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5億km²の牢獄  作者: Wolke
10/19

10:告解

 紅谷弥生ら〈事務局〉の面々と袂を分かつことになった七枷愛莉は、今晩の宿を探していた。たとえ一時的であったとしても命令に背き、〈事務局〉に反旗を翻したことには疑いようのない事実である。追われる立場に身を転じておきながら、愛莉は逃亡者とは思えない程暢気していた。


 貴重品等は普段から持ち歩いていることもあり、ただ生きていく分にはそれ程困ることはない。これが普遍的な魔術師であれば、ここ一番の大勝負には切り札となる呪物を揃えようと画策するのだろうが、初めから奇跡を体現する宿神憑きには縁遠い話であった。加えて、七枷愛莉は即効性や即時性に優れた魔術を得意とし、大掛かりな魔術を使う傾向が無かったのだ。


 制服から私服に着替える時間もなく、着の身着のまま家を飛び出した家出少女のような様相ではあるが、愛莉の心情は現状を考慮すれば随分と気楽なものであった。制服姿と言っても上からコートを羽織っており、極端に公僕の目を引く格好にはなっていない。


 夜はまだ更け始めたばかりということもあり、街はまだまだ賑やかになっていくようだった。そんな喧噪に溶け込んで、愛莉は夕食を済ませてしまう。視界に入った適当なレストランでディナーを頼み、空腹を解消した。


 そうなると、後は今後の展望に思いを馳せつつ宿を見つけたところでこの日の活動は終わってしまうだろう。


 影沼徹に問う。


 目的と言える用件はたったそれだけであるが、達成するのは至極困難と言えた。所在不明の人間を見つけ出すところからはじめなければならないのだ。日々の生活は気楽に過ごせる自信があるが、紅谷弥生ら〈事務局〉の人間を出し抜いて接触するとなると、やはり困難としか言いようがない。


 止めどなく続く雑踏に流されつつ、愛莉は通り過ぎる人々の顔を盗み見る。当然のことだが、擦れ違う人間は皆面識のない者ばかりだ。通り過ぎるだけでも人々は様々な表情を浮かべている。笑っていたり、沈鬱な面持ちであったり、呆けていたり、無表情であったりと、多種多様な顔色で喜怒哀楽を表現している。


 影沼徹と相対したとき、自分でもどんな納得の仕方をするか分からない愛莉だが、この光景を失わせる行為には手を染めたくないと思う。そして、自分の心理を分析し、愛莉は自嘲気味に苦笑を浮かべた。


「それなのに徹を殺せるって即答できないから、弥生に信頼してもらえないのよ」


 分かっている。分かってはいるのだ。しかしそれでも、納得というワンクッションを置かないと、彼を殺害する決心が付かない。


「そこまで思い入れのある相手なのか。その影沼ってヤツは」


 愛莉の独白に答える声が耳に届く。半ば呆れて、愛莉は声の主を見返した。


「それで? 天笠君はいつまで着いてくる気なの?」


 楽しげに笑う彼の顔を見て、愛莉は辟易しながら問い返す。この男は、愛莉が弥生と袂を分かちセーフハウスを飛び出した後もずっと付き纏って来ていたのだ。昨夜まで懐が心許ない状況であり宿無しであった少年が、愛莉に付き合ってセーフハウスを飛び出すなど理解に苦しむ。


 だが、当人は昼の一件で少なくはない報奨金を手にしていたようで、自分の食い扶持は自分で持っている。迷惑を被っているわけでもないし、愛莉にとってなんとも邪険にしづらい存在であった。


「取り敢えず、今日のところは行動を共にすることを勘弁してくれないか。本日中に動きがなければこっちも諦めて立ち去るから」


 愛莉とは対照的に、何の憂いもない笑みを浮かべながら彼は言った。この当てもない道程に彼が随伴する理由なら察しがつく。大方、彼の妹が原因なのだろう。


 ほんの数時間前まで七枷愛莉は彼の妹と思しき少女とお茶をしていたのだ。しかしだからと言って、少年が妹と邂逅できるわけではないと愛莉は思った。


 そもそも、ルカと名乗った少女については謎ばかりで、彼女に付随する情報は皆無である。彼女は一体何者なのか。そしてよくよく考えると、その解をもたらす少年についても愛莉は良く知らないことを再認識した。一度意識すると、俄然興味が湧き上がる。征悟は兎も角、ルカはすでに事件の中心に立っているかのような情報量を携えているのだから。


 愛莉は尋ねた。


「まあ、着いて来るのは構わないわよ。それより、貴方たちって何者なの? 特に、妹さんは控え目に見ても普通じゃないと思うんだけど」


 気を悪くしたらごめんなさい。と、謝る愛莉の言葉を、天笠征悟は自身の笑い声で掻き消した。


瑠華(るか)のヤツの評価はそれで正しい。第一印象が『邪悪』だとか、七枷は見る目があると思うよ。つーかあんなのが天使に見えるのなら、俺はソイツの眼と脳を疑うね」


 いや、信じられないことにウチの妹様の付属物は天使なんだけどさ。と、からからと笑いながら征悟は答えた。妹の悪徳を肯定し、愉快だと言わんばかりに彼は笑う。


 街中で人目を気にせず大笑する征悟の挙動に、周囲の視線が自然と集まっていくのを愛莉は自覚した。隣を歩く自分も好奇の目に晒されることになり、愛莉の心は小さくなる一方だ。


 しかし、彼の発言を聞き逃すことはしなかった。


「やっぱり、彼女も宿神憑きだったのね」


 天使というからには古代ヤハウェ信仰から派生していったアブラハムの宗教に属するものなのだろう。分類上はゾロアスター教にも存在するが、あそこの天使は善神の配下という位置付けであり、ルカが纏う雰囲気とはまるでそぐわない。ゾロアスター系譜の宿神ならば、征悟は悪魔と評するだろう。


「そもそも貴方、今朝はこっちの業界には素人みたいなことを言ってなかった? 今の話振りだと、私たちが説明した事柄は全て初めから把握していたように聞こえるんだけど」


「おいおい。俺から詳しい説明を要求した覚えはないぞ。基本事項はそっちが勝手に喋ったことだし、こっちも解釈に差があったら困ると思って質問したに過ぎないんだから」


 あっけらかんと征悟は言った。共通の言葉を口にしていながら、意思疎通が正しく図れないのであれば、それは確かに問題だ。だが、知っているなら知っていると一言断りを入れてから確認しろ。過ぎたこととは言え、愛莉は少しばかり憤りを覚えた。本人の開き直った態度が癪に障った所為かもしれない。


 しかし、今はそんな瑣事を追求している場合ではない。


「天使、ということは貴方の妹はメタトロンと同じ系譜になるわけね」


「そうなるな」


 あっさりと征悟は肯定する。それにより、ルカの言葉の信憑性が上がった。当人と話してきたかのような口振りや実情に詳しい点も、同様の勧誘をヤハウェから受けたのだとしたら納得できる。少女の性格的に、世界を滅ぼすために暗躍していると言われれば、愛莉はルカの言葉の真偽を確かめようとは思わないだろう。しかし現実は、ルカはヤハウェの神託を蹴り、影沼が神に誑かされた。


 信仰心の差というわけではないだろう。愛莉の知る影沼徹という男は決して信心深いわけではなかった。


「なら、他の宿神憑きについては何か知ってるの? アブラハムの宗教系列なら、世界三大宗教であるキリスト教とイスラム教が深く関わってくるんでしょ? 信者の数はそのまま勢力の規模にも繋がるし、大多数の人間が神様に煽動されてしまったらその時点で勝ち目が無くなると思うんだけど」


「基本的には大丈夫だろ。まず神託を授かる方が少数派に数えられる。その少数派でも自分の不利益になる行動を率先して取る馬鹿は居ない。極少数なら組織の自浄作用によって自然と淘汰されるわけだしな」


 話を聞く限り〈特殊防災戦略事務局〉の体制がそのまま裏目に出てしまった結果のようだ。宗教観の薄い日本だからこそ様々な宗派の宿神憑きを雇用できる。ただ宿神憑きの絶対数が増えるわけではないので、特定の宗派に属する人間は数を減らしてしまう。


 ただでさえ宿神憑きは少ない。そしてそのさらに少数に神託は告げられる。ヴァチカンなど同じ宗教に属する人間だけで組織しているならまだしも、これでは情報の精度で後れを取ったとしても仕方がない。


 しかも〈事務局〉の場合はその極小数に含まれる人間が部署で一番の実力者なのだから、何と言うか、もう救いようがない不運である。


 裏は取れた。ルカもまた当事者ならば、〈事務局〉よりも早く行動を起こし、イニシアチブを握ることは可能だろう。不審な行動を繰り返す影沼徹を目敏く見つけたのならば、彼の経歴などを調べあげるのは当然だ。


 ルカと相対した感想を述べるなら、幻術など人を欺く術に長けている。自分の感覚が正しければ調べ物なんて瑣事は容易に済ますことが出来るだろう。そして入手した情報を元に、天笠瑠華は七枷愛莉へと白羽の矢を立てたのだ。


 ここまでの流れは納得した。


「天笠君は妹さんから何か相談を受けたりはしなかったの?」


 と、愛莉は尋ねた。ルカの企みを初めから知った上での振る舞いなら、そちらの方が据わりが良いと思ったからだ。


 しかし征悟は愛莉の質問を「まさか」と、鼻で笑う。


「アレがそんな可愛げのあることをするわけが無いだろう」


 根拠はない。だがその言葉に、愛莉はひどく納得してしまった。


 要するに、初めから全て承知で謀をしている妹と、妹の目的も知らずに付き合っている兄、という構図でこの兄妹は結ばれているのだ。


 とてもか細い関係性だと愛莉は思う。関係を保とうとしているのが征悟一人である時点で、二人を結ぶ物は糸よりも尚細い。それこそ、数学で定義された『線』が一方向に伸びているようなものだ。


 しかし、その不確かで一方的な関係に征悟は微塵も不安を抱いてはいないようだった。誰の意図も汲まず、自由に振る舞う姿こそを征悟は肯定しているように感じられる。


 いつ切れてしまうかも分からぬか細い線のくせに、鋼の如き強靭さを持っている。


 これが――血縁なのか。


 家族とは、七枷愛莉から最も縁遠いものだ。


「というか俺たちのことなんてどうでもいいんだよ。問題なのは七枷の心根であって、行動原理であって、存在理由なんだ。瑠華が心象兵装を昇華させろと言ったからには、そこを解決しないと勝算は低くなる」


 羨望。嫉妬。夢想。もしも私が実の娘だったなら、彼は凶行に手を染めることはなかったのではないか。そんな詰まらぬ仮定から愛莉を現実へ引き戻したのは、天笠征悟の言葉だった。


「妹さんは、重要なのは理解度だと言っていたわ」


 甘ったれた妄想を打ち払うべく、愛莉は話題を核心へと近付けていく。


「ふぅん。理解度か。理解度と言ったんだな、アレは」


 彼の確認するような呟きは、空気の中に融けて消えた。そして、不意に彼は空を見上げた。天蓋は闇に覆われている。街の眩さに星々の光は打ち消され、雲が掛かっているのかすら判然としない。


 夜空の状態に関わらず、天笠征悟はただぼうっと頭上を睨む。近場の建物の屋上に何か居るのかと勘繰り、愛莉も視線を上へ向けた。窓から手を伸ばす光色。圧し潰さんと迫る夜色。この二つが相容れず反発を起こしているだけで、別段変わった物は何もなかった。


 少年は、ただ黙し、思案しているだけのようだ。


「ねぇ。貴方も私の宿神を知ってるんでしょう?」


「……ああ。フリッグだろう?」


 宿神の正体を隠していたつもりはないが、妹と同じく兄にも看破されていたようだ。ルカが無様とさえ評した心象兵装。どうやら自身に纏わる宿神を知らず知らずの内に喧伝しているようであった。


 引き金を引けば相手は死ぬ。その絶対的に優位な武器を手にした結果、巧妙な隠蔽が疎かになってしまっていた。しかし愛莉は反省を後回しにし、これ幸いとばかりに、より具体的なルカとの対談の内容を征悟に語った。


 相槌を打ちながら坦々と歩を進めた末に、征悟はやっと口を開く。


「役者の入れ替わりによる神話の混合か。それはそれで面白そうなテーマではあるが、一つ一つ検証していくには今回は時間が足りないな」


 時間が足りない。そんなことは分かりきっている。影沼が事を起こす前に、弥生に先んじる形で愛莉は行動しなければならないのだ。この際、ヒントになるならば誰の発言でも、どんな提案でも構わなかった。形振り構わず、愛莉は征悟へ話題を振る。


「ええ、そうね。今の私には時間が圧倒的に不足している。見聞を広めることも知見を深めることも出来はしないわ。だとするなら、すでに真と定義されている伝承を浚うしかないと思うのだけど、天笠君はどう思う?」


「フリッグ関連で最も有名な話をベースにするわけか」


 なるほどね。と征悟は頷く。ただ、この肯定は愛莉の発言に向けられたわけではないのだろう。彼の言葉のニュアンスは、愛莉の存在を度外視していた。目の前に居る少女になんの注意も払っていない。軽視すらしておらず、愛莉は征悟の眼中に無いようだった。


 そして、瑣末な追求をする猶予を彼は与えてはくれなかった。彼もまた話題を核心部へと近付けていく。彼の視点からすれば、核心部へ愛莉を誘っているのかもしれなかった。


 そうして天笠征悟はとある北欧神話を口にした。


「パッと思い付く限りだと、太陽神バルドルとヤドリギの若芽関連の逸話とかか」


 その話は愛莉も既知の内であった。


 フリッグの息子であるバルドルがある日不吉な夢を見た。これをフリッグは凶兆と捉え、バルドルを傷付けないよう遍く万物に契約を強いたのだ。ただしヤドリギの若芽だけは若すぎると判断された結果、契約を免除される。しかし後々ロキの策略に嵌まり、バルドルはヤドリギの若芽に胸を貫かれて死んでしまう。


 これが、征悟が言うフリッグ関連の逸話の内容である。要するに、母が子を守るために東西奔走する物語だ。


 またか、と愛莉は辟易した。


 また、家族なのか。


 七枷愛莉とは無縁であった概念が、ここに至って彼女を苛む。今まで深く考えなかった期間が長い分だけ、襲い来る揺り戻しは強く大きなものに感じられた。


 苦々しい想いが胸中に満ちる。架空の苦味は舌の根を刺激して、彼女の表情に苦渋を混ぜた。苦み走った、複雑になった愛莉の顔色を見て、征悟は口を開く。


「それが鍵だな」


 と。そう、断言した。


「ウチの親愛なる妹君は七枷に悪意で構成された助言をした筈だと思うんだが――心当たりは、あるよな?」


 当然――あった。


『実の親を殺しかけた程度で育ての親を傷つけられない、なんて激甘なことを――この期に及んで言わないわよね?』


 猛毒を含んだ美しい声音と共に人を小馬鹿にした嘲笑が想起された。


 思い返せば、彼女のこの一言から愛莉の揺らぎは始まったのだ。


 不快な言動が海馬から掘り起こされた結果、愛莉は柳眉を逆立て、中空を睨む。不機嫌であることを外界へ晒したからか、愛莉の顔を覗き込んだ征悟は声を立てて笑う。気がささくれ立っている最中に行われたその挙動に、愛莉の心は益々刺々しくなった。


「今朝の段階から思ってたんだけどさ、七枷は素直過ぎるんじゃないか? 普通の人間みたいな反応を繰り返してたら、あの職場は疲れると思うんだが」


「うるさい。分かってるわよ。そんなことは」


 荒んだ反応を返せば、征悟は肩を竦めただけで、それ以上の詮索をすることはなかった。しかし、愛莉から話を聞く必要が無くなっただけで口を閉じたわけではない。


「つまり、七枷は魔術師の家系とは関係無い、後天的な宿神憑きなんだな。で、色々と一般人の両親に持て余されていたお前を引き取ったのが影沼徹ってわけか」


「……そのこと、天笠君に教えていたかしら?」


「いいや、教わってないな。二人は義理の親子だってことが紅谷との与太話でちょっと話題に上がったくらいだ」


 まあ、詳しい事情は紅谷が面倒がって話さなかったから、俺は知らないんだけどさ。と、けらけらと笑いながら征悟は言う。


「貴方たち兄妹って、ずいぶんと饒舌なのね」


 他人の心を土足で踏み荒らしていく所業を愛莉は皮肉を交えて非難したつもりだが、本人はまるで意に介していない。どころか、皮肉を肯定するように尚も彼は笑った。


「そりゃあ似てるだろうさ。立場こそ違うだけで瑠華とはずっと遊び場を共有してきたからな。そしてそのおかげで、アイツの発言もある程度の予測はついたりするんだよな。で、だ。七枷。お前、影沼に引き取られるとき――何かやらかしたな?」


 彼は愛莉を問い質した。


 戯けるような口調は相変わらずだ。事の成り行きを楽しむ彼の気質も、現在進行形で肌が感じている。なのに、こちらを見つめる瞳は真っ直ぐであり真摯的だ。半端な回答を受け付けない気迫が備わり、文字通り七枷愛莉は天笠征悟の視線に射竦められた。


 いや、流石にそれは錯覚だろう。確かに征悟には眼力があり、適当なことを口にできない意気も感じさせる。だがそれは、七枷愛莉が退く理由には成り得ない。


 愛莉がたじろぐ理由があるとすれば、それは天笠征悟が原因ではなく、彼が指摘している事柄に根差すもの。要するに、愛莉の気負いが、罪悪感が、彼女自身を苛んでいるのだ。


 コツ、とローファーで歩道のタイルを踏み鳴らし、愛莉は歩みを止めた。一歩先行く格好となり、征悟もまた立ち止まる。征悟が身体を反転させ振り返ったことにより、二人の視線は否応なくぶつかった。


 最早その他の通行人は歯牙にも掛けない。直線になるよう造られた道路には、僅か二人だけしか存在してはいなかった。少なくとも、七枷愛莉の世界では。


 征悟が問い掛けてからどれ程の沈黙が流れたろうか。雑踏さえも耳に入っていない愛莉には正確な経過時間を測ることが出来てない。


 それ程までに、集中していると言えた。真剣であると言える。


 停止した二人だけの世界で、やがて愛莉は口を開いた。


「この問題を解決しなければ、私は先へは進めないようね」


 自嘲。あるいは自虐的な笑みが、彼女の面に張り付いていた。過去、これだけ深く重く思い悩んだことが愛莉にはなかった。即ち、それだけ問題と向き合わず、逃避していたという証明に他ならない。問題を棚上げして、現実から目を背けてきた。そのツケを眼前の少年によって払わされようとしている。


 愛莉は大きく息を吸った。そして呼気と共に言葉を吐き出す。


「私はね、ひどい、最低な過ちを犯したんだよ」


 それは告解にも似た、懺悔のような告白だった。彼女は今、赦しを得るために悔い改めている。他の何者でもなく、自分自身を赦すために七枷愛莉は言葉を紡ぐ。


 強いて言えば、ちっぽけな意地が彼女から逃げるという選択肢を奪っていた。またここで逃げ出せば、影沼徹と相対するなど夢のまた夢。彼の真意を聞き出すことは疎か、チームメイトからも笑われてしまうだろう。そうなれば、きっと紅谷弥生は七枷愛莉を対等な相手だとは見做さない。


 育ての親。親友。彼らに格好つけるためだけに、七枷愛莉は今までずっと避けていた己の咎と向き合う覚悟を決めたのだ。神父役が天笠征悟というのは些か役者不足かもしれないが、事の顛末のためなら彼は快く付き合ってくれるだろう。


 愛莉は語る。


「天笠君の想像通り、私の出自は魔術とは何の関係もない普通の家系よ。神話生物だって知識としては知っていたけど、目の前に現れるなんてこと、全く信じてなかったわ。なのに、ある日突然宿神なんてものが私に憑いた所為で、私の人生は反転した」


 言葉通り、裏返ったのだ。否、表立ったのかもしれない。どちらにしても、七枷愛莉はカードの表裏に描かれた絵柄を眺めれるようになった。


 世界は偶然で動いていた。偶然は必然によって解き明かされた。


 現実は奇跡が満ちていた。奇跡は人の縁が創り出していた。


 社会は不思議で溢れていた。不思議は文明によって淘汰された。


 考えもしなかった疑問が浮かび、自然と解答が脳裏を過る。誰かに尋ねるわけでもなく、全て自己解決したために、自身の特異性をあまり意識してはいなかった。精々、視野が広がったくらいのものだ。当時の愛莉は、自分の身に起きた異常をその程度の認識しかしていなかった。普通だとも違っているとも、考えることはなかったのだ。


 全く以て滑稽だ。健常者が自身の健康を疑わないのと同様に、成功者が自分の成功を意識しないのと同じくして、七枷愛莉は己の異常を認識してはいなかった。意識の上にすら登っていない。他人との差異などあって当然であるし、わざわざ比較する程のことでもない。幼い頃からそのような考え方を身に付けていたわけではないが、どうでもいいと捉えていたことは確かだ。


 それが間違いだった。最初の過ちである。彼女は自分の特異性を、異常性を、ちゃんと把握しておくべきだったのだ。


 人と人は違っているし、誰しも個性や長所がある。出来ることが多ければ、それはそのまま強みになるし、他人に認められる手助けにも、他人を測る物差しにもなる。


 しかし、それはあくまでも一般的な意味で普遍的な人間を捉える限りのことである。特異な人間は、長所を潰す必要があった。異常な人間は個性を排さなければ共同体の中では生きていけない。そのことを幼き日の七枷愛莉は理解していなかったのだ。要するに、無自覚だった。


 結果、悲劇が起こる。


 切っ掛けは瑣末なものだった。神話生物に襲われて、それを撃退しただとか、そんなドラマチックな理由は無い。今となっては何が原因だったのかさえ愛莉はよく覚えていない。しかし、重要なことではなかった筈だ。きっとそこはかとなくくだらない事由だった筈なのだ。


 その末梢的なつまらない事柄のために、七枷愛莉は肉親を手に掛けようとした。誤解が無いように言えば、彼女に殺意があったわけではない。今現在も隔たりこそあれ、親を恨んだことはない。ただ彼女は癇癪を起こしたようなものなのだ。七枷愛莉が徒人ならば、なんてことはない。どこにでも家庭風景の一幕だ。翌年の法事では親戚たちの肴になっていた可能性だってある。


 だが、愛莉は宿神憑きだった。無自覚に強大な力を孕んだ存在だった。仔虎が親と戯れ合うのに不都合はある筈がない。しかし、もしも親虎がただの猫だった場合、この戯れ合いは捕食行為へと変貌する。仔虎にそのつもりが無かったとしても、猫は必ず死んでしまうだろう。


 瑣末な事故と言えばそれまでだが、確かにその時、七枷愛莉は実の親を殺しかけた。


 そういう点では、未遂で済んだ愛莉は幸運な方と言える。取り返しがつかなくなる前に、ようやく彼女は自身の異質さを自覚したのだ。そして、努めて意識しないように意識していた結果、彼女の中で動脈瘤にも似た蟠りが生まれたのだ。年月を経て瘤は徐々に大きくなり、内包した感情を噴出させまいと耐えている。その瘤がいよいよ破裂しそうになっている。――積極的に爆発させようとしている者の所為か。


 いつまでも無自覚で居ようとした愛莉に、現実を叩き付けた銀髪の少女。


 彼女のおかげで、自分が全く成長していないことが分かった。三つ子の魂百までとは言うが、この期に及んで、まだ自覚しようとしなかったとは自分でもほとほと呆れてしまう。


 自覚が足りない。


 宿神憑きは世界を構成する要素には成り得ない。部品や歯車とは違い、もっと直接的に世界を運用する術を握っている。個々のパーツは操縦者にはなれないのだ。それが出来ないのは、理解が足りないからだとルカは言った。


 大自然に意志と格を与え、神となった存在を理解しろ。と、彼女は言う。だとするならば、神の考えに至ったとき、根源へと辿り着いた先には、自我というものは残るのだろうか。そうなってしまえば、その人物は宿神憑きではなく、神そのものに変じてしまうのではなかろうか。


 ふと、愛莉はそんな疑問を抱いた。


「事故で親を殺しかけた。なるほど。それはまあ、世間一般では嫌な記憶に該当するよな。自分の不注意で起こったことなら尚更だ。それで、今の七枷は忌避すべき記憶を、どう思ってるんだ?」


 独白をやめるなと眼前に立つ少年は言っているようだ。


 春とは思えない寒風が二人の間を取り巻いた。風に乗せるように、愛莉は言葉を紡いだ。


「忌憚無く言えば、反吐が出るわ。敵対者を葬るのと、親しい理解者を傷付けるのはまるで違う。出来ることなら繰り返したくない。それが――私の本心、なんでしょうね」


 そうか。と、彼は頷いた。


「なら、解は出ている」


 分からないなら、それは七枷に自覚が無いだけだ。と、天笠征悟は言葉を締めくくった。


「どういう――意味よ」


 狼狽する。


 本来のテーマは七枷愛莉の心象兵装を如何にして昇華させるかということだった。心傷を語ったのはあくまでも、蔑ろにしてきた過去と向き合わなければ先へ進めないと判断した結果であり――そうだ。彼は道を妨げていた障害物を排除できたのだ。客観的な分析によるものか、直感的な判断を採用したのかは分からないが、彼は愛莉が抱える問題に一筋の光明を見い出したのだろう。


 愛莉自身が気付けないだけ。自覚が――無いだけ。


「まるで成長しないのね、私って」


 零れ落ちたのは自らを虐げる言葉だった。起点と同じだ。そこに解はあると少し考えれば分かる筈なのに、手遅れになってから気付くのだ。過去の焼き回しにはしない。自身に誓うが、それがどれ程の効力を持っているのだろう。


 征悟に問おうとは、思わなかった。尋ねても、彼は答えないだろう。これは自分で気付かなければならないことの筈だから。自覚とは、自ら悟りを覚えることなのだから。


「ようし。それじゃあ俺に割り振られた配役はここまでみたいだな。後は――好きにやらせてもらうとするか」


 征悟の言葉を皮切りに雑然とした喧噪が愛莉の聴覚を刺激する。道行く人間のヒールや革靴が路地のタイルを蹴り付ける音。通行人同士の他愛のない会話。唐突に鳴る電話やメールの着信音。想起に没頭していた愛莉は、ようやく現実へと帰還した。


 思考には行き先と道筋を示唆された。爽快感こそないが、迷宮から抜け出たような感覚は確かにある。過去の事故。フリッグの逸話。心象兵装の昇華。何かが、繋がっている――気がするのだ。後は、それに気付くだけ。


 そして再び思考の海に埋没しようとしたところで、征悟に肩を叩かれた。


「いつまでこんな寒空の下に突っ立てるつもりだよ。時間はまだあるみたいだし、暖を取れるとこに移動しようぜ」


 いつまでも同じ場所に立っていたら通行人の邪魔になるだろうし、冷たい風から身を守れる場所に移動するのは賛成だ。それにしても、彼はいつまで愛莉と行動を共にするつもりなのだろうか。先程のやり取りも、あたかも愛莉に解決策を暗示させるような役回りだった。いや、本人も先程は『割り振られた配役』と言っていたではないか。天笠征悟は七枷愛莉に過去と向き合わせるための装置でしかなかった。


 つまり、仕組まれている。彼がこんな面白くもない昔話に耳を貸す姿から、筋書きを書いたのはルカなのだろうと予想がつく。そして一役終えたにも関わらず、まだ諾々と従っているということは、それに見合うだけの対価が用意されていることに他ならない。


(想像よりもずっと早く、徹と向かい合うことになりそうね)


 愛莉は漠然と、そんな感想を抱いたのだ。

 

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