そしてその異物を中心として、ワインレッドのハーフコートが水で濡れたように黒みを少しずつ増していく。
波紋が水面に広がるように、楕円形を描いて──。
彼は駆け出していた。
黒い異物が、彼女の胸から取り除かれる。
それを取り除いた存在を、彼は無意識に、視覚できちんと捕らえながら、しかし彼の意識は、彼女が立った姿勢から地面に崩れ落ちていく様に、釘付けになっていた。
崩れ落ち、倒れている彼女のところに駆け寄る。
意識はある、彼にはそう見えた。
(意識はある、大丈夫だ)
彼女を左から抱き抱え、右腕で彼女の頭を支え、左手で彼女の右肩を支える。更に彼は左腕を更に回り込ませ、両手をつなぐようにして、彼女の体を抱くように支えた。
「優子、優子、しっかりしろ。すぐ──」
そう呼びかけている最中、彼女が何やら言おうとしているのに気づいた。
すぐに彼は、彼女の口元に自分の耳を近づけた。
そして──。
「ヒデ……ク………、あ…り……………が………と……」
直後、彼女の首、そして腕、胴体、足……体中のありとあらゆるところから、一瞬にして、力が抜けた。
彼女の目から、一筋の涙が、流れ落ちた。
彼の右手に静かに──。
「っ………………………………………………………………」
彼の頭の中は真っ白になっていた。
無意識の縁へ、放り込まれて行った。
意識を取り戻したとき、彼は取調室らしい狭い空間に、刑事らしき男と、向かい合って座っていた。
▽
▲
「事件は六日後の四月五日、犯人の自殺、という形で幕を閉じました」
淡々と話す、辻村のその口調からは、懺悔に臨む咎人のような感情が滲み出ていた。
「自分はその翌日、事件を担当した捜査主任としてあらゆる非難を受ける覚悟で、一人で西脇さんの自宅に、結果の報告に伺いました」
自宅というのは、昨日今日と泊まっているあのマンションのことだろう。
当時の西脇と今の西脇は、紛れもない同一人物なのだ。
「彼は、自分を静かに迎え入れてくれました。相変わらずの無表情でしたが、どこか脅えのようなものを感じさせる、そんな目をしていました。
応接間へ通され、自分はありのままを報告しました。
優子さん殺害事件の犯人が、自分の部下、捜査本部の人間だったこと。
そしてその男が連続通り魔事件の犯人で、逃亡した挙げ句、逮捕直前に自殺してしまったことを。
彼は、静かに聞いていました。一言も口を挟まずに」
ふと、辻村の顔を見ると、血の気が失せているのが見た目で解るぐらい蒼白に変わっていた。
千春は、自分がしていることの大きさを、そして四年前の事件の大きさを、感じないわけにはいかなかった。
「自分が話し終えると、しばらくして、彼は、自分に帰るように言いました。
『お帰りください』と一言だけ。自分に背を向けて。
自分は最後にもう一礼して、玄関に向かいました。
正直、自分は、手酷く非難されなくてよかった──とさえ、そのとき思ってしまったほどでした」
「…………」
「実は、自分はあのとき、職を辞するかどうかで悩んでいました。自分のプライドの面だけから言えば、引責辞職が相当だと思っていました。が、娘が小学生になったばかりでしたし、今後のことを考えると、辞職という選択肢は選びたくないと、考えたくなってしまっていたんです。
それに、自分が責任を取る方法は他にもある──そう思っていました。
自分がこれからより一層、鋭意仕事をこなすことによって、西脇さんのような被害者を一人でも出さないようにすることが、悲劇を起こさないようにすることが、自分の務めだと──都合よく、考えたりしましてね」
今の辻村を見ている限りなら、千春もそうあるべきだと思った。
よく不祥事を起こした会社の社長や重役が引責辞任することがあるが、そのままその地位に居続け、仕事をし続ける方が、余程辛いこともあるだろう。
それに辻村の場合、本人が言うほど責任はないように思える。
ここまでの話の中でも、彼はあまりに自虐的に自分を責め過ぎている。
おそらくウソまでついてか、そこまでいかなくても、少なくとも誇張くらいはして。
その理由が、千春には解らなかった。
それに、西脇は、『職業だけでなく、平凡な家庭と、安定した生活』の三つを、辻村が失った、と言っていた──。
(まさか辻村さん──)
千春の頭の中を見透かしたように、辻村は語り始めた。
「自分が帰ろうとしてドアを開けたとき、ふと、なぜだか体がよろけてしまって、外に出る前に一度、ドアを閉じてしまったんです。もちろん音を立ててです。
気を取り直して、もう一度ドアを開けようとしたとき、応接間の方から、嗚咽が聞こえて来ました」
それは──。
「西脇さん宅は、ご存じかも知れませんが、玄関から応接間を直接覗くことはできません。それは逆に言えば、向こうからもこちらを見ることができないんですよね」
確かにそういうつくりだった。
「ですから、彼はドアの閉まる音で、自分がもう帰ったと思ったんでしょう。
彼の嗚咽は止まりませんでした。
大声を上げて泣いたって良いはずなのに、子を殺して泣いていました。
それまで一度も涙を見せることもなく、警察に疑われるくらいだった彼が、です。
……ショックでした。
自分は初め、先ほど言った通り、その冷静過ぎる態度に、心証において、彼が犯人ではないかと、疑ってさえいました。それが実は──現実に目の前で起こったことによる衝撃で、そしてそこから来る悲しみの大きさが大きすぎて、ただただパニックになっていただけだったなんて、とても気づきもしなかったんです」
パニック?──。
(……悲しみが大き過ぎて、心がついて行かなかった。だから泣くこともできなかった?──)
「彼は、おそらく、自分の目の前で起こった出来事をすべて見ていながら、記憶していながら、彼の心は、そのことを認めることが、できなかったんだと思います。
今思えば、事情聴取のとき、彼からは感情というものが感じられませんでした。
淡々と冷静に、『優子の胸の当たりから黒いものが出て来て、赤いコートがその部分を中心として楕円形に水に濡れていくように、変色していくのが見えました』などという、冷淡とも言える表現で事件の様子を表現したのです。
信じられますか?」
……確かに、冷淡とも言える表現だ。
だが、それは──。
感情の──逃避。
「彼は、嗚咽の中で、何度も何度もこんな言葉を繰り返していました。
『俺はやっぱり、幸せをつかんではいけない人間だったんだ』
『俺がお前を愛さなければ、お前は死なずに済んだはずなんだ』
……そんなふうに、かすかにですが、何度もです。
彼が犯人だという派の捜査情報によって、彼と彼女にとって、お互いがどういう存在であったか、どれほど大きな存在であったかは、解っていたつもりでした。
だから自分一人で、誰も連れることなく、報告しに伺ったんです。
でも彼は、自分のこと──わたしのことを責めるどころか、ご自分のことを責めていた。
それしかしていなかった」
「!! ────」
「……わたしは、その場から一歩も動くことができませんでした。
自分の考えが甘かったことを、知りました。
わたくし自身の責任の大きさを、軽く見過ぎていたことを、知りました。
そして何より、わたしが直接報告したことによって、彼は彼女の死を、意識の中で認めざるを得なくなってしまったのです。
それ自体は、長い目で見れば正しいことなのでしょうが──。
わたしは彼の悲しみの扉の鍵を開けただけでなく、扉そのものまで開けてしまった。
赦されないことだと思いました。
あの事件は、わたしが采配をふるわなければ起きなかった。
すべて、わたしの責任なのです」
辻村の目には、涙はなかった。
でも、自分に泣く資格はないと、こらえているように千春には見えた。
「わたしはすぐに、辞表を提出しました。
島野君をはじめ、慰留してくださる方々は多かったです。
でもわたしは、警察官を続けることができなかった。
わたしは彼女、優子さんを殺したも同然であり、彼女の人生を、そして彼の人生を、初めて掴みかけた幸せな未来を、若い二人の輝くべきだった未来を──奪い去ってしまったのですから。
帰宅してすぐ、自分は女房に辞職することを告げました。
理由は一言も話しませんでした。
でも、自分と幼なじみである妻は、自分がどういう人間であるかを知り尽くしている妻は──わたしの気持ちをすんなりと理解してくれました。
そして次の日から、笑顔でパート先を、いろいろと探しまわって。
気づいたら、わたしは、そんな妻にかなり厳しい八つ当たりをしていました。暴力こそ奮いませんでしたが、かなり激しく罵倒してしまったことを覚えています。まるで子どもですよ。
いや、子どもより余程タチが悪い。
でも妻は、そんな状況でも笑顔を崩さなかった。
結局は、別居する、ということに落ち着きました。しかし、彼女は、それでもわたしが、刑事という職業を天職だと思っていたことを誰よりも知っていて、理解をしてくれていたんです。
だから待っている、と言ってくれて。
あとで娘から聞きました。
彼女は、表向きは笑っていましたが──。
……わたしは、ここでも、妻の大きな愛を感じることができた。
それを感じることができなくなってしまった人を、自分で生み出しておきながら」
そんな──。
「西脇さんは、精神的ショックからなかなか立ち直ることができず、四月一日から勤めるはずだった県庁に、結局一度も出勤しないまま、入庁の辞令を受けないまま退職するということになりました。
県側も、気の毒だけれども仕方ないと──そういう話が、引き継ぎのためだけに当時まだ、警察に残っていた私にも聞こえて来ました。
犯人が自殺したからと言って何も終わらなかった。
むしろ荊の森の真ん中に、たたき落とされたようなものだったのです。
どこを向いても道はなく、どこに進もうとしてもケガをする──そんな状況、わたしがたかが辞職をしたくらいで、どうにかできるようなものではありません。
わたしの罪は消えません。消せるとも思っていません。
ただ単にわたしは、責任から逃げたかっただけなのかも知れない。いや、まさにそうなのです──お恥ずかしい限りです。
綺麗事を言うだけ言って、責任を取ったフリをして、ただ逃げ続けているだけなんです。
早野さん、先ほど西脇さんが、ご自分のせいで、わたしが家庭を失った──と、そうおっしゃった、と、言いましたよね?」
千春は、奥歯を噛みしめながら頷いた。
「そういう過去を背負った人なんですよ、西脇さんは。
でもそれでもなお、自分以外の誰も責めようとしない。
彼は本当の悲しみを知っている──そういう人なんです」
▼
「こいつ、最期僕に、『ありがと』って言ったんです」
西脇が、優子の写真を見つめながら言った。
それまでと違って、消え入るような声だった。
口調が一瞬丁寧語に変わったことが、千春には少しばかり、悔しかった。
「『ありがと』、ですよ? まるで、自分が死ぬことを、どっかで予期していたみたいじゃないですか。
……たまにあいつ、自分はいろいろ悪いことをして来たから、いつか天罰が下るんじゃないか、みたいなことを言うことがあって。
そういうとき、決まって淋しそうな顔をしやがって。
俺は、俺はそんなの認めなかった。
『ありがと』の意味をずっと考えてた。
そしてこいつが、いつものように笑顔で俺の前に現れてくれるのを、ずっと待ってた」
西脇は膝から崩れ落ち、正座のような姿勢になった。
千春は、反射的に腰を浮かした。
「何日か経って、辻村さんが、僕のところに報告に来ました。
事件は終わったって。
内容はよく覚えてないけど、『優子さんを殺害した犯人を突き止めました。が、犯人を逮捕する前に、自殺してしまいました。申し訳ありません』って、そんなようなことを聞かされたと思う」
千春は、小さくなっていく西脇の背中をじっと見つめながら、話を聴き続けた。
「辻村さんが帰ったあと、ようやく──と言ったらいいのかな。僕は泣くことができました。
初めて──改めて他人から、『優子が死んだ』と告げられ、もうどうしようもなかった。
解ってはいた──はずなんです。きっと。
優子の首が、体が──脱力したのを直接感じたのに、どうしても──頭の中、何時間もの間、真っ白だったのを今でも覚えています。
意識をとりあえず取り戻したときには、僕は取調室で刑事と向かい合っていました。
僕は取り調べを受けた記憶なんてないのに、刑事は疲れた顔で、仏頂面をしていました。
タバコの吸い殻も山積みの状態でした。
僕はそのとき、『どうして自分がこんなところにいるんだろう、早くしないと優子との約束に遅れるじゃないか』って、最初に思ったんです。
時計を見たら九時半、約束は一〇時でした。
三月三一日の、午前の──。
でもそのとき、刑事が勢いよく飛び込んで来たんです。それで刑事たちの表情が、すぐに一変しました。そして僕は、すぐに釈放された。
僕の頭は、『今ならまだ間に合う』と思う傍らで、さっき聞いたような気がした優子の『ありがと』っていう言葉が、まるで呪いの呪文のように頭の中にこだましてて──これはなんなんだろう? って、よく分からなかった。
そして外に出て──してみると、外は真っ暗だった」
「……え?」
「時計の針が指していたのは、三月三一日の、『夜の』九時半だったんです」
「…………」
現実に目の前で起こったことによる衝撃で、そしてそこから来る悲しみの大きさが大きすぎて、ただただパニックになっていただけだった──。
「……西脇さん」
西脇は、また優子の写真の方に視線を向けた。
そして、思いがけないことを言った。
「こいつ、それから、たまにですけど、『夢』に出てくるようになったんです。
その夢は妙にリアルで、僕がその『夢』の中で触れたものの感触が、起きた後もかすかに残っているぐらいだった。
僕は嬉しかった。
たまにだけど、こいつに会えるのが、たまらなく嬉しかったんです。
でもこいつは、そんな嬉しがっている、僕のことを怒るんです。
『ちゃんとしっかり生きていかなきゃダメじゃん』って。
何にもする気が起きなくて、何日もロクに食事をとらない日が続いたこともありました。
事件の直後の何日かは、島野さんとかその部下の方々とか、優子のお母さん、桐山先生──あの人たちが時間を見つけては来てくれてなかったら、僕は本当に餓死していたかも知れなかったくらいです。
でも、そんなふうにしていると、眠りに落ちたとき、こいつは怒ってね。ときには泣いてもくれた。
眠ってもたまにしか逢えないのに、たまに逢うのが哀しい顔なんて、何だかダメじゃないですか?
だから、頑張って生きようとしたら──こいつは喜んでくれて。
きちんと食事をして、買い物に行ったりして──そういう日に『夢』を見れると、こいつは必ず笑ってくれた。
だんだんそんなことが分かって来て、次第に、生きることをしてみようかと思えるようになった。
僕は、夢で逢えるこいつの言葉とか態度に勇気づけられて、どうにか生活らしいものができるようになった。
次第に、島野さんたちが来てくれたときにも、笑えるようになった。
思えば、本当にお世話になってしまっていました。
それで一年くらい経って、なんとかバイトにくらいならと、外に出れるようになり、そして二年後──二年近くかかりましたけど、その頃には、どうにか横浜駅西口に立てるようにまでなった。当時はおっかなびっくり歌ってただけでしたが、それでも、行き場が新しくできたのは嬉しかった。
そして更に一年後には、こいつのことを歌にして歌えるところまで、ようやく──でも」
西脇がふと、クスッと笑った。
力のない笑いだった。
「去年の一一月六日、午前二時半頃──」
(──午前、二時半頃?)
「僕はまた、こいつの『夢』を見ました。夢に出てくるこいつが、僕に別れを言う、正真正銘、こいつが現れる、リアルな『夢』の、最後の夢を──」
西脇の肩は震えていた。その姿を見て、千春はじっとしてはいられなくなった。
「そしてこいつは、優子はこう言ったんです。
『あなたには、いつでも笑っていてほしいから』って。
『あなたの幸せを願ってる』って。
『今ここであなたに会えるのは、あなたが私を想ってくれるおかげだから』って。
……そういえば、あいつ、いつも自分のこと『あたし』って言ってたのに、『私』になってた。
──ははっ、なんか、正式なあいさつのつもりだったんだな。今、気づいたよ」
こらえていたのであろう涙が急速に量を増し、嗚咽が言葉の中に交ざって来て、千春はもう耐えられなかった。
「『幸せになってほしい』って。
『心から幸せに』って。
『恋人ができたら、紹介しろ』って──。
ははっ、信じられないだろ?
この期に及んでそんなこと言うなんてさ。
自分のことなんて放っておいて、人の幸せを願うなんてさ。
僕は生涯独身で過ごすつもりだった。それなのに、そんなこと言うなんてさ。
僕は『夢』の中で逢えればそれでいいって、本気で思ってたのにさ……。
あいつは消えてしまった。
僕の『夢』の中からも──」
「…………」
「でも──でも僕はそれ以来、本当の意味でちゃんと立ち直ることができた。
彼女に頼らず、現実に向かって、どうにか独りで、自分の足で立つことが、できるようになった。
一人称を『俺』から『僕』に変えて、新しい人生を歩もうって。
たとえ独りでも、未来に向かって歩こうって。
だから、美月ちゃんや阿部君みたいな新しい友達も作れた。
早野さんたちを家に招くようなこともできた。
そして、早野さんと一緒に動き回ることだって──!?」
千春は、正座の姿勢に崩れ落ちて背の低くなっていた、肩をすぼめて小さくなった西脇の身体を、背中から、両腕で包み込むように、強く強く抱き締めていた。
力の限り、抱き締めていた。
そうせずにはいられなかった。
西脇の体は、一瞬驚いたようにビクッとし、瞬間的に強ばったあと、素直に千春のするに任せていった。
言葉はいらなかった。
西脇は、大粒の涙を、フローリングの上にこぼしていた。
千春の涙は、彼の右手の上に落ちていった。
彼の背中が温かいことを、千春は自分の胸で感じていた。
彼の腕が温かいことを、千春は自分の腕で感じていた。
千春は、彼が犯人じゃないという確信を改めて得るとともに、もう一つ確かなものを得ていた。
それは、西脇英俊のことを、本気で好きになってしまった──という自分自身の、気持ちだった。
(本当の愛と悲しみを知る、本当の優しさを、持ったひと──ごめんなさい、西脇さん)
『あんな思いをする人間を、一人でも減らしたかったから』
『これは何か、力になってあげられたらって、そう思ったんだよ』
『それだけの理由で、動く人もいるさ』
『去年の一一月六日の夜、午前二時半頃、僕はこいつの夢を見ました。こいつが僕に別れを言う、正真正銘、こいつが現れるリアルな「夢」の、最後の夢を──』
(幸せを掴んじゃいけないひとなんて、いないよ──)
西脇優子:西脇英俊の婚約者。故人。享年23歳。婚姻届けの提出を約束した1994年3月31日の前日である3月30日の夜に、西脇英俊と別れた直後に通り魔に襲われて殺害された。第一発見者は西脇英俊で、即死に近い状況だったが、彼の腕の中で死亡した。2人は同じ姓ではあるが、血縁関係はない。
ピアノやギターを習っていたことがあり、どちらもそこそこの腕で、大学卒業までは西脇英俊とユニットを組んで活動していた。西脇英俊のギターの師匠でもある。歌唱力もあり、我流だが才能のあった相方ともアマチュアレベルではある程度釣り合いがとれていて、水井久行にもその高いセンスを認められていた。
両親はともにキャリア官僚で、愛情をあまり受けずに育ったため、それなりに重度の非行に走った過去を持つ。そのため、逆に「自分が本当に幸せになって良いのか?」と自問していた。




