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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

世界で一番幸福な奴隷

作者: 黒井雛

 

「あぁ、愛しいトリステ。お前の為だったら、私はどんな願いだって叶えてやる。お前が望むものは何だ?さぁ、望みを口にしてみろ」


 口癖のように、そう口にするクピディタスに、トリステが答える言葉は、いつだって同じだった。


「いいえ、陛下。私はこれ以上、何も望みません。私は、今の状況が堪らなく幸せなのです」




 ――自分は、世界で一番幸福な奴隷だ。


 トリステは常々、そう感じていた。


 トリステは元々、アルバス国の王女という高貴な身分を持っていた。だが、昨年生じたクーデターにより奴隷の身分にまで落とされ、隣国であるルクス国の王であるクピディタス・ファートスに奴隷として献上された。

 かつては王女であったトリステにとっては、どうしようもない程に屈辱な状況。だが、人の気持ちを解さないとして冷徹王と揶揄されていたクピディタスは、驚く程トリステに優しかった。

 トリステは奴隷というよりも、愛妾の様に丁重に扱われた。後宮に閉じ込められ、自由こそ無かったが、それでもその環境は、家族包みで質素倹約を心掛けていた王女時代よりも、寧ろ贅沢で恵まれた環境だった。少しでも望んだものは、すぐさまクピディタスによって手配され、トリステは何不自由ない生活を送ることができた。

 クピディタスは、普段は滅多に表情を変えない怜悧な美貌を、トリステの前でだけ甘く緩ませた。愛情深い目をトリステに注ぎ、そして望みのものはないかとことあるごとに訪ねた。


 奴隷としては、あり得ないほど恵まれた環境。これ以上望んだら、罰が当たる。

 トリステはクピディタスの問いに、最小必要限度以上の望みのものを口にすることは無かった。


『いつだって慎ましく、手の中にある幸福に感謝して生きなさい』


 これは、亡き母の教えだ。




「クピディタス陛下、クピディタス陛下。今、私の国はどうなっております?かつて以上に栄えておりますか?」


 鳥籠の中の鳥の様に、クピディタスに愛でられる以外では他者とまともな交流をすることも叶わないトリステは、かつて自身が王女であった国の現状を知るには、クピディタスに直接尋ねる他に、方法は無かった。


「…ああ。栄えているようだ。アルバスの民は飢えを忘れ、街は活気づいている」


「――そう。ならばいいのです」


 トリステは、クピディタスの答えに口元を緩ませる。

 今は奴隷の身分に堕ちたといえ、それでもトリステは元王女だ。かつての自身の民の様子は気にかかる。

 かつての自身の民には、幸せに生きてもらわなければならない。



『自身の幸福よりも、自国の民の幸福を願うのが、王族の正しいあり方だ』


 これは、亡き父の教えだ。




「トリステ。望みのものがないならば、私が自分で考えて、そなたに贈り物をしよう…あぁ、だからトリステ。どうか私に、そなたの愛らしい心からの笑みを見せてくれ」


 そう言ってクピディタスは、定期的にトリステに贈り物を送った。


 珍しい高価な宝石。異国の芳香な花。繊細な細工が施された優美な衣装。


 クピディタスから贈られる物を、トリステはいつだって微笑みながら享受したが、クピディタスはそんなトリステの反応に不満げだった。



「…違う。その笑みじゃない。その笑みは、私が見たい笑みではない」


 肩を落としながら、溜息を吐くクピディタスに、トリステは戸惑った。

 自分はこんなにもクピディタスに感謝しているというのに、何故それが伝わらないのか。

 鏡に自身の笑みを幾度映して見ても、トリステには自身の笑みの何が悪いのか、さっぱり分からなかった。




「トリステ、トリステ!!今日こそ、お前に望みの贈り物を持ってきたぞ!!」


 ある日クピディタスは上機嫌でトリステの元までやってきて、一つの袱紗を差し出した。

 まるで子供のような、そんなクピディタスの姿に思わずくすりと笑いながら、トリステは袱紗を受け取る。

 小さめの西瓜程もある袱紗は、ずっしりと重かった。


「さぁ、トリステ。今すぐその袱紗を開いて、私が見たいそなたの心からの笑みを見せてくれ!!」



 トリステはクピディタスに促されるがままに、袱紗を開いた。

 そして、その中身を見開いた瞬間、声にならない悲鳴をあげた。

 そんなトリステに、クピディタスは満足げに目を細めた。


「どうだ。トリステ?お前を奴隷に追いやった、憎い男の首だ!!嬉しいだろう?さぁ、トリステ。笑って見せてくれ!!」


 袱紗に包まれていたのは、死の恐怖と苦痛に顔を歪めた、一人の男の生首だった。




(――このままじゃ、いけない)


 トリステは生首を見た瞬間から喉の奥から込み上げて来るものを、必死に堪えながら、一人自室に閉じこもった。



(このままじゃ、クピディタス陛下は、私を喜ばせる為に、かつての私の国民を傷つけようとするだろう)


 その前に、なんとしてもクピディタスの凶行を止めなければならない。



 ――そう。例えこの命を引き換えにしても。



 トリステは懐から、一振りの小剣を取り出す。

 それは、亡き兄の形見だった。


『王族としての誇りを穢されそうになった時、これを使いなさい』


 そう言って兄は、死の直前に、その小剣をトリステに託した。

 トリステのかつての王族としての誇りが穢される時…それは、おそらく今しかない。

 今こそが、トリステが死ぬべき時だ。

 トリステは覚悟を持って、小剣を自身の首に押し当てた。

 だが、トリステが自身の首を小剣で掻き切ろうとした瞬間、トリステの手は抑え込まれる。



「――何故死のうとするんだ、トリステ」



 不思議そうに首を傾げるクピディタスは、トリステの剣を奪い取りながら、狂気に満ちた言葉を口にする。


「お前が死ななくても、ちゃんと私はお前が望むものを、全て殺してやるのに」


 小剣がトリステの手から離れ、からんと音を立てて床に転がった。

 トリステは再び込み上げて来るものを抑えるべく、その手で口元を覆った。


「なんて恐ろしいことを……陛下、どうか私の為を想うなら、そんな恐ろしいことは止めてくださいませ…」


 掌の内側で唇が戦慄き、全身に震えが走るのが分かった。


 クピディタスを、止めなければ。


 止めなければ、トリステは…。



 だがクピディタスはトリステの言葉に、嬉しそうに眼を細めた。


「トリステ。自分を偽らなくていいんだ…私には、そなたの本当の気持ちがわかるのだから」


「え…」


「私の眼は、全ての真実を見透かす異能を持っている」


 向けられクピディタスの瞳が、瞳孔に至るまで全てが均一なエメラルドの色に変じているのを見てトリステは息を飲んだ。

 ルクス国の王家が異能を持つ化け物だという噂を耳にしたことはあった。

 だが、そんな噂ファートス家を妬むものが流した流言だと思っていたのに。


「トリステ、トリステ。さぁ、手のひらを外して私にその顔を見せてくれ」


「な、何を…」


「だって、そなたはその掌の中で、笑っているのだろう?」


 クピィデイタスは全てを見透かす瞳をトリステに向けながら、甘い、心蕩かすような、笑みを浮かべた。


「首謀者への復讐が成されたことに、ひたすら歓喜し、そしてのうのうと生きるアルバスの民にさらに憎悪を募らせているのだろう?」




 アルバスで起きたクーデター、それは革命だった。

 民主主義を掲げた平民たちは、王家を襲い、トリステの家族を殺した。

 きっかけは、疫病。アルバス国の民の、主要栄養源となっている麦が枯れ、民は飢えた。

 そんな飢えに、乗じて、裕福な商人が民を唆した。――この飢えは、王族のせいだ。王族が富を独り占めしているから、民は飢えているのだと、そう信じ込ませた。

 民は暴徒と化し、城を襲って父を、母を、兄を、虐殺した。

 ただ一人、先に首謀者に拘束されていたトリステだけが、命は助かった。

 そしてそのまま奴隷に落とされ、貢物にされた。



 ああ、なんて


 なんて、浅ましく単純な愚民どもだろう…!!



 トリステの父は、富を独り占めなぞしていなかった。王族としては異端なくらい、質素倹約を心がけて、民を思いやっていた。

 王家の富は、国の将来を担う為の予算だ。一気に放出しては、国が滅びる。

 それを考えながら、少しずつ、少しずつ、民に還元させていたのだと、最小限の被害で済むように調節していたのだと、何故気づかない…!!

 ああ、ああ。今、民は飢えから解放されて、活気づいているという。

 だが、そんなもの、一時的な幻想だ。いまやアルバスの国庫はまちがいなく空っぽなのだろうから。

 アルバスには、未来がない。革命を先導した商人だけが、それを知っている。

 今頃国庫の中から掠めるだけ掠めて、他国へ移住する準備に追われているのだろう。


 それも知らずに、一時の安寧に浮かれている平民たちの、なんと滑稽なことか。


 放っておけば、自業自得で地獄を見ることは予想がついた。

 だからこそ、トリステはクピディタスに定期的に民の近況を聞いたのだ。


 苦しむ民の様子を、聞きたいがために。

 愚かな民の無残な最期を、嘲笑いたいが為に。



(――違う、違う、違う!!!私はそんな女じゃ、ない!!)



 トリステの胸の奥で、必死に否定する別の自分の声がする。


(私は、ただ純粋に、民を想って…!!元王族として民には、幸福になって欲しくて…!!)



『いつだって慎ましく、手の中にある幸福に感謝して生きなさい――負の感情に囚われてはいけません』


『自身の幸福よりも、自国の民の幸福を願うのが、王族の正しいあり方だ――だから、例え自国の民に滅ぼされることがあっても、それは本望だ』


『王族としての誇りを穢されそうになった時、これを使いなさい――だけど、トリステ。私はお前に生きて欲しい。誇りなど気にせず、たた自らのことだけを考えて、幸福に生きて欲しい。……これは皇太子としてではなく、お前の兄としての願いだよ』



 耳の奥で蘇る家族の生前の声が、トリステを戒める。

 湧き上がる負の感情を、抑え込ませる。

 父は、母は、兄は。

 どうしようもない、理不尽な死ですら、潔く受け入れた。

 最後までただ、民のことを思いやり、王族としてふがいない自らを責めていた。

 トリステもまた、そうでなければならない。


 そうである、べきなのに。



(考えるな、何も考えるな)


(どうせ、放っておいてもアルバスの民は滅ぶんだ。何もしなくても)


(否定したい自らの感情を直視しなくてもいいだろう。――例え形だけでも、家族が、自らが望む、王女に相応しい私のままで)



 クピディタスの言葉を耳にした途端…否、憎い憎い敵の無残な生首を直視した途端から、次々と湧き上がってくる感情を、トリステは必死に蓋をして抑え込む。

 蓋をして、鍵を掛けて、目を逸らして。

 必死に自分の中の醜い感情を、愚かな渇望を、無かったことにする。


「――それで、本当に満足なのか?」


 だがトリステの全てを見透かすクピディタスが、それを許さない。



「何もしないで、ただ勝手に復讐が果たされるのを待つ…それだけで、お前は満足なのか?本当に、心から、その状況に歓喜できるのか」


 そのエメラルドの色で見据えられた瞬間、既にとっくの昔に錆びついてぼろぼろだった心の鍵が、一瞬ではじけ飛んだ。

 空いた蓋から、抑え込んだ感情が一層激しいものになって膨れ上がる。

 まるで濁流の様に押し寄せる激しい自身の感情に、トリステの脳裏は真っ白になった。



「さぁ、いつもの問い掛けをしよう。トリステ。――お前の為だったら、私はどんな願いだって叶えてやる」


(駄目だ、いけない)


「お前が望むものは何だ?さぁ、望みを口にしてみろ」


(望みを口にしては、いけない)


 それは、さながら悪魔の誘惑だった。

 クピディタスは、トリステの前にそっとその優美な手を差し出す。

 その顔は、トリステが望みを口にすることを、その手を取ることを確信しているようだった。

 その指先を目にした途端、トリステの理性がどろりと溶け出すのが分かった。

 先程までに脳内に痛いほど響いていた家族の声が、遠ざかっていく。


 トリステは、クピディタスの手の上に、震える自らの手を重ねた。


「――して」


 トリステはくしゃりと泣きそうに顔を歪めながら、言ってはいけない、唯一の望みを口にした。


「アルバス国を、滅ぼして…っ!!」



 許せない。


 許さない。


 許して堪るものか。


 トリステの家族を奪った人間を、トリステは生涯許したりなんかしない。


 アルバスの民は、トリステの家族の命を奪った理由を、国民全ての総意だとほざいた。



 ならば、国民全てが、トリステの敵だ。


 罪なき赤子から老人に至るまで、全てがトリステの復讐の対象だ。



「ああ、トリステ。喜んで」


 クピディタスは自身の発した言葉の罪の大きさに震えるトリステを引き寄せ、その腕に抱き締めながら、心から嬉しそうに微笑む。


「愛しい、トリステ。――お前の望みを、叶えてやる」



 そして、望みは叶えられた。





 焼け焦げた、街々。

 あちこちに転がる無残な死体。

 親を、子を、求めて泣く人々。


 クピディタスに抱きかかえるようにトリステは馬にまたがりながら、馬上から自らの願いを引き起こした惨状を眺めていた。


 自分は、一時の感情に任せて、なんと取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。自分はなんて罪深い存在なのだろう。



 トリステは胸の奥から込み上げるものを、堪えきれなかった。


 自身の胸の中で震えるトリステの顔をそっと掴んで、自身の方に向けると、クピディタスはうっとりと顔を緩めた。



「あぁ、トリステ…やはり、お前の心からの笑みは、素敵だ」



 トリステは湧き上がる歓喜に身を任せるがままに、嗤っていた。

 復讐が果たされたことが、ただひたすらに、嬉しくて仕方なかった。



 自分は、地獄へ落ちるのだろう。天国へ行っている家族には、きっと二度と会うことなぞ出来ないに違いない。

 だけど、それでも構わないと思う。

 だってトリステにとって、今のこの歓喜程大事なものなぞ、他に無いのだから。

 これ以上の望みなぞ、他にトリステは持っていないのだから。


 王族としてのトリステは、家族と共に、死んだ。今のトリステは、ただの陰惨な復讐者でしかない。


 その復讐が今果たされたのだ。これ以上の幸福なんかありはしない。

 例え孤独の果てに一人、地獄の業火に焼かれることになったとしても、後悔なぞしない。


「――トリステ、一人じゃない。私も共に行く」


 そんなトリステの心中を読んだクピディタスは、トリステの顔にそっと啄む様な口づけを落としながら、優しく甘く囁いた。


「お前が行く地獄に、私も共に行く。一緒に地獄の業火に焼かれてやる…だから、淋しくなんかないぞ」



 クピディタスの言葉に、トリステは思わず苦笑する。

 なぜクピディタスがここまでトリステに傾倒するのか、トリステは理解できない。

 きっとクピディタスにしか分からない、何かがあるのだろう。

 だが、念願が成就して、最早抜け殻同前のトリステの中に、注がれるクピディタスの愛情は優しく染み渡った。醜い自分の感情すら、愛しいと言ってくれるクピディタスの気持ちが嬉しかった。


 クピディタスとなら、地獄の果てまで共に行くのも、悪くない。



 トリステは、そっと目を伏せて、クピィディタスの広い胸に身を預けた。


 唯一無二の願いを叶えてくれて、最後は共に地獄まで行くと言ってくれるクピィディタス。


 ――そんなクピディタスに愛されている自分は、やっぱり世界で一番幸福な奴隷なのだろう。

※クピディタスは「全てを奪うもの【連載版】」の主人公の息子です。

※二人の出会いは「全てを奪うもの【連載版】」の最終ページに書かれていたりします。

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― 新着の感想 ―
[一言] あのお方たちの子ですか!?なるほど、トリステはともかく、王の心理状況がちょっと読めなかったけど、あのお二人の子という後書に一瞬にして納得がいってしまいましたww
[一言] 身勝手な国民・偽善者な王家。 アルバス国は、どっちもどっちだから滅んで当然と読めました。 クピディタスの愛が重いです。 トリステのいい子ちゃんも・・・。
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