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Message~永遠の時を越えて  作者: 笹木道耶
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第一章 一〇月二九日(木)#2

     ◆ 2


 カタカタカタッとキーボードを叩く軽快な音が、狭い部屋に響き渡って心地よい。

 ようやく興が乗ってきた、とでも言おうか、残り数百字などあっと言う間に仕上がりそうな勢いだ。

 安堵の表情になっていくのが自分でも分かる。


 千春は、自分がポーカーフェイスでないことをよく自覚している。

 そういえば昔、千春って、ホントに表情がクルクル変わるよな──としみじみ言われたっけか。


『信じる者は救われる』


 デスクトップの「壁紙」には、千春のそんな表情について指摘した人物の「座右の銘」が記されている。単純に文字だけを打っただけのbmp形式のシンプルな壁紙だが、意外とこれが気に入っている。


 さあ、自分でも信じて、仕上げちゃいますか──。


 気合を入れ直し、再びキーボードを叩き始めたその矢先、まだ早朝の静かな住宅街を、サイレンの音が引き裂いていった。

 思わずドキッとする。


 数時間前、正確にはもう三時間余り前になるが、あの奇妙な現象──。


 再びハッと我に返る。

 そんなことを考えている暇は無いのだ。

 一つのことにこだわってしまい、大局を見誤りがちなところがある千春にとって、常に感情を冷静に保とうと努力することは、理性的な生活を維持する上で不可欠の要素だった。

 最近は、こうしたコントロールが、前よりもできるようになってきた気はする。これは千春が「大人」になった、ということを示しているのかも知れなかった。


 とにかく今は、こいつを仕上げることだ。

 カタカタカタという心地よい音が戻ってくる。そうすると、あれよあれよという間に六〇〇〇字にも及ぶ「古文書学」のレポートも、残すところあと二百字程になっていた。


 ……やっと終わった。

 深い深い溜め息をつくと同時に、なんだか気が抜けて眠くなってきた。

 終わったことの感慨よりも、これから──今日からはゆっくり眠れるんだ、眠れるのよね、と自問する方が優先していて、何だか可笑しい。


 思えば長かった。

 不慣れな徹夜もした。

 図書館に籠もって調べ物に明け暮れもした。

 千春の使った図書館所蔵の辞書は、いつの間にか手垢でうっすらと汚れるまでになっていた。

 それもこれも──いや、もう何も言うまい。無事終わったのだから。


 不幸中の幸いというか、作詞の仕事の依頼は九月末のもので一応一区切りついていたので、全神経をこちらに集中することができた。おかげで、作詞家としてのキャリアに傷をつけずに学生生活に没頭でき、結果としては、結構こういうのも楽しかったかな、とも思う。終わった今だから言えることだが。

 そう思いつつディスプレイの前から離れ、ベッドに体を投げ出す。

 そういえば、パジャマのままでパソコンに向かっていたのだった。


 うとうととしかかって、再び目をパッチリ開けた。

 そうだ、今眠ってしまったら、このまま夕方まで眠り続けてしまうに違いない。それでは何のためにこんなにも苦心してレポートを仕上げたのか分からなくなる。

 レポートの締め切りは正午までだが、一〇時半から正午までの二時限目に必修語学の授業があるので、事実上、レポートの提出期限は一〇時半までだ。

 それまで、どうやって時間を潰そうか。


 考えるまでもない。あの夢だ。


 そういえば、あのサイレンは何だったのだろう?

 千春の記憶が正しければ、あの独特な音はパトカーのものだが──。


     ◆ 3


 一二五CCのオフロードタイプのバイクにまたがり、大学へと向かう。

 信号がオールクリアなら約五分の道のりだが、いつも三〇分前には家を出るようにしている。

 少しぐらい早く着いた方が、サークルにも部活にも入っていない千春にとって、友人たちとコミュニケートするチャンスが増えるからだ。


 千春は決して、引っ込み思案でも内気でもない。むしろ外向的で、腰まであるロングヘアからは似つかわしくないほどボーイッシュというかさっぱりしている方──の性格だと思っている。

 しかし、この横浜にはもともと何の縁もゆかりもないし、仕事も在宅が基本である。だからこうでもしないと仲間ができない、という弱点を抱えていた。


 もっとも、大学外部で音楽のユニットを組んでいる。

 高校時代から名前だけは知っていたそのパートナーとは、半年くらい前にリアルで知り合う機会があり、ともに横浜に住んでいることもあり意気投合。現在は一か月に三度くらいのペースで会って、一緒に練習に励んでいた。


 千春自身は、歌手や作曲家としてのプロデビューは諦めている。自分の実力やセンスでは、早晩頭打ちになることが見えていた(と思っていた)から。

 が、その分、誰か力のある者をサポートしたいという思いが新たに生まれた。そしていつしかそれは、ある程度までは一緒にステージ立ち、実績を重ねさせ、彼女のデビューの立役者になれれば──そんな「夢」に転換していた。

 今週の土曜日、一〇月三一日にも、その彼女と会う予定だ。


 交差点の信号が、千春のバイクの通行を阻むかのようなタイミングで赤になった。

 あの「初心者マーク」が、トロトロと、しかもおっかなびっくり曲がりやがるから。

 千春のすぐ前を走っていた「初心者マーク」を付けた車は、ギリギリのタイミングでゆっくりと交差点を左折した。舌打ちしながら、その「初心者マーク」の曲がった先に視線をやる。


 パトカーと制服の警察官が、遠くに見える。


 ……まさか──。


 何か言葉にできない、いやな感じが千春の体を貫く。


 プップー。


 後ろからクラクション。気づいたら青信号になっていた。

 追い立てられ、慌てて大学のある右方の道に入る。

 ……なんだが恥ずかしい。


 しかし。

 何故か不安感が拭いきれない。

 一体あの「現場」は何なのだ。

 いや、あれはそもそも何かの「現場」なのだろうか?

 正体の掴めない、得体の知れない後ろめたさを感じながら、千春は右手首を勢いよく返した。


 大学に到着すると、すぐさまレポートを提出するべく、所属する人文学部の事務局へ向かった。事務局にあるレポート提出用のポストへ投函するためだ。これが、レポートを提出する唯一正規の手続である。

 いつもと同じように、しっかりと前を見据えて歩いていく──つもりだったが、やはり寝不足は寝不足であり、ウソはつかない。やや集中力に欠ける。


 一応、女性としては最低限、口を手で覆いながら、欠伸を連発する。

 今日だけ今日だけ。

 だって特別な日だもん、と言い訳を心の中で繰り返していた矢先、何者かが突然、後ろから千春の目を塞いだ。


 !! ──。

 一瞬、文字通り、目の前が真っ暗になった。

 何事だ!? とパニックになったのはほんの一瞬の中の一瞬。

 目隠しをしながらも、ややその手から後方へ重力を感じさせるその襲撃者の正体は、「だ~れだ」というあまりに緊張感のない甘えたようなかわいらしい声で、いよいよ明白になる。


「こらこら、ミヤビちゃん。やめなさい」

 千春が目をふさいでいた手をゆっくりと払いのけ、寝不足の体を労るようにゆっくりと振り返ると、相変わらずの、ニコニコした柔和な笑顔を間近に見ることができた。

 小杉雅さん──国立Y大学法学部二年生──である。千春にとって、大学では唯一親友と呼べる、というか呼びたい存在だ。身長は一五〇cmそこそこ、スーパーショートの髪形に、二重瞼のくりくりっとした目は、小学六年生か、中学一年生の男の子、といった感じである。


「まったく、ガキみたいなことするんじゃありません」

 と、千春がついつい、いつものようにお姉さんぶった物言いになってしまうのは、やはり、雅の愛らしい風貌に原因がある。

 うふふっ、と輝かんばかりの力無い笑い(?)を浮かべながら、いつものお・か・え・し、といたずらっぽく言われると、同性の千春でも思わずドキッとする。こんな独特なホンワカした雰囲気を持ってる雅が、実は千春よりも二つも年上だという事実は、すぐには誰にも信じてもらえない。

「珍しいね、こんなとこ歩いてるなんて」

 相変わらずの甘えたような、すこしトロそうな口調で、厳しいところをついてくる。


 人文学部の事務局の隣は法学部の事務局であり、その同じ建物内に、文系学部の教授たちの研究室(文系学部では教授室とほぼ同義)、ゼミ室、大学院生用の教室が入っている。千春は何かの申請のためとかその類の理由がなければこのあたりをうろつくことはまずないが、雅は二年生でありながらゼミに参加しているので、千春と違い常日頃、この建物を利用しているのだ。

 司法試験(*筆者注:一発試験として名高い、いわゆる「旧司法試験」のこと)を目指す強者としては、そのぐらいでちょうど良いのかも知れない。

「雅ちゃんは、今日はゼミ?」

「うん、千春は……あ、レポート、今日提出だったよね」

 さすがに親友。

 他学部とはいえ、覚えていてくれたか──うんうん。

「うふふっ、じゃあお祝いでもしよっか?」

 雅は相変わらずの笑顔で誘ってくれたが、千春の身体にはそんな余裕はなかったので、やんわりと断った。

「とりあえず眠たいから、また今度、ね」


 雅がゼミ室の方へ消えたあと、千春はレポートの提出を無事済ませ、必修外国語である英語の教室へ向かった。

 本当はサボりたいぐらい眠いのだが、出席を取る授業。休むわけにはいかない。

 息を切らせながら、事務局がある建物から数一〇メートル離れた、学部の授業用の建物へと進む。

 運命のいたずらか、目指す教室は最上階の四階だ。三日で約六時間の睡眠しか取っていない運動不足の女子大生には、少々拷問に近い。教室に入る頃には、よほど青い顔をしていたのだろう「大丈夫?」「平気?」と次々と声がかかる。


 親友や本当の意味での友人は少ないが、持ち前の外向的な性格と人望の厚さ等々? で声をかけてくれるような人は少なくない。この必修英語のクラスのメンバーに限れば、顔の広い方から数えた方が早いくらいだろう。

 大丈夫大丈夫、と息を切らしつつ言いながら、あのレポートについてひとしきり愚痴っていると、ある男子学生が、そういえばさあ──と言うのが耳に入った。

「五時半頃、警察がさあ、なんかウチのアパートの近くに来てさ。うるせえのなんのって。

 何でも、飛び降り自殺があったらしいぜ。しかも若い女の。もったいねえよなあ」


 青い顔が更に青くなったようで、帰った方が良くない?──とか言われながら、なんとか英語の講義終了までは頑張った。

 しかし、その後の三時限目と四時限目は自主休講にする。


 情報をもたらしてくれた男子学生のアパートの近くに向かうためだ。

 彼のアパートは、千春の家と大学とのほぼ中間点。千春の家からバイクで三分弱、夜間や早朝なら、サイレンの音が千春の家からでも十分聞こえるはずの距離だ。そしてそこは、今日大学に来るときに見た、警官が立ち、パトカーが止まっていた、まさにその辺りだった。


 「現場」前に到着すると、すぐにテレビ局の車が見えた。

 正午過ぎの現在も、制服の警察官が道路側に立ち、その後ろには黄色と黒のロープが張られていた。

 数人の野次馬が、現場とテレビ局の車、そして、テレビレポーターの近くにたむろしている。とても入り込みたいとは思えない空間だ。


 そのとき、ふと思い出した。このテレビ局は、確か一二時過ぎからワイドショーをやっていたのではなかったか。

 急いでとって返し、千春は自分のワンルームへ向かった。


 胸騒ぎが、千春の背中に、汗の一筋を刻んでいた。

小杉こすぎ(みやび):#1 国立Y大学法学部2年生。151cm。裁判官を目指している千春の「親友」。童顔で、スーパーショートの髪型なので、見た目は中学生の男子のようだが、年齢は千春より2つ上。司法試験(1998年当時なので、いわゆる「旧司法試験」)の勉強に取り組んでいるため、刑事事件についての知識がある。

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