第五章 一一月〇二日(月)#4
◆ 3
法学部長、長谷政子の口利きがあっても、人文学部の事務局はあまり協力的になってはくれなかった。
長谷が二人に紹介してくれた伊藤という法学部の職員は協力的だったが、その伊藤が紹介した人文学部の職員が協力的ではなかったのだ。
──教授室に無断で入ることは許されておりません。
──あたしが立ち会う? ダメダメ、そんなの、冗談じゃないわ!
──ゼミのメンバー?
『文化人類学演習B』?
それはプライバシーの、いえ、いくら長谷教授の紹介があったって……何かあったら、あたしの責任に──。
──宮腰教授の居場所? そんなこと、こっちが聞きたいぐらい──ああっ、いけない。
粘り強く交渉すること何と一時間余り、ようやく漢字と数字がわずかに並ぶ一枚の紙を手に入れることができた。
「オカルト研究会」については事務局では把握してないらしいことはわかったので、丁重に丁重にこれでもかというぐらい丁重に二人は礼を述べて、事務局を出た。
伊藤女史には迷惑をかけてしまったが、向こうも恐縮していた。
千春は重ね重ね申し訳ないと、そう思った。
紙に書かれている名前は井川恵と平川武司を含みたったの六人。
宮腰ゼミのメンバーの一覧である。
二人を除く四人のうち、二人はすぐに見つけ出すことができ、そのまま残りのメンバーの連絡先を入手することもできたが、その二人とも、宮腰教授のことも平川のことについても、居場所はおろか連絡先も全く分からない、と言った。
ただ、一一月一週目までは少なくとも休みにするから──という電話が、宮腰から夏休み中、かかって来てはいたらしい。
研究テーマなどについても訊ねてみたが、一人は既にユーレイゼミ生を決め込むつもりでいたらしくて「俺じゃよくわかんねえよ」、もう一人も「そういう質問なら、私より平川君か大久保さんに訊いた方がいいと思いますよ」との返答だった。千春たちの行動を訝しく思ったので警戒して、というふうではなく、むしろ「無関心」と言える応対ぶりだった。
警察の捜査も、実は似たようなものなのかも知れない。
千春はそんなふうに思った。
とても推理ドラマのように最短コースは進めそうにない。
地道にいろいろ聴き回って、それで価値があるかないかよく判らない情報を拾い上げて拾い上げて、その中から砂金を見つけるくらい大変な作業──なのだろう。
現実は甘くない。
自分の無力さがよく分かる。
「大久保さん、か。大学院生なんだな。彼と連絡をとりたいな」
西脇は、千春と違って、粘り強く捜査をすることにそれほどの苦痛を感じてはいないようだった。
一つの思いが、千春の頭に再び浮かんでくる。
(どうして彼は、私のこと──いえ、今回の事件について、こんなにも親身になって協力してくれるの?)
大学を離れたのは、もう夕方五時近くなってからだった。
結局、今日の捜査ではあまり有効な情報を得ることはできず、二人からは疲労の色が見え隠れしていた。
千春は、着替えを取りに帰るため、一度自宅ワンルームに戻って来ていた。「着替えを取りに帰る」ということは、当然余所へ泊まる、ということだ。
大学を出る直前に、千春たちは、依然つかまっていなかった「大久保さん」を含む二人の文化人類学Bのゼミ生に電話をかけた。
しかし「大久保さん」には繋がらず、もう一人の方は連絡はとれたが「何も知らない」とのことだった。
だからというわけではないが、西脇にとっての「三つの新事実」を加えた事件の「再検討」と、二人での「大久保さん」との電話による事情聴取のため──という千春の表向きの希望もあって、千春が再び、今度は単独で、西脇のマンションに厄介になることが決まったのだった。
もちろん本音は、もう自分のワンルームで独りではいたくない、
特に午前二時半頃は──である。
西脇は今、千春のワンルームマンションの建物の入口で、一人、千春が出てくるのを待ってくれている。
あまり待たせるのも悪い。
そう思った千春であったが、ここで一つの考えが浮かんでしまった。
もし犯人が、今晩ここにやって来たとしたら──。
(トラップを作ろう)
千春が今晩西脇のマンションに泊まることは、千春と西脇以外の人間は知らないことだ。当然、「犯人」はそんなこと知る由もないはず。だからこそ、「犯人」が引き続き千春を狙うことがあるのなら、今晩ここに来る可能性はある、と言える。
逆に、盗聴器を外したことによって千春の動向を外から探ることができなくなった「犯人」は、用心してもう現れないかも知れない。
その可能性も低くはないと思うし、それならそれでもちろんいい。
しかしそれでももし、「犯人」がここに来たとしたら。
そんなことは当然あってほしくはない。
でも──。
(私がここにいなかったら、犯人は驚くだろうか?)
千春の考えたトラップは、非常に原始的で単純なものだ。
「犯人」には、鍵を開ける能力があるらしいことが、今までの事件から推理できていた。
少なくとも千春のマンションの家の鍵は開けられる。これは間違いないのだろう。
だから、鍵に細工はしない。
その代わり、ドアに細工する。
どんな凄腕の泥棒だって、殺し屋だって、正面のドアしか入口がなければ、ドアを開けなければ──百歩譲ったって、ドアを壊さなければ、室内に入り込むことは不可能なのだ。
ならば──。
まず、室内から、千春自身の髪の毛を拾う。かなりのロングなので、他人のものと見間違うことはまずない。それを、軽く右腕に巻き付ける。
次に、セロハンテープを二枚切らなければならない。
指紋がつかないように爪の端で先端を引っ張り、ギザギザのついた金具の歯を慎重に使いながら。
それも、一枚目は右手の人差し指と親指を使って、二枚目は中指と親指を使って切断し、それぞれ人差し指と中指の爪につけたままにする。そして更に、そのセロハンテープの元のロールの目立たないところにわずかな印をつけ、金具を外して抽斗の中に放り込む。
そして、左手で着替えと筆記用具その他の入った普通の女性用のものよりはだいぶ大きめのショルダーバッグ(スポーツ用)を持ち上げて左肩にかける。
これで準備完了だ。
内側からドアを開け部屋を出る。
ドアを閉める前に、右腕に巻いてある毛髪を左手で取り出し、ほんの少し毛先が見える程度に先端が出るようにして、ドアの高さからして低い位置でドアと壁の間に挟み込む。
髪の毛は動かない。
試しにドアを開くと、果たして髪の毛はひらりと落下した。
完璧だ。
もう一度その毛髪を拾い上げ、同じ動作を繰り返す。
次に、閉められているドアの一番下の部分と、ドアと接している壁の部分にまたがるように──つまり閉められたドアと壁の接地面は、縦に線が入ったように見えるわけだが、その線の上を垂直に横切るように、テープを一枚貼る。しかも強くだ。
もう一枚はドアの上の部分に同じように。
つまり、上下に一枚ずつ貼るのである。
もし、今まで通り「犯人」が深夜に来たとしたら、周りの暗さもあって、これを見つけるのはやや難しいだろう。
また強く貼り付けたので、音で気づかれることはあるかも知れないが、しかしその分、一度剥がれれば粘着力も不自然に落ちることになるだろうし、自然に元に戻る可能性を払拭できる。剥がれた跡も残るだろう。
犯人がトラップを「原状回復」しない限り。
しかし、仮に「原状回復」されたとしても、そうされたことが千春に判ればそれでよい。
そのために髪の毛を挟んだのだし、室内のセロテープに印をつけたのだ。
犯人が、強力な粘着テープならともかく、セロテープを予め用意しているとは思えない。なら、このトラップに気づいた場合でも、原状回復の必要性に気づいたならば、当然室内のものを使ってそれを行うだろう。それに、セロテープは手袋をしたままじゃ扱いが難しい。「犯人」が素手でテープを扱った場合、指紋を残す可能性さえ生む。そうなればしめたものだ。
三重、いや四重のトラップの完成である。
千春が意気揚々と外に出たとき、西脇はそこにはいなかった。
バイクは置かれたままだったので、遠くへは行ってないのだろうが、トイレだろうか?
しばらくキョロキョロと辺りを見回してみると、千春のマンションの、道路を挟んで向かいにある建物から西脇が出て来た。
「どうかしたんですか?」
本当は、なかなか部屋から出て来なかった千春が言われるべき言葉を、当の千春が言うことになるとは、世の中不思議なものだ。
「あとで説明するよ。それじゃ、行こうか」
またしても、千春に対しては何の文句も飛んで来ない。
千春が西脇の立場だったなら、きっともう何度か、少なくとも小さな爆発くらいはしているだろう。
いや、それ以前に、こんな女に協力なんてしてるだろうか?
◆ Meanwhile "Police"
「念のためだ」
関本は、あの憎たらしい女、早野千春の住むワンルームマンションの入口近くで車を停めた。
助手席に座っていた、先週の土曜日に初めて会ったばかりの「同僚」、M署刑事課の水林警部補が車を降りる。
階級は巡査部長の関本より上だが、自分の方が先輩で年は同い年。それに加え、かなしいかなルックス面でも、つまり顔もスタイルも水林の方が上で、学歴も上だ。
はっきり言って、関本からすれば「いけ好かない」男である。
そんな水林がこんなところで降りるのは、早野千春がちゃんと帰宅しているかどうかを調べるためだった。
当の事件の方は、早野千春以外に「有力容疑者」が浮上したため、捜査本部としては彼女の嫌疑はひとまず保留、ということになっている。
だが水林は、依然あの女は何か知っているように見える、といってはばからない。
確かに本部にも、早野千春とその「有力容疑者」である重要参考人の「男」の間には、「関係がある」、という報告が入って来ている。だが逆に、早野千春がその「男」の行方を知らないらしいという確度の高い情報も、同時に入って来ていた。
関本には、彼女が警察に好い印象を持っていないように思えていた。
強面でならす関本だが、早野千春のような若い美人、しかも、普通なら事件なんかに関わっていそうもないような利発そうな女性に嫌われるのは、あまり嬉しいことではない。だが、彼女はおそらく、次に関本の顔を見たら、相当嫌な顔をするに違いない。
しかもそれだけじゃない。
彼女はこの「いけ好かない」水林には、好意とまではいかなくとも、好感を持っているようには見える。女性と接するのは赤ん坊をあやすのと同じくらい苦手な関本だが、そのくらいの勘ははたらく。
まったく、世の中間違ってるぜ──。
彼女の部屋まで行くのかと思ったら、水林はすぐに戻ってきた。
「早いですね」
階級が上なので、一応敬語を使う。
だが、関本にも『自分の方が先輩で、しかも捜査一課の刑事だ』というプライドがある。その言葉には、何しに行ったんですか? 自分はアンタの運転手じゃないんですがね──という皮肉が込められていた。
そんな関本の心の内を知ってか知らずか、水林はいつもと同じくクールに応える。
これがまた気に入らない。
「バイクがあるか見に行ったのさ。駐輪場にきっちり置いてあった。あれなら、おそらく家にいるか、外出してても近くのコンビニ程度だろう。平川と会ってる可能性はまずないな」
「電車かバスを使ったとしたら?」
「自動二輪を持ってて、そんなもの使うか?」
「ごもっともで」
使ってもいいじゃないか──というのは負け惜しみに近い。
関本は、それ以上何も言わずに車を出した。
それにしても、二五〇CCのスクーターが、あんな単身者用のワンルームマンションの前に停めてあったのには少し驚いた。
多少年配の男性以外、ふつうあんなモノには乗らない。
(援助交際──とかだったりしてな?)
そんなふうに思ったが、「いけ好かない」水林に話しかけるのもどうかと思ってそのまま黙っている。
そして間もなく、車はM署へ到着した。
さて、重要参考人『平川武司』の行方は、掴めているだろうか。
◆ 4
西脇はすっかり考え込んでしまっていた。
一一月一日の午前二時半に千春が見た「夢」、ドアチェーン。
千春は、西脇が考えて込んでいる間に料理を作ってしまおうと、キッチンに立っていた。モノの配置が整然としているシステムキッチンである。
料理すべきメニューは決まっていた。
このマンションに戻ってくる前に、近くのスーパーに二人で買い物に行って、二人で材料を買い揃えてきたのだが、こんな経験はこれまた初めて。
昔、高校時代、恋人と二人で過ごす──ということも、千春の今の年齢からすれば、決して短いとは言えない期間、一応あった。
特別プラトニックな関係だったつもりはないが、お金があったわけでもないから、結果的に、バンド活動流れで一緒に帰ったり、帰りの途中で寄った公園でちょっと話し込んだりする程度のことが多かった。
基本的にバイトで忙しく、休養も必要になる関係で、バイトも練習もない日でも、やって「お家デート」がせいぜい。もちろん、場所は一人暮らしだった千春の家。
でも、当時の恋人は家事に協力的とはお世辞にも言い難い人間で、結局家事をするとしたら、休養をより要するはずの千春の方になり、今よりも精神的に余裕がなかった千春は、私はアンタの母親でも召使いでも家政婦でもない!──と、何度かブチ切れてケンカになった経験さえしていた(一応弁護しておくと、パシリはしてくれていた)。
それが今回は、二人でメニューを決め、材料を揃え、二人で料理するつもりで、カレ(!)の家に来たのだ。
西脇が料理上手なのは分かっていたし、千春も自分の作る料理を男の人に食べてもらうのは久しぶりになるので、密かにドキドキしているのだ。
何となく浮ついた気分になるのも仕方ないこと──だと思っていたのだが。
千春が料理作業に入る前に、「今日の検討課題」についておさらいしてしまったのが運の尽き。
西脇が長考モードに入ってしまった。
千春にしてみればやや残念だったのだが、もともと千春のために、西脇はいろいろと協力してくれているのである。あまり我が儘ばかり言っているワケにはいかない。
むしろ、千春の立場では、少なくとも滞在させてもらう期間中くらいは、食事を進んで作るぐらいの「恩返し」をしても何らバチは当たらない状況である。
むしろ能力的に可能なら、積極的に「恩返し」すべき。
今日のメニューはきのこの炊き込み御飯と、さつま汁、揚げ出し豆腐と野菜たっぷり生ハムサラダ。栄養価的には十分に優れているメニューである。
使用する野菜が多いため仕込みにやや手間がかかり、材料面からだけ言えば、自分一人で食べるなら、ちょっと作るのに躊躇うようなメニューだ。
が、野菜さえ処理できるなら、難易度は低い。
お米をといで炊飯器にセットし、野菜を包丁で次々と手際よく切っていく。
よく、使い慣れた包丁でないと上手くいかないというが、それは気にならなかった。
ニンジン、里芋、ゴボウ、大根、豆腐、それにサラダのレタス、トマト、キュウリ、タマネギ……更に、豚バラ肉、きのこ各種、味噌、ダシの素を次々と使用可能な状態にしていく。
手際良く料理をしていく千春が視線を感じたのは、実際に西脇がその風景を眺め始めてから五分以上経ってからだった。
わっ、び、びっくりした~、と戯けてみせる。
「手際いいなあ。驚いた。思わず見とれちゃったよ」
西脇が、一人でやらせちゃってごめんね──と厨房に入って来ようとするのを丁重に追い返し、再び料理に取りかかる。
……顔を合わせるのが恥ずかしくて、後ろを振り返れない千春がそこにいた。
盛り付けが完了して、それをダイニングへと運ぶ。
西脇は一通りの「作業」が終わったらしく、照れたようなはにかんだような表情で、神妙に席に座っていた。
だから千春は、向かい合って座るのはなんだか照れ臭いな、と思いながらも、向かい合って座ることができるように料理を並べていった。
(結婚生活って、こんなカンジなのかな?)
そう思うと、元来感情が表に出やすいと自覚しているだけに、必要以上に「余裕」な態度をとろうとして、余計ぎこちなくなってしまう。
味の方はそれなりに自信があるつもりだが、相手は一人暮らし歴一〇年を大幅に越える強豪だ。油断はできまい。
席について、二人して「いただきます」をしてからも、西脇が一通り箸をつけて、感想を一言でも述べてくれない限りは、とても自分から料理に箸をつける気にはなれなかった。
「何見てんの? もう……食べにくいなあ」
西脇は笑顔だ。その様子から、千春の気持ちを一〇〇パーセント見抜いたようで、一口ずつだが、淡々と、しかし頷きながら、箸をつけていった。
「さすが、美味いよこれ。全部イケてるけど、特にさつま汁がいいなあ。野菜の煮込み具合が最高だね。短時間だったのに、上手く火を通せてる。
サラダも、野菜の大きさがちょうどいいし、揚げ出し豆腐なんてすごい久しぶり」
嬉しかった。
今年一番。たぶん。
「それにしても、何か、差し向かいって、照れるね」
西脇も心なしか顔が赤い。
しかし、千春は自分がもっと赤くなっていることを自覚していた。
もともとこういうことに、あまり免疫がないのだから仕方のないことなのだが。
このとき、千春は一つのことに気がついた。
気づかされた、と言った方がいいのかも知れない。
それは、自分が『平凡な、温かい家庭』に強い憧れを持っている、という事実だった。
「ドアチェーンの問題だけどね」
夕食後、リビングにて。
千春と西脇は、L字に置かれている両辺に、ほぼガラステーブル越しに向かう形で座っている。
これまで、テレビのニュースでもスポーツ新聞などの記事でも、このドアチェーンの問題については、全く論じられていなかった。それどころか、現場となったさえぐさゆみえのマンションのドアに、チェーンがついているのかドアガードがついているのか、その別についても全く報道されていなかった。
「まず、前提問題から考えなくちゃならない。
僕は、学生時代から女性の友人が少ないんでね、特に一人暮らしとなると──つまりその、一人暮らしの女性みんながみんな、ドアチェーンを掛けて寝たりするもんなのかどうかがまず分からないんだ。
どのくらい普段から警戒心を持って生活してるのか?
案外テレビなんかを見てると、近場にちょっと出かけるくらいなら鍵さえかけないこともある、っていう話だって聴くしね。個人的にはすごく不用心だと思うし、僕の知ってる数少ない人も警戒心が強い方だったから、そういうのが普通だって思ってるんだけど。それでいいかな?
ウチみたいなマンションならオートロックだし、防犯カメラも結構な数あるし、管理人も常駐してるからセキュリティは何もしなくてもある程度保たれたれていることになるんだけど、でも、僕なんかは、まあ立場上の問題もあって、必ずドアガードはかけてる。出かけるときだって、間違っても鍵をかけないなんてことはない。
個々人の心がけの問題だとは思うんだけどね」
これは個人差が大きいだろう。
だが、千春は自分の経験から、やはり警戒心を強く持っていることを口にした。
「そうですね、女性だからどう、というのは、言えないと思います。けど、やっぱり一般的には、女性は大抵、少なくとも家に独りでいるときは、チェーンを掛けてると思います。
私も、基本的に、ずっとそうです。
夏場でも、開けっ放しにすることはありません。チェーンを掛けていてもです。
私、中三のときから一人暮らしをしてますが、近所で痴漢事件が頻発したことがあったんです。そのとき以来、起きてるときでも、心細くて、ドアチェーンを掛けないでいることなんてできなくなりました。
でも、現実には、確かにいろんな事件が起きてますよね。女性は一階に住むのは避けた方がいい、っていいますけど……あ、でも、逆に却って、男性と一緒に住んでたりなんかする方が、ガードは甘くなるかも知れませんよね。合鍵を使っても中に入れなくなりますし。そういうことはあるかもしれません」
「うん、それはそうだと思うね。僕の知ってる人も、今ではすっかり日の当たる呼び名になった『ストーカー』ってヤツに付きまとわれて以来、ドアチェーンがあったって不安でしょうがないって言ってたからなぁ……。
ベランダや外に出れる窓があったら、それだけで結構ヤバイ。ごく稀だと思うけど、屋上から降りてくる『特殊部隊なヤツ』もいないとは限らない。ガラスなんて余程いいのを入れてないと、割る気があれば簡単に破ることができる。一階が危ないのはそれはそう思うね。
でもまあ、そうだね。ドアチェーンやドアガードは掛かっていた、ということを前提に話を進めよう。
さえぐさゆみえさんの事件では、「遺書はなかった」っていう話だよね。『報道』では。
しかも、自殺する動機も見当たらない、ってまで言われてるのに、あんなに早い段階で、しかも、自殺と断定するような報じ方をしてた。これは、ニュースなんかでは直接は出して来てないけど、たぶんドアチェーンやドアガードが掛かっていたからだと思うんだ。
しかも、さえぐさゆみえさんが住んでたのはマンションの六階で最上階らしいから、さっきの『特殊部隊なヤツ』みたいのを、警察が考えないはずがない。にもかかわらず、その可能性についても誰も問題にしていない。ということは、その可能性を論じる必要がないということ。
なかったんだろうね、何も。
しかも、早野さんも『襲われている』わけだし」
「…………」
しかし、現実には千春は襲われていない。
井川恵の事件については、大学の学生部棟の部屋にドアチェーンなどあるはずもなく、現実に問題になるのはさえぐさゆみえの事件だけである。
それだけに、断定する材料としてはやや弱い。
そもそも、千春が狙われている、と言うこと自体が、現実的には仮説なのだ。
ただ、その千春は、ドアチェーンを日常的にかけていた。
あの「夢」では、犯人はそれをかいくぐった。
「さっきからずっと考えてたんだけど」
西脇は、そう前置きしたあと、ゆっくりしたテンポで話し出した。
「ドアチェーンやドアガードを外から外すやり方って、あるんじゃないかな、って思うんだ。いくつか考えてみた。本当に実行できるのかどうかはやってみないと判らないけどね。
詳しくは、明日さえぐさゆみえさんの部屋に行ってみてから検討したいことだけど」
そう。
明日は、昨日さえぐさゆみえの母、芳恵と約束した日である。
文化の日なので、大学のことは心配しなくてもいい。
千春はその状況に正直ホッとしていたが、そういえば、明日は美月の通う高校の文化祭ではなかったか。
そういえば今日だって──美月はそのことを土曜日には言わなかったが、確かそうだったはずだ。
(悪いことしたかな──)
「ドアチェーンを外すやり方で、今、考えられる方法をちょっと検討してみようか。
一つは、一番簡単かつ乱暴な方法、『切断』だ。
警察なんかは、いわゆる密室自殺のときとか、ドアチェーンを切断して中に入るっていうよね。乱暴だけど、一番確実な方法だ。
二つ目は、その家の主が留守の間に忍び込み、チェーンに細工しておくやり方。チェーンがワイヤー状のモノでなく輪っかをいくつも繋げてあるオーソドックスなチェーン状のモノなら、その輪っかの一つに、知恵の輪のように外せるような隙間を作っておけばいい。
三つ目。ドアチェーンを、ドアチェーンの役割を失わせるぐらいの長さを持ったチェーンに、チェーンごとつけ替えてしまう方法。
そして四つ目。昔、現実にこんな事件があったことがある。それは、簡単に言えば盗撮だったんだけど、あのドアにある、内側からしか見ることができないのぞき窓、確か『マジックアイ』とか言ったっけか。あれは、最近製造されたドアにあるものはそうでもないんだけど、昔のヤツは結構いい加減に作られていたらしくてね、簡単に外から外せたみたいなんだ。そして、その盗撮犯は、その小さなのぞき窓から盗撮を繰り返した。被害は確か、三〇〇件とか、とにかく途方もない数だった。
物件的に少し昔のものであれば、こういう場合も考えられる。
だとすると、ドアの内側の構造さえある程度把握してれば、ちょっと長めの強度のある針金かなんかを巧く使えば、ドアチェーンを外すことぐらいそう難しいことじゃないかも知れない。
今考えられるのは、こんなもんかな」
ソファーの間に置かれているテーブルの上には、麦茶の入ったグラスが二つある。
西脇が自分の麦茶を飲む間、千春は自分の意思を表明する準備をしていた。
そして、その準備が整うのに、多くの時間を要さなかった。
「おっと、もう一つあった。
五つ目。中の人に外してもらうこと。これがある意味、一番確実な方法だね。
問題外と言っていい一つ目や、中の人物の協力なしには達成できない五つ目ともかく、二つ目、三つ目、四つ目の方法なら、外からドアチェーンを掛けることだって、不可能ではない。
ま、二つ目の方法も三つ目の方法も、警察がちゃんと調べれば簡単にバレちまう問題だとは思うけどね。
でも、初動捜査で気づかなかったとしたら、あるいは──」
「そんなことが、現実にあり得るとしたら」
千春が心細げに問う。
まず、『犯人』は、基本的に鍵を開ける能力を持っている人間だ。
だから、例えば同じマンションの別の部屋から、全く同じ年式のチェーンを盗むこともできる。
チェーンを盗むことができれば、細工もできる可能性がある。器用な人間なら、二つのチェーンを盗み、ドアをある程度開けた状態からでも外せるところまで、チェーンを延長することだってできるかも知れない。
初動捜査で気づかないレベルなら、きっと住人も気づかない。もはや個人レベルでは、そうした細工があったことを見破ることは非常に困難だ、と言わざるを得ない。
「そんな顔しないで」
西脇は心配そうにそう言うと、すぐにキリリとした表情になった。
「すべては情報不足だ。だからあれこれ想像を言うしかない。妄想、って言ってもいいかもね。
今僕が展開した仮説は、多分どれも当たってないと思う。実際はね。
さっき言った中では、四つ目の仮説が一番可能性が高いような気がするけどね、僕は。でも、実際やるとしたら、どうかなあ」
相当訓練しないと時間がかかるだろうけど、絶対あやしいし、失敗したら痕跡が残るだろうし、難しいだろうな──とどこか惚けた口調で呟いた。
次に、一一月一日の『夢』について、話題が移った。
「手紙、じゃないでしょうか?」
「テガミ?」
あの、『コトン』という音だ。
「そうです。あの視点は、ウチのマンションの入口のポストを、じっと見てたような気がします。で、人が来ると隠れてた」
「でも、ポストにはそんなもの、なかったんでしょう?」
「そうですが」
「……ん、あれっ!?」
西脇が多少動揺を見せた。何か感づいたらしい。
「その視点って、斜め下の方を見てたんだよね?」
「視点がですか?」
「そう」
「……はい」
「それって、斜め──左下、くらいの位置関係になる?」
「え? ……は、はい。そんな、感じ、ですけど」
千春は一瞬、息が詰まったかと思った。
西脇の指摘は、千春の夢の風景を的確に捉えていたのだ。
千春さえ、指摘されるまで、明確に意識してはいなかったことなのに。
「だったら」
西脇は、いよいよ、何か掴んだらしい。
思わず千春の体が前のめりになる。
「早野さん。君のマンションの向かいの建物の、二階に住んでいる奴に、知り合いって、いる?」
「え? い、いませんけど……な、何かあったんですか?」
もう一度考えてみたが、いない。
「今日、早野さん家に行ったとき、すごい形相で、たぶんまだ若い──男に睨まれたんだ。窓越しにね。
だから、これはただごとでもないかもって思って、一応、部屋の前までは行ってみたんだけど、チャイム鳴らしても応答がなかった」
そういえば、千春が建物から出たとき、西脇が向かいの建物から出て来るところを千春も目撃していた。
なるほど、そういうことか。
「これは明日、行ってみた方がいいかも知れないな。ま、過度の期待は禁物だけど」
西脇は慎重になっているが、しかし、これはすごく重要なことなのかも知れなかった。
千春たちの仮説のそもそもの根拠は、千春の見た「夢」である。
そして、この「向かいの建物の若い男」の視点で「昨日の午前二時半の『夢』」を見ていたのだとしたら、その男が「犯人」である可能性も、十分高い、ということになるのかも知れない。
そもそも、事件の「夢」三つについて、同一「犯人」の仕業だという見方に立てば、これは当然の帰結である。警察では絶対にたどり着けない論理展開だ。
(これで本当に解決なら、いいんだけど)
世の中、そんなに甘くはない。そんなふうに思えて仕方がない。
もともと仮説に次ぐ仮説による帰結だし、なんとなく、それまでの三つの「夢」と、四回目の「夢」の印象の違いが、千春をも、より慎重に考えるようにさせていた。
(信じるものは救われる──か)
とりあえず、やるだけやってみよう。
兄、伸一の座右の銘を思い出しつつ、千春は心に誓った。
さえぐさゆみえ:本名、三枝祐美恵。ファッションモデル。Yデザイン専門学校1年生。19歳。165cm、46kg。デザイナーになることを夢見て、小田原から横浜に引っ越し、専門学校に通っていた。一人暮らし。
4月早々、みなとみらいを歩いているときにスカウトされたことがきっかけでモデルとしてデビューし、半年も経たずに上昇気流に乗った。いわゆるグラビアモデルというよりはファッションモデルとして活動。本格的なファッションモデルとしては身長が足りず、頭身も高くはないが、逆にその普通さが世間には受けて、女性誌でのみの活動ながら人気があった。
10月29日(木)未明、自宅の窓から転落死。遺書はなかったが、警察は自殺と判断。
本人はモデルとしての活動にはそれほど興味はなく、デザイナーになることにプラスになれば、くらいに思っていた。それが逆に、モデルとしての仕事が忙しくなり、思うようにデザインの勉強ができないことに悩んではいた。が、全体的には充実したプライベートを送っており、「自殺」する動機は全くなかった、とされる。




