第四章 一一月〇一日(日)#1
◆ 1
あえて少し距離のあるのコンビニまで西脇と二人で向かいながら、一〇月二八日から──いや、正確には二九日になってからだが、そこから今までに起きたことをできるだけ正確に、かつ事実のみを西脇に話して聞かせた。
意外にすっきりまとめられたのは、きっといつもこのことで頭がいっぱいだったからだろう。すべてを説明し終わるのに一〇分もかからずに済んだ。
話し終えていざ、静寂が辺りを包み出すと、自分が話したことの非現実性が改めて思われる。
西脇の言葉を聞くのが怖い気もして、つい伏し目がちに黙ってしまう。
何か思案中のように見える西脇の目は、まさに宙に浮いているというような表現がふさわしい状態で、ただただ真っ直ぐ前を見据え続けていた。いつもの千春なら、こういう人を見ると目の前で手を上下に素早く振って反応を確かめたりするのだが、西脇が口を開くのを黙って待つ。
──ひょっとしたら、ものすごく呆れているのだろうか?
音楽なんかにうつつを抜かしているくらいだから、超現実主義者であるとは思えない──きっと夢見がちのところもあるはずだ──などと、自分がどちらかと言えばリアリストであることを棚に上げつつ思う反面、やはり説得力のない話であることは否定できない。っていうか、普通ならこんな話信じない。
そう思うと、足音しか聞こえない沈黙が、非常に気まずいもののように思えて来る。
でも、そんなことを考える余裕が、今の千春にはあった。
西脇に話を聞いてもらったことで、千春の背負っている荷物が少し、軽くなったのだ。軽くなった分はきっと、西脇が背負ってくれている、というよりむしろ背負わされている、というべきなのだろう。
秘密は、親しい人にしか打ち明けられないものではない。
物事の性質によっては、親しい人よりも通りいっぺんの関係の人の方が、言うにふさわしい場合もある。
今はまさに、そうした場面と言えた。
「さすがに美月ちゃんには、この話はしてない──ってことでいいのかな?」
「……はい」
わざわざ美月がいない状況を作り出して話したワケで、当然と言えば当然、気づくか。
気持ちは軽くなったし、余裕も出て来た。
馬鹿にされるのかも知れないが、それならそれでいい。
何の反応もないよりはマシだ。
うつむいて歩く傍ら、早く何か応えてよ、という思いで一杯になる。
いつもより、自分がひどく我が儘で、子どもっぽく甘えん坊になっているような気がする。
心なしか、顔が火照っているような。
黙ったまま二人は歩き続け、コンビニに到着する。僕は外で待ってるから──と西脇は言って、コンビニから少し離れたところで立ち止まる。
店に入る前に一度彼の方を振り返ったら、彼は空を見上げていた。
満天の星空などとはとても言えないような、都会の空。
ノーリアクションか──。
まあ、それも仕方ないのだろうが、ちょっと淋しい。
用を済ませて店を出ると、西脇がこちらを振り返った。
彼は、「持とうか?」というようなことは一言も言わなかった。
千春の買い物は女の子ならではのモノも含まれていたので、言って来たら断ろうと思っていたのだが、幸か不幸か、気遣いなのかそうでないのか、彼にはそんな発想はさらさらなかったらしい。
再び二人で歩き出す。
この時間は貴重であるはずなのに、有効に使えない。
何か言わなきゃ──そう思った瞬間、西脇の方が口を開いた。
「今日は、いや、今日も、だな。その──二時半前には寝た方がいい」
「…………え?」
ウジウジと、マイナーコード的な思考に入っていた千春の頭は、その台詞の意味をすぐにはとらえることができなかった。
そんな千春を無視するように、西脇は続けた。
「また何か、これまでと同じようなリアルな『夢』を見たとしたら、今度こそ冷静に状況を見定める必要があると思う。
君は『犯人』の視点で見てる瞬間があって、かつ『被害者』の視点で見てる瞬間もあるって言った。
でもそれなら、ひょっとしたら、犯人の姿、いや姿とまで言わなくても服装とか、この季節なら袖、手袋といったものかな。犯人に繋がる手がかりなんかも見ているかも知れないし、見れるかも知れない。
それに、その前回の──日付だともう昨日になるのかな──『夢』はY大の学生部棟、前々回は君のワンルーム、そしてその前の件も含めて、場所が特定できている。しかもその場所は、すごく狭い範囲内にあり、かつここからも遠い場所じゃない。あの辺一帯までなら、深夜なら、バイクで一五分もあれば行ける。
すぐに動いたって犯行を防ぐことは僕たちには無理だけど、君さえしっかりしていれば、犯人の手掛かりを得るチャンスはあると見た方がいい。
だから、今晩も早寝がポイントだよ? 夜更かしせずに、とりあえず寝てみることだね」
……一体この人は何を言っているのだ──一瞬そう思ってしまうほど、それは予想外の言葉だった。
「君がさっき話してくれた『三つ』の話には、いくつか共通点がある。
一つ目は、『君が見た夢』というところ。
君がその一連の『夢』を見るべき、何らかの原因・理由があるはずだと考えてみても良いと思う。
二つ目。それはいつも『夢』の内容が異なっていて、かつすべてが現実とリンクしていた、ということ。
これははっきり言って不気味としか言いようがない。
非現実的なことが、当然のように起きている。
……少なくとも君は、無意識か意識的にかは別にして、そういうふうに様々な事象をとらえている」
──不気味。
ふと、自分が今までそうは意識していなかったことに気づく。
怖い、とは思ったし、ひどく混乱もした。
でも、確かに、言われてみればその通り。
不気味だ。
「三つ目。不気味さの象徴ともいうべき、いつも午前二時半、というところ。
これはひょっとしたら、実際は正確には、現実の時間と『夢』を見ている時間とでズレがあったりするのかも知れない。けど、君の家にある掛け時計がいつもその時刻を指していた、というのが事実だとすると、それも当然──じゃないな──必然なんだと考えてみてもいいのかも知れない。
だとすると、やっぱ何らかの原因があると考えた方がいいのかも知れない」
「…………」
「四つ目。『被害者』が全員、三人とも若い女性。しかも髪の長い、年齢的にも同じくらいの女性である、ということ。
ふつう、こういうのって、二度までは偶然だ、って言われる。でもね、じゃあ三度続いた場合はどうか、って言えば、それは逆に、必然だっていうのが、探偵小説や刑事モノの世界ではセオリーなんだ。
そうなるべくしてなっている。少なくとも犯人の側ではそうだ、というふうに考えた方がいいんじゃないかな?」
条件が揃っているのなら、追えるかも知れない──と、更に意外過ぎる言葉を口にする。
往路で無口だったのは、こうしたことを考えていたからだったのだろう。自分で振っといてなんだが、こういうリアクションは予想していなかった。
「三つの事件について、いずれも『君』が『目撃』していること。
うち二つについては、現実に事件が起きてしまっていること。
そして『二時半』。
共通する被害者像。
これらは、法的にはなんら効力を持たない傍証──にすらならないものだ。本来なら。
もし証拠になるほど鮮明に話ができるなら、明確なアリバイがない限り君が捕まってしまうような話ですらあるけれど──でも、今のレベルでも、君の話は少し危険かも知れない。
普通の警察官なら歯牙にもかけないような話だろうけど──でも、君が疑われないとは言い切れないくらいには具体的で、しかも犯人しか知り得ないようなことが含まれてしまってもいる。
もし犯人が知ったら、より一層君を殺したくなるかもしれないような不気味な話でもある
三度似ているようで違う『夢』を見、しかもそれが三度のうち二度、防衛策を講じた君以外の人間が、いずれもその『夢』の通り──少なくとも外野が知ることができるレベルでは、矛盾がないどころかそのままの状況で命を落としている。
しかもその君の防衛策は、他の事件が現実に起きた『二時半』前後に『被害者』となるべき君が、起きた状態で行われたもので、更に予想外の助っ人が犯行時刻より前に介入したことで大きく補強されたもの、と言っていい。
仮にドアの目の前まで犯人が来ていたとしても、犯行を思いとどまるのが自然な状況だっただろう。
これは何を意味するのか?」
千春は、あのリアルな「夢」で「自分が犯人?」と疑ったことを思い出した。
「この仮説のに基づけば、君はまさに事件の当事者そのものだ。
本来君は既に殺されているのだが、しかし現実には死んでいない。それがこの一連の事件の犯人にとってどういう意味があるかによっては、君はもう一度当事者になりかねない。それだけは、何としてでも防がなければならない。
そして、できるならば、これ以上の被害者が増えるのも防ぎたい。
ちょっとしたつまならない理性にこだわって命を落とすなんてのはナンセンスだ。
そう思わない?」
◆ 2
美月は既に風呂から上がってゲストルームの、シングルにしては大きめのベッド──セミダブルのベッドの上でくつろいでいた。
千春は買ってきた買い物袋を下げたまま美月を再びバスルームに押し込んでそれを渡し、再び西脇の待つラウンジに戻った。
西脇は、帰りがけに温かい麦茶を、最寄りの自販機で三つ購入していた。
麦茶好きなのかな?
カフェインがなくノンカロリーの麦茶は、就寝前に飲んでも害の無い優れモノ。ご馳走になってばかりなのは心苦しいが、美月の分まで買ってくれるあたりが正直嬉しい。
「何笑ってるの? 気味悪いな」
「気味悪いは失礼ですよ? 仮にもうら若きレディに対して」
「不気味な思い出し笑いをするようなヤツに言われたくないなぁ」
「さっきから不気味不気味ってひどいなぁ。でも、へへへ……思い出し笑いじゃないですよ」
「え?」
「リアルタイム笑い」
「……何それ?」
笑顔の千春を見続けることに照れたのか、少し視線をそらす。
(なんだ、かわいいところあるじゃない)
「おまたせ~。あ~っ、麦茶だぁ」
美月のかわいらしいアルトが、元気良く深夜のラウンジに響いていた。
バスルームから出てゲストルームの部屋の方へ戻ると、美月はおらず。再びラウンジに戻ってみると、西脇と向かい合って座っていた。
美月は眉をひそめつつ、うんうん唸りながら、何やら考えているようだった。
「おっ、出ましたね。……じゃあそろそろ僕は戻るよ。悪いね、美月ちゃん」
「え~、そんなぁ、ずるいですよ」
美月は不満げな台詞を口にしたが、顔は笑っていた。プラスの感情を隠しきれていない。
西脇は立ち上がり、早野さんにも訊いてみたら? 答えが解るかもよ?──そう言って、千春には軽く会釈をしたあと、そのまま踵を返した。
背中を向けたまま手を振ってくれる。
見えてないだろうけれど、こちらからも手を振り替えした。
何となく、そういうふうにしたかった。
二時半までに寝る、という課題。
それに先ほどの西脇の、『もう一度当事者になりかねない』という言葉──。
そんな思考に身をゆだねると、ダウナーな気分のままどこにも行き場がなくなってしまうので、千春は思考を切り替えるダシに美月を使った。
「ねえさっき、何、話してたの?」
千春が訊ねると、美月はにへっと笑った
「やっぱ、気になります? わたしが西脇さんと親しくしてると」
「……は? な、何言ってるのあんたは」
「ああっ!? 気になるみたいですね、やっぱ」
少しどもってしまったため、隙ができたところをにたにたと笑う美月に突っ込まれた。
が、これにタダで返すのは、何故だか抵抗があったのでちょっとひねりを入れてやる。
「もう……いいコト教えてあげよう。よく目が合うオトコの人がいるとするでしょう? そしたら、美月ちゃんだったらどう思う? 『こいつ、ひょっとして私に気があるのかな~ん』な~んて、思ったりする?」
「え? そ、そりゃあ、少しは……特にカッコイイ男の人だったりしたら、願望を込めたりなんかして?」
「ふっふっふ、それは甘~い。ま、そういうことも絶対ないとは言わないけど──ねえ? ふっふっふっ」
「な、何なんですか? 一体」
美月が怒る、というよりもむしろ当惑の表情を浮かべている。
そんな表情がなかなかイイ感じ。
「それはね? あんたがその男の人のことを見てるからなのだよ、ふっふっふ。
いつも目が行ってれば、そりゃあたまには──何回かぐらいは、自然と目が合うものなのよ。向こうからすれば、すごい頻度で視線が突き刺さってるワケだしね。そりゃあ頻繁に目が合うことくらいあるでしょう。
ま、つまり言い換えると、『美月ちゃんがそのオトコに気がある』ってことなのよねー。ふっふっふっふ」
美月の視線が天井の方へ泳ぐ。どういう意味なのかおさらいでもしているのだろう。
早速追い討ちを掛ける。
「ま、つまり結論は、美月ちゃんが西脇さんのことを気にしてるってことよね? それを人のせいにしちゃいけないなあ」
自分の顔が照れ笑いでいっぱいになっているのに気づくほど、千春の顔はほてっていた。そのことが、実際の感情がどこにあるかをさりげなく示していたのだが、そのときは二人ともそれには気づかなかった。
美月の顔の方は、少しだけ赤くなっていた。
「……でも、わたしと西脇さんじゃ年がねえ?」
「あら、私とだって七つ違うよ」
「でも千春さんって、ちょっとブラコン気味じゃないですか。わたしは、そんなことないケド!」
(ブラザーコンプレックス──)
美月に指摘され、言い返せない自分を救い出すためか、千春は一度立ち上がって、大きく伸びをした。
何気に、時間がヤバい。
「さあて、そろそろ寝ないと。結構いい時間だし。電気消していい?」
◆ 3
ゲストルームとはいえ、オートロックの内側で、監視カメラもある。
千春のワンルームに比べれば遙かにしっかりしたセキュリティだ。
しかも、同じベッドの中に美月ちゃんがいる。
昨日一昨日のような不安はない。
「わたし、ダブルベッドで誰かと朝まで二人でいたことって、ないんですよねえ」
……別の不安? がここにあった。
「私はそもそも、誰かとダブルベッドに入ったこともないんだけどなあ……まあ、これはセミダブルなんだけど」
千春がニヤリとしながら言うと、美月は真っ赤になってしまった。
「そ・れ・はぁ、朝までじゃなければ、例えば二時間ぐらいかなあ? 誰かとダブルベッドで、一緒にいたことがあるってことよねぇ……うふふふふふっ」(*著者注:本作の舞台は、あくまで一九九八年です)
千春がいたずらっぽく笑うと、美月の顔がもはやトマトのようになり。
まだ一六のクセして──と思うのはあえてやめ。
千春だって人のこと言えないし。
「千春さんは、ないんですか? そういうコト」
「ん~っ? どういうコト?」
「もうっ! んんんんん~っ」
非難めいた調子で美月が唸り、布団の中で攻撃して来る。
「ご・め~ん。
で・も。
そういうことについてはやっぱり、ノーコンメントデ~ス」
冗談じみた外人口調で応えると、真っ赤な顔した美月の顔が眼前に迫ってくる。
「ズルイですよ、千春さん。わたしばっかりイジメて」
「うふふ、ごめんごめん。
私はほら、高校のときから一人暮らしだったし。ついでにお金も無かったし?」
真っ赤な顔が照れ崩れる。
これ以上の照れ笑いはなかなか見られるものじゃないぞ、と思うぐらい。
思わず思いっきり抱き締める。
きゃあくすぐったいですよ、と美月は抵抗したが、そのせいで顔と顔とがすぐ近くで向き合った。
「昔から、しっかり──ん? ちゃっかり? してたんですねえ?」
あははっ、と笑ったあと、美月は天井を見ながら、もうそろそろ寝ますか?──と言った。
備え付けの時計を見ると、もう一時五〇分を過ぎている。
あまり時間はない。
それに一つのベッドでの二人寝は初体験だ。
早く寝るに越したことはない。
「うん、そうだね。寝よう。それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさ~い」
美月がベッド脇の常夜灯の明かりを消した。
真っ暗になった。
それから一、二分しか経っていないのに、美月は早くも、一定の間隔で静かな寝息を立てていた。
結局、千春がバスルームから出たときの、美月と西脇の会話の内容については、完全にごまかされたままだった。
(やっぱりタダ者じゃないな、こやつは──)
そう思いながら、千春も睡魔に身を委ねていく。
美月の温かい体が、千春に大きな安心感をもたらしてくれていた。
人肌というものは、人の心を落ち着かせるものだ。
そういうことを、久しぶりに身をもって実感した。
時は一一月一日、午前二時一分──。
◆ 4
その視線は、じっと一点に絞られていた。
ときどき瞬きするのを除いては、少しも動かない。
どうやら、電気のついていない部屋から、誰かが、窓の外を見つめているようだ。
窓の外、それも斜め下方を。
そして、その景色は、街灯から降り注ぐわずかばかりの光を浴びているだけで、決して鮮明な像を『見ている者の目』に結んではいない。
何やら不鮮明な映像だ。(…………?)
──突然、視点の主そのものが下にズレた。
微かな像を結んで見えるのは、光の当たらない、壁のようなものと窓の桟だけ。つまりは、上方の窓の部分から若干の光が漏れているのを除けば、他は黒く見える闇だけだ。
どうやら、この視点の持ち主は、窓の下の壁の部分に、身を隠したらしい。(……)
しばらくすると、コトン、という金属音のような音が聞こえた気がした。
その後しばらくして、視点が再び、初めの位置に戻る。
相変わらず不鮮明な映像だ。
だが、その不鮮明な映像の中にも、いくつかの手掛かりがあった。
視線の先に不鮮明な像を結んでいる中でも分かること。
それが集合住宅──マンションであること。(……これって──?)
小型の部屋しかない集合住宅ならではの小型の入口。
その中でも一際目につくのは、金属の、アパートやマンションならどこにでもあるような郵便受け。
ソレが、建物に入ろうとする人から見て左側についている。(……まさか──)
入口から少し左(視線の主からすると右)に行った所には電柱があり、その斜め左前方には居住者用と思われる駐輪場が──。(?!……この場所は──!?)
再び時計を見たときには、既に午前八時をまわっていた。
美月はまだぐっすりと眠っているようだ。
一定の間隔で胸が上下しているのが分かる。
眠るときに二箇所で緩く束ねた髪をストレートに戻し、顔を洗って髪を整え、起きたらケータイで西脇邸に電話しろ、と美月の着替えの上にメモを残して、施錠した上で部屋を出る。
西脇邸へお邪魔すると、西脇は既に起きていた。
千春を招き入れるため、ドアを開けてくれる。
「おはようございます」
お決まりの挨拶をすると、西脇は少しばかり眠そうな目を千春の方へ向けた。
「ああ、おはよう。よく眠れた?」
はい──そう応えたはしたものの、実は深夜一度、目を覚ましていたのだ。
それもちょうど二時半頃に。
しかも「夢」がきっかけで。
それはよかった──西脇は何事もないかのようにさらりと言い、「あれ? 一人なの?」ともっともな疑問を言った。
西脇が起きているのなら美月も起こした方がいいかな、と思ったものの、美月の幸せそうな寝顔を思い出して考えを変える。どうせ昨夜は夜更かししたのだ。別にまだ起きなくても、起こさなくても文句は言われないだろう。
西脇は、少し戸惑いながらも、半ば諦めたように千春一人を家に上げてくれた。
廊下を通ってリビングへ入っていくと、何やらキッチンの方からいい匂いが漂ってくる。
今度夢を見たら手掛かりを注意深く探せ──。
コンビニの帰り道の記憶が蘇る。
そういう心構えを持って、いざとなったら「現場」に駆けつける覚悟で眠りについたのだが(もっとも、寝るときはラフな格好だったが)、昨夜の「夢」は、これまでのリアルな「夢」とは明らかに一線を画す類いのものだった。そのため、目覚めたにも関わらず、西脇を呼び出しには行けなかったのだった。
昨晩の「夢」の映像はとても不鮮明で、これまでと異なり視線の人物の思考が全く伝わって来なかった。
それでも気味の悪い「夢」であることは間違いないが、四度目にして、こんなことは初めてだった。
事件に関する手掛かりは何も得られていないと言っていい。西脇が訊ねてきたらどうしよう──そう考えながら自然と食卓につく。
「コーヒーとガーリックベーコンサンドでいい? ガーリックが苦手ならその他のメニューもできるけど。それにコーヒー以外にも紅茶にウーロン茶、麦茶に野菜ジュースと各種お飲み物を取り揃えておりますが、いかがいたしましょうか?」
すぐに自分が、喫茶店に入ったお客さんのように、自然と席について注文をすべく待ち構えているかのようなシチュエーションを作り出していたことに気がついた。
考え事をしていたとはいえ何て失礼な振る舞いだろう。そう思い顔が赤くなる。
「ごめんなさい。ちょっと、考え事してたんで……あ、私、私がやります。そ、その、お金も払います」
我ながら次々と妙なことを口走ってしまう。
西脇は、そんな千春を、こんなんでよければいくらでも食べてってくださいよ。ダイエットでもしてるんなら、無理にとは言わないけどさ──と、笑顔でフォローしてくれた。
「……そうそう、美月ちゃんはまだ寝てんの?」
「は、はい。それはもうぐっすりと」
二人で顔を見合わせて笑い合う。
こんなほのぼのとした(千春は緊張しているけれど)朝を迎えたことが、果たしてあっただろうか?
前日の佳奈との朝も爽やかな感じではあったが、こんなにもアットホームなものではなかった。
もはや記憶の彼方に行ってしまったような過去──。
なんだか、とても懐かしいような。
西脇は改めて「注文」を確認してキッチンへと向かった。
ここまで来たら、厚意に甘えない方が失礼に当たると自分を納得させ待つこと約五分、二人分の食事が食卓に並べられた。
「わあ、美味しそう」
本気でそう思ったのでそう口から自然に出たのだが、「そんな大層なモンじゃないよ。口に合うかどうか。まあ、まずは食べてみて」と。
本当に奥ゆかしい人だ。
香ばしい匂いにサクサクとした食感。
お味の方も、これがなかなか美味しい。
材料は薄切りの食パン×二、ベーコン、粗挽きガーリック、バターにレタスだ。
フライパンに粗挽きガーリックを振った上で、食パン二枚をバターで一度、ベーコンとレタスを挟む方の面に焦げ目をつけ、そのあとでベーコンを炒め、ほど良いところでパンに載せ、挟んだ状態でオーブンへ。焼け目がついたところで取り出して、レタスを挟んで出来上がり。
マヨネーズなしでも十分味が濃くて美味しかった。
トマトを入れても悪くないかも。
ガーリックの効きがややもの足りないと感じるのは、やはり朝食だから、という配慮からくるものだろう。
千春個人としてはもう少しガーリックの風味がほしいところだったが、それにしても、なかなかニクイ演出──というか、配慮がとても行き届いている。
そういえば西脇の分も、千春の分と一緒に食卓に並べられていた。
彼が千春たちを起こそうとしなかったことを考えると、同時にできたのだとしたら、多少出来過ぎのような感じがする。
「え? だって、一〇代やハタチそこそこだと、五分一〇分の睡眠って、何事にも代え難いかけがえのないものでしょう? このくらいの朝食ならそれこそいつでも作れるから」
そう言う西脇のガーリックベーコンサンドは、見た目からしてやや焦げが千春のものより多い。調理しているところにちょうど千春が訪ねてきたので、二人分を同時に食卓に出せるように、コントロールしたのだろう。
どうやらほんの少しだけ、起きるのが遅かったようだった。
「ごちそうさまでした」
心からそう言って、両手を合わせたまま、頭をペコリと下げる。
こんな気持ちになるのは生まれて初めてかも知れない、とさえ思えるほど、西脇の気配りが嬉しかった。
「ごちそうしました。なんてね?」
照れながら言うところが、なかなかイイ感じだ。
一瞬胸がドキッとする。
これはいろいろまずい状況、かも知れない──。
しかし、西脇はそんなムードを一掃するかのような質問を、千春にした。
「ところで──昨夜は、例の『夢』、どうだった? 僕は一応、三時くらいまで起きてたんだけど」
西脇英俊:#2 市内の楽器屋に勤めるフリーター。大型マンションの最上階に住み、自宅内にスタジオを設けているなどの一面も。自宅スタジオは、楽器屋繋がりで、筋の良い客で親しくなった相手には無料で貸すこともある。ジャズ&フュージョンの世界では著名で、テレビなどでも紹介されたことがある音楽業界の一部では知られた「インディーズ・サラリーマン・フュージョンバンド」もそのお客さん。また、本人自身も、同バンドでキーボーディストとして助っ人を頼まれることがある。




