第三章 一〇月三一日(土)#2
◆ 2
電話をしたときはさすがに緊張した。
電話でしゃべった言葉の原稿は、電話後自分の部屋に戻ってからガスで燃やして、それからそれを更に粉々にして、トイレに流し捨ててしまった。
窓を開けて外を見るが、いつもと変わったところは見当たらない。
これからどうなる? と不安で一杯だ。
確かめに行くにしても、まだ朝の六時。あまりにも早すぎる。
千春のような一般の学生が大学にいるには、あまりに不自然な時間帯だ。
あと二時間ぐらい経ったら行ってみよう──。
そう逸る気持ちを押さえ込む。
美月との約束は午後一時。
その前に大学の様子を見てくるのはそう難しい事ではない。
しかし、もし本当に「夢」での事件が現実にあって、その電話の主が千春であることが警察にバレていたとしたら──想像するだに恐ろしい。
一一〇番せずに直接M署に電話したのは、昨日来た水林警部補の名刺を見て思いついたことだった。
一一〇番は必ず録音されるらしいから声紋鑑定されたらかなわないし、逆探知も怖かったので、わざわざ少し遠出して公衆電話からかけたのである。
そんな工作がどういう結果をもたらすか──今の千春には及びもつかないことだった。
ただ、賽はもう、自分で投げてしまっているのだ。
後戻りはできないし、やったことに手を加えるのはより危険だ。
ただ──さっき自分がした通報が警察を動かしながらも、かつ、それが空振りに終わることだけを、切実に願っていた。
◆ Meanwhile "Friend"
何だろう?
普段ならひっそりとしているはずの土曜日の、しかも早朝のキャンパスがざわめきに覆われている。
小杉雅はこの日、所属している刑法ゼミの会合のため、はるばる一時間かけて自宅から大学までやって来ていた。
まだ朝七時半を少しまわった程度。土曜日であることを除いても、一般的な文系の大学生にとっては早すぎる時間帯である。
会合は、主に学生用に用意されている会議室で八時から行われる。
会議室のある学生会館は、駅から近い文系棟と駅から遠い理・工学部棟の間に位置している。近くには図書館と学生部棟があり、勉強するのにも、サークル活動等の課外活動をするのにも、文理双方の学生にとって好都合なロケーションである。
校門を通ってから学生会館まで、小柄な雅の足だと歩いて五分はかかる。
駅から大学までが徒歩一五分から二〇分なので、駅から二五分ぐらい歩き通しとなるのが、いつもの彼女のパターンだった。
雅が駅に着いた頃、その学生会館の方向に向かうサイレンの音が聞こえて来ていた。
雅は取り立てて野次馬根性があるわけではないが、大学内で起きた事件であれば、やはり気にならないはずはない。
歩みを進めるにつれ、赤色灯をまわしているパトカーに加え、制服の警察官や鑑識、刑事とおぼしきスーツ姿の男たちが何人か、しきりに動いているのが目に入ってきた。
やはり、「事件」らしい。
鑑識がこれだけいる、ということは、それなりに大きな事件である可能性が高い。
制服の警察官が、サイレンを聞いて駆けつけたのであろう近所の住民や学生達を、「現場」から遠ざけようと説得をしている。次第に遠巻きになっていく野次馬たちの更に後方から横を通り抜けようとしたとき、「なんか殺人事件らしいぜ」という言葉が耳に入ってきた。
殺人事件──。
なるほど。
この警官の人数からして、まず間違いないだろう。
「被害者は女だって」
「なに? 女子大生か? かーっ、もったいねえなー」
まだ若い、二〇歳前後の男たちがそんなやり取りをしているのを聞き、思わず立ち止まってしまう。
しばらくすると、三〇くらいのスーツ姿の男が進み出て来て、殺人事件と思われる事件が発生したことを、半ば公式発表のように告げた。そして同時に、野次馬集団に向かって、目撃者はいないか、昨日の深夜、不審な人物を見かけなかったか、などという、型通りのクエスチョンを投げかけていた。
(目撃者、か──)
──死にたい。
二年前まで、雅はそんな言葉に憑かれていた。
どうして殺してくれなかったの? とさえ思った。
今でこそ、生きていてよかった、殺されてなくてよかった、と思っているが──。
不意に涙が出てくる。
こんなところを見られたら、今回の「事件」と関係があるのかと思われてしまいかねない。
必死に涙をこらえる。
私は、あの事件を、乗り越えたはずだ。
大丈夫だよ、大丈夫──。
そんなふうに、必死に涙を隠そうとしているところで、いきなり後ろから抱きつかれた。
「きゃあ!」
こらえてた涙と同時に、長らく出していないほどの大声で、雅は叫んだ。
その声で、野次馬たちも、警察官までもが、雅たちの方を一瞬、注目した。
その「襲撃犯」は、思わぬ雅の反応に、面食らって硬直していた。
◆ 3
多少現場から離れた広場へと場所を移す。
まさか、こんなことになるなんて──。
雅が大声で叫んだことも意外だったが、その後千春の胸にすがって泣き崩れてしまったことには更に驚いた。
二重の意味で痛恨の失態だった。
野次馬たちに近寄って来ていた水林警部補と目が合ってしまい、あの電話を取ったのは、ひょっとしたらこの人かも知れない──そう思っていただけに、千春にとっては悔やんでも悔やみきれない展開となっていた。
「ごめんね、迷惑かけちゃって」
幾多のショックに打ちひしがれていた千春を現実に引き戻したのは、意外にも、雅からの謝罪の言葉だった。
「そんな──悪いのは私なんだから。こっちこそ、ごめん……」
千春としては、一昨日のお返しをしようと思っただけなのだが、思わぬ結果を招いてしまった。
ここ何日かの異常な出来事。
千春は、到底、平常心ではいられない日々を送っていた。
だから逆に、日常的な千春的行動で、気分を明るくもって行きたかっただけだったのだ。
しかし、それで雅に大きな迷惑をかけてしまったのは間違いない。
どうして彼女がこんな反応をせざるを得なかったのか、千春なら、解っていなければならなかったはずなのに。
「ごめんね、雅ちゃん。本当に……」
「ううん、千春ちゃんは悪くない。あたしが、つまらないこと、考えてたから」
雅の考えていたことが、「つまらないこと」であるはずがないことを、千春は知っていた。
「何を、考えてたの?」
知っているからこそ、千春はあえて、聞き出さなければならないと思った。
ケースによるが、負の出来事は、一人でそれを抱え込むことが最も心的な負担となることが多い。
他人に洗いざらい話すことは、そんなストレスを溜めないことに繋がる、有効な方法の一つなのだ。
もちろん、それによってストレスがより強度になる場合もある。今回の雅の場合も、通常ならそうしたケースに当てはまる。
が、その点、すべてを承知している千春なら、細かい能書きは無視して話を聞くことができる。
しかし──。
「それは、自分も是非、知りたいことですね」
しまった。
千春は自分のすぐ後ろまで、水林警部補が来ていたことに気づかなかった。
彼の質問は、彼の立場からすれば当然のものなのかも知れない。
しかし今の千春には、この質問を許すことはできなかった。
「刑事さんには関係のないことです。今回の事件とは関係ありませんから」
突き放すように言ったものの、水林はさすがに離れてはくれなかった。
「今、『事件』とおっしゃいましたね? どこで事件だと?
あなたはあそこの現場に着いたばかりだったのではないですか? 私は、たまたまですが、あなたがあそこに向かって歩いてくるときから、お姿を見ていましてね。
それに、その彼女──雅さん、ですか? 彼女はあなたに、一度も『事件』なんて話してなかった。
失礼、立ち聞きするつもりはなかったのですが」
何だこいつ──。
千春の心に怒りが込み上げる。
水林は完全に千春を挑発している。
それが判っていながら、なお千春は反論せずにはいられなかった。
「警察車両があれだけ来てて、刑事さんや警察官が大勢いて、野次馬があれだけ集まってて、どうして事件だと思わないんですか? 思わない方が不自然じゃありませんか?」
激高しつつも抑制的に、努めて冷静になるようにしゃべっているうちに、重大なことに気がついた。
これは──。
「『事件』ではなく、『自殺』や『事故』の場合もありますが」
「なるほど。では、『殺人事件』だったんですね? で、誰が殺されたんですか?」
水林が、苦悶にも似た表情を一瞬だけ浮かべた。
ごくごく一瞬だけ。
「私は──私たちは、その『殺人事件』とやらには何の関係もありません。あの現場を取り囲んでいた野次馬と、基本的になんにも変わりませんから。
で、どうなんですか?」
揚げ足を取ろうとした彼の言動を逆手に取って、一気呵成にまくし立てる。
しかし、彼の方はすぐに冷静さを取り戻したようで、昨日と同じクールな口調で、少し穏やかに、静かに言った。
「……そうです。殺人事件ですよ。
そういえば、あなたがた二人、こちらの学生さんですよね。ちょうどいい、いくつか質問してよろしいですね?」
一度は凌いだものの、千春は苦虫を噛みつぶした思いだった。
水林の言葉は柔らかかったが、拒否することを許さない言葉でもあった。一つ揺さぶりが失敗すると、相手の反撃が続いている間にも別の手を打てる。
敵として相対するには実に嫌な相手だ。
こういう相手から主導権を奪うのは極めて難しい。
千春は喉から出かかった言葉を呑み込み、雅の顔を見た。
まだ顔は青かったが、平静さは取り戻したらしい。
ホッとしたような悪寒が走るような、複雑な気分になる。
水林の最初の質問は、「井川恵」という理学部の三年生を知らないか? というものだった。
直接そうだ、とは言わなかったが、その「井川恵」という人物が、今回の事件の被害者であることが容易に推測できた。
つまらない駆け引きは不要だ──そう言わんばかりの台詞である。
このあたりはさすが、と言うべきか。
こちらにまず安心感を与え、かつ隙を与えて、千春たちの反応を窺うつもりなのだろう。
しかし、この揺さぶりに関しては、事実として、千春たちには無効でしかなかった。
本当に何も知らないからだ。
水林には結果的に誤算だったのかもしれないが、このときの千春は、雅に注意が行っていて、事件と自分との関わりについての認識が、やや希薄になっていた。
「井川恵」という人物を知らない千春は、演技の必要もなく「知らない」と応えることができた。
雅もそれに続く。
彼女の方も、今回の事件の件に限れば、特に問題はなさそうだ。
続いて所属サークルは? との問いが来たが、これも同じ。
二人ともサークルには所属していないし、所属していたことも事実としてないから、それを正直に応えればいい。そういう意味では、二人とも大学生としてはやや、アウトサイダー的なところがあった。
その他にも、水林が本当に知りたがっているとは到底思えないような、どうでもいいような事項の問いが続いた。
千春は正直、イライラしていた。
これが水林の作戦なのかも知れないことに、全く気づいていなかった。
しかし、多少の興奮状態に陥りながらも、その「井川恵」の容姿について質問したいという誘惑を抑えながら質問に対して応えていくことができたのは、結果として彼女にとって十分なものだった。
多少の興奮状態にあったからこそ、そして雅の方に注意が行っていたからこそ、逆に不用意な発言をせずに済んだのかも知れない。
「ところで、昨夜の午前二時から四時までの間、どこで何をしていましたか?」
アリバイか──。
再び、本題に近づいてきたようだ。
皮肉を込めて、アリバイですか……と溜め息交じりに千春が言うと、皆さんにお聞きしていることですから──と平然と返ってくる。
一体どこからどこまでを称して、「皆さん」などと言っているのだろう。
「家で、寝てました。刑事さんもご存じでしょうけど、私、あそこで一人暮らしですから。ウチのマンションは、男性を連れ込むこともできませんしね?」
ちょっと毒づいてみただけのつもりだったが、これに対する反応は水林よりも雅の方が顕著だった。
今日は私、失敗だらけだ、このバカ!──。
つい、いらないことまで口にしてしまった。
これでは水林の思うつぼ。油断してしまったことを否定できない。
「あたしも、家で寝てました。あたしは家族と一緒に住んでますので──あ、あたし、もう、行かないと」
時計に目をやった雅が言う。
とりあえず、ここは雅を解放するのに全力を傾ける必要がある。
そしてそろそろ、千春自身の方も、どうしてここにいるのか、その理由を、本格的に考えなければならなかった。
「あの……、いいですか? じゃあその、失礼します」
これには一瞬、千春は呆然とした。
意外にも、水林は全く、雅を引き留めようとしなかった。
小さくこちらを窺うように一礼し、雅が学生会館の方へ歩いていく。
これはひょっとして、マズイか?──。
今朝の電話の件もあるし。
水林が千春に対し、大きな関心を持っているのだとすれば、ある程度覚悟を決める必要があるのかも知れない。
──でも、これでよかったのかも知れない。そう思う。
雅が泣き出した理由を追及されることは、もっと耐え難いことに違いないから。
自分のことなら、大抵のことに耐えられる自信が千春にはあった。
それが客観的には、例え心許ないものであったとしても。
「では、そろそろ本題に参りましょう。彼女が泣き出した理由ですが、ご存じなんですよね?」
まるで千春の心の中を見透かしているかのように、水林は言った。
まさか、こっちが本題?
完全に読み違えた。
「……何のことですか?」
雅のいた方を振り返ると、もう彼女は視界外に消えていた。
ほんの少しだけだが、ホッとする。
しかしこの男、まさか初めから、この質問を留保していてくれていたのだろうか?
まさか、見抜かれてる?
だとすると、この人の捜査能力は、ひょっとしたらとてつもなく高いレベルのものなのかも知れない。
あの灰色の箱を一目で盗聴器と見破ったのも、それが当然のことではないことは、同行していた阿部刑事と、後から来た鑑識の人たちの反応を見れば明らかだった。
ちょっと前のやり取りだって、彼にとってはミスがあったのかも知れないが、話題の展開自体はスマートで切れがあった。で、今、窮地に陥っているのは千春の方なのである。そして更に、今回も、雅を気遣って配慮してくれていた、というのだとしたら。
「もし、私がここで、話さなかったら、刑事さん、彼女のこと調べますか?」
「必要だと判断せざるを得なければ、そうしなければならなくなるかも、知れません」
泣いてしまったのをほかの署員にも見られましたしね──と、彼は彼で、ポーカーフェイスの影から苦悩を僅かに覗かせた
この人──。
今更ながら確信する。
彼は既に、かなりの程度見抜いている。
必要なのは、隠すことではなく、誠実にこちらが対応することだ。そうでないと、むしろややこしいことになりかねない。こちらの対応次第で、彼はおそらく、最強の敵にも、最高の味方にもなる、そんな力を持った人物。
自分の気持ちを素直に、あらゆるところで暗示していけば、この人なら、必ずすべてを拾って総合的に解釈してくれる──そんなふうに期待を込めて、千春は覚悟を決め、そして宣言した。
「──では、お話し、します。ただ、絶対にオフレコにするって約束してください。それと、できればその、話し声が絶対外に漏れないところで」
千春が途切れ途切れに言うと、水林は、素直に「分かりました。お約束します」と言って、千春についてくるよう促した。
行った先は、ツードアのスポーツカーだった。
一瞬たじろいだ千春を見て水林は、これで移動しながらお話しを伺います。それなら、誰にも聞かれることはないでしょう──と言った。
「……録音装置なんて、ありませんよね?」
我ながら細かいところまで疑うものだ。
そう思ったが、パトカーならそういう設備があるはず。
「ありますけど、こんなものしかありません。無線もありませんよ。この車は自分の私物ですので」
彼は、小型のカセットテープレコーダーを見せて、軽く二、三度振って見せた。
スイッチは入っていない。
「……お預かりしても?」
水林は渋い顔ではあったが、特に抵抗なく、千春にそれを差し出した。
ここまで来れば万事窮す。
内心で心から雅に詫びながら、千春は雅の過去について、ゆっくりと、言葉を選びながら話し出した。
意を決したつもりだったが、さすがにうまく口が動かない。
ところどころで言葉につまったり、言葉を噛んだりする。
雅から、初めてあの話を聞いたときの衝撃を、千春は今でもはっきり覚えている。
他人事として聞いていたからなのかも知れないが、とにかく悔しくて、やり切れなくて仕方なかった。
そして、同時に、言葉にできないほどの重圧も感じていた。
水林は車を走らせながら、あえて相槌も何も打たなかったようだった。
こちらが話すのを、じっくりと待ちながら、聞いてくれていた。
目撃者が、幼馴染みで、ずっと仲が良くって、やっと恋人のような関係になってきてたばかりの、男の子だったそうです──。
話していて、次第に、千春は涙声になって行った。
それで、その、彼女──。
立ち直るのに、二年、かかって──。
高三のとき、すごい偏差値高くて、T大だって受かるって言われてたそうなのに──。
それが、受験どころじゃ、なくなっちゃって──。
その後、何回も、自殺を図って、その都度、誰かに見つけられて──。
その男の子も、結局それ以降、彼女に関わろうとはしなくて──。
それで、それで──。
次第に、千春は涙が抑えられなくなっていた。
普段の見た目と自己認識・自己評価よりも精神的にずっと繊細で、しかも感受性が豊かすぎる千春には、この話を他人に対し語ることは、身内の「恥」──実母とその内縁の夫について話すことよりも、ずっとずっとつらいことだった。
これが親友として、千春が背負っているものなのだ、と実感する。
このことで、雅の両肩が少しでも軽くなっているのなら──そう願わずにはいられない。
「そのことを、彼女は──」
「っ…………。申し訳、ありませんでした」
水林は千春の言葉を遮るようにそう言うと、それから大学に戻るまで、一言も口をきかなかった。
そして大学に着くなり、千春を解放した。
小杉 雅:#2 法曹を志すきっかけとなったのは、自らが犯罪の被害者になってしまったこと。そのことでPTSDを抱えているが、それを克服するためにも、時に嫌なモノも見せられることを承知の上で、「公平な立場」として身分保障されている裁判官を目指す。




