14:決意
三者の思惑が交錯する、その少し前。七枷愛莉は〈事務局〉からそう離れていないネットカフェの個室内で仮眠を取っていた。ローテーブルの上に置かれたパソコンには触りもせず、ただひたすら休息することに専念している。
愛莉は普段から羽織っている白いコートを小さく畳むと、座椅子の上に置いて枕代わりに扱っていた。限られたスペースを目一杯に使って足を伸ばす。制服に皺が付いてしまうが、この期に及んでそんな瑣末なことを気にする神経は残っていない。ウレタンで作られたシートには程良い弾力が備わっており、寝転がると程々に心地良い。当然ベッドで休むことに比べれば格段に劣る質ではあるが、仮初めの休息地とするには申し分ない環境だ。
室内の温度は暖かく、コートを含めた防寒具を取り外しても身体が冷えることはない。日付が変わろうとしている時間帯では人の往来も無きに等しく、愛莉の休憩が邪魔されることはなかった。平日の夜遅くということもあってか、客入りは初めから多くなかったようであるが。
そして、天笠征悟も同様に入店している。入店時にはカップルシートなど二人用個室に誘われてからかわれたものだが、愛莉の反応を一頻り楽しむと、彼は店内のどこかへ消えてしまった。巫山戯た態度を貫く少年ではあったが、今後の波乱を誰よりも強く予感しているのは件の天笠征悟なのだ。彼もまた、個室に入って休息を取っているのだろう。
瞼を下ろし、ジッと横になっていると、脳裏をよぎるのは碌でもないことばかりだ。
実の親を殺しかけた瞬間のフラッシュバックだったり、影沼を殺害する夢想だったり、逆に自分が殺されてしまう現実的な予測も混じっている。何も考えたくないという想いが強くなるにつれ、胸の下辺りがキリキリと締め付けられた。
休みから程遠い精神状態の中、店内に二つ程アラームが重なる。愛莉は、ふと目を開いた。手の届く範囲に置いてあったスマートフォンを確認すると、0が三つ横に並び、日付が変わったことを表している。アラームの正体が判明すると愛莉は再び目を閉じた。
命令違反をし、個人的な理由で好き勝手動いている愛莉だが、今はまだ追われる立場に陥ったわけではない。宿神憑きの離反は十分粛清対象だが、順序的には影沼が優先される。なので携帯の電源を入れっ放しにしているなど、どこかガードの甘さを愛莉は残していた。
そのスマホが突如手の中で震えた。
バイブレーションによって、ヴヴっと振動音を発するスマホに愛莉はビクリと身体を震わせる。着信が唐突なのは当たり前のことだが、多少なりとも気を抜いた瞬間にメールを受信したため、些か以上に驚いてしまったのだ。
「一体、何なの……?」
愛莉は不信感を露わにして呟いた。
自身に送られたメールにではない。
店内で重なり合う単調なメロディー。机の上で震える共振音。店の中に居る者ほぼ全員が、同時にメールを受信したのだ。
すぐに、愛莉はスマホを操作してメールを開いた。送られていたのはエリアメール。このネットカフェ付近に神話生物が出現したため、近くの住人は退避しろとの旨が書かれている。続いて、窓際から悲鳴にも似た声が上がる。どうやら、この場所から神話生物を目に出来るらしい。
狂ったように叫び声を上げながら、店内に居た客は出入口や避難口へひた走る。
騒然とした店内が再び静かになった頃、ようやく愛莉はのそりと起き上がったのだ。
「確かに動きはあった。けど、これは徹と関係あるの……? ねえ! 天笠君はどう思う!?」
人影が消えた店内へ愛莉は呼び声を掛ける。しかし、返答はない。店内は水を打ったように静まり返っていた。
「――――あれ?」
浅い付き合いでも彼が逃げたとは到底考えられなかった。昨日は平然と神話生物を殴り飛ばしていたような人物だ。一般人のように神話生物を見て精神に異常をきたしてしまう、ある種真っ当な正気度とは無縁だと思われる。
だとすれば、逃げたのではなく、すでに現場へ駆け付けたと考える方が自然だった。単身で神話生物を相手に殴り込みに行く愚行。しかし彼に限って言えば、なんだかありえそうな話だった。
成り行き上、何故か行動を共にしてはいるが、互いの立ち振る舞いに制限を掛けるような間柄になった覚えはない。立ち上がった愛莉は、枕代わりに使っていた白のコートに袖を通す。首元にマフラーを巻いて手袋をはめれば、出掛ける準備は万全だ。
個室から出る。続いてネットカフェから立ち去ろうと足を動かす愛莉の耳に、微かな異音が届いたのだ。
店内のどこかからペラリ、ペラリ、と物語を進める音が響いている。一度認識してしまうと、静謐な空間内での物音は耳について離れない。
愛莉は音の発生源を探り、仕切りの上から個室の中を覗く。中に居たのは灰を被ったが如き頭髪をした一人の少年だった。手に持っているのは一冊のマンガ。ローテーブルの上には山積みにされたシリーズ物が置かれていた。
どうやらこの男、利用者の騒ぎも愛莉の呼び掛けも全てを無視して読書に耽っていたらしい。この態度には言葉もなく、愛莉はただただ呆れ果てるばかりであった。
「ちょっと天笠君。呑気にマンガなんて呼んでる場合じゃなくなったわよ」
と、声を掛けたところで返ってくるのは生返事ばかり。「あー」だの「おー」だの答えた挙句、残りのページをパラパラと流し読みし、全てのページに目を通すとテーブルの上にマンガを置く。
「ったく、瑠華のアホ。明日中には動くと思ってたけど、日付が変わった瞬間に行動起こしてんじゃねぇよ。どれだけ性急な性分なんだよ。ラスト一冊くらいのんびり読ませろっつーの」
そして口から溢れるのは妹に対する愚痴であった。彼の中では、この騒ぎは妹が起こしたものと決定されているようだ。
「いやいや。私的にはこの非常時にのんびりシリーズ物を読み始めるアンタの気が知れないわよ」
はぁ、と征悟は溜息を一つ漏らす。それで読書欲に対する未練を断ち切ったようだ。
「まあいいさ。それよりも、七枷は自分が果たすべき役割を理解してんのか?」
彼の言葉を、愛莉は「冗談」と鼻で笑う。
「私がやるべきことは最初から明示されていて、何一つ変わっちゃいないわ」
分かりきっていることに答えると、愛莉は意識を屋外へ向ける。その瞬間「妹様の思惑通りにはならなそうだな」と皮肉げに小さく漏らした征悟の言葉を、愛莉は聞き逃してしまった。言葉の真意を追求する機会は失われ、愛莉は窓の外に広がる光景に釘付けとなった。
窓ガラスを挿んだ向こう側では、禍々しい妖気が街中に満ち溢れている。あらゆる色彩が玉虫色に塗り潰され、異形の怪物に呑み込まれてしまったかのよう。七枷愛莉は、あまりの光景に愕然としてしまう。これ程の規模の神話災害は彼女も初めて経験する。それも〈事務局〉のお膝元で、だ。
情景だけを切り出せば、まさに世界の終焉を象徴しているかのようだ。心なしか、地鳴りも聞こえる。いや、幻聴ではない。確かに大地が揺れている。許容量を超える悪存在に、街が――震えていた。
「天笠君。これはホントに、巫山戯てる場合じゃなさそうよ」
そう愛莉が言い終わるか否かの刹那、このネットカフェが収容されたビルの上層からコンクリートがぶつかり合う、重低音が轟いてきた。
直感的に悟る。――ビルが、崩れる。
大地震でも起こっているかのような途方もない大きな揺動に、思わず愛莉は膝を付いた。とても立っていられる振動と衝撃ではない。崩落を悟った愛莉は手早くチョークを取り出すと、床に守護のルーンを書き連ねる。
直後、天井から玉虫色の粘液が噴き出した。ビル上層の備品や瓦礫を伴いながら。どうやら大質量のショゴスがビルの屋上に落下したらしい。その結果として、愛莉たちがいるフロアも崩落に巻き込まれた。
このビルは何階建てだっただろう? 迫る瓦礫から身を守るべきか、自身が階下へ落ちないことを優先すべきか悩む最中に、ふとした疑問が思い浮かぶ。一秒にも満たない僅かな逡巡の後、愛莉は優劣を付ける問題ではないと思い至った。
ほんの数分前まで仮眠を取っていた建物が瓦解するなどというアクシデントに見舞われたことは初めてであり、七枷愛莉は少しばかり動揺していたと言っていい。
それなりに場数は踏んできたつもりだったが、初めから仕事と分かって事に取り組むのと、突発的に渦中に放り込まれるのでは、些か事情も変わってくるということだ。
下手をすれば、というか上手く魔術を発動していたとしても、七枷愛莉はここで死んでいた可能性が高い。落ちてきた瓦礫、崩れた床、地面。これらの要因によって圧死していた公算が高いのだ。そしてその時七枷愛莉は、神話災害とは斯くも理不尽なものだった、と想起してしたことだろう。
デッドエンドに陥らなかったのは、偏に同行者が居たおかげだ。
人が直立することを放棄する激しい揺れの最中、天笠征悟は事も無げに立ち上がった。そして、圧殺せんと迫るコンクリート片やショゴスの肉塊を、固く握りしめたアッパーカットによって殴り飛ばした。
手近な位置に落ちてきた岩塊は、重機械を上回る力を伴った殴打によって粉々に砕け散った。砕けた破片は破壊的な威力を孕んだ散弾として、周囲の瓦礫を吹き飛ばす。征悟がその行為を幾度か繰り返した頃には、愛莉は危機感なく夜空を見上げることが出来ていた。生憎と、満天の星空は玉虫色のベールによって覆い隠されていたが。
「これで見晴らしも良くなったな」
からからと笑いながら、征悟が軽口を叩く。この少年が人間離れした膂力を持つことをようやく愛莉は思い出した。改めて、再認したと言った方が的を射ているか。
兎も角、一難は去った。
余裕が生まれたことにより、愛莉は変わり果てた街の姿を眼下に収める。彼女の不安はただ一つ。眼前で暴威を振るうショゴスではなく、この荒れ果てた街中から一人の男を見つけ出すことが出来るかどうか。
そして、視界の中に強力な光源が現れた。
その光源は人の形をしていた。頭上に冠が見え、天使のように翼を広げている。ショゴスを打倒する様は、天が遣わせた天使そのものであった。
「――見つけた」
しかしアレは天使ではない。それは七枷愛莉がよく知っている。神を宿した人間であり、今は――人の敵だ。
「お。昨日俺を殺そうとしてくれたヤツじゃないか」
征悟もまた声を上げる。
大樹のように地面に根を下ろしたショゴスを両断した影沼は、いずこかへと飛び去った。あの方角は――
「多分、〈事務局〉ね」
「なんだよ。わざわざ身を隠すなんて真似しなくても、紅谷や植月の説教を受けてたらその内向こうからやってきてくれたのかよ」
「弥生は自分の仕事を増やす不届き者には容赦無いから、自由に行動できる権利は剥奪されてたと思うけどね」
少なくはない時間を共にしたチームメイトの行動を夢想し、愛莉は直ぐ様〈事務局〉へ向かおうとした。紅谷弥生が居るならば、日本では使用を禁止されている近代兵器が飛び出してきてもおかしくはない。対戦車ロケット榴弾が飛び交っていたとしても、愛莉は驚くことなく現実を受け入れられる。
タンタン、と愛莉の背後で征悟が靴を踏み鳴らした。何事かと視線をやれば、今になって靴を履いたらしい。裸足でガラスの破片や突起物が散らばる街中を走るわけにいかないことは分かるが、悠長に履き心地を確認している姿からは、セオリーとの些細な差異を感じずにはいられなかった。
だが、そんなマイペースを貫く姿もここまでくれば頼りになる。静かに、愛莉は影沼が飛び去った方角を見据えた。
「じゃあ、〈事務局〉に戻るとするか」
終末を絵に描いたような光景が広がる中、彼は事も無げにそう言った。
言って、征悟は音も無く愛莉の背後に忍び寄ると、手際良く愛莉を抱え上げる。愛莉の認識では肩に手を置かれたと思ったら、いつの間にか膝裏にも手を通され、彼の腕の中に収まっていたことになる。
昨日、運搬と称して弥生が征悟にお姫様抱っこをされたことが脳裏を過った。今はあの絵面が自分自身に置き換わったと考えればいいわけだ。
「ちょっ、ちょっと!?」
突如降って湧いた異性との過度な接触。まず愛莉の胸に湧き上がったのは羞恥心であった。かあっ、と頬が熱を帯びるのを自覚する。
次に抱いた感情は反発心。愛莉は紅谷弥生の域にまで乙女をやめているつもりはない。実力行使によって征悟の腕を振り解こうと、愛莉は平手に力を込める。
しかしその瞬間、血が集った愛莉の頬に濁った空気がぶつかった。
跳んだ。天笠征悟が七枷愛莉を抱えたまま、影沼が去った方角へ跳躍したのだ。数階分の高さからの飛び降りを物ともせず、彼は全壊した建物だらけの区画を跳び回りながら駆け抜ける。時折上空から降り注ぎ、地に蠢くショゴスは全て足蹴にしながら道中を進んだ。
「不用心に動くなよ。空中で落としたら流石に拾えないから」
「その前に! アンタは一言断りを入れるべきでしょう!」
「悪い悪い。だってこっちの方が速いじゃん」
怒声を浴びせる愛莉に、悪びれることなく征悟は答えた。愛莉は顔を赤く染めたまま、至近距離で征悟の顔を睨み付ける。
そして今更ながらに、愛莉は天笠兄妹の類似点を見つけたのだ。二人共顔立ちは整っている部類であり、頭髪の色は特徴的だが、血縁関係であると一見で見抜くのは難しい。
そんな兄妹だが、目元が瓜二つだ。特に、愉悦を噛み締めているかのように笑う瞳がそっくりだった。
与えられてもいない間違い探しならぬ正解探しに興じ、心の平静を取り戻したときだった。瓦礫を蹴りつけながら跳躍を繰り返す最中、ポツリと征悟が呟いた。
「ひょっとするとなんだが、七枷ってかなり着痩せするタイプなんじゃないか?」
その一言により、再び愛莉の羞恥心が再燃する。愛莉は日頃からコートを羽織っており、身体のラインは見る分にはわかりづらいだろう。だが、お姫様抱っこという形で密着してしまえば、どことなく目敏いこの少年に看破されるのは必定だった。
「う、うるさいっ」
しかしこんな非常時に、改まってまで確認するな、と抗議の声を愛莉は上げる。
「別に恥ずかしがることじゃないだろ。一応弁明しておくけど、ここで全てを放り出して七枷を押し倒すようなツマラナイ選択をするつもりはないから」
「……ええ。その一点においては信用してるわ。天笠君はあの娘の兄であり、あの娘の用意したシナリオを読み解くことしか興味がないのよね?」
「その言い方だと俺が瑠華のことしか考えていない度過ぎたシスコン野郎みたいなんだが」
「えっ? そうじゃないの?」
「違うっての。今は昨日紅谷をお姫様抱っこしたときは、肩のラインとか太ももの肉付きがエロかったなぁと思い返してる」
「比べるな! あと黙って! 次変なこと口走ったら貴方の唇を溶接するから」
割りと本気で愛莉が憤慨すると、戯けるように征悟は笑った。
「やっぱからかうならこれくらい反応してくれる相手がいいな」
彼の妹や弥生の顔が咄嗟に浮かんだが、確かにからかい甲斐のある人物とは言えそうになかった。しかしだからと言って、そこで白羽の矢を立てられる愛莉からしてみれば、堪ったものではない。
愛莉は彼の発言を黙殺し、釣れない反応しか返さないことを心に誓う。
しかし程なくして、征悟は足を止めた。〈事務局〉に到着したわけではない。疑問を抱く暇も無かった。
目の前に、白銀の髪を揺らすゴスロリ姿の少女が立っていたからだ。その服装は、天笠瑠華の異様さを際立たせているようで、とても良く似合っている。
「よう。直に会うのは久々だな、瑠華」
「そうね、お兄ちゃん。ヴァチカンのお祭りはお互い多忙だったものね」
示し合わせたように、征悟と瑠華は同時に笑った。
妹を前にしてはいつまでも愛莉を抱いたままでは居られないらしく、征悟はゆっくりと愛莉を地面に下ろした。
その様子を見た瑠華が、口元で弧を描きながら鼻を鳴らす。凍てつく眼光は鋭く、邪視さながらの力を孕んでいた。
「日付が変わる度に抱く女を変えるなんて、いい御身分になったものね、お兄ちゃん」
「お前こそ、世界滅亡の危機をどうにかしようと動き回ってるんだろ? まるで救世主みたいじゃないか」
刺々しい瑠華の言葉にも、征悟は鷹揚に含みを持たせた受け答えをする。互いに独特な感性を持つ者同士の兄妹言語だ。部外者の愛莉には、主音声に隠された真の意味など分かる筈もない。
ただ、趣味嗜好が似通っている以上、兄妹仲も良いのだろうと思っていた。しかし二人の応酬を見ていれば、仲睦まじいかどうかは疑問へと変じた。今にも罵詈雑言が飛び交いそうな程、雰囲気は悪い。
「徹なら今さっき飛び去ったみたいだけど、貴女はまだ何か私に用があるの? それともお兄さんに?」
再度相見えて分かったことだが、どうやら七枷愛莉は天笠瑠華に若干の苦手意識を持っている。心を見透かすようにトラウマを抉られたのだから、致し方ないものと割り切った。夕刻のことは意にしていないと、虚勢を張る余裕はあるのだから、大した問題ではない。
瑠華ならば、その微細な感情の変化も察知しているかもしれないが。
「今のところスケコマシに用は無いわ」
辛辣な言葉を吐く。しかし、表情はいつもの様に微笑んだままだ。笑顔で繕われた本心を解しているのか、征悟は苦笑するばかりである。
「私に用事って――貴女が渡しておきたい情報は全て私に教えたんじゃなかったの?」
「追加情報が出てきたのよ。影沼徹はすでに言語機能を失っているのだから、情報を持ち得ているわたしが伝令役を果たすしかないじゃない」
少女の何気ない一言に対し、色々と尋ねたいことはある。しかし、それを全て呑み込んで、愛莉は言葉の続きを促した。語りの邪魔をしないよう、黙って拝聴する。
「愛莉は拘っていたわよね? 影沼徹を殺すのに必要なプロセスに」
什麼生なら貴女の代わりにしておいてあげたわ。個人的に、あれを説破とは呼びたくないけどね。と、瑠華は言った。
「徹は――何て、答えたの?」
「とても陳腐な回答だったわ。滑稽であるが故に、一周回って面白かったけどね。要約すると、彼は世界と上手く繋がることが出来なかったの。自分はここで生きているという実感が希薄だったのね。だから、彼は実証が欲しいのよ。全てを無に帰した後でも、手元に何か残っていれば、それは影沼徹がこの世界で生きていた証になるでしょう。これは馬鹿馬鹿しくてくだらない、自分探しの最中なのよ」
俄には、信じられない回答だった。
「……嘘、でしょう。だって、そんな――」
影沼徹は決して独りではなかった。彼は孤独な道を歩んでいたわけではない。年齢は離れているが、植月禅蔵との友人関係はかれこれ三十年近くなる。ほんの五年程度の付き合いだが、愛莉とて影沼の養子という特別な関係を築いている。
職場と家庭を含めただけでも様々な縁が絡まっている。その中でさえ、世界との繋がりを感じられなかった――?
だとすれば、彼にとって――私の、私たちの存在は――
「居ないことと大差ない。影沼徹の人間関係とは、誰かと交わるのではなく、単に高頻度で擦れ違っていただけに過ぎないということね」
容赦なく、瑠華は結論を口にする。仮にも保護者である人物が何の情も汲み抱いていなかったのだと断言した。
――違う。
反射的に、愛莉はそう思った。もちろんそれは、短い期間ではあるが彼を師事し、親子としての絆を築き、行動を共にしたことによる感情的な反駁だ。
しかし感情に追随し、論理的な反論も思い浮かんだ。
「徹は、厭世的でも無関心でもなかったわ。繋がりが無いのなら、作ろうと努力していた筈よ。そうじゃなければ、形だけとはいえ私を養子になんてしないでしょう?」
「ええ。まったくその通り」
愛莉からすれば意外なことに、瑠華らしい悪意に満ちた反論は返ってこなかった。続けて、彼女は喋る。
「だから、今回の事件は退屈なのよ」
誰も彼も、目の前にある解答を見失って迷走ばかりしているんですもの。一人だけを眺めるのなら兎も角、あちこちで頻発するんじゃ流石に飽き飽きするわ。と。
――そうか。
そして今更ながらに、七枷愛莉の中で様々なピースがカチリと音を立てて嵌った。
きっと、瑠華や征悟はこんな気持ちで自分のことを見ていたのだろう。解は、いつだって目の前にあったのだ。そこに当たり前のようにあった。だからこそ気付けない。しかし今、類似例を出され、視点を変えることが如何に単純なのか分かった。
なんだ。――本当にやりたいことを、好きにやればいいだけじゃないか。
――それで、結果が勝手に伴ってくるのだから。
「それで? お前はこれからどうするんだよ?」
征悟が瑠華に尋ねる。
「分かりきってることを一々訊かないでくれるかしら」
悠然と、瑠華は微笑む。
「そうだな。愚問だった。それじゃあ、閉幕まで楽しませてもらうよ」
「お兄ちゃんのためだけに、とびっきりのショーを用意したのだから、存分に楽しんでいって」
わたしは、そろそろ行くわ。と、瑠華は言う。
彼女の用件というのは、本当に愛莉が問い損ねた答えを教えるだけだったようだ。実兄が目の前に居るというのに碌な言葉も交わさないまま立ち去るのは、なんだか少し寂しく愛莉には感じられた。本人たちは愉快だと言わんばかりに、含み笑いを漏らしているが。
そして、影沼を追うと言う瑠華を悠長に見送る余裕は、次の瞬間に消え失せた。
気付けば、愛莉たちの周囲には巨岩と見紛うショゴスが集っていた。瓦礫の隙間から続々とドロドロとショゴスが集まってきていた。
反射的に魔術を行使しようとする愛莉を、手で瑠華は制す。
「人の椅子を無闇矢鱈に壊そうとしないでくれる?」
瑠華が黒く染まった左手を掲げる。途端に、巨岩の一部が溶け出し、触肢が伸びる。触肢は瑠華を掬い上げると、自身の頂点へと誘った。瑠華が表皮を踏み付けると、天辺の一部が豪奢な椅子へと変じた。
瑠華は猫のように目を細めると、悪意に満ちた邪悪な笑みを残し、ショゴスと共に夜の空へ跳んだ。
「今のって、ひょっとしてマプロー?」
初めて見る。現物もそうだが、マプローを使って死なない人間にお目に掛かれるなど、思ってもみなかった。
愛莉は少女の兄へ視線を投げる。真偽の確認ではない。彼女の瞳には、止めなくていいのかと問いたげな、怪訝な色が表れていた。
その訝しげな視線に、征悟は応じる。
「アレが心から楽しんでればそれでいいさ。俺としては、死にさえしなけりゃなんでもいいよ」
そんなことよりも、俺たちもさっさと移動しようぜ。妹様は俺たちに遅れて到着して欲しいみたいだけどな。と、征悟は言った。
奇妙な兄妹関係よりもまず、愛莉は自身の親子の縁に決着をつけなければならないのだ。確かに、余所の家庭事情に首を突っ込んでいる余裕はないと考えを改めた。
「そう、ね。私も徹も、色々とケジメをつけないとね」
再び、愛莉は〈事務局〉へ向けて駆け出した。
少しして、局舎が見えた。当然と言うべきか、局舎には亀裂一つ入っておらず、神話生物の暴威もここまでは届いていなかった。しかし、いつまでも無事なまま立建していられるとは限らない。
七枷愛莉が通い務め、見慣れた局舎の目と鼻の先では、宿神憑きと神話生物が入り乱れた激しい戦闘が続いている。
一秒でも早くその渦中に身を投じようと、愛莉は瓦礫を蹴る足に力を込めた。




