第五章 一一月〇二日(月)#5
◆ 5
西脇はまたゲストルームを案内しようとしたが、千春は西脇の家の方に泊まらせてもらえるよう頼み込んだ。
これが千春が準備をしていた意思表明だった。
一人はもう、怖かったから。
それでもさすがに、泊まるとなると西脇は渋っていたが──明日が文化の日だからか、ゲストルームが既に埋まっていることが確認され、また、狙われていることを不安がる千春のことも考慮してくれたのだろう。
結局は西脇も諦め顔で、応じてくれることになった。
千春が与えられた部屋は、ゲストルームにあったくらいの大きさのベッドがある八畳の洋間だった。
この洋間には、ベッドのほかに、ヘッドボードに電話の子機。それからギターが二本に、折りたたみ式の小型のテーブル、あとは隅の方に、一応タンスと呼んでも良いくらいの大きさの木製の収納がある程度だった。
ぱっと見、この部屋も随分と綺麗に片付けられているな、と思った。
ただ──。
その割には、埃が見て取れたりもした。
俗に言う、生活感がない。
例えば、ゴミ箱はあっても中はカラ。
部屋にティッシュペーパーすら置かれていない。
ということは、物を急に片付けたのではなく、ずっとこの位置に置かれたままで、常日頃、リビングなどに比べて掃除をしていない、ということになる。
何か、違和感ある──。
元々は、この家に彼の父親や姉がいた時期もあったのだろうから、おかしなことではないはずだ。
にもかかわらずこの部屋は、何となく他の部屋と違うような気がする。
一体何だろう? この感覚。
しかし、ともあれこれで、きっと今日は、何の憂いもなく眠れることだろう──。
いや、一つだけ。
今日も、「夢」を見るのだろうか?
風呂から上がり、歯磨きをし、ドライヤーを借りて長い髪を乾かし、緩く、根元と毛先の二か所でその髪を纏めて──と、流れるように眠るための準備をすべて完了した。
あと一つ。
内鍵を掛ける作業が残っている。
心理的にヘンな勢いがついていたため、風呂上がりでも、男性がいる──というよりも男性が部屋の主である家の中を動き回ることにも、それほど緊張はしなかった。
間取り的にいろいろと余裕があったことも大きいが、もちろん、無防備だったつもりはないし、緊張感がないわけでもない。
それでもまあ、自然な振る舞いができていたと思う。
でも、内鍵を掛けたり、バリケードを築いたり、というのは、自分から押しかけておきながら、西脇をまるで信用していないようで、何だか抵抗があった。
だが逆に、内鍵を掛けないでおく、完全にスルーにしておく──というのも、自分がすごく軽い女なようでこれまた抵抗を感じる。
さて、どちらをとるか。
結局、悩みつつも、千春はドアの内鍵を掛けることにした。
それはおそらく、千春が西脇のことを、本気で異性として意識していたからの行動だった。
鍵を掛けるとき、千春の胸は、締め付けられる──まではいかないが、確かにきゅーっとしていた。
こんな感情になるのは本当に久しぶりだった。
恋愛系の作詞作品は多いが、「葛野深雪」の実態はこんなものだった。
恋愛下手で、意外に臆病。
鍵を掛け終えると何だか気が抜け、思わず思いっきりベッドにダイビングしてしまう。
そして、大きな枕を抱き締める。
(どうなるんだろう? これから)
千春は、今日あったことを一つ一つ思い出していた。
水井のこと、林田教授のこと、大里のこと、人文学部事務局のこと、長谷教授のこと。
そして、西脇の家に戻ってから電話による聴き込みをした、文化人類学演習Bの大久保のこと。
更には、宮腰教授、平川のこと。
そして西脇のこと……。
結局大久保も、宮腰教授と平川の行方は知らない、と言っていた。
そして、長谷教授や人文学部の職員が言っていたように、この手の「失踪」は、宮腰教授にはよくあることなのだ、という。
他方、大久保による平川評は、「とにかくすごいんです」の一点張りだった。
「大学院生の自分よりはるかにものを知っている」
「語学力もあるし、ジェスチャーも上手い。日本人離れしてる」
「日本の古文書の類いなら、大抵すらすらと読めてしまう」
「ぼくが卒論で研究したテーマのことも、今修論で取り組んでいるテーマについても、当のぼくよりずっと詳しい」
「あれで学部の二年生かと思うとそらおそろしい」
「彼は絶対に将来、一流の研究者になる」
これらすべてに、「とにかくすごいんです」が枕詞のように付きまとった。
聴いている方はいささかうんざりするくらい。
そして、最後の彼の平川評は、「宮腰教授には、もちろん弟子がたくさんいるのだけれど、『最初で最後の自分の跡継ぎ』みたいに彼のことを位置づけているのじゃないかな?」というものだった。大学院生としてのプライドもあるだろうに、ここまで言わねばならないということは、本当に「とにかくすごい」のだろう。
しかし、井川恵については、ぼくもよく知らないんです、とだけ。
平川と付き合っていたのか?──という問いにも、そんなふうに見えるかも知れない、っていうぐらいですよ──というコメントに止まった。
肝心な手掛かりは、具体的には何も得られなかったと言っていい。
だがこれは、平川が宮腰教授とどこかで『研究活動』に勤しんでいる可能性が高いことを、色濃くしたことも確かだった。
そしてその推理が確かなら、彼が犯人ではない、ということに繋がる。
自分の知っている人間が「犯人」である可能性が少しでも低くなったことは、千春にとってはそれだけで、たいした収穫だった。
そして、その大久保への聴き込み後、盗聴器についても検討した。
盗聴器を仕掛けた犯人と、殺人事件の「犯人」がもし同じだとしたならば(違う可能性の方が低いと思うが)、そして、「犯人」が犯行前に、千春が眠っているかどうかを知るために室内の状況を盗聴していたとしたら、一〇月三〇日の千春のサンプラーを駆使した「一人芝居」は効果があったことになる、ということを確認した。
もっとも、もし犯人がずっと盗聴し続けていたとしたら、突然男性が室内に出現したことになる、という懸念もあった。千春は独り言が多い方ではないので、そのあたりは大丈夫だと思うが──。
ただ、これには一つ、懸念を打ち消せないまでも、可能性を低く見積もらせる、ある推測が成り立つと西脇は言った。
盗聴器は「独立」していた。
ならば電源を十分に確保できてないはずだ──と。
であれば、設置されたのはごく最近で、かつ常時電波を発信していた可能性はそう高くない。むしろ、遠隔で電源を入れ、自分の聴きたい短時間だけ盗聴していたのではないか、と。
そうは言っても、フラグメントは、犯人が千春を、計画的かつ周到に殺そうとしていたことを示している。
仮に、あの「連続殺人」とは無関係の全然別人の仕業だった場合は、かなり重度なストーカー的なヤツか盗聴マニアが、千春の周辺にいる、ということになる。そんな着想を突き詰めると、もしそんなストーカーがいるとして、いつもいつも千春のことを尾けまわしている、としたら、千春が仮に殺されたとき、そのストーカーが目撃者になってくれるだろうか──などと、なんとも奇妙な考えが浮かんできたりもした。
でも。
「目撃者」は本当にいるかも知れないのか──。
西脇がドアチェーンの問題でいみじくも言っていたが、何しろ情報が少なすぎる。
警察の捜査はちゃんと進んでいるのだろうか?
考えれば考えるほど、客観的には起きていない千春の件がネックだった。
もし、千春が「夢」の通りに殺されていて、井川恵が自殺と言えなくもない状況で亡くなっていたら。
三日連続で三件も、狭い範囲で若い女性の「変死」が相次げば、警察の中でも誰かが、おかしいと思ってくれたのではないか。
それが今は、「自殺」と「殺人」で完全に別扱い。
そこには、「若い女性」という以外に何ら共通点がないのだから無理からぬところだが、これを千春が繋いだだけで、相当に景色が違って見える。
千春は、警察の地道な捜査の成功を、心の底から期待していた。
別に西脇と組んで警察の捜査を出し抜こうという気は全くないし、正直、犯人──つまり盗聴器の犯人も、殺人事件の「犯人」もそれが同一人物であれ別人であれ、両方捕まってくれればそれでいいのだ。
千春の身の安全が保障されるのなら。
今日も早く寝た方がいいよね──。
消灯し、布団の中に潜り込む。
もう一一月、結構涼しい。
一昨夜は美月が横にいたから温かかったが、今日は独り。
思わず体を小さく丸めてしまう。
きっと、すぐ眠れるよ──。
そう何度となく、心の中で自分に言い聞かせる。
今晩も、一応例の「夢」を見たときのために、素早く出動できるような装備を準備してある。
あとはもう眠るだけなのだ。
目を閉じる。
ここは西脇のマンション。
セキュリティもしっかりしている。
少なくとも、今晩殺されることはないだろう。
それなのに、この不安は、一体──。
目をギュッと瞑る。
布団をちゃんとかぶっているのに、なぜか背中に風を感じるような気がする。
寒気がする──。
昨晩はほとんど寝ていないというのに、何だか眠れるような気がしない。
(なんなの? いったい)
得体の知れない不安に抱かれながら数十分後、千春は不安とともに眠りについた。
それはちょうど、日付が変わる頃──。
◆ Meanwhile "Adversary"
今日も帰って来ないのか?
あの男は誰なんだ?
彼女とはどういう関係なんだ?
この二通の手紙の主は一体誰なんだ?
彼女は一体、何者なんだ?
今晩も、「奴」は来るのか?
…………。
◇
どうして、どうしてこんな──。
目の前で起きている現実に目を背けたい。
しかし、現実は決して待ってはくれない。それは十分分かっているのだ。
冷静にならなければ、冷静に──。
何とか、強引にでも心を落ち着かせる。
それに成功すれば、自ずと自らのとるべき行動が明確になって来るはずだ。
時間が経つにつれ、冷静さを確実に取り戻す。
時間はたっぷりあるというわけではないが、決して足りない、というほど短いものでもない。
──何とかなる。
冷静に考える。
冷静に、冷静に、冷静に!──。
ある瞬間、一つの道筋が見えたような、そんな気がした。
気づいたら、まるで何かに導かれるように、次々と「的確」な行動を起こしていた。
平川武司:#1 国立Y大学人文学部人文学科2年生。20歳。184cm、82kg。
学科は違うが学部が同じということで千春と知り合い、自らの援助を餌に「古文書学」の履修を進めたことで結果的に千春を苦しめた張本人。
見た目は体育会系っぽいし、実際そう見えるほどに体格も良く身体も鍛えているが、学部生としては破格なレベルの古文の読解能力を持ち、知識も深くて豊富な文系男子。その実力は、草書体で書かれた原典も大概のものは読めてしまうほど。
「オカルト研究会」所属で、どうやら交際相手がいるらしい。400ccのバイクも持っている。




