15:失態
そして〈事務局〉局舎の正門に面する通りに辿り着いたとき、愛莉たちの身を異変が襲った。
夜空に輝く綺羅が、加速度的に進んでいく。満天の星々も、天頂の位置する白銀の鏡も、等しく西の空へ沈んでいく。最早、愛莉の身に起きた異変などとは到底言えまい。世界を巻き込んだ超常は、嫌でも終わりの刻を彷彿とさせた。
その直後、白んでいく東の空を背景に、一筋の光が空を刺す。ソレを、果たして一筋などとか細い表現をして良いものか。先程、街を玉虫色の汚泥に沈めたショゴスを大海と称するならば、この光の柱は神の剣と呼ぶ他ない。どんな魔をも、世界すらも、須らく断ち斬ることが出来る神剣。抗い難く、無条件に平伏したくなる神々しさを放っていた。
直感的に悟る。いや、冷静に消去法で考えたとしても、導き出せる答えを愛莉は一つしか持ち得ていない。――あれこそが、メタトロン本来のポテンシャル。人間を出力媒体としない宿神元来の威光。
愛莉の思考を裏付けられた。天高くへ光を発するだけだった塔は、静かに、されど尊大に、形態を変じる。眩い光は穢れを祓う白き焔へと変じた。白き焔は無数の眼球を生み、無垢な翼を形作る。一つの柱に過ぎなかった物体に、いつしか四肢が出来ていた。
先刻、人が築き上げた文明を瓦礫の山へ還元したショゴスですら小さく感じる絶大なスケール。愛莉の視界に映るのは、高層ビルと見紛う二本の足と、天の頂きより垂れ下がった十本の指らしき物体。
圧巻、としか言い様がない。その神々しいまでの御姿は見ているだけで万人に希望を与える力を持っている。故に、愛莉の心に飛来した感情は紛うことのない絶望であった。
アレを、本当に人の身で対処しなければならないのか。自身の宿神の――心象兵装の真価が分かったところで、どうにか出来るものなのか。
格が違う。
それを十全に理解してしまえば、心を折るには十分過ぎる材料だった。
そして格が違う天使の化身を眼前にして、七枷愛莉の鼓膜は歓喜の声によって震わされた。
「……流石だぜ、妹様。コイツは、最ッ高のショーじゃねぇか……!」
隣を見る。ここまで道中を共にしてきた少年は、愉悦によって顔を歪めていた。何の憂い、不安も、絶望も無く、新しいオモチャを与えられた子供のように目を輝かせる。
「三分経ったら消えるとかいうオチまで用意してたら脱帽モノだな。それとも、空を駆け上がって掌に落書きしたら説法の一つでもしてくれるのかね」
いつもと同じ様に、行動を共にして短時間で見慣れた笑みを、征悟は浮かべた。あくまでも、普段通りに。
「三分で街が塵になったら時間通りに消えるんじゃない? そもそも、説法はないでしょ。教義が違うわ」
だからだろうか。応じる愛莉も、普段の調子で、いつもと変わらない声音で、軽口を叩くことが出来た。ささやかな日常のやり取りに、平静を取り戻す。
隣で笑う彼のように状況を楽しむことなど出来はしないが、逆に臆する必要も存在しないのだ。
「――心象兵装・招来」
黄金色の回転式拳銃を手の内に収めながら、愛莉と征悟は〈事務局〉の敷地内に踏み入った。こうなってしまった以上、敷地などという境界線には何の意味も在りはしない。だがそれでも、目と鼻の先にまでメタトロンに近付いたという目安にはなる。向こうからしてみれば、爪先に蟻が集っているようなものなのだろうが。
そして、愛莉たちは立ち会った。〈事務局〉の局舎が任務の最中に望まずして崩れ落ちる瞬間に。
周りの局員に比べれば短い期間ではあったが、通い務めた局舎がガラガラと音を立てて崩壊する。瑣末な違和があるとすれば、激しい戦闘の余波によって倒壊したようには見えないこと。数百年もの年月に耐えたかのような、極々自然な崩れ方だった。瓦礫となったコンクリート片すらも、砂礫へと粒子が細かく砕けている。
そして、目に見える異常がある。土地が、死んでいるのだ。日本最大級の魔術結社といえる〈事務局〉は、保有している土地もネームバリューに引きを取らない豊穣な場所が多い。それが今や、枯れ果て、搾りカスのような貧相な力しか感じられない。
局舎が瓦解したことは覆せない事実である。それに伴い、局舎を守っていた結界も、ただの魔力に還元されたようだった。
崩れた瓦礫周辺に、見知った顔が並んでいる。
植月禅蔵は険しい表情でメタトロンを睨む。
紅谷弥生は消耗し、疲弊しきった顔色で地べたに座り込んでいる。長髪が傷付くのも厭わずに、忌々しげにメタトロンを睨む。
ただ一人、天笠瑠華だけは面白可笑しく嗤っていた。世界が滅亡する展望などには興味無さげに、目の前の現実を存分に楽しんでいる。そして彼女に飼い慣らされたショゴスも、今はまだ健在のようだ。
そんな三者と視線がぶつかる。
最も力強い瞳をしていたのは意外なことに弥生だった。彼女の目は語っていた。〝あたしがやった。だけど、負けた〟と。それは彼女の姿を見れば一目瞭然だった。
紅谷弥生は狩衣の上に、一枚の羽衣を纏っている。美しい、天上の羽衣だ。あれが紅谷弥生の心象兵装――『夢移り』。
彼女の心象兵装に多大な関心を示したのは天笠征悟であった。関心があると言っても、形状や固有能力を知りたがるのではなく、宿神の正体を当てるクイズゲームに挑んでいるようなものだ。
「さて、七枷と同じ様に使用している魔術系統からアプローチを掛けるなら、元は大陸から伝来し、日本固有の神になったパターンかな。とするなら、起源は道教。もしくは仏教。
後に神道のシステムに吸収された神……」
聳え立つ炎の巨人などまるで眼中に無いようだ。征悟は呟くことで思考を纏めながら、悠然と弥生たちの元にまで歩いて行く。状況を顧みない身勝手な振る舞いに呆れながら、愛莉は征悟の背中を追う。彼の傍若無人な行いを見ていると、まだまだ余裕があるように感じられた。無論、それが錯覚だと頭の片隅では理解している。
「ったく、天笠さー。こんなときに何悠長にあたしの宿神の考察なんてしてんだよー。もっと優先順位高いことが他にあるだろー?」
と、呆れながらに弥生は言った。続けて、
「あたしの宿神は弁財天なー」
これ以上考える時間を与えず、早々に解答を口にする。秘密保持の意識が高い弥生が自ら進んで正体を明かすなど異例と言っていい事態だ。きっと、放っておいても看破されると判断したのだろう。
征悟はやや残念そうに、解答から逆算された現象を語った。
「なるなる。要するに、紅谷の心象兵装は流転と不変を制御しているわけね。サラスヴァティ、弁才天、弁財天と、膨大な時間の中で移ろう信仰対象と、同一の存在を崇めていることには変わらない信仰心を表している。ってぇ、ところか」
そして、その考え方は正しい。言い当てられた本人を始めとして、多少なりとも弥生の宿神について知る者は彼の洞察力に舌を巻いた。
「はいはい。お兄ちゃんの博識自慢はいいから、少し黙っていてくれないかしら。これ以上、時間を捻出できるわけじゃないんだから」
本気で邪魔に思っているのか、刺々しい口調で、妹は兄の推論を切って捨てた。
天笠兄妹が黙ったことにより、自然と〈事務局〉のチームメンバーは顔を見合わせる。
「やれるか?」
禅蔵が愛莉に問う。
「やります」
迷わず、愛莉は即答した。会話らしい会話はこれだけだった。
七枷愛莉はメタトロンへ銃口を向ける。ふっ、と短く息を吐く。全霊を集中させた愛莉の心は凪のように穏やかで、落ち着いたまま引き金を引いた。狙いは定めるまでもない。そこらの建造物よりも大きな物体が的なのだから、正面を向いて銃弾を発射すれば必ずどこかには当たる。そして一度でも当たれば、七枷愛莉にはこの逆境を跳ね返せる勝算がある。
大気を裂き、突き進む弾丸。
そこまでは今までと何の変化もない。だが、銃弾が対象を穿てば――
愛莉がそう考えたところで、メタトロンの肉体である灼熱が、弾丸を舐めた。
その瞬間、弾丸に内包された魔力が爆ぜる。そこを基点に愛莉は自分の思いの丈を本気でぶつけた。
瑠華は言った。不純物が多いから真価を発揮しきれていないのだと。
征悟は言った。純化する方法は知っている。ただ気付いていないだけだと。
天笠兄妹の言葉を受けて、愛莉は自身の心象兵装を再構成する。覆しようのないフリッグの伝承を下地にして。
強制契約。
それこそが、七枷愛莉に宿る心象兵装の真骨頂。
自身に宿った力を信じて、七枷愛莉はただ叫ぶ。
「止まれ」
と。
神様なんてわけの分からないものの言いなりになんかなるな、と。
だが、愛莉の想いは、容易くメタトロンから吐き捨てられた。不定形である炎が相手であるため、契約の効力が発揮される前に肉体の一部ごと切り離したのだ。
忸怩たる思いで、愛莉は唇を噛んだ。
そのように対処されてしまっては、弾丸は影沼徹の元にまで届かない。
そして不運なことに、愛莉の弾丸はまるで無意味というわけではなかった。彼女が放った銃弾は、言わばプログラムを書き換えるウイルスだ。結果、メタトロンに検知され、有害だと判断された。
巨人が閃く。
刹那の差を挿んで、玉虫色の城壁が迫り上がる。
しかし、ショゴスが壁としての役割を満たしたのは、僅か数瞬のことであった。あれだけの巨体を遺憾なく晒して、街に甚大な被害を出した神話生物は、呆気無く白い焔に包まれた。玉虫色の向こう側に白き焔が透けて見え、そして――ショゴスは死に絶えた。細胞の一片に至るまで。
神の威光が質量を伴い、愛莉たちを蒸発させんと肉薄する。
しかし僅か一瞬とは言え、猶予が出来たことには違いない。咄嗟に、全員はその場から散開する。その様子を、メタトロンは見ていた。体表に浮かんだ無数の眼球が、全員の行動を補足している。
次に千を超える炎の矢雨が愛莉たちに降り注いだ。
愛莉は即座に守護のルーンを辺りにばら撒き、自身のコートに刻まれたルーンに魔力を込める。万全の防備体勢の中、一矢が守護のルーンを容易く突き破った。かろうじて紙一重で避けるものの、コートの一部が焼け落ち、愛莉の肌を焼く。苦痛に顔を歪める愛莉に、周りを心配する余裕など欠片もない。
弥生と禅蔵は、ありったけの力を込めて自分の身を守るために水鏡を展開した。肌を焦がす熱源を、最大限の魔力と最小の労力を用いて軌道を逸らす。熟練の魔術師でさえも、我が身を守るだけで精一杯だった。
その死線を、天笠兄妹は悠々と潜り抜ける。豪雨の如き矢の軌跡を全て見切り、最低限の体捌きのみで切り抜ける。命をベッドし、死線の上で踊る様は余裕と優雅さに満ちていた。
「こういう心象兵装かと思ったが、予想以上に意味不明な事になってんな」
所々完全には避けきれず、裂傷と火傷を同時に負っている征悟だが、まだ喋れる余裕はあるらしい。
そして彼の言葉には妹が応じた。
「ええ。かなりヘンテコな有り様だわ。卵の殻を卵白が包んでいるみたい。ふふっ。宿った神様が、宿主を喰い破って表に出てきたようね」
「宿神自体に意思は無い筈だから、この場合は名前を妄りに呼べない神様の所為って、考えるべきなのかねぇ」
「ふふ。うふふふふ。困ったわ。これじゃあ益々、わたしたちの未来は危ういものになってしまったわね」
実に楽しげに、天笠瑠華は微笑んだ。「せめてセリフと表情を一致させろ」との征悟のボヤきを無視し、ころころと鈴の鳴る声で笑い声を上げる。
「あと何分程度だ?」
「無駄な余力を使っているからあと一分も維持できないでしょうね」
兄はメタトロンの現界時間を問うた。
人間を出力機にしている場合ですら、奇跡に見合うだけの力を消費しているのだ。奇跡そのものが形を成した今の状態が長続きしないことは明白である。
そしてメタトロンに残された顕現時間は、そのまま世界滅亡へのカウントダウンも表している。
快活に征悟は笑った。
「そりゃあいい! 人類存続の危機なんて一生に一度立ち会えればもう満足だ! まあ、やり残したことが多過ぎるから、ここで死んでやるつもりは微塵もないがなッ!!」
ほぼ垂直に、征悟は片足を天へ向けた。百八十度に近い開脚をしつつ、体幹を震わすことなく一本足で踏ん張っている。そして征悟は振り上げた足を大地へ叩き付けた。
重機でも使ったかのような激しい音と共に、地盤が捲れ上がる。すかさず、征悟は捲れ上がった岩盤を力の限り蹴りつけた。岩盤は細かな散弾となって、降り注ぐ矢雨を迎撃する。
――僅かな空白が生まれた。
無論、そのチャンスを見逃す集団ではない。防戦を強いられていた愛莉たちは、一気に攻勢へと転じる。
彼女たちにも征悟と瑠華のやり取りは届いていた。この好機を活かすことが出来なければ、自分たちの敗北が決定することも理解している。
ここが――死力を発揮する、最後の機会だった。
そして狙い澄ましたように、メタトロンから全員へ、一筋の熱線が奔る。機を制す、まさに神懸かったタイミングと言えた。
再び、全員は回避運動を取らされる。急場凌ぎの切羽詰まった回避法。征悟ですら、表情から笑みが消える。メタトロンが放った熱線を、ダメージを負う覚悟で捩じ伏せることを余儀なくされた。
熟練と呼べる魔術師は、致命傷を避けることが限界だった。弥生の長髪は無残に焼け焦げ、狩衣は襤褸と化している。禅蔵も似たような有り様であった。焼けた服から覗く素肌は、重度の火傷に侵されていた。
そして、この面子で最も未熟な七枷愛莉は――胸に真っ赤な花を咲かせることとなった。




