第一章 一〇月二九日(木)#1
◆ 1
階段を上って行く。
ゆっくりと、一歩一歩確実に。
ふと、笑みがこぼれたような感覚を覚えた。(……?)
長い長い階段を上り切る。息は切れていない。
誰にも会わなかった。予定通りだ。(……予定?──)
階段のすぐそばの部屋、七〇一号室の前に立つ。(……六階の、一番隅の部屋──)
奇妙な感覚に捕らわれながら、それがなんとなく気持ちいい。
自然と自分が、笑っているのに気づく。(……私? いや、何?……何なの?──)
……いよいよだ。
突然視界が大きく歪む。視野全体が渦のようになり、明確な像を一切結ばなくなっていく。それどころか、ブラックホールのように中央に像が吸い込まれていき、そしていつの間にか、目の前が真っ白に変わり──。
手が、ノブへと伸びる。(……この手は?──)
胸の高鳴りを感じる。
手に汗握るとはこんな感じのことを言うのだろうか。そんな期待を胸に、しかし落ち着いて、ノブを回す。
あっけないくらい簡単に回る。
時は深夜、静かな場所だ。いくらこの時間帯、この近辺に人影がないからといって、必要以上に音を立てることはない。
問題は、中にいるこの部屋の主に気づかれずに中に入ることだけだ。
大丈夫、必ず、成功する。(……やめて──)
ドアを開き、静かに中に入った。
以前来たときと一つのことを除いては、何ら変わらぬ、彼女の部屋。(……以前、来たとき? 彼女の、部屋?──)
……ついに、ここまで来たのだ!(……!!)
ドアを静かに閉めると、この部屋の中を照らす明かりは、閉じられた遮光カーテンを通した、ただでさえ弱々しい貧弱なものだけになるはずだった。
一応ペンライトは持って来ていたが、しかしそれはどうやら使わずに済みそうだ。夜にここに来たのは初めてだが、デジタル時計の数字が光を放っているせいで意外と明るい。だんだんと目が慣れてきた。
無意識にベッドの方を見る。すっかり寝入っているようだ。
改めて視線を室内に戻す。息を潜め、目が完全に慣れるまで待つ。
しばらくして、ある程度細かいところまで把握できるようになる。
入口から中を見ると、左奥から机、椅子のスペースがあって、机の上にはパソコンが置かれているのが判る。更に玄関側にはベッドが横置きに置いてある。
独特なレイアウトだ。
右奥からは本棚、ステレオセット、テレビ、ビデオデッキ、洋服吊り。
それらを見渡したあと、初めてベッドの方をじっくりと見た。
相変わらずの、長い髪、だ。(……!?)
掛け布団によって隠されているので、顔をはっきりと見ることはできない。しかし、この長い髪、お団子状に纏められた長い髪が、この人物の確かな特定をしていた。(……髪を──お団子に?──)
フフッと笑ったような感覚に襲われ、背筋が寒くなる。(……私は!?──)
(!!──)
左頬の筋肉が持ち上がる。
腕時計を見る。
夜光塗料のせいで、うっすらとだが時刻が分かる。
二時二九分──。
いつも正確に時刻は合わせてある。
左頬の筋肉が更に持ち上がる。
彼女が眠るベッドを左手に見ながら、ベランダのない大きな窓の方に向かう。
大きさは十分だ。女一人くらいゆうに通り抜けられる。
持ち上がった頬の筋肉が、今度は引き締まった。(──一体何を……? ここは……どこ──!?)
カーテンを乱暴に開ける。
そして窓も。
「ううん……」
彼女、この部屋の住人が目を覚まそうとしている。(……はやく、目を、目を覚まして!──)
事は迅速に、かつ、冷静に、確実に運ばねばならない。(……お願い、目を──)
足音を立てないように静かに、しかし迅速にベッドの脇まで動く。今の彼女の顔の向きと肩の感じからして、どうやらうつ伏せのようだ。その目がやや半開きになりかかっている。
「……んんーっ?」
息を止める。
さあ、スタートだ!(……いや──)
片手で彼女の口を塞ぎ、うつ伏せの状態のまま腹の下にもう一方の手を入れて体を抱え上げる。
彼女は──おそらく何がなんだか分からないのであろうが──懸命に足をばたつかせ、手を振り回して抵抗しようとした。
しかし気づくのが遅すぎた。
シャベルカーが掘り返した土を別の場所に移す、そのやや緩慢な動作のように、彼女の体を窓際まで運ぶ。(……)
「──!?」
彼女は声を上げようとしたのだろう。しかし、それは声にならなかった。
シャベルカーが機械的に、効率良く、すくい上げた土を下に落とすその動作のように、彼女の体をスムーズに落下させる。
(!!──)
いつの間にか、視線のすぐ先に、地面があった。
「……………………。はぁっ!! ──」
まるでテレビドラマの「お約束」のように、ガバッと上体を起こす。
ハァ、ハァ、と息が切れている。
動悸が速い。
もう秋真っ只中だというのに、額は汗びっしょりになっている。
何だったんだろう、今のは?
…………。
夢?、あれが、夢?──。
懸命に息を整えようとする。
そう、まずは落ち着くことだ。
少し考えたあと、体だけ横にスライドさせてベッドから降りる。
立ち上がり、すぐさま向かうのは冷蔵庫の前。喉がカラカラだ。
そういえば、今、何時だろう?
目覚ましを仕掛けたのは五時。少しでもそれに近い数字を期待していたのだが、その期待は一瞬で裏切られた。
二時三二分。
初めに掛け時計を見て、その後、目覚まし時計を見た。両方とも同時刻を指しているのだから、間違いはないだろう。
どうしようか。
人間の睡眠のサイクル、深い眠りと浅い眠りの繰り返しは、個人差はあるが、だいたい一時間半周期だという。
五時までは約二時間半。今から眠っても中途半端になる可能性が高い。寝不足が続いている今の体調を考えれば、少しでも長い時間、休んだ方がいいに違いないのだが、しかし、彼女の頭は完全に覚醒していた。
……何だったんだろう? あれは──。
言葉で言い表せないことというのは、本当にあるらしい。
早野千春は、学生でありながら、プロの作詞家として、年に何十曲もの歌の作詞を手懸け、世に送り出している。これは今や生活の糧を稼ぐ柱であり、だから人の気持ちをコンパクトな言葉で表すことには慣れているはずなのだが、さっきのあの、夢のリアルさを、改めて言葉にすることはできなかった。
いや、憚られた、と言った方が良いのかも知れない。
人が死んだのだ。
しかも、殺されたのだ。何者かに。
しかもその、犯人の視点から、殺人の瞬間を──。
!? ────!!
ふと、つい先ほどのあの光景、地面が眼前に迫ってくるあの像が、千春の頭の中で再現された。
被害者が亡くなる、あの瞬間──。
…………。
じっくり考えてみよう。
五時からレポート書きの作業を再開するにしても、まだ時間はたっぷりある。こんなに頭が冴えていてはどうせ眠れないし、眠ったとしても中途半端だというのなら、とことん考えてやろうじゃないか。
グラスに氷をたっぷりと入れ、カラン、という澄んだ響きを聴きながら、つい先程の、あの夢の内容について、思いを馳せた。
早野千春:#1 本作の主人公。国立Y大学人文学部社会学科2年生。161cm、48kg。3月17日生まれの19歳。腰のあたりまであるロングヘアに、125ccのオフロードバイクを駆る、人見知りしない性格の女性。父と兄とは死別。母とは折り合いが悪く別居。中学3年生の後半から現在に至るまで一人暮らしで、年齢の割にはバイト経験は豊富。