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5億km²の牢獄  作者: Wolke
17/19

17:契約

 ――嗚呼。膜がある。


 外界と自分を遮る膜。外からの刺激と、内からの感情を遮断してしまう強固な膜。


 ずっと、ずっと、死ぬまで僕は膜に覆われて生きていくんだろう。


 そんな風に、影沼徹は疑うことなく自身の心理を享受していた。自分を覆い隠すこの膜はなんなのか? そんな疑問を抱いたことは一度として無い。


 所詮、『膜』なんてものは影沼が生み出した心因性のイメージだ。大気を除いて、影沼を覆っているものなど在りはしない。


 だからこそ、自身に生じた確固としたイメージを消し去る方法もまた、存在する筈もない。ただの錯覚に過ぎないと頭では理解していても、膜を取っ払う手段が影沼には見当も付かなかった。


 分からなくて当然と言える。


 世界との繋がりが薄弱な影沼は、生きる意思も脆弱なものだ。ただ流されるまま生きている。その場の流れで生活している。


 誰かと繋がりたいと思いながら、我武者羅に行動したことなど一度もない。世界との繋がりを阻害する膜が邪魔だと感じても、それを排除しようと必死になったことは皆無なのだ。


 まるで――見えていない。分かっちゃあ、いない。


 茫、と漂う。


 定まらないのは思考か、肉体か、脳髄か。ゆらゆらとふらふらと浮き沈みする様は大海を漂うクラゲそのもの。光が満ちているそこは、世の果てである雲海の只中かもしれなかった。聖性を伴う静謐さ。何人にも侵すことは出来ない神聖な空間。影沼徹の意識がここで芽生えたことが奇跡に感じる。しかし、人としての積み重ねが浅薄な影沼だからこそ、立ち入ることを許されたとも言える。


 どちらにしても、最早影沼にはどうでもいいことであった。


 すでに彼は、ヴェールには覆われていない。ここを『膜』などと薄く弱い表現は出来そうにない。


 ここで広がっているのは断絶。外界と自分を完膚無きまでに切離する隔絶。


 もう何も見えない。何も聞こえない。何にも触れられない。自意識だけが空回る。


 世界は無い。世間も無い。社会も無い。


 かろうじて影沼徹を構成していたものが、どこか別次元へ消えてしまった。


 ただ一人取り残される寂寥感は現実になった。


 たった一人置き去りにされる孤独感は夢想ではなかった。


 もう生きているのかも分からない。


 ひょっとすると、すでに死んでいるのかもしれなかった。


 だとするなら、一体いつ影沼徹は死んだのだろう。見知った情景と見慣れた顔が無くなっただけで、影沼の内面は何一つ変化していない。今の有り様を死と評するなら、影沼は死に続けていたことになる。誰とも満足に関われず、亡霊のように現世を彷徨っていたことになる。


 それはそれで、的を射ている表現だと影沼は思った。


 彼が成したことなど一つもなく、ただ徒花となって散り行くのみ。


 最早、天啓に従った結果すらも、彼は無価値と断じていた。唯一世界と繋がれた証にすら固執することはない。


 何故なら、結果はここにある。何も無いという現実がここにはある。


 力無く、影沼は笑った。これが予想し得る限り、最も妥当な結末なのだから。


 なのに、世界が揺らぐ。清浄な箱庭は外側から殴られたように軋み、完全な構成はいとも容易く綻びを見せた。


 綻びの隙間から、影沼は幻を見る。瓦礫の山となった職場。死都と化した街並み。窮地に追い詰められて尚、輝きを増す見知った相貌。


 少し前なら、自分もあの輪の中に入っていたことだろう。しかし、今となってはどうしようもない。影沼は神聖な牢獄に囚われてしまっているのだから。もうすぐ地球全土をこの神々しい光が満たす。そうすれば神話生物の災厄も無くなり、人間同士の諍いすらも消失する。それは決して悪いことではない筈だ。


 何せ、神様のお墨付きを得ているのだから。


 だが、傍観に徹しようとする影沼を、何者かは許さなかった。


 歪む。彼岸と此岸程に開いた断絶がねじ曲がる。


 一発の弾丸が、影沼の胸に飛来する。為す術もなく、影沼は胸を穿たれた。


 鮮赤の血華は咲かぬ。影沼徹という矮小な存在を吹き飛ばす程の衝撃を孕んでいながら、与えられたダメージは皆無。ただし、肉体的にはという注釈が付く。精神面に生じた苦痛に、影沼は顔を顰める。


「死ぬな」と少女は叫んだ。「生きろ」と少女は怒鳴った。


 聞き慣れた声だ。その声はこれまでに聞いたことがない程切迫しており、切実だった。


「……愛莉、か」


 絞り出した声は震えていた。理由は自分でも分からない。静かに、この牢獄が崩れていく。その反動が影沼へ押し寄せているのかもしれなかった。


 ただ一つ言えることは、影沼が七枷愛莉を認識したことによって、彼女の存在が確立された。ふと気付けば、影沼の目の前に愛莉の姿があった。影沼が無意識に彼女を呼んだのか。


 長髪をポニーテールにして纏め、気の強そうな瞳が影沼を射抜く。羽織った真白のコートは所々破け、大部分が真紅によって染まっている。軽度の擦過傷や火傷は全身に見られ、色白の素肌が破損した衣服の隙間から覗いていた。


 そして彼女は、玉虫色の粘液と、美麗な羽衣を纏っている。ショゴス。そして紅谷弥生の心象兵装。間髪を入れず、影沼は異常極まる物品を看破した。


 傷だらけの無残な身体を晒しながら、七枷愛莉は力強く笑った。


「存外、元気そうじゃない」


「君は、死にそうに見えるよ」


 快活な声音に、沈鬱な音吐が応えた。互いのコンディションを考えれば、真逆と言っていい反応だった。


 二人が言葉を交わす間にも『夢移り』はメタトロンの構成魔力を流転させ、自身の力へと変換する。これにより、影沼徹は弥生の領土へと呑み込まれた。緩やかに、メタトロンとのパスが絶たれる。繋がりが断たれていく。


「ここまで足を運んだ要件は、伝わってるわよね?」


「うん。強くなったね。ほんの数日なのに、見違えたよ。この呪戒は僕個人に対してというよりも、より上位の存在や概念めいたものに作用しているみたいだ」


 これじゃあ、消極的な自殺も出来そうにない。と、影沼は言った。


 そして、「だけど」と続ける。


「難題過ぎるよ。それが出来ていたら、僕はこんな状態にはなってない」


 影沼は力無く苦笑を浮かべた。


「でしょうね」


 と、影沼の言葉を否定することなく愛莉は頷く。


「でも、目の前に答えがあるのに見落としてることって、結構あるみたいよ」


 知らず知らずの内に、盲点に入ってるのね。と、愛莉は言う。彼女の顔は自嘲的な笑みに歪んだ。


「――それは?」


「さっき徹は私のことを強くなったと言ったけど、私は初めからこのくらいのポテンシャルは持ってたのよ。覚えてる? 私と徹が会った日のこと」


 七枷愛莉との邂逅。血に塗れた記憶は、さして苦労することもなく回想できた。普通なら付随すべき感慨の一つや二つあっていいものだが、それらは須らく欠如していた。影沼は愛莉の問い掛けに首肯で応じる。


「あの時、私は自分自身に枷を付けてたみたいなのよ。無自覚なままに、自分で自分を呪縛していたのね。それに、さっきようやく気付いた」


 滑稽でしょう。と、愛莉は笑う。自虐的に笑う。


「それと、僕の感じている虚無感も同じと言いたいわけか」


「さあ? 案外単純なことって気付けないものね、って話をしたかっただけだから、徹の心象まで言い表しているのかは知らないわ」


「身も蓋もないなぁ」


「空っぽが嫌なら、適当になんでも詰めればいいでしょ。選り好みする方が悪いんじゃない」


 痛烈な皮肉に、影沼は曖昧な笑みを浮かべることしか出来ない。この空っぽの心に、どうすれば物を詰められると言うのだろうか。


 その答えを影沼は求めていた。しかし眼前の少女が知り得ないことは、問うまでもなく明白なことだ。


「まあいいじゃない。先は長いんだし、天命が尽きるまでに考えておけば」


 言いながら、愛莉は影沼に歩み寄る。愛莉が手の届く距離まで近付いたとき、影沼は不承不承という風に言葉を放つ。


「そうだね。続けるしかない。元はと言えば、全部天啓から始まったことだ。それももう達成不可能なようだしね」


 ここまで事態が大きくなった原因を探れば、それは影沼の自意識の低さに起因する。確固たる目的もなく、漫然と流されるままに生きてきた影沼に、強烈で抗い難い命令が下された。自分の生すらも希薄に感じていた影沼は何の抵抗もなく命令を受け入れ、これまでと同じ様に活動する。


 その結果が、現状である。


 しかし、それは一発の銃弾によって覆された。影沼徹が死ぬことを、七枷愛莉は許さない。少女は影沼から死を選ぶ決定権を奪い取った。それは遠回しな、消極的な自殺も含む。


 影沼は自分の意思では死ねなくなった。自身の死に起因する行為を根こそぎ封じられたのだ。宿神が暴走したとしても、それはやはり、宿神憑きという核があって成り立つことだ。その核部分が主導権を取り戻し、宿神の制御を握る。荒れ狂う宿神を鎮める。


 生きることを強制された影沼の心理が、メタトロンの浄火を止めたのだ。自滅が前提の天啓は最早何の意味も成さない。元々、天笠瑠華のように要求を突っ撥ねる者は数多くいた。これを機に、影沼も多数派へ回っただけのこと。


 これで一先ず、事態は収束することとなる。


 愛莉はさらに一歩踏み出し、そっと手を伸ばすと、影沼の腕を掻き抱いた。


「誰とも繋がれないって感覚は私には理解できないけど、これだけは忘れないで。徹に死んで欲しくないと思ってる人はここに居るよ。私たちの縁はまだ切れてない。だから私はここまで来れたと思ってる」


 半ば反射的に、影沼は愛莉の頭へ自由な方の手を乗せた。無造作に、しかし優しげな手つきで愛莉の頭を撫でる。その行為は自発的というよりも、常識などに照らし合わせた結果、行った方が良いのではないかと考えたが故の行動である。


 他者は自分に対し繋がりを持っている。それが一方通行なままで終わっているのは、全て影沼が無自覚な所為だ。これでいいのかと自問する。良くはないと即答した。


「もう、投げ出せなくなってしまったしね。色々と、思い悩んでみるよ」


「付き合うわ。曲がりも何も、強制的に考えさせてるのは私だしね」


「……すまない」


「いいわよ。昔は散々迷惑掛けたし、これからも掛けるし、お相子でしょ」


 不意に、弥生の『夢移り』がはためく。愛莉を取り巻いていた美麗な心象兵装は、影沼をも巻き込んだ。


「ねぇ徹。ついでにもう一つ、お願いしていい?」


「何?」


「今回、変な兄妹に会ったのよ。お互いが好き勝手やらかしてるくせに、その行動を予測して享受し合ってる。柄にもなく、これが『家族』ってやつなのかなーとか考えちゃって、そっちの意味も一緒に探してくれないかしら?」


「もちろん、構わないさ。不甲斐ない父親だとは思うけれど、こちらこそ、よろしくお願いするよ」


「ええ。一緒に頑張りましょう――」


 ――お父さん。と、愛莉の最後の呟きは、流転する世界に呑み込まれた。それでも、影沼は聞き取れぬままに呟きを察し、愛莉の身体を抱きしめた。それが何に根差した行為なのかは、影沼自身にも分からない。

 

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