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8月31日


 8月31日。

 別名、悪夢の日である。


 夏休み最後の一日といえば、心置きなく遊びに熱中し、輝かしい青春の最後の一ページを飾るにふさわしい日――というのが理想だが、現実にはそう上手くいかない。夏休み初日から机の隅に放り投げ、すっかり目を逸らしてきた数学や英語のドリルが牙を剥き、襲いかかってくる。辞書並みに分厚いドリルは、申し訳ない程度に最初の数ページのみ埋まり、あとは一切最後まで白紙。いくら睨み付けても、自分は念写能力者ではない。そこに文字が浮かび上がるなんて奇跡は永遠に訪れず、時間ばかりが過ぎていく。

 こっそりこなそうにも一日、それも一人で終わらせることができるわけもなく、昼前には掃除に入った母親に発見され、特大の雷が落ちる。そして、般若の化身になった母親監視のもと、自室ではなくリビングで、ひぃこらひぃこら半分泣きそうになりながら、一日中、夜明けまで鉛筆を動かし続ける……。


 それが、8月31日。


 同じ長期休み最終日でも、宿題が一切出ない春休みとは雲泥の差だ。

 だから、毎年、今年こそは――ッ!と奮起するのだが、悲しきかな。それは初日のみ。下手すれば、帰りのホームルームが終わり、友人と夏休みの予定について話しながら帰る頃には、すっかり消え失せてしまう脆い誓いだ。

 いや、ずっと「宿題をやろう」とは思ってる。思ってはいるのだが、


「まだまだ始まったばかりだ」


 という思いのせいで、ついつい後回しにしてしまう。ツクツクホウシが忙しなく鳴き始めた頃になると、なんとなく


「あぁ、もう夏休みが終わっちゃうんだな」


 という倦怠感が身体を支配し始め、初期よりも宿題のことが頭をちらつきはじめるようになるのだが、いかんせん。ページを開いただけで、身体が鈍りのように重くなる。

 そして、結局こう思ってしまうのだ。


「明日やればいいや。まだ夏休みは長いんだし」と。


 社会人になれば、七月の三週目から八月の末日まで、約四十五日間の長期休みは定年退職するまで訪れないのだ。いや、結婚して産休に入れば話は変わってくるだろうが、生憎と自分は男である。男性の育児休暇が話題になっているらしいが、実際のところ、自分が結婚して妻が子供を出産したとき、自分も育児休暇を取っている姿が想像できなかった。


「……いや、そもそも、僕には結婚とか無理そうだ」


 クラスの女子とも話せない現状、結婚どころか恋人を作ることすら夢のまた夢。大好きな恋愛ゲームのヒロインたちとなら恋愛を楽しめるのだが、現実は難しすぎる。


「あーあ、僕がルーク・バルサックだったらいいのに」


 すっかり丸くなった鉛筆を転がしながら、願望を口にした。

 ルーク・バルサックは僕の大好きな恋愛ゲームの主人公だ。

 多種多様なヒロインと協力し、人間の世界と魔族の世界の両方を華麗に救ってみせる。

 もし、自分がルークなら、女の子と恥ずかしがらずに語れるし、恋愛だって自由自在。おまけに世界を救う英雄だ。老若男女問わず好かれるのは、なんと心地よい話なのだろうか。本当、もし――転生できるなら、彼みたいな人になりたい。いや、彼に転生したい。


「あんた――ルークになりたいの?」

 ふと、上から声が降って来た。

 どきっとして顔を上げる。そこにいたのは、家庭教師の女子大生だった。女子大生といっても、たった一歳違いの幼馴染だ。自分が唯一、どもらずに話せる女であるものの、幼い頃から面倒を見てもらったり、喧嘩をしたり、いろいろしたせいか、女というか「姉」である。とてもではないが、恋愛対象として見ることはできない。


「別にいいじゃないか。願望くらい口にしたって」


 むすっとして言い返してみる。


「はいはい、願望ね、願望。ルーク・バルサックみたいな女ったらしになりたいのね」


 そう言いながら、彼女はノートに目を通し始める。


「あんたがルークになったら、ハミントン村のイベントに失敗して、アマゾネスに殺されるに決まってるわ」

「そんなことないさ。むしろ、アマゾネスを味方につけて、ハーレムに加えてみせる!」

「あのイベントまだクリアしてないでしょ?」

「僕だけじゃなくて、あんたもだろ!」


 僕は少しムキになって言い返す。

 インターネットの攻略ページを見なくても大抵クリアできたが、期間限定配信イベント「ハミントン村の休日~イノチノユリの咲く頃に~」だけは攻略ページを見てもなかなかクリアできなかった。もう少し時間があればクリアできるのだろうが、いかんせん。今は受験生だ。そう簡単にゲームに没頭する余裕はない。


「アマゾネスと取引して、洞窟の奥に咲くイノチノユリを探しに行く……その程度、簡単にクリアできるさ! 時間さえあれば、だけど!」

「よく言うわ。いつも罠にはまって、見張りのアマゾネスに殺されてるくせに」

「そ、それは、あんたも同じだろ!」

「はいはい、分かったから静かにしてて。採点してるの。気が散る」


 僕は黙り込んだ。彼女も口を閉ざして、赤ペンを走らせる。

 どこからか、ツクツクホウシの急かすような声が響いてくる。ミンミンゼミやアブラゼミの声も嫌いだけど、やはり夏の終わりを告げるような声は嫌いだ。そんなことを考えていると、ふいに彼女が口をひらいた。


「私はリクね」

「リク?」


 誰の話だ?と聞き返そうとして、ああと納得する。


「リクってリク・バルサック? ルークの姉貴の?」

「そ。だって私、あんたの姉みたいなものじゃない」


 僕は首を傾げた。

 ルークの姉を名乗るなら、同じく姉のラク・バルサックでもいいではないか、と。

 だけど、その疑問を口にしようとして、やっぱり思いとどまる。

 リクもラクも姉だし、ルークの数多くいるヒロインの一人だが、リクの方がラクよりも恋愛色が薄い。むしろ、ラクの方はハーレムの主要人物だが、一方のリクはハーレムの中に、いるかいないか分からない存在だ。


「……そうだね、ラクよりリクだ。うん、リクがいい」


 彼女を恋愛対象として見れない以上、ラクよりもリクであって欲しい。

 恋愛ではなく、家族愛のようなものでつながった大切な――本当の姉弟になりたい。


「でも、あんたがルークなら大変ね。才能にありふれた弟に対し、私は無能な姉だもの。早々にキレていそう。……油断している隙に、あんたの腹をグサッとしちゃうかもしれないわ」

 彼女は赤ペンを回しながら、くすりっと口元に弧を描いた。だから、僕は大げさにおどけて見せる。

「怖いこと言わないでよ、リク姉――!」

「さてと、ルーク。死ぬ覚悟はできてるかしら? ここも、ここも、またここも――やり直し箇所、山ほどあるわよ」


 僕は大量についたチェックを見て、本当に悲鳴を上げてしまう。

 これを全部直していたのでは、冗談抜きに死にそうだ。顔から血の気が引いていく。もし、自分がルークだったら、この程度の問題は軽く――とまで、考えて、頭を横に振る。

 空想にふけるのはやめだ。

 どう頑張っても転生なんてできないし、そもそもルークになるわけがない。

 彼女はリクではなく、そもそも幼馴染の女子大生で家庭教師だ。

 夢は夢。空想は妄想。考えていても、無意味であり、そのようなことをする暇があるのなら、とっとと鉛筆を動かした方が生産的である。


「ほら、集中する。私と同じ大学に合格するんでしょ?」

「違う大学に進学するって! そもそも、あんたの大学は女子大じゃないか!!」

「あら? ルークになるなら女子大の方が、理想のハーレムをつくれるんじゃないの?」

「いや、無理だから! いろいろな意味で無理だから!!」



 これは、ありし日の会話。

 軽く流れ、誰も――当人たちでさえ、気にも留めていなかった出来事。



 この数日後、彼女は交通事故で命を落とす。

 僕は悲しみを打ち消すように、受験勉強に没頭した。一年浪人はしたものの、なんとか彼女と目指した大学に合格した。新入生歓迎会では浴びるように酒を飲まされ、そのせいで、僕も死んだ。


 まるで、彼女のあとを追うかのように。



 そして―――。




 本作品は「バルサック戦記 ‐片翼のリクと白銀のルーク‐」の外伝作品です。

 とはいえ、「バルサック戦記」を読んでいなくても面白い!と言っていただけるような話にしていきたいです。

 時系列的には「カルカタ城攻防戦編」と「魔王の冠編」の間あたりになります。

 それでは、最後までご堪能していただけると嬉しいです。


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