18:革命
メタトロンが活動を停止する様子を、天笠征悟はただジッと眺めていた。神々しい光の巨人の中から、紅谷弥生が愛莉と影沼を引っ張り出しても、征悟は我関せずといった態度を貫いていた。
中核を成す宿神憑きが体内から消えたことにより、メタトロンの存在が希薄になる。これにより、背理に塗れた人間界を浄化し尽くすという天使の意向は完全に妨げたと言っていい。にも関わらず、征悟の顔色は暗く、晴れることはない。
光が差した。東の空は白み、麗らかな春の日差しが世界を照らす。
太陽という外界からの刺激を受けて、メタトロンの消滅はやや遅くなったようだ。
背後で飛び交う局員同士の言葉は全て無視し、征悟はメタトロンを、御前の七天使を見透かして、天空を睨み続けた。
この結末は、彼ら兄妹の趣味ではない。成程。死ぬことが確定している男を救い出すのは、程々に難易度の高い試練と言える。しかしその程度の苦難、征悟にとっては物足りないし、瑠華ならばさらに難易度を上げようと妨害工作を試みるだろう。
だが今回に限っては、瑠華は信じられない程に協力的だった。シナリオを最後まで導くため、過度にヒントを与え、必要以上にプレイヤーとの接触を図った。長年における、唾棄すべき最愛の妹との付き合いが告げている。これで終わる筈がないと。ここまでは、予定調和に過ぎないと。
故に、征悟は待つ。暴走したメタトロンなんてものまで持ち出して、瑠華が見たかった光景を。征悟自身が待ち望む、血沸き肉踊る命を賭した遊戯を。
そしてメタトロンの現界に猶予が無くなり、その姿形が薄れていく最中のことだ。
征悟の背に重みが加わった。体重を預けるように、小柄な人間が凭れ掛かってきた。
「待たせたようね」
その人物はくすくすと、意地の悪い声で笑う。その言葉は蜜であり、毒。鈴を鳴らす可憐な声は、小鳥の囀りを連想させる。そして虜にした者の眼球を啄む悪辣さを孕んでいた。世界広しと言えど、聞く者に根源的な警戒心を煽る邪悪な存在を、天笠征悟は一人しか知り得ない。
自然と口角が釣り上がり、哄笑を噛み殺すのに苦労する。
「なに、気にすんな。腕の火傷を回復させる、ちょうどいい時間潰しになったからな」
これでようやく、長く続いた鬼ごっこも終了だな。と、待ち望んだ声に反応し、天笠征悟は戯けながら振り返る。
体幹の駆動を察した小柄な人物は素早く身体を征悟から離すと、正面から両腕を広げて抱きついてくる。
征悟の眼下では、朝日を浴びて銀色の髪が煌めいていた。服装は先刻と何も変わらないゴシック調の優雅なドレス。夜色を纏った格好は一人だけ世界から浮き出しているかのようだった。
最愛の妹の姿を目にしたとき、征悟の胸の内に湧き上がった感情は――安堵。天笠瑠華が胸を貫かれた程度で死ぬ筈がない。それが彼女の心象兵装の特性だと理解していても、死んだという事実は覆らない。その結果は呪術的にも収束し、術者本人を蝕む。
そして――天笠瑠華は言う。一度死んだことなど瑣事に過ぎないと言わんばかりに。
「少し前座が長すぎたかしら? 退屈を持て余していたのなら、謝るわよ」
「いいや。割りと面白かった。消化不足ではあるが、今のままでも程々には満足してる」
「そう。なら、余興はここまでよ。これからはお待ちかねの『景品』贈与といきましょう。傷も癒えてるみたいだし、ね」
その両腕、酷使しても問題無いわね? と、少女はこの上なく邪悪に口端を歪める。その笑みに獰猛な哄笑が呼応した。
「しくじるなよ、愚妹」
「あら? 誰に向かって口を利いているのかしら、この愚兄は」
征悟は先日から再三やっているように、瑠華の背と膝裏に手を回すと、勢い良く跳躍した。
そこに一切の説明や確認はない。瑠華を抱きかかえると同時に、征悟は全力で地面を蹴りつける。その行為を当然のように受け止め、瑠華は征悟の首周りへ手を伸ばすと、より身体を密着させる。
言葉にせずとも、互いの次の行動を読んでいる。読まれていると信じた上で、常人では対応しきれない行動に出る。
この時、征悟が瑠華を抱えて跳躍した先は、メタトロンの遺骸と呼ぶべき肉体だった。
そもそもメタトロンは純粋な天使ではない。旧約聖書『創世記』では、元はユダヤ人の祖先・エノクと呼ばれる人間だったと書かれている。
『創世記』では、登場人物の死は「彼は死んだ」と曲解しようもなく直接的に書かれている。しかし、エノクだけは「神が彼を取られた」と記述されているのだ。つまりエノクは、死後神によって天界へ導かれたことになる。彼の死は、天界へ通じていることになる。
そして、征悟と瑠華はメタトロンの内界へ侵入を果たす。整然と呼ぶにはあまりにも味気ない、虚無に似た空間。宿神憑きとなった影沼の内面を知る瑠華ならば、彼の心象を物の見事に表していると絶賛したことだろう。
しかし、征悟は宿神憑きのプロファイルに興味はない。彼が注目すべき点は、この秩序立たせる物が無い空間で唯一存在している階段だ。
先程の考察では、エノクの死に準ずるものは天界に通じていることとなる。
そこへ瑠華は、さらにもう一つの伝承を加味したのだ。その伝承こそ、ヤコブの梯子。物質界らしい現象の名は薄明光線。太陽の角度が低い早朝や夕方に見られる自然現象だ。この自然現象は、非日常的な荘厳さと神々しさを併せ持ち、宗教的意味合いを強く持つ。
ヤコブの梯子とは、『創世記』の中でヤコブが見た夢の中に登場する梯子のことだ。雲の切れ間から光が差し、その光を天使が昇り降りするのに用いたという。
現在の時刻は早朝。メタトロンの登場と『夢移り』の力によって、本来の惑星の運行と僅かながらズレが生じている可能性があるが、東の空からは太陽は昇り始めたばかりだった。
天界へ通じている二つの伝承を利用し、征悟は魔力で形作られた階段を疾風の如き速さで駆け上がっていく。
「ふふっ」
代わり映えしない景色の中、進んでいるのか怪しくなる疾走の最中に、瑠華は含み笑いを漏らした。
「……なんだよ?」
人ひとりを抱え、超人的な速度で疾駆しているというのに、征悟は息一つ乱していない。むしろ、階段を蹴る力を増した。ヤコブの梯子を大破させるつもりかと勘繰ってしまう力で跳躍を繰り返す。それは最早、駆けるというよりも、中空を翔けている。
そんな只中であっても、瑠華は悠然と微笑むことをやめはしない。彼女の鋼の精神と胆力の前では、虚勢を張る場面ですらないようだ。姿勢こそ窮屈そうに、しかし態度は自然体のまま、瑠華は征悟に語りかける。
「ホント、お兄ちゃんてば取っ替え引っ替え節操が無いわね」
お姫様抱っこのことを指しているのだろう。まだ世界が暗闇に包まれていたときも、瑠華は他の女との接触の頻度を揶揄していた。
「場の流れっつーか、急いでるときはこうした方が楽ってことに気付いたんだよ」
「我が兄ながら、なんて色気のない理由なのかしら。美少女を抱けるのだから、もっと喜びを露わにしたら?」
「徐々に貧相になっていく女体に何を喜べと」
小柄で、起伏に乏しく、肉付きも悪い妹の身体を抱き、征悟は端的に告げた。
「だったらお兄ちゃん好みに成長してあげましょうか? わたしに肉体的特徴が何の意味も成さないことはお兄ちゃんが一番良く知ってるでしょ」
「マジでそれやりやがったら運搬方法変えるからな。お前を全力で投擲した後、着地点でキャッチするようなやり方に」
物理法則くらいは守りなさいよ。と、瑠華は肩を竦め、色の薄い花弁を征悟の耳元に近付ける。そして吐息を吹き掛けるように囁いた。
「お兄ちゃんは在るがままのわたしが大好きだものね」
にまにまと瑠華は笑う。不安を煽る笑い方は不思議の国の猫を彷彿とさせた。
「はいはい。その通りだよ。愛してるぜー、妹ー」
淡々と、征悟は心にも無いことを宣う。
そして告白に近い言葉を喋るよう会話を誘導した瑠華は、露骨に柳眉を顰めていた。豪奢な姫袖の下では、皮膚が拒否反応を起こしたように粟立っている。
「……想像以上に、クるものがあるわね」
苦々しく、瑠華は呟く。
「お前さー。俺をからかうためだけに、自分が被るダメージを度外視するの、やめた方がいいと思うぞ」
「まさかお兄ちゃんの愛の言葉をここまで薄ら寒く感じるなんてね……。マプローとショゴスを身体に入れたときよりSAN値が下がったかもしれないわ」
「お前の愛情表現も相当に歪んでるからな。人のことを言えると思うなよ」
「お互い様でしょ。小さい頃から特殊なプレイに興じてきた所為で、言葉よりも行為に重きを置いてしまっているものね」
「まったくだ。娯楽のためとぬかして、魔術師や宿神憑き相手に喧嘩を売り続けるなんて正気の沙汰じゃねぇや」
「もうわたし以外じゃ満足できない身体になってるくせに」
「とっくの昔に俺抜きじゃあ物事を考えられないお前が言うか?」
けらけらと、からからと、兄妹は互いに笑い合う。からかっているのか、貶しているのか、判断の付かないやり取りだが、離れていた時間を埋め合うように語らうことをやめはしない。
そして、この僅かな雑談の間に、征悟はヤコブの梯子を踏破した。階段を登り切った先には幅数メートルの石畳が伸び――門がある。眼下には白い雲海が広がり、駆け上がった階段はすでに消失したようだった。見上げれば蒼穹がある。浴びるだけで安らぐ光が、天上から降り注ぐ。下界との仕切りは無い。空気を踏みしめているかのような、空中庭園の縁に立っている浮遊感。
人間を睥睨する重厚な門は人の身には大き過ぎ、とてもではないが開閉など出来そうにない。まさに神や天使御用達といった空気を醸している。
その門を見るだけで、征悟はわけの分からない安寧を得た。久しく離れていた実家に帰ってきたような、自分の居場所がそこにあるという安心感に包まれる。
抱きかかえていた瑠華を石畳の上に下ろすと、征悟は雑談の延長のように口を開く。
「成程ね。天国ってのは恐ろしい場所だな」
「この門をくぐる者、一切の絶望を捨てよ。って、ところかしら」
くすくすと笑い声を上げる瑠華の前で、靴音を鳴らしながら征悟は門に歩み寄る。
「――宣戦布告は譲ってもらうけど構わないよな?」
征悟は背後の瑠華へ、肩越しに問い掛ける。
「ええ。わたしたちは神様の居住区にまで殴り込みに来てるんですもの。来訪の旨は分かりやすく伝えないとね」
妹の返答に、征悟は「そうかい」と愉しげに呟くと、牙を剥き出しにして獰猛に笑った。
そして天笠征悟は、渾身の一撃を門に見舞う。埒外の脚力を持った人間が放つ、遠心力を十全に乗せた回し蹴り。人間が生身で出せる筈がない衝突音が静謐な空間に響き渡る。
門が軋む。華麗な装飾が消し飛ぶ。門は内側へ強引に曲げられ、過負荷に耐え切れず吹き飛んだ。門を固定していた神の技術を、征悟は蹴り一つで打ち破る。
門があった場所の空間がねじ曲がり、白薔薇が咲き乱れる絶景が顔を覗かせた。そこは穏やかな場所だった。一呼吸するだけで、胸中のざわめきが鎮まり消える。一目見るだけで、昂ぶった激情が凪いでいく。しかし、それは常人での話。天笠征悟のメンタルには、何の影響も与えられなかった。
「思ったよりも脆いな。耐震強度偽装してんじゃねぇの」
大した感慨もなく、征悟はこの世で最も特別な空間に踏み入った。俗に『天国』と呼ばれる場所へ。荘厳な空気が震と揺れた。無作法に踏み入ったならず者へ、世界そのものが警告を発している。
天笠征悟と天笠瑠華。二人は正面から、神に喧嘩を売りに来たのだ。メタトロンのような存在はただの尖兵でしかない。彼らを無力化したとしても、それでは元の木阿弥だ。放っておけば、いずれ人類は滅びを迎える。故に、それをさせぬためだけに、兄妹は遥々天国にまでやってきた。
「心象兵装・招来」
慢心は無い。兄妹は声を揃えて、己が心象兵装を顕現させた。
顕現させたとは言っても、この兄妹の兵装は少々特殊な造りになっている。
「――『人路扶征』」
自身の心象兵装を、天笠征悟はそう呼称する。彼の宿神はアダム。蛇に唆され、エデンの園を追放された原初の人間。何の因果か、彼は今自分に宿った神のルーツに挑んでいる。
七枷愛莉のように、分かりやすい武具を手にしたわけではない。目に見えた変化は起こらない。
『人路扶征』の能力は至って単純である。人類の総力を統べること。アダムが楽園を追放され、発展を重ねてきた人類の軌跡を、個々の人間が経験により勝ち取った獲得形質を、天笠征悟は自分の力として扱うことが出来る。
日頃のずば抜けた身体能力も、宿神の影響であった。人類種の原型として九三〇年生き続けた精気を、征悟は余すところなく十全にコントロールする。
比喩でも謙遜でもなく、彼は個人にして、七十億人の人間と相対する能力を秘めているのだ。
片手で、空気を軽く薙ぐ。それだけで外敵を排除しようとする天国の防衛プログラムは一掃された。突発的に吹き荒れた嵐が、一面に咲き誇る白薔薇を散らし、迫る天使軍を吹き飛ばす。さらに大地を蹴りつける。土砂は天地を見失ったように慌てふためき、散り散りになって逃げていく。巻き上がる土砂は地崩れというよりも、砂漠の砂を用いた津波のようであった。
光に溢れた秩序だった世界に、征悟は己が身一つで混沌を招き入れたのだ。
「ははっ。俺を殺したいなら、今この場でノアの洪水でも起こすんだな」
七〇億人を一掃できる力じゃないと、死んでやるつもりは毛頭ねぇよ。と、彼は嘯きながら笑みを止めない。こんな恰好なイベントで零れ出る笑い声を自重できる筈もない。
そして、悠々と征悟は歩き出す。すっかり悪路となってしまった往路で妹をエスコートする余裕を見せながら。彼はこの世界の中心で座している主人の元を目指す。
「――『白痴の真実は全能の虚構』」
しかし、兄に手を引かれる瑠華はこちらから出向くことを良しとしなかった。
天笠瑠華は容易く幻想を打ち砕く。白薔薇が塵となる。紺碧の空が剥がれ落ちる。兄がひっくり返した土壌は霞のように消えていった。無へと還元される世界。その中でただ一つ、玉座だけが取り残される。メタトロンが傍に侍ると伝えられる、主が座す場所が最後に残った。
しかし、一転して景色は元に戻った。征悟が暴威を振るう前、異分子を内包する前の正しい天国の情景に。
「流石にやるわね」
くっくっと少女は笑う。そしてこう続けた。
「舞台装置風情が、あまり調子に乗らないでちょうだい」
虚空から生み出される天使軍を屠る兄の後ろで、天笠瑠華は集中する。
彼女の宿神はマステマ。世界に災いを、人間に憎悪をもたらすユダヤ教の天使。『ヨベル書』では悪魔の頭領とすら呼称される堕天使だ。しかしマステマは他の堕天使とは決定的に違う点が一つある。ルシファーなどの大天使が神に反旗を翻すことによって天界を追放されたのではなく、マステマは初めから悪行を為すために神によって創られた。
人を堕落させるシステムとして、神自身が創造した悪の天使。神が存在を、その所業を公認した生粋の悪徳天使。それこそがマステマなのである。
そしてその宿神の特徴を色濃く反映した心象兵装を天笠瑠華は取り扱う。彼女はそれを『白痴の真実は全能の虚構』と、呼称した。
マステマが取り扱う真実とは、即ち信仰。人を惑わせ堕落させる手段には、虚構を用いる。信仰に対する虚偽。この二つを自在に操ることが、瑠華の真骨頂であった。
言わば、認識の撹乱。誤認の正当化。存在しない分身を他人の頭の中に創り出し、周囲の人間に共通の認識として植え付ける。これが、彼女がメタトロンに胸を穿たれても、こうして今を生きている理由だった。
人間を相手取るならば、より高度な幻術として瑠華の心象兵装は捉えられる。しかしひと度、神に対し反旗を翻せば、彼女が創り出す虚構は神殺しの刃となる。
神を神足らんとしているもの。それは信仰に他ならない。少女の心象兵装はその根幹を揺るがすものだ。根底を覆し、存在理由すらも抹消してしまう。
信者の信仰心を試す力を、瑠華は主の存在意義を問う形で行使する。初めから、『不要』と結論付けておきながら。
天笠征悟一人では、全知全能の神を打倒することは出来ない。仮に神殺しを成したとしても、殺されたという因果を無かったことにしてしまうのが、神という上位存在だからだ。
そして天笠瑠華が一人でも、やはり神を殺すことは不可能だ。神を支える信仰を、如何に虚偽によって塗り潰そうとも、先程の光景のようにイタチごっこにしかならないのだから。
だからこそ、彼らはここに、二人で来た。
「お兄ちゃん。わたしを心の底から信じてくれる?」
「おいおい瑠華。俺はいつだってお前のことを信じてるぜ。何なら命も預けてやるよ」
娯楽のためなら命すらも上乗せし、兄妹はそこはかとなく愉しげに笑う。それは神に仇なす反逆者が浮かべるとは思えない、痛快で爽快な笑みだった。
もう一度、瑠華は心象兵装を行使する。神の住処から幻想が解離し、虚無という現実が猛威を振るう。
ここまでは先程の焼き回しに過ぎない。
瑠華が虚構で信仰を覆い隠そうとも、神が欺瞞を是正する。立ち所に、世界は修復される筈だった。
だが、是と叫ぶ声があった。
欺瞞を、詐称を、虚偽を、虚構を、不義を、肯定する声が上がった。
天笠征悟である。瑠華と神、二人だけのやり取りならば、終止符の無い楽譜を延々と演奏することとなる。しかしそこへ、天笠征悟という観測者を聴衆として立たせれば、途端に楽曲は終章を迎える。
真と偽。二つの価値観は逆転する。
瑠華が創る虚構が真実となり、神を崇める信仰は神を貶す冒涜へと入れ替わる。
無論、人間一人がある物事を正しいと唱えたところで、世界中に流布する価値観は覆らない。しかし、この人間は天笠征悟。彼の『人路扶征』は七〇億もの人類を総集し、統合した力を発揮する。この特異な空間に限るなら、征悟一人の決定が人類種の命運を左右すると言っても過言ではない。
そして反転した価値観の中で、崇められる神はエラーを起こした。是正すべきは自身の論拠。享受すべきは瑠華の虚構。途方もない改革の中で、ついに神は再起動を開始する。新たなプログラムをインストールした結果、プログラムを適応させるための機械じみた反応だった。
あらゆる存在がディラックの海に沈み行く中、彼の者が座る玉座だけが尚も確固として顕在している。いや、よく見れば確立しているとは言い難い。玉座には過多なノイズが走り、端々がラグを起こしている。チューニングが合っていない不安定さを露わにし、新たに取り入れられた設定を懸命に構築しているようであった。
最早地面と呼べぬ地面を、征悟は力の限り蹴りつけ、玉座へ向かって跳躍する。
今の神は因果も概念も操作できない。あからさまな空白が生じ、付け入るべき隙が作られている。最早それは手の届かない上位存在ではない。好きに踏み躙れる逆境だ。
征悟は跳ぶ。固く拳を握り締め、最大にして最後の虚構をその身に宿し。
魔獣の如き咆哮を上げて、玉座に座す圧倒的な力の塊にその牙を突き立てた。
彼の拳を基点にし、瑠華の最後の仕上げが作動する。
天国全土を巻き込んで、神様のフォーマットが始まった。その変調を、瑠華は満足気な笑みを浮かべてただ眺める。
「我ながら完璧な仕事ぶりね。そう思わない? お兄ちゃん」
瑠華はこちらに歩み寄る征悟に話し掛けた。
「ああ。最高だ。まさか唯一神をぶん殴れる機会に恵まれるとはな。お前と出逢えて良かったと、今つくづく実感してるところだ」
二人を隔てる距離も、声を伝播する空気も、何もかもが入り乱れ、混沌の有り様を呈し始める。どうやって意思疎通を図っているのか、本人たちにも分からないまま、征悟は泰然と口を開いた。
「で、瑠華はここからどうやって脱出するつもりなんだ? このままだと俺たちも巻き込まれて昇天しかねないんだが」
「ふふっ。もしかしてお兄ちゃんたら、退路のことを考えてなかったの?」
「まさか。考えてはいるっての。ただどうしようもない力技になるけどな」
征悟の返答を聞いた瑠華は「しょうがないわね」と苦笑を漏らし、
「抜かりはないわ」
と、言葉を続けた。
瑠華は征悟へ手を伸ばす。流れるような自然な動作で兄の胸倉を掴むと、自分の間近にまで征悟の顔を引き寄せた。咄嗟のこととは言え、瑠華のひ弱な腕力を振り解くことなど、征悟からしてみれば造作もないことだが、妹の挙動を拒む真似はしない。好きにやらせて、無抵抗で受け入れる。
その結果、至近距離まで近付いた両者の顔は、柔らかく触れ合うこととなった。桜色の瑞々しい唇から、互いに情を繋ぎ合う。幾許かの時間を置いて、二人はそっと顔を離した。
「おい瑠華。急にどうした?」
突飛な行為に潜んだ真意を、征悟は問う。対して瑠華は、柔らかく微笑むばかりであった。
「言ったでしょう。言葉よりも行動で示す方がわたしは好きなのよ」
両腕を征悟の背に回し、ひしと瑠華は兄を抱きしめた。
「言葉なんて、いくらでも偽れてしまうもの。でも、こうしている間、お兄ちゃんの温かさはまだ信じられる」
兄の胸に顔をうずめて、瑠華は弱々しく心中を吐露していく。
「世間じゃ初めての人を美化する風潮があるけどね、わたしは最後の人を大切にしたい。こんなわたしだからこそ、最後まで傍に居てくれた人を大切にしたい。わたしにとって、
それはお兄ちゃんだったというだけの話よ」
「……瑠華?」
流石に、様子がおかしいと征悟も勘付く。特異な心象兵装を持つ少女にとって、死とは然程問題視する出来事ではない。なのに何故、今際の際のようなことばかり口走るのか。
看過することなど出来そうにない、嫌な予感が犇々と征悟を苛む。
縋り付く瑠華の肩に手を乗せて、征悟は思わず問い掛けた。
「お前、何を企んでる……?」
その言葉を受け、瑠華はゆっくりと顔を上げる。兄の瞳を覗き込む妹の顔には、いつにも増して一際邪悪な笑みが輝いていた。
そして――来た。神の初期化。天国の変転。物質界ではありえない高密度のエネルギー波が、強大な力の持ち主の転化に伴い押し寄せる。その波は天笠瑠華をすり抜けた。瞬間、瑠華は征悟を突き飛ばす。
「じゃーねー! お兄ちゃん! わたしはこの世で最も安全な場所で余生を過ごすことにするわ! 妹の愛らしい姿を目に焼き付けて、お兄ちゃんは――堕ちろッ!」
鈴を鳴らすかの嬌笑が耳朶を打つ。『人路扶征』でも世界そのものをリセットする力には抗えない。抵抗虚しく征悟は波に攫われて、無意識の内に舌を鳴らす。してやられた。下界へと流される兄を見て、瑠華は意地悪く口端を釣り上げる。
そして、天笠征悟は、その変転に弾き出された。




