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5億km²の牢獄  作者: Wolke
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02:遭遇

 早春。暦の上でこそ春は訪れているが、まだまだ肌寒い気候が続き、防寒具が手放せない季節。その中でも、太陽の恩恵が無くなり、最も冷え込む真夜中のこと。日中の人通りが嘘のように途絶え、昼間とは全く違う顔を覗かせる深夜の商店街。時間帯の問題もあり、通りに面している店は軒並みシャッターを下ろしていた。


 そんな人気のない商店街を、悠々と歩く少年が一人。彼の歩みによって寂寞とした商店街に靴音が広がる。地面に敷かれたタイルを踏み鳴らす音が木霊し、昼間は利用者で賑わうことを思うと、より一層寂寥感を増幅させる。


 その中を少年が呑気に歩いて行くというのは、かなり異質な光景である。少年はジャケットに袖を通し、下はデニムといった装いだ。格好こそ普遍的ではあるものの、少年は人目を引く一つの特徴を有していた。それは、白髪であること。髪の根元から毛先まで、混じり気のない白色が、少年の歩みに合わせて揺れていた。


 頭髪によって実年齢が推測しづらいが、青年と呼ぶには僅かながらに顔立ちに幼さが垣間見える。もしも巡回中の警官と鉢合わせれば、補導されることは必至であろう。


 この白髪の少年の名を、天笠(あまがさ)征悟(しょうご)といった。


 そして唐突に、彼は落胆の色を含んだ息を吐き出す。当てが外れたと言いたげな、失望に染まった視線をあちこちに寄越す。店を隔てる細い路地。透明性の高い素材が採用されたアーチ状の天井。見渡せる範囲の死角を潰すように動いてはいるが、何かが潜んでいる気配はない。


「おいおい。誰も居ないってどういうことだよ」


 話が違う。と、心中で呟き、征悟は商店街を通り抜けようとした。


 本来なら、彼はここで人と会うつもりでいた。しかしその探し人はどこにも居らず、征悟は目的の人物と邂逅を果たすことが出来なかった。とは言っても、元々待ち合わせをしていたわけではない。相手がこの近辺に潜伏しているという情報を入手し、遥々ヴァチカンから急いでここまで飛んできたのだ。


 信頼出来る情報筋であっただけに、空振りに終わったことが残念でならない。


 そうして仕方なく人探しは諦めて、今夜の宿をどうするかといった極めて現実的な問題に征悟が取り掛かろうとしたときだ。彼のポケットに入っていた携帯電話が軽快なメロディを歌い上げる。画面を確認すると、発信元は公衆電話。直感的に相手を察する。見計らったタイミングと今日日携帯電話を持ち歩かない主義を貫く変わり者。そんな人物が彼の身内に一人だけ居る。


 当然それは深夜徘徊を心配した両親からではない。自分と同じ様に放蕩している妹であり、今まさに征悟が探している張本人でもあった。


 彼らは今、ひとつのゲームをしている。


 簡単に言えば鬼ごっこと同じもので、逃げ隠れしている相手を見つけ出して取っ捕まえること。ルールに細かい縛りはなく、基本的には何をやっても構わない。それを言い訳にして、征悟の妹は連日のように深夜遅くまで街中を彷徨っている。


 昨今では世界中どこへ行っても、治安面は最悪の部類に該当する。深夜徘徊なんて真似は本来なら自殺志願と捉えられてもおかしくはない暴挙なのだ。あの妹に限って大事があるとは考え難いが、この単調なゲームに飽きてきた征悟としてはさっさとエンディングを迎えたいところであった。


 捜索が空振りに終わったこともあり、少し煩わしく感じながらも、征悟は携帯を通話状態へ移行させる。着信音として適当に選んでいたクラシック音楽が寸断された。


「もしもし」 


 定型句を口にしながら、征悟は次に告げるべき言葉について考えをまとめていた。いい加減ふらふらするのはやめて顔を見せろ。そんなニュアンスを含んだ皮肉めいたことを言ってやろうと、唇を震わせようとした。


 しかし征悟が口を開くよりも先に、電話口からは、相手を小馬鹿にしたようなせせら笑いが零れ落ちた。当然ながら声の主は征悟と同年代の少女のもの。若く生気に満ちた声は熟れた果実のように瑞々しく、また、小鳥のさえずりのように可愛らしいものであった。


 美声。少女が上げた声は笑い声の一つだけにも関わらず、そう評するのが相応しい声質の持ち主だと確信できる。そしてその笑い声だけで、どんなに鈍感な人間でさえも、少女の性格が相当に歪んでいることを実感できるだろう。


 征悟の直感に狂いはなく、やはり電話相手は自身の妹であった。


 くすくすと、尚も堪えることのない笑い声。征悟はその笑みに込められた真意を訊ねた。


「さっきからなんだよ。お前は他人に笑い声を聞かせていないと死んでしまう病にでも罹ったのか?」


 すると、すぐに電話口からは否定の言葉が流れ出た。


『そんなわけないじゃない。ただ、わたしは人探しが難航しているお兄ちゃんを嘲笑いたいだけよ。そんな分かりやすい場所に、本当に隠遁者が居ると思っているの?』


 そう言って、麗しい妹君は露骨に嘲笑を浴びせてくる。


 一昔前は無性に息の根を止めてやりたくなったものだが、今となってはこの程度のことで心を乱す真似はしない。溜息を一つ吐き出し、いつものことだと受け流す。


「あーはいはい。で、何か用か? わざわざ電話を掛けてきたくらいなんだから雑談に興じたいだけじゃないんだろ?」

 

 当り障りのないことを宣いながら、商店街を出た征悟は方々へ視線を送る。妹のこちらを見ているような言い様は、奇を衒うこともなく征悟を観察しているが故の発言だと受け取って構わないだろう。この近辺には居る筈だと征悟は当たりを付ける。


 そしてこんなにも人気がない場所なのだ。妹の()()を考えるなら、こちらからも常に観測できる場所に居なければ道理に合わない。


 征悟の観察眼を嘲笑うかのように、妹はまた笑い声を上げる。ころころと鈴を転がすように。あくまでも、澱みなく清らかな音色を発する。


『そうね。用事と言えば、用事かしら』


 妹がもったいぶった言い方をする奥で、車のエンジン音が聞こえてきた。その重低音の響きは排気量が多いことを容易に想像させ、乗用車ではなくトラックの類だと思われる。


 エンジン音を耳にした直後、征悟は手近な電柱の頂きに向けて()()()()()()。道具を用いたわけではない。助走すらもしていない。にも関わらず、たん、と軽快な音を鳴らし、征悟は危うげなく電柱の真上に着地した。感慨もなく、征悟は眼下に広がる街並みを見下ろす。


 商店街を抜けた先では、オフィスビルが立ち並び、決して見通しの良い景色ではない。征悟はさらにそこから、手近なビルの屋上に向かって跳躍する。また一段高くなった場所からは、先程よりも良く街を見渡すことが出来た。屋上に備えられた鉄柵を足掛かりに、征悟は目を凝らし、暗闇を見透かす。


 闇夜を斬り裂きながら猛進する車はいとも簡単に見つけ出すことが出来た。征悟が降り立ったビルの真下を車が通過して行ったのだ。ただ、眩いばかりのヘッドライトを点灯させた車はトラックなどではなく、高機動多様用途輪車両と呼ばれる軍用車両だったのだが。


『まったく。跳んだり跳ねたりと、忙しないわね』


 電話越しに跳躍の際に生じた風切り音が聞こえたのだろう。妹は呆れたような声を出す。


『まあ、これから嫌という程忙しくなるんだけど』


「お前こそ、一体何を企んでやがるんだ?」


『あら、わたしはいつだって、自分の幸せとお兄ちゃんの苦難しか考えていないわよ』


「最ッ高に心躍る返答をありがとう、妹様」


『どういたしまして』と嘯く妹の声は、新たに生じた風切り音によって、途切れ途切れになりつつも、征悟の耳に届いた。その原因は、強風が吹き付けたわけではなく、征悟がビルの屋上から軍車が来た方向へ飛び降りたことに起因する。オフィスビルの階層は数えていないが、地上までの高さから予想するに、五階は軽く越しているだろう。

 

 そんな高さから彼は重力に身を任せたわけだが、本人は至って冷静に着地点を見据えていた。そして地面と彼の両足が接地した瞬間、落下の衝撃は全て前進するためのエネルギーへと変換され、征悟の身体はバネ仕掛けの人形のように射出された。その勢いは発射された砲弾を連想させる。彼は徒歩であるものの、純粋な速度なら車にも引けを取らない程だ。その代償として、彼の異常なまでの脚力を支えたアスファルトの大地は、軋轢という名の悲鳴を上げ、幾筋もの亀裂が生じ、舗装の意味を成さなくなったが。


 しかし、天笠征悟本人に明確なダメージは介在しない。人間離れした肉体の強度を以ってして、彼は深夜の車道を走り抜ける。幸いにして、この時間帯に外出しようなどという人間は居ないらしい。先程見かけた軍車を最後にして、道路には一台足りとも通行してはいなかった。


『話を戻すわね』


 と、何事も無かったように妹は先程の会話を再開する。こちらの都合などお構いなしな態度は、実に実妹らしいものだ、と征悟は地面を蹴りつけながら感想を抱いた。


 高速で大気の壁を突き抜けることにより、若干音声が聞き取りづらい。征悟は聴覚に集中すると同時に、妹が居ると推測される場所との距離を計っていた。先程の軍車が妹の近くを通り過ぎ、征悟の眼下を通過するまでに掛かった時間。加えて凡その軍車の速度を推測すれば、ある程度の距離は導き出せる。このゲームにも、ようやくチェックを掛けることが出来るだろう。


『わたしがわざわざお兄ちゃんに連絡を取ってあげた理由だけれど、急がないと第三者にこのゲームの景品を台無しにされちゃうわよって警告をしてあげたかったの。お兄ちゃんも、景品があるからこそモチベーションを上げてたところがあるでしょ? 楽しみにしていた物を横から取り上げられたら、お兄ちゃんでも傷付いちゃうかしら?』


 くすくすと妹は笑う。


「つまり、ここに来てお前は、俺にタイムアタックを持ち掛けようってわけだな?」


『ええ。そういうことになるわね。お兄ちゃんがするべきことは何も変わらない。勝利条件も変わらない。ただ時間制限が出来ただけよ。どう? 伸るか反るか、やってみる?』


 征悟は歩調を緩めた。


 妹が放つ煽るような物言いとは一切関係なく、軍車の移動距離から導き出された地点に近付いたためだ。


 そして妹に返す言葉は、考えるまでもなく決まっていた。


「――いいぜ、乗った。どの道ここで降りたら、クリア報酬も何も無いクソゲーに付き合わされるだけだしな」


 元々こんなゲームという名の余興に付き合って、共に深夜徘徊をしているくらいだ。天笠征悟には初めから妹の誘いを無碍にする選択肢は無い。加えて、理不尽に難易度を上げてくれたことにより、俄然やる気が湧いてきた。


『ゲームは最高難度じゃないと盛り上がれないなんて、なんてMっ気の強い兄なのかしら』 


「そういうお前は真性のサディストだったな。しかも邪神のように性格が捻り曲がりやがって」


 軽口を叩きながらも、征悟は携帯のスピーカーから漏れ出る音を聞き逃す真似はしなかった。集中力を切らさなかったからこそ、征悟は二つの物音に気付くことが出来た。一つは電話口の向こうから聞こえたゴトンという金属がぶつかり合うような重い音。もう一つは、征悟の耳に直接届いたカタンと響く軽い音。音の発生はほぼ同時。


 この音源に妹が居ると征悟は確信を抱き、微かに音が響いてきた方向へ進路を曲げる。今まで直線的に走ってきた道路から逸れ、ビルとビルの狭間に出来た路地へと身を躍らせる。しかし路地に入っても、人影を見受けることは出来なかった。


 代わりに、そこには明確な異変があった。


 ガタン、ガタン、と繰り返しマンホールの蓋が音を立てる。五十キログラムを優に超える鉄製の円盤は、内側から強打されているように軋みを上げていた。マンホールの蓋は障害物にならないよう道路を平坦にするために、相当な重量が掛けられ、強靭な造りになっている。そんな構造を嘲笑うかのように、ガタンと異音が響く度、蓋は少しずつ持ち上げられる。


『そうそう、言い忘れるところだったわ』


 妹が何かを嘯いている最中、ガキン、と今までとは異なった音が征悟の耳朶を叩いた。その音は、金属が折れる破砕音。地獄の釜の蓋を抑えていた閂が外れたような、絶望的な響きを伴っていた。


『この近辺には人じゃないモノも潜んでいるから、十分気を付けてね、お兄ちゃん♪』


 うきうきと、弾むような声音で言い捨てて、妹は通話を切った。


 そして悪態をつく暇もなく、重い打撃音が奏でられる。マンホールの蓋が迫り上がる。間欠泉を想起させる勢いで、重量のある鉄蓋は空高く舞い上がった。マンホールから噴出したのは、タールから生じた水泡を掻き集め、圧縮したかのような、異様な柱。ドロリと粘性を帯びたそれは、立ち所にアスファルトの地面を穢し、尋常ならざる臭気を周囲に振り撒く。


 溢れ出る。月光を受け、玉虫色に輝きながら、ソレはマンホールから這い出てくる。体表では一部の粘液がてらてらと緑色に明滅し、その光は巨体の至る所で確認できた。そして、征悟にはその緑色の光源が何なのか理解できた。理解できてしまった。


 あれは『眼』なのだ。明滅するのは、アレがまばたきを繰り返しているから。ジッと観察していれば決定的瞬間を目撃できる。体表のあちこちに眼球が生み出され、ある程度時間が経過すると、原形である泡沫の塊のような、不定形な肉塊へと還元されるのだ。


 不気味。そして異様。地球上では考えられない進化を遂げた生命体が、矮小な人間を睥睨し、君臨していた。何の変哲もない路地が、この瞬間に限り人間を葬るためだけの処刑場へと変質した。


 神話生物、と呼ばれている。


 理由としては、姿形がこの世の物ならざる形状をしているから、というだけではなく、その奇怪なモンスターたちがある種の神話体系に沿った外見をしているからだ。その神話をクトゥルフ神話という。


 約三十年前から人々の前に姿を現し始めた異形たち。人智を超えた怪異共が悪逆の限りを尽くし、それによって生じた被害を人は神話災害と呼び習わした。


 アスファルトコンクリートが砕かれる。数瞬にしか満たない空の旅を満喫したマンホールの蓋が再び重力に絡め取られ、地上へ激突した音だ。マンホールの蓋は幾度か地面を跳ね回ると、運動エネルギーを失って静止した。


 その衝突音で征悟が我に返る頃には、眼前に居る怪異――『玉虫色の悪臭』ショゴスは直径が五メートルにも及ぶ球体へと変状していた。月明かりで眼光が緑色に瞬くのは変わりない。それでも、神話生物が持つ百を優に超える眼球に射抜かれたとはあっては、並みの人間ならばたちまち精神に異常をきたすだろう。


 静止する征悟を尻目に、ショゴスは自身の巨体を縦に裂いた。裂け目から覗くのは夥しい数の牙。その奥には一筋の光明ですら呑み込んでしまう深い深い闇が広がっていた。


 捕食される。数瞬後に起こり得る未来を征悟が幻視すると同時に、「テケリ・リ! テケリ・リ!」と奇矯な音が鼓膜を震わせる。それはショゴスが発した声であったか。ショゴスの肉声は人間を嘲弄するかのように大気を伝播し、聞いた者の正気を削るような悪辣さを伴っていた。


 人に嘲笑を浴びせるのは彼の妹もよくすることだ。しかしあれとは限度が違う。内包した悪意の質が、声に孕んだ喜悦の量が、人の根幹を揺るがさんと暴虐の限りを尽くしている。人を発狂させる力を持った声で「お前を殺す」と宣告されてしまった天笠征悟。彼が見ている前で、恐怖を煽るようにショゴスは迫る。大口を開けて、迫る。


 彼は逃げなかった。そもそも逃げるという選択肢が欠落していた。一歩たりとも足を動かさず、自身に迫り来る異形の怪物をただ見据えるだけに留まっていた。


 捕食者にして処刑人。自身を襲う明確な死が間近に迫ったところで、彼は笑った。もう堪え切れないとばかりに笑い声が漏れた。オモチャを与えられた子供のような無邪気さで、悪心や害心が欠片も聞き取れない純真さで、無垢なまでの哄笑を上げた。


 気が違ったわけではない。彼の瞳には確固とした理性の光が宿り、現状を冷静に分析している。何分高揚している最中の出来事なので、平静とは言い難いが、それでも自分の置かれた状況は仔細無く把握していた。


 その結果が哄笑である。なんてことはない。常人ならば死ぬことを約束されたシチュエーションでも、彼にとっては踏みしだくことが決定している瑣末な逆境でしかないのだ。


 突如として降って湧いた生存を懸けたゲーム。その難易度を推し量り、天笠征悟は心の底から楽しそうに呟いた。


「これだから、あいつとゲームに興じるのはやめられない」


 一度は人類を絶望の淵に追いやった神話生物を相手に、彼は拳を固く握る。

 

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