表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5億km²の牢獄  作者: Wolke
3/19

03:任務

 夜の街は不気味だ。


 分厚い雲に覆われて、星々の輝きが届かない夜空を見上げながら、七枷(ななかせ)愛莉(あいり)は漠然とした不安に襲われた。


 屋外だというのに四方をコンクリートに囲われて、天蓋も暗澹とした雲に遮られている。


 まるで箱の中にいるような閉塞感。肌を撫でる夜風は澱み、清涼さの代わりに底知れない不気味さを届けてくる。見通しの利かない闇の中からヌッと手が伸びてきそうな、得体の知れないモノがそこかしこに潜んでいる錯覚が拭えない。


 そして最も気味悪く感じることは、これらの不透明な環境から生まれる恐怖が、勘違いではなく実際に起こり得る可能性を孕んでいることだ。


 天網恢々疎にして漏らさず。


 そんな故事成語は三十年程前から通用しなくなっている。


 罪人を逃さないため天に張り巡らされた網は、すでに無用の長物と化し、地上にのさばる凶徒たちを罰することはなくなった。人の目を盗んで悪事を働く人間はいつの時代も居たものだが、ついに天の威光すら地上には届かなくなってしまったらしい。神の法が乱れ、監視が無くなり、庇護が無くなった今、地上を跋扈するのは罪人だけではなくなった。人間ではない人外が、いつしか闇に紛れ、潜むようになっていた。


 愛莉は暗闇を寄せ付けない純白のコートを羽織っており、そのポケットに手を入れた。街灯の光が届かない通りを、白き少女は漂うように移動する。


『対象はD地区を北上。七枷局員はポイント106へ急行してください』


 軽量化と受信距離に重きを置いたワイヤレスヘッドセットから、機械で作られた音声が流れた。女性の声をベースにして発せられた無機質な音。感情を推し量ることは不可能であり、その行為も意味を成すことはない。どこかで指示を出しているオペレーターへ愛莉は言葉を返す。


「りょーかい」


 と、ヘッドセットに付属されているマイクに愛莉は声を吹き込んだ。淡々と耳朶を震わせる音声ガイダンスに従って、愛莉は行動を開始する。


 その傍らで彼女は自身が身に着け、活用している装備品に意識を向けた。小さな町を難なく覆ってしまう通信範囲。応答に使うマイクは骨伝導式の物。激しい運動にも邪魔にならないよう小型化されたヘッドセットは、並々ならぬ開発費が注ぎ込まれたのだろうと想像できる。流石は国の主導で開発され、国庫から出された資金で生産された通信機だ。


 リアルタイムでの情報伝達は特に重要視すべき事柄であるため、国の力の入れようにも本気具合が伺える。


 では、何故国はこんな通信機を全力で生産しているのか? 何故、七枷愛莉は闇に包まれた街中を第三者に指示されながら闊歩しているのか? それは三十年前に起こった一つの惨劇に起因する。


 一九八三年。世界地図の紙面から、一つの国が消失した。紙の上ではなく、現実として実際に起こったことを語るならば、()()()()()()()()()。比喩ではない。物理的に、だ。


 小さな太陽。そう評すべき神格が突如として地上に顕現し、核の炎すらも生温く感じる灼熱で周囲の都市を舐め回したのだ。これが現代で神話災害と呼ばれることになる第一の出来事。


 前兆は無かった。いや、ひょっとしたら小さな異変はあったのかもしれない。しかし誰一人として、世界に狂気が満ち始める、その前触れに気付けなかった。それ故に、神格の召喚を防げる者もまた存在し得なかった。


 その神格を『生ける炎』クトゥグアという。クトゥグアは旧支配者と呼ばれる存在であり、人類が誕生する以前に地球を支配していたとされる。


 クトゥグアが出現した原因について、解明は全くされていない。当時の証拠品が全て火の海に溶けていったということもあり、関与した人間が居るのかさえ不明瞭なのだ。ただ、その日を境に、世界中で神話生物が見られるようになった。クトゥグアの眷属である炎の精を筆頭に、食屍鬼(グール)などの独立種族や下級奉仕種族が人間社会を跋扈するようになった。共通点はただ一つ。クトゥルフ神話に関連する異形であること。


 それからしばらくの間、人類は混迷期に突入した。


 対岸の火事を分析する暇もなく、足元でボヤ騒ぎが連続したのだ。満足な解決策も、具体的な対抗手段も無い。かろうじて従来の兵器が通用したものの、一時は中世の悪習である魔女狩りが、近世に再発しようとした程だ。もしも新たな神格が現れていれば、人類は躊躇わずに核というカードを切ったのではないかとさえ言われている。


 それ程までに、架空の存在であったはずの神話生物の侵略は不気味で、おぞましく、脅威であることを意識せずには居られなかった。


 人類が同族を葬ってでも神話生物を駆逐しなかったのは、偏に、有力な対抗手段を手に入れたからだ。


 その力は魔術。もたらした者を魔術師といった。毒を以て毒を制す。魔女は実在するという一点のみにおいて魔女狩りは正しかったのだ。特に日本の場合は、世界でも最高峰に位置する実力者が早々に表舞台へ顔を出したため、平和に向けて舵を切るのが迅速だった。


 その過程で設立されたのが七枷愛莉の所属する〈特殊防災戦略事務局〉である。


 人間が『魔』に抗うために組織された人類初の国防機関。


〈事務局〉の目的はただ一つ。国を守ること。そのために〈事務局〉に籍をおく職員には、国内に蔓延る神話生物を駆除し、危険思想に囚われた狂信者や魔術師を捕縛する任務が与えられる。


 七枷愛莉が深夜の街を徘徊するのもその一環。ただし、パトロールや巡回といった事件を未然に防ぐための活動は、彼女の職務に含まれてはいない。彼女が所属するのは〈事務局〉の中でも最も危険な実働部隊。即ち、事が起こってから駆り出される戦闘要員であるということ。


 また、彼女たちの活動は、国の障害となる存在が暗躍していることと等式で結ばれる。


 そして、今もまた不穏分子の排除という名目で彼女たちは夜の街を駆けているのだが、この任務はいつもとはかなり毛色が違っていた。


「こちら七枷。ポイント106に到着」


 気が付けば、愛莉は指定されていた地点に辿り着いていた。周囲には街灯一つ無く、真の闇が辺りを覆っている。


『了解しました。七枷局員はその場で待機。対象を発見次第、紅谷(べにや)局員の援護に回ってください』


 オペレーターからの指示は以上。ただの駒でしかない愛莉には分からないが、盤面を眺めている人間からすれば、今頃大掛かりな詰将棋が行われているのだろう。


 愛莉が現在立っている場所は大通りから二つ程通りを逸れた位置。神話生物が跋扈する世上では決して多くはないが、それでも深夜だからと言って車が一台も通れない程危険に満ち溢れているわけではない。にも関わらず、今日に限って人影は皆無。


 この近隣に避難勧告を出し、町一つを無人にした、と言えば理由としては合点が行くだろうか。何よりも今件に対する〈事務局〉、引いては国の本気度が伺える。


 今夜この周辺で起こったことは、微に入り細を穿った隠滅処理が行われるのだろう。徹底的なまでに。一欠片の情報も漏らさないよう入念に。その配慮に報いるために愛莉は地面にしゃがみ込むと、コートのポケットからプラスチックのケースを取り出す。


 形は長方形。大きさは彼女の掌よりも一回り大きい程度。そして愛莉はケースを開いた。中に入っているのは数本のチョーク。学校でぞんざいな扱いを受ける何の変哲もない道具である。ただし学校では滅多に見られない黒色の物を一本取り出すと、愛莉はケースを再びポケットの中へ押し込んだ。


 両膝と片手を地面につき、愛莉は手にしたチョークでアスファルトに文字を書き殴った。一文字だけを延々と、来るべき時が来るまで書き続ける。月と星しか明かりがないこの場所では、黒い白墨は顔を地面に近付けても判別は難しい。


 ただ、文字を刻む彼女のしなやかな指は、少しだけ震えていた。


 今夜、彼女たちに与えられた仕事は危険人物の捕縛というありふれたもの。しかし、この対象となっている人物は大きな問題を抱えていた。


「……影沼(かげぬま)(とおる)


 手は止めず、確認するように愛莉は捕縛対象の名を舌の上で転がした。音となって漏れ出た分は夜闇の中へ消えていく。この人物こそ〈特殊防災戦略事務局〉における黎明期の立役者。早い話が、組織の幹部が寝返って重大な背信行為を犯したというわけだ。神話生物関連の事件はどんな小さな物でも、メディアに大きく取り上げられる傾向がある。その中で〈事務局〉の重鎮が組織を裏切っていると公になれば、国民にどれだけの不信感を植え付ける結果になるだろうか。


 そしてそれだけではないことを、七枷愛莉は知っている。彼を生かしておけば、そう遠くない未来、三十年前とは比較にならない程の神話災害が発生することを。


 この任務が孕んでいる重要性を再認識し、愛莉は静かに呼吸を整えた。指先に残る震えを無視するように、大きく息を吸い込む。


 彼女には、対象を捕縛するつもりなど毛頭なかった。むしろ、殺すつもりでこの仕事に臨んでいる。


(――殺さないと。私が殺さないと、絶対に)


 そうして決意を新たにしたところで、彼女の耳に異変が届く。尋常ではない大気の唸りと、幾重にも積み重なったガラスの破砕音。スコールのような激しさで絶え間なく地面を叩く金切り音に、耳鳴りを強制的に聞かされ続けているような不快感が沸き起こる。


 ――来た。


 対象がこちらに接近していることを確信する。愛莉はアスファルトを白墨で塗りたくる作業をやめ、立ち上がった。


 壊滅的な音は前方から轟いてくる。愛莉は正面を見据え、自身が文字を書き殴った地面から離れるように後ずさる。そうして通りからは死角となる物陰に身を潜め、そこから建物の壁面を蹴りつけて上方へ飛び上がる。さらにエアコンの室外機や窓の落下防止柵を踏み台にして何度も跳躍を繰り返した。三階程の高さに達すると、排水管の留め具を足掛かりに姿勢を維持する。


 凡そ常人には不可能な運動の連続だが、この程度のことをこなせないようでは、神話生物と渡り合うことなど夢のまた夢。ただし、今回この技量を活かすべき相手は神話生物ではなく人間になるが。


 早まる心音を抑えるように、愛莉は再び深呼吸を繰り返す。緊張の所為か、喉がからからに乾く。胃の重たさは、まるで童話に出てくる腹に石を詰められた狼のよう。一人だけの空虚な空間には、自身が身動ぎする音が良く響いた。


 どうしても急いてしまう気を無理矢理にでも抑えようと、愛莉は自分に暗視の術を施した。夜闇を昼間と同じように見渡すため、先程からずっと行使していた術だ。だからこれは何の意味もない術の重ね掛け。ゲームのように効果継続時間が伸びるわけでもない。むしろ霊力を無駄に消費した分、大局的に見れば効果時間は縮まった。


 それでも、気を落ち着けるためには普段からやり慣れていることに没頭するのが一番だ。


 もっともらしい結論を下し、愛莉は音のする方向へ物陰から顔を覗かせた。地上三階から下界の様子を俯瞰すると、こちらに向かって走って来る人影を視認できる。


 ――二人、居る。


 前方を走るのは壮年の男。追従するは愛莉と同年代の少女。当然、どちらの顔にも見覚えがあった。少女――紅谷弥生(やよい)は現チームメイト。そして、男は〈事務局〉を裏切った捕縛対象だ。


 二人の疾駆の影響か、傍を通るだけで街路樹は不自然に軋み、圧に耐えられなかった周囲の窓ガラスは砕け散る。あたかも二人の間に颶風が渦巻いているかのような惨状だ。そしてそれは、あながち間違ってはいない。


「……対象を目視で補足。これより交戦に入ります」


 余裕を持って出来る最後の通信を終え、愛莉は祈るように囁いた。希うように謳い上げる。


「ソウェルよ、ソウェルよ」


 囁くように口ずさむ。ソウェルとは先程まで愛莉が地面に書き連ねていた文字の読み。これはルーン文字と呼ばれる音素文字で、古代から中世にかけて北欧のヴァイキングたちが使っていた物だ。


 二十五個からなるルーン文字には一つ一つに魔術的意味があり、書体は厳密に定まっている。アルファベットの筆記体のような崩した書き方をすれば、ルーン文字の真価が発揮されないためだ。そして、彼女が今回選択したのは太陽を意味する一字である。


 しかし如何に強力な意味を孕んでいようとも、これだけでは無神経に地面に書かれた落書きでしかない。彼女の口から零れ落ちた声が鍵となって初めて、炭酸カルシウムで描かれた特徴的な文字に魔術的な意味が付与される。


 現時点における愛莉が書いたルーン文字を例えるならば、構成された回路に主電源が接続されたようなものだ。回路に短絡は無く、状態は良好。後はただ起動するための合図スイッチを待つばかり。


 そして、道路を高速で走り抜ける男と少女が、ルーン文字を書き連ねた地点へと接近する。影沼徹が先行し、紅谷弥生が一定の距離を開けて追従するという構図には何の変化も見られない。だが、この逃走劇は愛莉が仕掛けたトラップによって終止符を打たれることになる。


 影沼の逃げ足が、膨大な文字群を踏み抜いた。


 その瞬間、光が爆ぜた。


 励起されたルーン文字に瀑布の如く霊力が迸り、太陽の意味を冠するソウェルは暗黒を斬り裂きながら天蓋へと光の柱を織り成した。清浄にして凄烈な光芒。行使した魔術は、愛莉にとっても会心の出来であり、並みの神話生物なら塵も残さず焼き払ったと確信できる。


 間髪入れずに、影沼の状態も分からぬまま、追走していた弥生が追撃を仕掛けた。指の間に挟んだ数枚の霊符は、白銀の風となって影沼に殺到し、人差し指と中指を立てて結んだ刀印からは、白刃の如き霊力が形成される。弥生は躊躇なく、刀印を影沼目掛けて叩き落とした。どれもが致死の威力を内包し、必殺と呼んで差し支えない攻撃である。


 一連の連撃に弥生は確かな手応えを感じていた。


 しかし、まだ攻勢は終わらない。


 弥生の連撃を見届けると同時に、愛莉は足場にしていた排水管を蹴って宙空に身を晒していた。大気の壁が愛莉を打ちのめし、コートの裾が幾度となく翻る。


 重力に囚われ墜落する最中、愛莉は先程文字を書くのに用いた黒色のチョークに新たなルーン文字を爪で刻んだ。刻んだ文字はアンサズ、ラグズ、ウルズの三文字を組み合わせた魔法を意味するルーン。


 次に松明を意味するケーナズの一文字を刻み付ける。


 魔法のルーンによって地力を底上げされたケーナズは、最早松明程度の火力には留まらない。本来ならば船を先導するための松明の炎が、船そのものを焼き払う烈火となる。


 そもそも、ルーン文字というものは、対象に直接文字を刻むことで効力を発揮するものだ。直線と四十五度の斜線からなる特異な文字は刻むことにこそ特化している。書くためではなく、刻むための文字。


 つまり、一文字あたりの単純な魔術的強度を比べれば、ただ物に書くよりも強い意味が付与される。


 土煙が巻き起こり、不明瞭な情景の中心へ、愛莉はルーンを刻んだ白墨を投げ入れる。


 直後、愛莉の眼下で灼熱の業火が広がった。蕾の開花を思わせるような優雅さで、爆発音と共に滞空していた粉塵を吹き飛ばし、新たな傷跡を街に刻む。


 肌を痺れさせるような重低音とは対照的に、軽やかな音を立てて愛莉は地面に降り立つ。度重なる襲撃の地盤となったアスファルトは埒外の熱量に耐えかねて、一部がガラスと化していた。その爆心地を弥生と挟む形で睨みつける。


「おー、愛莉ー。地雷紛いの魔術を仕込むなら一声掛けろよー。間違ってあたしが踏んだら死んじゃうだろー」


 粉塵と蒸気が入り交じる向こう側から、緊張感が欠片も伝わらない間延びした声が聞こえてくる。


「大丈夫でしょ。あんたならなんだかんだ言って生き残りそうだし、ウチの〈局〉はスタンドプレー厳禁なんて固いことは言わないしさ」 


 応ずる愛莉の口調も幾分軽い。


 少女たちの気楽さは、事が終わったことに起因する安堵感や達成感から生じるものではない。むしろ、その真逆の出来事が目の前で展開されているが故の諦観が原因だ。


「雑談に興じるのは結構。だけどこれ以上用が無いのなら、僕はもう帰ってしまっても構わないかな?」


 常人ならば何度死んだのか数えるのも億劫になる死地の中から、男の声が響く。


 大気が不自然に蠢くと、滞留していた土煙が払われた。


 明瞭になった視界の中で、影沼徹が傷一つ無く立っている。年齢は四十代後半。白いカッターシャツに黒いスーツ。赤が基調のストライプ柄のネクタイを締め、黒のロングコートを羽織っている姿は、どこにでも居る会社員というイメージを抱く。


「はー。やっぱり影沼は流石だよなー。あたしたちが殺すつもりでかかって行っても、敵とすら認識してないんだからなー」


 気楽な調子で、弥生が影沼に話し掛ける。


「まあ、僕も身勝手に組織を脱退したことは悪いと思ってるし、君たちとは穏便に事を済ませたいんだよ」


 そして影沼も、先程殺されそうになったことなど何の問題もないとばかりに、弥生と向かい合って会話に応じる。事実、彼は愛莉たちの行為を瑣事としか受け取っていないのだろう。だから簡単に、愛莉に背を向けることが出来る。


「悪いと思ってるなら大人しく投降してくれよー。影沼を捕まえるなんて無理ゲー、全局員を投入しないと無理じゃないのか。そんな難題にこれ以上あたしを付き合わせないでくれ。頼むからさー」


「まったく紅谷は。相変わらずの怠惰っぷりだな。出来ることならそうしてあげたいけど、僕ものっぴきならない用事を抱えてて、これ以上首が回らないんだ」


「その大事な用ってヤツは、国内の要所に設置されている結界の破壊ってことでいいのかしら? それは私たちを裏切ってでも完遂させないといけないわけ?」

 

 唐突に、愛莉が会話の中へ切り込んだ。


 静かな語調には押し隠したような怒気が含まれており、彼女の瞳からは影沼に対する憤りが見え隠れしていた。


 弥生から視線を外して振り返ると、影沼は愛莉の顔を驚いたように見つめる。知人の意外な側面を意図せずして覗いてしまったような、バツが悪い表情を浮かべ、言葉を返した。


「少し意外だ。七枷はもっとドライな子だと思っていたよ。誰が背信しようと、事実として受け止めて、それでおしまい。そんな風に割り切った考え方をする子だと思っていた」


 やっぱり、一つの視点に留まっていては見えないものがたくさんあるな。と、影沼は得心したように頷いた。


 その達観した態度が、知人を改めて冷静に分析している物腰が、愛莉は純粋に気に食わない。「何様だ」と罵りたくなる感情を抑え、彼女にとって身のある話を投げ掛ける。


「今の言葉は否定しなかったと受け取るわよ。……そうね。一つ聞きたいんだけど、貴方は一体何を望んでいるの?」


「僕の望みかい?」


「ええ。貴方の大切な用事っていうのはこの際どうでもいいわ。何を狙っているのかは分かってるわけだしね。でも、私には貴方の益が全く想像できないのよ。貴方自身が何を考えてその用事とやらを忠実に遂行しているのか、まるで分からないでいる」


「七枷。利益だとか、得分だとかさ。そういうのはどうでもいいと思わないか? 損得を抜きにしてやらなきゃいけないことがこの世にはあると、僕は思うんだ」


 ハッ、と愛莉は失笑する。まさかこの期に及んで綺麗事を聞かされる羽目になるとは予想だにしていなかった。相手の真価を問い、それが戯言で返されるというのは、なんと滑稽な絵面だろうか。最早怒る気力すら湧き上がらず、辟易しながら肩を竦ませる。


 これ以上の会話は無駄と判断し、影沼を見越して愛莉は弥生に視線を送った。


「私の代わりに場を繋げ」とでも言いたげな自分勝手なアイコンタクトに弥生は顔を顰める。


 そしてその視線にいち早く反応したのは、弥生ではなく影沼だった。


「もう用が無いのなら、ここを通らせてもらうよ。流石に、君たちに囲まれると抜けるのが大変だろうからね」


 言って、影沼は愛莉の立つ方向へ一歩踏み出す。


 直後、愛莉の手の内でコインが、弥生の指の間から白い紙片が、それぞれ間髪入れずに閃いた。災いや嵐という意味を秘めたハガラズ。桔梗印と共に呪言が書き連ねられた霊符。二種の魔術が影沼の生命を削らんと肉薄する。


 影沼に届く紙一重のところで、二枚の純白の羽根が少女たちの魔術を受け止めた。残存する寿命を殺ぎ落とす禍つ風を、雷光の如き熱量を孕んだ一閃を、優しく包み込むように防ぎきった。暴発にも似たエネルギーの余波が周囲に拡散し、街にばかり被害が広がる。


 届かない。普通の魔術では影沼の防御を抜くことは出来ない。


 彼の防御法を再認し、改めて、愛莉は自身が達成困難な決意を抱いたのだと思い知った。彼我の実力差は天と地程に隔絶している。かろうじて足止めが出来ているのは、影沼の人となりが甘いからに他ならない。突破しようと思えばいつでも出来るところを、元部下の誼みで付き合っているだけ。


 捕縛すらもままならず、殺害なんて論外だ。


 諦めるわけではないが、彼の命を奪いたいという思いは、今は胸の奥深くに沈めるしかなかった。


「馬鹿正直に通すと思う?」


 不敵な笑みと共に、彼女はそう宣告する。


 個人としての要望が叶えられないのなら、せめて組織の一員としての役目を果たす。


 そんな気概で以って、七枷愛莉は言葉を放った。


「通してくれるとありがたいんだけどね」


 対する男は苦笑交じりで言葉を返す。


 その態度はまさに自信の表れだった。何がどう転んでも、彼女たちに自分を傷付けることは出来ないという圧倒的な自負。遥か高みから二人の少女を睥睨する勝者の目。彼に害意が無い以上、問題はどうやって穏便に収めるかということに絞られる。


 平和的な解決の常套手段は対話になるわけだが、何の権限も持ち合わせてはいない一兵卒に交渉を持ちかけたところで、収束する結果は見えている。


 仕方ない、と影沼がもう一度無茶な要求を繰り返そうとしたところで、彼よりも先に「あー、悪いなー、影沼」と、愛莉の前方、影沼の真後から、否定の声が上がった。


 のんびりと、世界の方が自分のペースに合わせろと言わんばかりのルーズさで、彼女は告げた。


「もう影沼の逃げ道は塞がせてもらったてさー」


 その忠告が引き金になったかの如く、無人の夜の街に幾筋もの光明が降り注いだ。


 否。この表現には語弊がある。最早この街は無人ではない。三人が立つ一画を除いた闇の中には〈事務局〉の職員たちが犇めいていた。連携を取り、陣形を組み、策を講じ、檻を造る。その人数は十や二十では到底利かず、数の暴力と呼称するのに相応しい暴虐の限りであった。


 そして夜空を彩る光芒は、天からの贈り物ではない。地上に蠢く幾人もの魔術師たちが、凄烈なまでに儀式に取り組んだことの証左である。


 交錯する。真っ直ぐ天蓋へと伸びていた光の筋は、傾き、反射し、回析を繰り返しながら、一つの幾何学模様へ束ねられる。夜空という広大な黒地のキャンパスをふんだんに用いた、贅沢な絵画。この立体図形の輝きの前には、月明かりすらも霞んでしまう。


「うわ」


 影沼が声を漏らす。しかしそれは自身を囚える檻を見て絶望したからではない。ただ単純に美しい情景を目に出来て感嘆の声が漏れ出ただけだ。


「うん。確かにすごい。これは僕でも逃げ切ることは出来ないだろうね」


 純然たる事実確認として、影沼はそう口にした。焦りは無い。悲愴においてはもっと無い。困惑や失意を微塵も感じ取れぬ口調で影沼は続ける。


「流石にこれは――力尽くで通るしかなさそうだ」


 瞬間、莫大な霊力が三つの渦を形成する。一つは力任せにこの場を突破することを決めた影沼が。もう二つはそれを阻止しようとする愛莉と弥生が。現実世界に物理的な影響を及ぼす程に密度を高め、渦を巻く。


「――――」


 常人ならば呼吸すらもままならない中で、三人は互いに霊力を高めていく。炉に薪をくべるように。石炭をエンジンに投与するように。世界に満ちる力など一欠片も使わずに、己の魂を振り絞り、その生き様を高らかに謳い上げる。


心象兵装(オーナメント)招来(インストール)


 初めに術理を完成させたのは影沼であった。積み重ねた経験が、潜り抜けた修羅場が、年端もいかない少女たちとは桁が違う。


 よって、その神秘を発現させるのも、彼が最も速かった。


 影沼が立っていた場所に、白百合の蕾を思わせる純白の繭が顕界した。その清冽な色合いから、この世全ての穢れを防ぐ鎧のようにも見え、不可侵が約束された砦のようにも見えた。


 息を呑む。


 それは現代において最も神秘に近い法。魔術と比べることすら烏滸がましい神代の秘跡。


 愛莉たちが見ている前でゆっくりと真白が開いた。それは白百合が可憐に開花したと言うよりも、白鳥が優雅に翼を開いたかのよう。比喩もそのままに、愛莉と弥生の間には純白の羽根が雪のように舞っていた。


 影沼の背からは夥しい数の翼が生えていた。極めつけに彼の頭上には光輪が輝き、その姿は天使と見間違える程に神聖なものであった。


「監視者にして記録者にして執行者。『王座の背に使える者』メタトロン。その心象兵装を間近で見ることが出来るなんてまったく感涙ものだなー」


 この場に生まれた静謐な空気など知ったことではない。


 そう言いたげに弥生は極々軽い口調で、茶化すように影沼を評した。


 しかし、張り詰める空気は本物であり、迸る霊力は剃刀の刃のように鋭く研ぎ澄まされている。


 弥生の手の中で霊力が一つの力を形作るその瞬間。


 先んじて影沼が顕現させた翼を大きく羽撃かせるその瞬間。


 愛莉は二人よりも遅れを取り、未だ霊力を凝縮し、圧縮し、凝固させている最中、それは起こった。


 側面のビルが――爆ぜる。


「――――ッ!!」


 ガラスやコンクリート片を纏いながら五メートル大の物体が、轟音を伴い影沼目掛けて落下する。「テケリ・リ」と聞き取れる奇っ怪な絶叫を発しながら。


 そして、続く哄笑。音源は爆ぜたビルの中からだ。


 突然のことに全員の意識が巨大な物体へ注がれる。それは月明かりを受けて玉虫色に輝いている液状の生命体。神話生物であることは疑いようがなく、愛莉はソレをショゴスと判断した。


 さらに、愛莉はショゴスが吹き飛んで来た雑居ビルへ視線を上げる。彼女の視線上では、白髪の少年がビルに空いた大穴の縁に足を掛け、こちらの様子を見下ろしていた。


 視界の隅では影沼の心象兵装が降りかかるショゴスや瓦礫を切り刻んでいる。純白の翼の一枚一枚が鋭い刃となり、神話生物を解体している。


 しかし、突如として乱入した神話生物など影沼は眼中に無い様子で、彼の視線は白髪の少年のみに注がれていた。


「――そうか。君が」


 小さく影沼が呟く。その呟きが耳に届いたのか、白髪の少年は不敵な笑みを深めた。二人の間で視線が交錯する。その繋がりを断ったのは、影沼の方であった。


 影沼はもう一度、翼を大きく広げた。聖書の一節を完全に再現したかのような光景は、見る者に美しいという概念を強要する。はたと気付いたときにはもう遅い。


 影沼は、優雅とも言える所作で大空に飛び立っていた。去り際に純白の翼を少年へと放ちながら。宝玉のような輝きを発する一翼は大穴が空いたビルのフロアを破断する。


 だが、この世の物質では再現することの出来ない鋭さを持つ刃翼は、少年の手刀に力負けた。神話生物を解体した筈の白翼は、現界を保てなくなり霞のように消えてしまう。


 この展開は誰にとっても予想外のものだった。ショゴスの乱入。無関係の人間に向けられた影沼の必殺の攻撃。そしてそれをいとも容易く打ち破る謎の少年。


 それが大きな隙になってしまったのだろう。逸早く立ち直った影沼を妨害する術は愛莉たちには無く、彼の心象兵装は〈事務局〉が総出で張り巡らせた結界を紙のように斬り破った。


 結界が裂けた隙間から、純白の翼を大きく羽撃かせ、影沼は夜闇の中へと溶けるように消えていった。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ