第三章 一〇月三一日(土)#5
◆ 8
さて、夕食後。
三人は再びスタジオルームに入った。
弾き語りのときはギターを使っていた西脇だったが、彼のキーボードの奏力は、ギターのそれとは格違いで遙か上を行くものだった。単純に持ち運びやすいからギターにしているだけで、キーボードが使えるならわざわざギターは弾かないよ、と彼は笑った。
確かに、路上ライブでキーボード、というわけにはいかないのだろう。
彼も我流らしいが、その腕前は、悔しいが千春よりもかなり上だと言わざるを得なかった。
何でも、千春でも知ってるくらい著名な実力派インディーズ・サラリーマン・フュージョンバンドの「助っ人」を時折頼まれるくらいなのだと、なぜか美月に自慢された。
そんな演奏の実力だけでなく、これだけの機材を集める資金力は、正直羨ましいと言うほかない。そもそも、こんな環境に住めているのだから、それだけでかなりの「資産家」だ。
単なるフリーターとは到底思えない。
この人は、本当はどこぞのプロなのではなかろうか?
それとも、元売れっ子のアイドルだったとか?(千春は昔から、男女問わずアイドルのことをほとんど知らないのだ)
「あの、失礼かもしれませんけど、ご家族は──」
あの棚の上の写真の女性を思い出しながら、千春は訊いた。
何だかんだ言って一番可能性が高いのは、親が資産家である、というところだろう。
そうでなければ、例えば両親や兄弟姉妹がプロの演奏家であるとか。
自分の仕事に直結するのであれば、ある程度の投資をするのも頷ける。
「見ての通りの一人暮らし。強いて言えば、結婚してる姉がいるけど」
強いて言えば姉がいる?
じゃあ両親は?
「じゃあご両親は?」
美月が訊きにくい質問をあっさりと。
いろいろと強引に行くなあ、まったく──とそもそも家族のことを訊いたことを棚に上げて、千春は思った。
「ああ。母は僕が一歳のとき、父は一六のときに死んだよ。このマンションは、その親父の遺産。
僕は財産を食いつぶす、だめ息子さ」
さすがに美月も「あちゃ~」というような顔をしたが、西脇は全く気にするふうでもなく、いつもの表情と変わらずに、気を遣ってくれなくていいよ、昔のことだしね──と笑った。
この人、意外とドライなのかも知れない。
──この部屋の趣味は、お姉さんの影響なのかな?
遺産、か──。
千春の父は、田舎ではちょっとした規模の会社の社長だった。
四〇を過ぎた辺りから病気がちだった父は、死期を悟ったのか、着実に財産の処分を行い、そして自分の持つ会社の権利を丸ごと譲渡する代わりに、かなり大きな額の財産(ほとんどが現金)を母と、伸一、千春の兄妹に遺してくれた。
千春は今、父から直接遺された財産と、同様にその遺産を継いでいた兄の遺産の一部を相続している。一九歳の人間としては持て余すほどの大きな額だ。
しかし、その大半は銀行口座にある。
もちろん、大きな買い物や契約には代理人が必要な場合も多く、その法定代理人たる母親は、千春にあまり協力的でないという、嬉しくない家庭の事情もあるのだが。
でも、高校時代、いや中学時代からなんとか一人で生活して来れたのは、そうした金銭的な裏付けがあったから、ということが少なからず効いていた。ただ、その裏付けはあくまで、千春たちを心から愛してくれていた父と、そして千春を最も愛してくれた兄の死による、かけがえのないもの。そう考えた千春は、彼らの遺した愛の欠片を取り崩して生活することを、潔しとはしなかった。
だから高校に入るやすぐにアルバイトを始めた。
音楽活動やバイクなど出費も多く、それに母親との別居によって生活費や家賃までが当然のごとくかかったので、高校時代は、金銭的な面において完全な自活とはほど遠かったが、それでも懸命に働き、懸命に遊び、そして懸命に勉強した。
その努力の甲斐あって今の千春がある。
大学に入る前後から、作詞家と塾講師という短時間で高収入を得る仕事に就くことができ、そして今では作詞の仕事が増え、塾講師を辞めて定収入がなくなっても少しずつ、預貯金を増やす余裕さえ出てくるほどにまでなっていた。
千春とはレベルというか性質が少し違うのかも知れないが、根本的には西脇も同じような生活を送って来たのかも知れない。
なぜか千春は、そんな気がした。
そういえば、西脇は何歳なのだろう?
スタジオ、食事、スタジオと来て三人でリビングに戻り、今更だけれども、改めて自己紹介をした。
西脇は下の名前を英俊といい、年は意外にも二六歳。しかも、一二月で二七になるという。これは千春にとってはかなり驚きだった。
せいぜい二〇代前半だと思っていた。
千春よりも学年で七つ、美月よりは何と一一も上だ。このすっぴんでガーリーな感じすらあるルックスで二〇代後半というのは、千春の感覚では割と信じられなかった。
どう見てもせいぜい大学生ぐらいに見える。
二二で亡くなった、学年で言うと八つ上の兄とダブる──ことが、こう言ってはなんだがまるでない。
一つ、あることを思い出した。昨日の千春の部屋での会話──そのことについて訊ねてみる。
「あの──M警察署に、お友達って、いますか?」
「え? 警察? ……ああ、仲いいのが一人、いるけど──何?」
「え? いいえ……何でもないです」
どうやら、水林の言っていた同級生とは、やはりこの人らしい。
重ねて訊ねる。
「じゃあ、出身の大学は?」
「ああ、そこの、国立Y大だけど」
「じゃあ、私にとっては、センパイになるんですね」
ズバリだ。
学部は法学部という。
年の頃も合う(違和感はあるが)。
間違いないだろう。
何だかホッとすると同時に、不安にもなる。
水林に連絡を取られたら面倒なことになる──かもしれない。
また、向こうからこちらへ、電話をかけてくる可能性もある。
──いや、それはないか。
千春と西脇が知り合ったのは今日のことだし、尾けられていたとは思えない。まして、西脇があの事件に関係あるとは到底思えない。
「何か、千春さん、今日、考え事ばっかで、変だったんですよぉ。何とか言ってやって下さい」
美月が余計なことを言う。
コイツはむしろ空気を読んで、その上でこういうふうに振る舞っているんだな──ということが、何となくだが、今日一日でだいぶ分かった気もするのだが。
正直言うと、昨日佳奈に話したように、気持ち的には誰でもいい、話を聞いてもらいたい、という思いが千春には確かにあった。
さすがにそこまで美月に読まれているとまでは思わないが──今は、ほんの少しでも味方になってくれる人がいたら、どんなに嬉しいか分からない。
──話してしまおうか。
誘惑に駆られる。
いや、何の関係もない西脇や、自分より四つも年下の、しかも女の子である美月を巻き込むのはさすがに気が引ける。
そう思うと、また態度がギクシャクしてしまう。
そんな千春の態度に業を煮やしたのだろうか、美月が思わぬ提案を出して来た。
「あのう、西脇さん。今日わたしたち、ここに泊まっても、いいですか?」
「え?」
「……ええっ!?」
西脇と千春がほぼ同時に声を出す。
さすがにそれはマズイんじゃないの?──と言いながらも、推したり退いたりの駆け引きの結果、しばらくして、西脇が「ゲストルームが空いてれば」と、条件付きで承諾した。
ゲストルーム?
耳慣れない響きだったが、そこはさすが大型マンション。
ゲスト用の宿泊ルームがあるらしい。
而して、ゲストルームは空いていた。
マンションのゲストルームなんて初めてだったので、こんな時間からでも使用できることに、何の疑問も抱かなかった。
「千春さんの家に泊まるから」
証拠にするため、千春も電話に出させられる。
そして千春の声を聞いて安心したのか、ご両親はあっさりと許可を出してくれる。
なんという不良娘!
いつもこんな感じ? と訊くと、こんな感じですよーと、間延びしたような応えが返ってきた。千春は突然のことだったので、ドキドキしながら適当に話を合わせるしかなかったのだが。
でも、こういう間怠っこしい「外泊許可手続」は、千春には今も昔も経験のないことだったので、何となく楽しくもあった。
西脇が二人のために用意してくれたゲストルームは、トイレとバスルームもある、ビジネスホテルの大きめのシングルルーム相当の部屋だった。二部屋あって、今日は両方とも空いていたらしいが、二つ使うのはあまりにも──ということで、シングルルームの方を女二人で使うことになった。
彼の柔らかな笑みが救いではあったが、なんとなく火が出るほど恥ずかしくもあった。顔が熱い。
ティーンの女同士なら、ままあることなんだよ。
たぶんだけど。
一度視察して、足りないものを把握し、再び西脇の自宅に戻る。
西脇の家には、LDK+和室とスタジオ以外にも部屋が二つあるので、自分たちが男性だったら──あるいは西脇が女性だったら、普通に彼の家に泊まらせてもらえたのかな──と、そんなことを思いながら、エレベーターが最上階に着くのを待つ。
再び二人して西脇邸のリビングに行くと、彼は一人、テレビを見ていた。
今日のことで改めてお礼を言う。
まさに飛び入り・飛び込み以外のなにものでもない形で上がり込み、夕食をごちそうになり、更には二人して泊めてもらおうというのだ。
最大限の礼を尽くしても余りある。
それがきっかけで、やはりこの三人、音楽の関係で話が盛り上がる。
そして気がついたら、いつの間にか午後一一時を過ぎていた。
久しぶりの楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまった。
──そんな印象だった。
そうこうするうちに、そろそろ──という話になった。
再びゲストルームに移動するとき、西脇がついて来てくれた。
ごく稀にだが、深夜、中高生くらいの連中が、エントランスホールに溜まっていることがあるらしい。さりげない気遣いの行き届いた人だ。
この人なら──。
千春は、ようやく、この西脇英俊に、事件のことを話してみようという気持ちを固めていた。
助けてくれとまでは言わない。
ただ聞いてほしい。
そして、ほんのちょっとでいいから、自分の心を支えて欲しい──そんな気持ちが、グングンと高まっていた。
一番風呂を美月に譲り、買い出し役を引き受けた千春は、ゲストルームの入口から数m離れた共用ラウンジに彼を誘い、折り入って相談がある──と意を決して切り出していた。
「……どうしたんですか? 随分真剣なカオですね」
西脇がややたじろぎつつも言う。
自分でも判るぐらい、千春の顔は、指摘された通り強ばっていた。
「実は、ご相談したいこと、っていうか、聞いてもらいたいことが、あるんです──」
◇
今日で交番勤務も終わりか──。
ある種の感慨が心の中に沸き起こる。
明日からは、念願の刑事として、勤務に就くことになるのだ。
警察官は、大卒程度の区分で採用された人は六か月の、高卒程度の区分で採用された人は一〇か月の警察学校での研修を経て、各所にある警察署に配属される。そしてそこで、全員が交番勤務を最低六か月間やって、その後初めて、各自の適正に応じた専門分野に配属される。
刑事、とりわけ自分が今度配属になる一般刑事事件を担当する部署は、数ある警察内の機構の中でも比較的人気のあるところだ。
そこに入れることが、栄誉であることは間違いない。
刑事か──。
ハードな仕事なのは分かっている。
出世しにくい部署であることも解っている。
でも、これが自分の選んだ、最も希望した道なのだ。
刑事になるために警察に入ったと言ってもいい。
後悔など当然していない。
心残りがあるとすれば──。
「よっ、刑事さん。期待してるぞう」
突然後ろから声をかけられたので、多少びっくりした。
声の主はこの横浜駅西口交番に勤めている先輩巡査の、森口康幸である。
「はい、ありがとうございます!」
「おお、おお元気元気。その調子だぜ」
森口には本当に世話になった。高卒で警察官になった彼とは年齢も近く、公私ともに一緒にいる機会も本当に多かった。
明日から、この人と職場で会えなくなるのはとても寂しい。
そのことを森口巡査に告げると、柄にもなく照れて、「それは俺に会えないのが寂しいんじゃないだろう? ま、確かに? 『あの勤務』から外れるのは悔しいことかも知れないな? オレなんか、『あれ』がある限り、一生この交番勤務でもいいと思ってるぐらいだから」と言った。
確かにそれは当たっている。
『あの勤務』から外れるのは心から残念だ。
しかし、これも念願の刑事になるため。仕方ない。
「森口、お前、そんな事言っとるから全然出世せんのだぞ」
森口巡査の後ろから声をかけてきたのは、この交番の一番の古株、酒井警部補だ。
「自分はまだ昇進試験を一昨年、やっと受けられるようになったばっかなんスよ? 出世してないのはしょうがないじゃないですか」
「そんなもん一発で受かれ」
「そんなあ、警部補は一発でいけたんスか」
「はっはっはっはっははは」
都合が悪くなるとこのような特徴的な笑いでごまかすのが酒井警部補の常套手段であった。明日からこの笑いが聞けないのも、何だか寂しいなと思うくらい、いい時間を過ごしたんだな、と改めて思った。
明日から、刑事だ──。
早野伸一:千春の8歳年上の兄。故人。享年22歳。大学を卒業し、社会人になって1年目(千春が中学3年生のとき)、まさにこれから、というときに交通事故で死亡した。千春とはとても仲の良い兄妹だった。母親が自らの恋愛に走ったときには20歳の大学生で、そのときに千春を引き取って以降2人で生活していた。
千春の家にあるアンティークの掛け時計は、元々は父のもので、兄が引き継ぎ、更に千春が引き継いだもの。
「信じる者は救われる」が「座右の銘」。母親の件で人間不信になりかけていた千春を救った。




