第四章 一一月〇一日(日)#5
◆ 9
犯人はY大の学生の可能性が高い──。
西脇はいろいろと理由をくっつけて、最終的にそんなことを言っていたが、千春の頭は、それを僅かなメモリで処理するのが精一杯で、ほとんどフリーズした状態になっていた。
それはオセロで大逆転を喰らったような感じだった。
何を信じて、いいのか?
何なら大丈夫──なのか?
わからない。
そんな言葉が頭の中で繰り返され、千春は結局、思考がまとまらないまま、ただ、「拒絶」を基本スタイルとした思考回路に支配され、自宅ワンルームマンションに戻って来てしまっていた。
ソレは危険じゃないのか?
嫌悪感があるんじゃないのか?
入られてるんだぞ? ここは──。
郵便受けには何も入っていなかった。
今日は日曜日なので当然か。(?──)
図書館の閉館時間が近づき、西脇はまた、彼のマンションに誘ってくれた。
別に勘違いをしたワケじゃない。
明日は月曜日だし、きっとゲストルームが空いていたのだろう。
ありがたい申し出のはずだ。
自分にとって、その方がずっと安全なはずなのだ。
なのに。
千春はその誘いに乗れなかった。
何とかギリギリ、普段の千春の態度のままにやんわりと拒否することができた──という手応えがあったことだけが救いだった。
千春の「拒絶」思考はこう訴えた。
見た目がガーリーで、服装も中性的な西脇なら、それこそ少しだけ女性寄りの装いにすれば、女性専用フロアの千春のマンションに入り込んでいても、溶け込んでしまえるのではないか?
大型マンションと不動産会社のオーナーで、かつ食べるのに困るはずがない状況下でのフリーターであれば、いろいろな鍵を取り寄せ、「訓練」を積むことも可能ではないか?
元々Y大のOBであり、今も相当若く見えるルックスは、学内にいても何ら違和感がないのではないか?
それに何より、千春のトンデモ話を、事実として信じてくれた。ソレはふつうではないのではないか。
少なくとも自分や井川恵を殺すのには、とても適した人物──犯人像に当てはまるのではないか?
他方で、千春の「理性」はこう言った。
そもそも、西脇と自分には昨日まで、何の関係もなかった。お互いにそういう人がいる、というくらいには認知していたが、全くそれ以上ではなかった。
しかも、昨日会いに行ったのだって、練習に集中できていなかった千春に美月が不満を持ち、千春に喝を入れるためにその場で思いついたからであって、そこに他の誰かの意志は働いていないはず。
それに西脇は、いろいろなところで有名人だ。目立つ。
Y大の学生の中に、彼の追っかけが何人かいても全く不思議じゃない。
昨日の西脇の言動はごく普通の範疇で、むしろ安定してさえいた。殺したい、殺そうとしているターゲットが目の前に偶然かつ突然現れたはずの人間の応対としては、神懸かりなほど自然で誠実な対応だった。もっと慇懃無礼だったらあやしいと思えたかもしれないが──その余地があるとはとても思えない。
それに──それにもし、そんなになりふり構っていないのなら。
美月の「泊まりたい」との申し出に対して、あそこまで固辞しなかったのではないか?
まして、ゲストルームを手配する必要なんて、なかったのでは?
──ふと、心の中に熱を感じた。
普段の千春なら、どうしただろう?
今日の場合なら、あるいは彼の自宅であっても誘いに乗ったかも知れない──そう、思った。
『運命』──。
そういえば、彼はそんなことを言っていた。
良い方にも悪い方にも巡り合わせ、というのはあるのだろう。
なら。
鬼が出るか仏が出るか。
「拒絶」思考が崩れていく。
でも、残ったこれは「理性」ではない。
きっと──「本能」だ。
西脇の心配そうな表情を思い出して、胸が締め付けられる。
心に色が、戻った気がした。
現実問題として、西脇の誘いを辞退したことによる本当の意味での身の危険度は、確かに増しているはずだった。
差し当たって、今晩がまずヤバい。
犯人はY大の学生──。
その言葉が、ようやくまともに、千春の頭の中で意味を持ち始める。
千春の思考回路の使われてなかった領域に、電気が通った。
千春に限って言えば、大学以外にはあまり外出する方でなく、しかも外出にはほとんどの場合バイクを使う。
高校時代、バイクに乗るようになってから、近所に住む同級生たちとほとんど会わなくなってしまった経験がある。
フルフェイスのヘルメットや、かなりの速度で移動するという特性がそういう結果に繋がったのだろうが、それを今の千春の現況に重ね合わせると、確かに納得できる。
早野千春という人間に「目をつける」ことができ、しかもどこに住んでいるかも知ることができる人間は、それなりに限定的であると考える方が、まず自然なはずだ──と西脇は言っていた。
千春は横浜の出身ではない。実父が亡くなってから高校時代までは、地元長野県どころか、松本市から出たこともほとんどなかった。加えて、横浜に引っ越して来た段階では、既にライダーだった。
去年は学習塾のバイトで外出も多かったが、だとしても生徒は中学生たちで、今でも一番上が高校一年生になったところだから、体格的にも犯人が実際に行ったようなああいう芸当はかなり難しいだろうし、講師の同僚にしても数はかなり限られている。
大学と去年のバイト関係者以外で、千春のことをよく知る者は、この横浜にはとても少ない。
その上で、偶然千春に「目をつける」者がいるなら、それはアシを持っている人間か、他の二人よりもむしろ、千春の近所である可能性が高いよね──と、そんなやり取りをしていたことを、今更ながら、ようやく思い出していた。
西脇の「一連の事件」に対する推理に決定的な穴があるとすれば、もちろん前提にしている事実が千春の見た「夢」であることだ。
まあ、それはこの際置いておく。
いったんスタンスをこちら側に極端に振り切ってしまえば、西脇の主張には納得できることが多かったからだ。
確かに、千春たちが今回の件について何かをする、例えば捜査を始めるにしても徹底的に防戦に出るにしても、「非常識」路線で物事を考えていくのが一番良いのだろう。その方が捜査の端緒となる情報は多くなるし、逆に防御に徹するための心構えも、柔軟性を持って対処できるようになる。
過信は禁物だが、常識に縛られて、起こり得る可能性を事前に潰してしまい、対処できなくなるという愚を犯すリスクは──少なくとも減らすべきだ。
しかしこの推理には、もう一つの大きな穴がある。
Y大の学生ではない、さえぐさゆみえの事件。
千春の「事件」は、むしろこちらに近い──というより、ほぼそのまま同じなのだ。
井川恵の場合はY大理学部の学生だった。
現場も大学の中。
人文学部の千春とは講義を受ける建物からして全然違うとはいえ、同じキャンパス内で生活しているのだから、その「犯人」と千春、「犯人」と井川恵にそれぞれ接点があることについては、特に不思議はないのかも知れない。
しかもその接点は、通りいっぺんの関係の可能性もある。
そうすると、千春が犯人のことを全く視野の外に置いていたとしても不思議ではないし、全く畑違いの二人の女性に何らかの理由で目をつけた、ということも十分想像できる範囲内である。
それを補強するかのように、私立の大規模大学と異なり、Y大には売店──生協が一つしかないし、食堂も二つしかない。事件が起こるまで、千春は井川恵のことを全く知らなかったが、実際は彼女の姿を、学内のどこかで視野に納めていたとしても不思議ではない。
しかし、さえぐさゆみえの場合は違う。
住んでいるマンションの位置からして、彼女が通り道にY大のキャンパスを使う、ということはほとんど考えられない。ということは、彼女と学内で会うことはまずあり得ない。だとすると、「犯人」はさえぐさゆみえとプライベートで「関係」があるか、仕事で「関係」があるかのどちらかだ。
モデルということで顔は多少売れているので、ストーカーや熱心なファンのセンもある。
西脇は、「犯人」もこの近くに住んでいる可能性が高いと言っていたが、「犯人」がY大生で、かつ、さえぐさゆみえの家の近くの住人と考えるのが、一番ありがちなように思える。
あるいは、友人の家が近くにあって、頻繁に彼女のことを目撃していた──とか。
(何だか、疲れるな──)
一度、飽和状態と「拒絶」思考に陥ったからか、少し思考力にへたりが感じられた。
できれば、早いところ刑事たちによる「常識的捜査」によってケリをつけてほしい。
三度も夢を見たのだからそれは必然だ──と西脇は言ったが、全部幻であってほしい。
千春は本気で、そう思う。
そう思った。
そして、こんな状況で西脇英俊という青年と、会いたくはなかった、と。
もっとまともな状況で会いたかった──と。
……また、心の中に熱を感じた。
◆ 10
西脇がまとめた紙のコピーを改めて見る。
検討する際、お互いの手元に同じものがあった方が便利なので、結果としてお互いが持ち帰ったものだ。
いざ離れてみて、西脇は、割と異常なくらい共通点にこだわっていたような気もしないではない。
・三つの事件すべてが、「午前二時半」に起きている
・被害者が二〇歳前後の若い、一人暮らしの女性である
・髪型がほぼ同じくらいの黒髪のロングヘア。しかもふつうのロングに比べてもかなり長い方
・被害者の住所が極めて限定された地域に集中している
・犯人は鍵を開ける技術を持っている
・すべてが計画的犯行である
・犯人はY大のことを微細に入り知っている。少なくとも知ることができる
・三人と、少なくとも顔見知り程度の関係ではある
・三日続けて犯行を行ったあと、日曜日(土曜深夜)は休んだらしい
→犯行がこの三人で終わる可能性
平日(*寝るまでを当日にカウント。例、二六時)にしか犯行を行えない可能性
あるいは犯行は木、金、土の三日間に渡るものと決めている可能性
・犯人の目的が不明。誰も乱暴されたりせず、ただ単に殺されている
こう並べるとやはり妙だ。
社会派ミステリー真っ青な感じ。
二時間ドラマにはなり得ない状況。
お金や地位や名誉、それに怨恨──どれも関係があるとは思えない。
『人間が人間を殺すとき、必ずしも、それ相当の切実な、あるいは深刻な理由があるなんて、考えてはいけないです。
人は人を、本当にどうしようもないような、理解できないような理由で、殺害してしまうことがある』
ふと、西脇が三枝芳恵に対して語った言葉を思い出す。
例えば、ストーカー的な人間が犯人だとすると、大した理由もなく大それたことをするのも頷けなくはない。
もっとも、一人のストーカーが一遍に三人もの女性をどうにかしようとするものかは甚だ疑問だが。
(──やっぱよくわからないや)
犯人はY大の学生──という結論が有力であることについては納得できる。
疲れた頭だったが、ようやく少し、思考がクリアになってきた。
わからないことはわからない。
とりあえずは、それでいい。
クリアになった頭で先程の紙を再度見ると、隅の方に千春自身の文字で、「11/2 9:00 正門」と書いてあった。
だんだんと、少ないメモリで「処理」をしていた内容を思い出す。
その記憶によると、明日、西脇と二人で、大学内で「捜査」をすることになっていた。
その瞬間の千春の思考の中では優先順位が低かったので、危うく忘れるところだった。
朝九時に正門集合。
人との約束が記憶の隅に追いやられてしまうなど、本来の千春にとっては、あってはならないことだ。
ようやく、正常な頭を取り戻した──千春はそう確信した。
今晩は早く寝ておきたい。
しかし、明日の午前二時半、少なくとも三時ぐらいまでは、千春は眠らないことに決めていた。
今日は自分の他には誰もいない──が、日曜なので、隣室の五島佳奈は在宅しているようだった。彼女の生活リズムは結構いい加減だが、商売柄、だいたい寝るのは四時から七時の間くらい。
寝起きが良くて、どちらかと言えば朝型人間で、朝に仕事をすることが多い千春は、まだ寝ていない状態の佳奈と遭遇する機会がそれなりに多かった。
また犯人が来るかも知れないからと、夜中にもかかわらず隣室の佳奈の家を訪ねる。
巻き込むのは申し訳ないが、保険は一つでも多い方が良い。
「えー? あー、いいよー。電話でもベランダ越しでも何でもして呼び出してくれて。
あ、でもヘッドホンしてたらごめん。そんときは、こないだみたいに思いっきり壁叩いて。今日はコンビニに行く必要もないし──そんな女のテキ、この佳奈様で良ければ頼りなさい」
ナチュラルにそう言ったあと、何ならウチに泊まるかい?──とのありがたい申し出。
でも、ナイフを持った犯人が本気で乗り込んできたら二人ともマズい。だからその申し出は、謝意を示しつつ丁重に辞退する。
でもこれで、今の自分が打てる手は、たぶん全部打った。
あとは、時間まで起きてるだけ。
犯人がこだわりなく、定刻に殺しに来なければ殺されるかも知れないが──その場合でも、少なくとも、千春が自殺ではないことを知っている人が二人いる。
カタキをとってくれとは言わないけれど、ロハでは死んでやるものか。
而して。
本当は今晩も夢を見るかどうか、できることならその可能性にかけてみなければならないのだろうが、しかし西脇も言っていた通り、千春が殺されてしまえばそれで終わり──。
(あ、あれ?……)
ふと、一つのことを思い出した。
他の二人の「被害者」については分からないが、少なくとも千春自身に限っては。
頭に、『平川武司』の名前が浮かぶ。
夏休みが終わってから、千春の前に姿を一度も見せていない、Y大人文学部の二年生。
こいつのせいで、千春はえらい苦労をさせられたのだが。
(まさか──)
平川が千春を見る目は、ちょっと普通と違っていたかも知れない。
自意識過剰と言われたくはないので誰にもそのことを話したことはなかったが、あいつなら、千春の住所も電話番号も知っているし、何よりも、この近辺に住んでいるY大生である。それに体格も良く、普通ぐらいの体格の女性を抱えて上げて窓から落とすぐらい、ワケはなさそうだ。
それに、彼は力がある以上に手先も器用である。
四〇〇ccのバイクも持っていて、自分でもある程度の整備はできる。
電気製品の修理や改良を自分でやってしまう、ということも、聞いた覚えが──。
(!! そうだ、そういえば!)
どうしてこんな重大なことに今まで気づかなかったのだろう?
自分の馬鹿さ加減に腹が立つより、その思い出した事実の大きさに愕然とする。
平川武司は、Y大「オカルト研究会」の会員だったのだ。
千春も彼に誘われて、部室の前まで行ったことがあった。
だから学生部棟に馴染みのないはずの千春が、あの「井川恵事件」のとき、あの現場がどこか、具体的に記憶することができたのだ。
(そんな、そんなバカな──)
そう思う反面、客観的に二人の「被害者」が、ある一人の人物と繋がったことは、否定できない現実だった。
その現実が、疲れ切った千春が起き続けられる、燃料になった。
これもある意味、『運命』なのかも知れなかった。
◇
「やはり、お辞めになるのですか……」
屋台のおでん屋。
二人の貸し切り状態になっているのは、オヤジの心遣いによるものだ。
「ああ。ケジメだからな」
左の男の質問に、右の男が応える。
重々しい空気が辺りを支配する。オヤジも心得たもので、何も口を挟まない。
左の男が沈黙を打ち破ろうとする。
たとえ無駄でも、何か言いたい、言わなければならない。
そういう強い意志が垣間見える。
日本酒を口に運び、勢いをつける。いつもなら酒の力など借りる必要はないのだが。
「考え直して下さい。今までも、そしてこれからも、あなたのおかげで救われる人がたくさんいるんですよ? お願いです。今度の事件だって、あなたがリーダーでなければ、あんなに早く解決できなかった」
精一杯の慰留だった。しかしその言葉は、右の男を翻意させるようなものではなかった。
「今回の事件は、わたしがリーダーだったからこそ起こったのだ。それは疑いない事実。
お前は、被害者の心を解ってやれる、被害者側の気持ちを理解してやれる刑事になれ。
お前なら──お前なら、わたしのような失敗をせずに、そんな刑事になれる」
一つの事件が、多くの人間の人生を変えてしまう。
被害者の人生。
被害者の家族、あるいは遺族の人生。
被害者の恋人の人生。
被害者の友人の人生。
そして、その事件に関わった、警察官の人生──。
一人の命と、一人の幸せな将来と、一人の天職と──。
あまりにも大きな犠牲、社会的損失を、たった一つの犯罪が、たった一つの事件が発生させる。
そのことを、左に座っている男は、今更ながらに強く、感じていた。
刑事の仕事は、基本的に事後処理に過ぎない。
だが、だからといって、機械的にすべてを片付けていいものではない。
そして、場合によってはそれ相応の責任を負わなければならない。
それが、当然のことなのだ。
「…………」
「…………」
二人とも、それ以上口を開くことはなかった。
一つの事件が、多くの人の人生を変える──。
このときほど、二人の心に共通して響き渡った思いはなかった。
一つの事件が、一つの犯罪が、紛れもなく、この二人の人生を変えた。
そしてそれは、被害者たちの人生の変化がもたらした悲しみに覆われたものであることを、二人は一生、忘れることはない。
五島佳奈:#2 女性特有の「派閥」が好きではなく、結果的にできてしまうどのグループからも距離を置くのが常であるが、孤立しているわけではなく、一時的にであれば、どの「派閥」にも溶け込んでしまえる嫌味のない性格。逆に言えば、甘え下手で面倒見も良いとは言えない、損もしているタイプ。自分は自分、他人は他人というスタンスで一貫しており、それが見えやすい言動をするため、女性から敵視されにくく、男性から見ても計算が立てやすい。
職人気質の苦労人である千春には敬意を持って接しており、割と仲も良いと思っているが、(自分の商売柄迷惑をかけるおそれがあるので)自宅マンション以外の場所では、あえて接点を持たないようにしている。




