11:対峙
そして、盤面は動く。
標的が行方を晦ませ、誰もが手出しを禁じられたと思われる現状に置いて、強引に駒を進める者が居た。ルールなど初めから遵守するつもりはなく、掟破りも甚だしい手段を用いて盤上の駒を殴り付ける。愚行とも論じられる暴挙に、天笠瑠華は打って出たのだ。
具体的には、七枷愛莉と紅谷弥生が些細な行動方針の違いから決別を果たした日の翌日である。翌日とは言っても、それは時計の長短両針が真上を向いただけであり、日付の数字が一日だけ加算されただけである。体感的にはその日の内と言ってしまっても問題は無いと言えよう。
即ち、天笠瑠華は七枷愛莉と接触した約六時間後に、影沼徹と相対したのだ。
皮肉なことに、尋常ではない街の異常にまず真っ先に気付いたのは、これから世界を滅ぼそうとしている影沼徹だった。その時、彼は見分をしていたのだ。昼間、征悟と弥生が暴れに暴れたビルディングを。
調査していたことに他意はない。彼は事前に知っていた。自分がこれから起こす事象を、悉く阻もうとしている者の存在を。〈事務局〉のように影沼個人を捕らえるわけではない。こちらの目的や事情を全て看破した上で、能率良く暗躍している者が居る。実のところ、影沼と同様に神託を授かり行動した者は世界各地に点在した。だが、彼らは総じて道半ばで倒された。すでに、力あるものは影沼を除いて無力化されてしまったに等しい。その主な原因としては、ヴァチカンが積極的に火消しを始めたことが上げられる。
罷り間違っても神からの啓示であることには変わりない。にも関わらず、彼らは信奉する神の宣託を断固として拒絶した。そして同胞の動向に目を光らせるようになったのだ。
その対応はあまりにも迅速であり、普通とは到底考えられない。
宿神憑きや信者が多いということは、比例して神託に感化された者の現れる可能性が高いということだ。内部の混乱を収めるだけでも一苦労であろうに、ヴァチカンの応対は常軌を逸しているとも言える速度で行われた。そして外部の人間には、身内の粛清を感知させることなく事態を収拾しているのだ。
ハッキリ言って――異常だ。
そして、影沼徹は異常の原因を知り得ていた。メタトロンには一つの伝承がある。光り輝く三十六万五〇〇〇個の眼球を持つというものだ。この膨大な視覚情報を以ってして、神に捧げる人間の魂を見守り、あらゆる出来事を記録する役割が課せられている。メタトロンは『秘密の守護者』『天界の書記』とも称され、地上と天界の全ての秘密を知っていると言われている。そのメタトロンを影沼徹は心象兵装として扱うのだ。
影沼は自身の心象兵装を活用し、日本に居ながら地球の反対側に位置するヴァチカンの情報を独力で入手していた。かの機関で神託を授かった同胞には、四大天使『神の炎』ウリエルを始めとした強者が複数人揃っていた。
彼らは決起した。足並みを揃える時間が必要だったとは言え、逸早く行動を起こしたと言っていい。しかし、彼らは敗北した。たった一人の少年に手玉に取られ、遊ばれた挙句に負け犬の烙印を押されたのだ。その少年は頭髪が灰のように白く染まった、特徴的な髪色をしていた。
そして先日、影沼徹はそれらしき白髪の少年と相見えることが適ったのだ。だが、彼以外にも不穏な動きをしている者が居ると影沼は感じていた。
その者は決して表舞台に立つことはなく、影から影へと移動し、暗躍している。むしろ、影沼が邂逅した少年を隠れ蓑とし、その少年の影に隠れている印象を覚えた。
彼らが協力関係を築いているのか、一方が利用しているだけなのかは影沼には判断できない。その潜伏者は影沼が心象兵装を用いても尻尾を掴むことすら出来なかったからだ。世界各地を見守り、あらゆる事象を記録するメタトロンの瞳から逃れ続けるなど不可能に近い。無論、人間の脳では全ての情報を処理しきれる筈もなく、心象兵装を常時発動していられる余裕はない。それでも影沼の監視を潜り抜け続けるのは、至難の業に他ならない。
それを、相手は軽々とやってのける。
しかし、それも数時間前までの話だった。
天の目を欺く稀代のトリックスター。どんな逆境をも歯牙にも掛けず乗り越える豪傑。この二つの役割を果たしていた両者、もしくは複数人の足並みが突如として乱れたのだ。
切っ掛けは、一体の深きもの。交通機関は縦横無尽に独自の路線を張り巡らせ、一日あれば日本各地へ赴くことを可能にした。とは言え、わざわざ海から離れたこの街に深きものが根を下ろす理由はない。何よりも影沼が腑に落ちない点は、この特異な行動をする深きものを把握することが出来なかったのだ。
自分を付け狙う隠者の差し金であることは察しが付いた。だがそれにより、またしても不可解な疑問が生じる。
その深きものの存在を露呈させ、討伐したのが天笠征悟なのだ。影沼徹を嵌めるための罠を、相方が台無しにしてしまった。
これが敵対者に対し、付け入る隙になるのかは分からない。だからこそ、影沼徹は昼間戦場であったビルの跡地へと足を運んだ。
目的地で待っていたものは、終末を予感させる瓦礫の山だった。そこでは何もかもが終わっていた。築き上げられた文明の産物。人の営みの痕跡。人間のみならずあらゆる生命の存在まで否定するかのような、退廃した空気が流れていた。
そして、瓦礫にこびり付いた血痕や肉片が新たな生命の流入を妨げている。普通、新鮮な生肉や死体を放置しておけば、自然と蝿が集り、肉は蛆虫の温床となる。だが、ここで風化を待つ肉片にはそのような自然の摂理が働いていない。深きものの死骸は、益虫すらも拒んでいるのだ。
あるがままの光景だけを見れば、地獄の日常のような有り様だ。これではどちらが世界を終わらせようとしているのか分からない。
生命の胎動が沈黙している死地を前にし、影沼徹は無感動にソレを見つめる。一方的な虐殺があったことは見受けられるが、この場所から敵対者に繋がる情報は得られそうになかった。元々利用価値が低かったのか、ただのミスディレクションだったのか。それすらも影沼には判断のしようがなかった。
得るものが無い。そう結論を下した影沼はすぐにこの場を去ろうとした。追われている立場であることを失念しているわけではない。いくら宿神憑きとは言え、個人で組織を相手取るのは荷が勝ち過ぎる。銃火器で武装した局員や警官に街中を警邏され続ければ、影沼とて心身共に疲弊し、いずれは捕縛されるだろう。特別な力を持っているからといって、数の暴力には逆らえないのだ。
漫然と影沼は考える。もしもこの誘導が何かの罠ならば、このまま〈特殊防災戦略事務局〉へ攻め入ってしまった方が得策なのではないか。先日行われた作戦は失敗したばかり。局員も疲れが取れているわけではないだろう。今までは天笠征悟という不確定因子の存在もあり、手が出し難い状況だったが、それも過去の話だ。
今の〈事務局〉は守りが手薄になっている。
不確定要素だった天笠征悟は〈事務局〉の助勢にはならず、元々局員であった筈の七枷愛莉は戦線を離脱した。警戒すべき戦力が少しずつ〈事務局〉から消えている。
確かに大多数に包囲されてしまえば、影沼も逃げに徹さなくてはならなくなる。しかしこちらから強襲する分にはどうだろうか。人手が多いということは、それだけ伝達に時間が掛かるということ。数が揃って初めて出来る連携も、歩調を合わせる時間を与えなければ何も怖いことは無い。
今からでも電撃戦に打って出て、結界の機能を停止させるべきだろうか。
降って湧いたチャンスに影沼徹は思案する。あるいは、この思考も誘導されたものではないか、慎重に判断する。
闇夜に鳴く虎鶫を見つけたとして、それを弓で射るのは本当に自分の意志だろうか。弓矢はこれ見よがしに用意されていた物ではないのか?
そもそも味方が居ないという時点で影沼は十二分に不利なのだ。例え罠であったとしても、千載一遇の好機だと判断すれば渦中へ身を投じるしかない。虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。
ここで影沼徹は一気に攻勢へ移ることを決意した。
その直後、彼の決意は踏み躙られる。
ごぽり。と、濁った音を立てて水泡が弾けた。音源までの距離は然程遠くない。ふと気が付けば、辺りには鼻腔を刺激する異臭が漂っている。とてつもなく――不快な臭いだ。吐瀉物を海水で煮込んだような、忌まわしい臭いが鼻を突く。
身近に、神話生物が潜んでいる。
いつしか異界へ迷い込んでいたようだ。遅まきながら、影沼は警戒レベルを引き上げた。これ程接近されるまで存在を認知できない隠密性。言わずもがな、天笠征悟を隠れ蓑に行動する隠遁者の仕業だろう。やはりこれは、罠だったようだ。
影沼が状況を認識すると同時に、瓦礫の一角がごろごろと崩れ落ちる。石と石。礫と礫。その狭間から視線を感じる。玉虫色の体液がじわじわと沸き上がっているようだった。当然、その正体には憶えがある。――ショゴスだ。
影沼は、すでに――包囲されていた。
冷や汗が滲む。得体が知れない、正体不明を相手取る恐怖を、影沼は久方振りに感じていた。神話生物と対峙するときはいつだって緊張感を伴うものだが、普段とは別種の精神的負荷がプレッシャーを与えてくる。
そもそも、これ程に人間的な恐怖を覚えるのは一体いつ以来だろうか。
「あら? まだ人としてまともな感覚が残っていたのね」
影沼の自己分析と重なる形で、彼の背に言葉が刺さった。
鈴を転がしたかの美声は、狙い澄ましたタイミングで影沼に届く。心理的な機微すらも、全て把握していると言わんばかりの言い様だ。
周囲ではショゴスが三六〇度を取り囲むように壁を形成する。瞬く間に出来上がった光景は透明度の低い試験管内に閉じ込められた錯覚を生む。いや、壁を意識して肉体を形成しているわけではない。これが本来のショゴスの全貌なのだろう。あくまでも肉体の中心部が空白地帯になるよう制御しているに過ぎない。先日とは比にならない程の巨体で以って、影沼の障害物となっている。
粗悪な試験管に囚われるなど、まるでホムンクルスのようだ。タールの如き檻を強引に突破すれば、無事では済むまい。いま暫くは、この試験管の中で息をするしかない。
夜空を見上げることは出来る。それは影沼にとって唯一残された避難経路。だからこそ、安易に飛び込むわけにはいかなかった。電撃戦なら望むところだが、今はまだ消耗戦だ。迂闊な行動は破滅を招く。
一呼吸置いて、影沼は振り返った。
この狭い世界を共有するもう一人の人物を視界に収める。
立っていたのは、一人の少女。こちらを真っ直ぐに見据え――嗤っていた。黒基調のゴシックドレスに身を包み、口元を邪悪に歪めている様は、中世の絵画から飛び出してきたようで現実味が無い。
滅ぼすべき対象だ。わけもなく影沼はそう感じた。それ程に、少女は異様だったと言える。
その少女は玉虫色の不気味な光彩を受けて、頭髪が異質に煌めいていた。しばらく眺めた後、彼女の地毛が白銀であることを理解した。色合いこそ清廉なものだが、その輝きは邪曲な闇を孕んでいる。そして印象をより強烈なものにするため、少女は尚も嗤うのだ。
少女を見る。ただそれだけで、影沼の神経はささくれ立った。苛立ちとストレスを感じている。神が定めた悪魔と対峙している心境に、影沼は陥っていた。だが、その第一印象もすぐに掻き消えた。
自分は膜に覆われている。影沼は自身の有り様をそう評していた。
世間からの刺激は全て膜を通した上で伝わってくる。通り抜ける過程で刺激は弱まり、または変質し、影沼は遍く万物を薄弱なものとして認識していた。
怪我をしたとしよう。身体が傷付けば肉体の異常を感知し、痛みが発生する。これは道理だ。当たり前の生理現象だ。しかし影沼は、その痛がっている自分というものを膜の内側から客観的に見つめている。他人事のように身を案じ、手当てをしなければと考えるのだ。
これは果たして、世界と繋がっていると言えるのだろうか。
生命に関わる痛覚ですら、満足な現実感が得られない。喜怒哀楽は言わずもがなだ。
勿論感情は理解できる。影沼にだって気持ちはあるし、時と場合によっては変化する。
しかしその変化は、外界からの反応というよりは状況に相応しい対応をしているだけなのだ。雨が降れば鬱々とした気分になると世間一般では言うらしい。ならば、世間でいうところの感覚に合わせた方が間違いはないだろう。と、そんな歪んだ思考をワンクッション挟んだ後、影沼徹は感情を発露させる。
社会性はある。あるが故に、世間から爪弾きにされることはなかった。
相手の機微を読み取って、それに合わせて対応しているのだから、邪険に扱われる方が稀だ。影沼は杓子定規な人物ではない。洒落や冗談も解するし、TPOを弁えた上で臨機応変に対応する。だが、そのどれもこれもが世間や常識というものに照らし合わせた結果、生じているものに過ぎない。
ただ生きていくだけなら不都合はない。不便もないが、疑問に思うことはある。
膜の内側で茫洋としている自分に、心というものはあるのだろうか。
あくまでも、影沼から発露する感情は状況に適した反射でしかない。本心では――ないのだ。これでは感情表現が可能になった昆虫と言われても強く否定することは出来まい。
社会や世間が変わってしまえば、影沼の応対も変わってしまうのだろう。
自分というものがない。影沼が何を発しようとも膜の表面を滑るだけで、外界へは届かない。この膜を取り払えたとき、自分は本心を吐露することが出来るのだろうか。
だから、初めてかもしれなかった。ただ一目見ただけで、膜の内側にまでダイレクトに嫌悪感を与えてくる人間は。経験としては、これで二度目だ。
少しばかり、興味が湧いた。誰かと積極的に話したいと思うなんて、本当にいつ以来だろうか。
「貴方からすれば、はじめましてになるわね」
自分の意識下ではすでに邂逅していると言いたげに、少女は喋った。
その拍子にドレスが揺れる。豪奢な姫袖から伸びた右手は口元を隠し、フリルやレースをあしらった膝丈のスカートからは華奢な足が覗いている。黒を纏っているが故に、色白の素肌は妖しく映えた。
「……君は――何者なのかな?」
正しく発音できたことに影沼は場違いな安堵を覚えた。体感時間では長期間に渡って言語を発していない気がしたのだ。よくよく思い返せば、彼が最後に喋ったのは天笠征悟と対面したときだった。
一日近く言葉を発していないことに驚けばいいのか、まだ一日しか経過していないのかと曖昧になっている時間感覚に愕然とすればいいのか、影沼は咄嗟に判断が出来なかった。
分からなかったから、自分の感想は二の次にして、眼前の少女の挙動をった。
見れば見る程、暇と退屈を持て余した退廃的なイメージが湧き上がってくる。
事実、飽き飽きしているように彼女は口を開いた。
「まったく、やれやれね。貴方たちは能が無いの? お前は誰だお前は誰だ。そればっかり。いい加減わたしだって聞き飽きたし、少しうんざりしてきてわ。こんなどうでもいいこと、問題には成り得ないでしょう」
まあでも、呼称に困るだろうから一応名乗ってあげる。わたしは天笠瑠華と申します。と、瑠華はこちらを見下しつつ、慇懃に一礼した。
ヘッドドレスに付いた十字架のアクセサリが、玉虫色の輝きを受け、揺れる。
「誰何が嫌なら、用件を聞こうか。こんな大仰なモノまで持ち出して、ただの通り魔じゃないんだろう」
「ただの通り魔で、発狂するリスクを背負うわけないじゃない」
くすくすと瑠華は笑う。年齢はいくつだろうか。少女の小柄で華奢な体躯は高校生には見えない。しかし、中学生かと問われればもう少し上に感じる。
どちらにしても、瑠華が歳不相応な禍々しい笑みを浮かべている事実は変わらない。
「影沼徹さん。この業界で自分がどんな場所に立っているのかは理解しているわよね?」
「一般的に言うと、僕は社会の敵になるらしいね」
なんとも惚けた会話だと、影沼は思った。
「僕のような魔術犯罪者を捕まえるのは〈特殊防災戦略事務局〉の仕事であって、お嬢ちゃんみたいに可憐な娘が出張ってくる場面じゃないと思うけど?」
「ええ。ほんの少し、失敗しちゃったのよ。お兄ちゃんにはもっと情報を与えるべきだったし、〈事務局〉ももうちょっと焚き付けておくべきだったわ。おかげで貴方の足取りを追える人が居なくなって、わたしが表舞台に出て来る破目になってしまったもの」
ままならないわね。と、瑠華は毒づく。
「目立つのが嫌なら、渦中の中心になんて来なければいいのに」
そうなんだけどねぇ、と瑠華は大きく溜息をついた。
「手駒は持てど、戦闘力は有さない。というのがわたしのスタンスであり、美学だったのだけれど、流石にこれは過ぎたオモチャだったわ」
言って、瑠華は自分たちを囲う玉虫色の壁面に視線を投げた。それも数瞬。すぐに少女の双眸は影沼に焦点を合わせる。
「まあ、裏方に立つ人間にとっては相応しくないだろうね」
「そうなのよ。だから今回はその戒めというわけ」
「つまり君は、自分を律するためだけに、わざわざ僕と相対したのか。印象と違ってずいぶんと自罰的なんだね」
すると瑠華はきゃらきゃらと声を上げて笑った。よく笑う娘だ。
「自罰! 自罰ですって! それは、傑作ね! このわたしを罰するなんて、わたしですら不可能なのに!」
何が面白かったのか、彼女は目に涙を浮かべ、文字通り腹を抱えて大笑する。そして一頻り笑った後、彼女は言った。
「雑談で誤解させてしまったのは申し訳ないけれど、別に真の目的だとか、そんな大層な理由は無いのよね。強いて言うなら、そろそろ状況を動かさないとウチのお兄ちゃんが事件に飽きてどっか行っちゃう程度かしら? 勝手気儘に動き回るプレイヤーを御しなければならないゲームマスターの気持ちも、少しは考えて欲しいところだわ」
だとするなら、この少女は信念も主義も思想もなく、影沼の前に立ちはだかったということになる。まともな思考ではないが、真っ当な人間でないことは百も承知だ。瑠華の言葉に、影沼は親近感らしきものを覚えた。
「君のお兄さんが昨日の彼かい?」
「その通りよ」
「お兄さんなら僕を殺せると?」
「まあ、殺せるでしょう。でも安心していいわ。そういう安直な結果にしないために、わたしはわたしで暗躍していたんだから」
自分が殺される話のどこに安心材料があると言うのだろう。
そもそも、安心や安寧といった言葉は影沼から縁遠いものなのだ。今の逃亡生活は論外だが、〈事務局〉に勤めていた頃も、影沼はそれらの概念を意識していなかったように思う。思うだけだ。詳細は思い出せない。
膜だ。自分を覆う膜がある。やはりこの膜が危険も快事も区別なく、影沼に届くシグナルを弱めている。だから影沼にとって、安心も不安も等しく無価値な概念だった。
「僕の居場所を特定できるのなら、〈事務局〉かお兄さんに伝えてしまえばいいじゃないか。君が言う戒めだって、言っているだけで自分には何の効力も無いんだろう。なんだか君は、ひどく無駄なことをしているように感じられるよ」
会話の流れなどあったものではない。その場その場で生じた疑問を、その都度尋ねているだけだ。ショゴスを使役している時点で彼女も尋ね人には違いないのだから、早々に事を起こせばいいものを。自分はそう考えるくせに、自分からは行動を起こそうとはしない。なんともちぐはぐで安定しない。思考自体が蹌踉めいている。
「後々の展開を考えると、これが一番冴えたやり方だと思うのだけど、中々支持は得られないものね。――わたしとしては無駄な行いでも構わないと思ってるのが、最大の原因なのでしょうけど」
「無駄でもいい、と?」
「ええ。無駄でも徒労でも不毛でも無益でも無意味であったとしても、わたしは一向に構わないわ」
だって、今が楽しいことには変わりないでしょう。と、やはり瑠華は笑う。心底から楽しげな笑声を出す。それは――影沼には分からないことだ。
何を、楽しむというのだ。
「何もかもを。在るがままを」
全てを見透かすような双眸を影沼に向けて、瑠華は言う。
やはり、理解は出来ない。影沼の感性を非難するように、ごぽり、と壁面が泡立った。音源へ素早く視線を走らせる。周囲への警戒も怠らない。数秒程沈黙が流れ、影沼はショゴスに動きはないと判断した。瑠華はまだ事を荒立てるつもりはないと解釈した。
「何もかも、か。なら君は、この神話生物すらも娯楽に足り得ると、そう考えているのかい?」
視界に収めるだけで常人は精神を疲弊し、心の弱い者ならば狂ってしまうかもしれない存在を玩具と同等に扱うというのか。
当然よ。と、瑠華は即答した。こんなことも理解できないのか、と影沼を侮蔑に満ちた視線で射抜き、肯定する。
「この世につまらないものなんて無いわ。つまらなく感じるのは単にわたしの趣味に合わないだけ。わたしの好みじゃないからといって世間も同じく嫌っていると考えるのは、傲慢というものでしょう」
相手を小馬鹿にしたような、この世の誰よりも傲慢な態度を取りつつ、瑠華は語る。
「貴方が今やっていることも、わたしから見れば困るけど、終末思想に取り憑かれた人たちからすれば垂涎モノの尊い行為ではないの? 同じことよ」
そう、なるのだろうか? 影沼には分からない。別に他者のためにやっているわけではないのだ。無論、自分のためにやっているわけでもない。それに影沼は価値観を世間という曖昧なものに委ねている。世間の評価こそが、影沼の好悪に成り得るのだ。世間では、神話生物は排除すべき害悪であり、そこに娯楽要素は含まれない。瑠華の言葉は、影沼には異星人の言語にも等しかった。
自分は世界を滅ぼそうとしている。この世の終わりを望み、神や未来に救済を求める者にとっては自分の行いは救いになるのだろう。
論理的には理解できるが、心情的にはまるで分からなかった。
終末論者など、社会的に見れば少数派だからだろう。大多数の意見に左右される影沼にとっては、拾うことのない感性だ。
分からない。分からないことだらけである。これじゃあ僕は人の心を失くしたようなものじゃないか。と、影沼は漠然とした感想を抱いた。不安ではない。恐怖でもない。ただ他人事のようなフィーリングを抱き、そこから心理が発達しない。
膜だ。自分を覆う膜こそが、邪魔なのだ。
心無き人でなしに、なったような気分だった。
「影沼徹さん。貴方は何か、言いたいことは無いのかしら? さっきから質問ばかりで、わたしだけが答えているように感じるわ」
そしてこの少女は、見計らったように、見透かしたことを尋ねてくるのだ。
影沼自身が話したいこと。自分自身が語りたいこと。
何故自分はこんな状況下で初対面の少女と雑談に興じているのだろうか。
その根本的な自問にすら、影沼は答えることが出来ないでいる。
「君こそ、僕に聞いておくべきことはないのかい?」
結局、影沼は間の抜けた問いを返した。
「無いわ」
一顧だに値しない、無情な宣告だった。
「だって、この後のわたしの役割は貴方を痛めつけることなのよ。貴方のことを知ったところで、ねぇ」
何の意味も無いでしょう。と、瑠華は言った。
全く以てその通りだった。彼女が影沼の前に現れた時点で、核心に通ずる情報を手にしているということだ。今更手持ちの情報を裏付ける話を聞いたところで、為すべきことは変わらない。
だとするなら、影沼から瑠華へ問い掛けたいことはない。自分を覆う膜を突き破る程の情動は働かない。いつも通り、影沼は世間と照らし合わせて行動基準を決めるのだ。神話生物に囲まれている状況で世間話に興じている場合ではない、と。
「なら、お互いに話すことは無くなったと解釈していいのかな? 僕はそろそろ、この場所から移動したいのだけど……」
「ああ、ごめんなさい。もう一つか二つ言っておくべきことが出来てしまったわ。時間は掛からないから、もう少し付き合ってもらえないかしら?」
「構わないよ」
傍から見れば滑稽な会話をしているのだろう。ショゴスに逃げ道を封じられた男と、ショゴスを使ってお前を殺すと宣言している少女が、呑気に語り合っているのだから。悪意や害意といった悪感情は、少女の印象を除けば介在していない。何とも奇特な談話だった。
そして瑠華は言葉を紡ぐ。もう幾度目になるのだろう。かなり長い時間話し込んでいるように影沼は感じた。
「結局、貴方には何も無いのよ」
確認ではない。断言だった。何も有してはいない。何も成してはいない。そう、影沼は唐突に断じられた。
「何を――」
――言っているんだ?
続く筈の問い掛けは、少女の言明によって遮られた。言葉尻は切って落とされる。
「誤解してたわ。なまじヴァチカンで暴れる前例を見ていただけに、信仰心が行き過ぎた結果、貴方も神託を遂行するだけの機械的な装置になったのかと思っていた。けど、貴方は自分の意思で実行しているのね」
自分の意思かどうかは分からない。ただそうすることが自然だと判断した結果、影沼は動いているに過ぎないのだ。
「世界を巻き込んで心中しようだなんて、どんな愉快な人間か愉しみだったのだけれど、蓋を開けてみればなんてことはなかったわね。貴方には何も無い。そして本当に全てを無くした上で、自分に残る物を確認しようとしているだけ」
滑稽を通り越して憐れだわ。と、瑠華は影沼を鼻で笑う。
いつしか彼女の瞳には軽蔑と侮蔑が色濃く同居していた。力強く弓形に裂けた口元は、まさに邪悪と呼ぶに相応しい。
だが少女の嘲笑も、影沼には届かなかった。瑠華の言葉は影沼に触れる前に、彼を覆う膜にぶつかり、表面を滑るだけ。瑠華の悪意は、影沼へは達しない。
「……そう、なんだろうか?」
だからこの期に及んで、影沼は間の抜けた返答を口にする。心中を言い当てられたところで、そこに何も無ければ、動揺するものも無いのだ。
これには流石の瑠華も少々鼻白んだようであった。
「好悪も善悪も良し悪しも正邪も、喜怒哀楽も情緒も風情も風体も、全部他人任せで判断してきたのでしょう? 言わば社会的常識に沿ってしか決断できなかったのよね? ――問いが出来たわ。今、貴方は何を基準にして物事を決定しているのかしら?」
「君の、言う通りだよ。僕は、社会や世間といったものを物差しにして物事を判定していた」
「ハッ! 貴方の言う世間って一体どこの世間なの? 少なくとも、世界を滅ぼすことを是とする世間に、わたしは心当たりが無いのだけれど」
そう。社会的と言うならば、現在影沼が行っている活動は反社会的なものに位置付けられる。しかも、その中でもトップクラスの凶悪さだ。
にも関わらず、影沼の中では矛盾した処理を起こしていない。普段と同じ様に、自分の外側の意思と照らし合わせて行動している。
瑠華が嘲笑を浴びせるのも当然だ。大衆は、世界が滅ぶことなんて容認しない。むしろしようとする存在を駆逐する。それこそ、神話生物と同じ様に。
ならばこの場合の世間は。影沼が言う世間とは。
「僕の世間は――」
僕と神さまのものだったのか。
自分の周りには膜がある。膜に覆われ、世界と上手く繋がれない。影沼にとって世界とは希薄なものであり、そこに不確かな存在として確立している影沼自身もまた、空疎なものに違いなかった。
そんな時だ。声が聞こえた。声と言うよりは意思と言った方が相応しく、その意思は力強く明瞭で何者をも平伏させる荘厳さを持ち、影沼の膜を易々と突き破ったのだ。
影沼にとって、それは初めての経験だった。
世界が身近に感じられた最初の体験であった。
初めて研ぎ澄まされた感覚。自分を取り巻く膜を介さないクリアな視野。そこで示唆された道筋に影沼は殉じていたに過ぎない。
大それたことを仕出かしておきながら、そこには一片も影沼徹の意思が無かった。
改めて、瑠華は言う。
「貴方には、何も無いのよ」
と。
笑う。嘲笑う。不出来な喜劇を見ているかのように瑠華は笑う。
少女の瞳は嗜虐に染まっていた。少女の瞳は邪悪な色で構成されていた。覗き込むだけで溺れてしまいそうな闇色は、真っ直ぐ影沼に向けられている。
利己的で自分勝手、影沼とは相容れない判断基準を持つ少女は、一体何を見据えているのだろう。何を目指し、何を夢想し、そこまで愉快に笑えるのだろう。
瑠華に対し、初めて影沼は尋ねたいことが出来た。しかし、その問いを発することは適わなかった。膜に遮られたわけではない。自制ではなく、影沼の初動が少しばかり遅かったのだ。笑いの衝動が収まった瑠華は、スッと今まで影沼の意識外にあった左手を掲げ。
そして――
「待たせたわね」
そろそろ、始めましょうか。と、呟いた。
鈴を転がすような振動が伝播し、ショゴスが、蠕動する――




