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5億km²の牢獄  作者: Wolke
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01:回想

 人って、こんなに脆いんだ。

 

 少女がその事実を知ったのは、小学校高学年のときだった。

 

 少女はリビングのチェアに座していた。四人掛けのテーブルには夕食が並び、空々しくテレビの音声が場を満たす。敷かれたカーペットとその上に配置されたローテーブル。明るい色のソファと壁紙は、蛍光灯の光を淡く押し返している。


 部屋の中に暗がりなどなく、煌々と室内の全てを見渡せた。そして調度品は、等しく血で濡れていた。ぬらり、とやや粘り気を帯びた液体が、我が物顔で領地を広げる。


 ヒビが入った窓ガラス。床に落ちた壁掛け時計。キャビネットは横倒しになり、上に乗っていた家族写真のフレームは落下した衝撃で粉々になっている。鋭い刃物を突き立てたように、白く塗られた壁には縦横無尽に裂傷が走っていた。


 室内を、嵐が通り過ぎて行ったかの様相だった。癇癪を起こした子供が理不尽に暴れたような、重く嫌な空気が蟠る。


 そしてチェアに腰掛けたままの少女はどうすればいいんだろうと思案を深める。少女の間近には二人の大人が居た。すでに成人を迎えて久しい中年の男女だ。その男女を、少女はお父さんお母さんと呼んでいた。


 その片方。父の身体から、際限なく血液が流れ出ている。母は父に縋り付き、涙を流し、慟哭する。おんおんと悲しみにくれる母に、少女は何と声を掛けていいのか分からない。


 ただ十年少々の短い期間で培ってきた常識が、こういう場合は救急車を呼ぶべきだ、と告げていた。怪我をした人は、病院に運ばなくてはならない。少女が行おうとしたことは、社会に準拠する、模範行動と言えるだろう。


 だから少女は立ち上がった。ぎぃ、とチェアが床との摩擦で異音を立てる。その音に、母は悲鳴を上げて震え始める。そして、母親は少女に向かって怒鳴りつけた。動くな。近寄るな。消えろ化け物。お前なんか私たちの子供じゃない。と。


 そこに暴力的な雰囲気は欠片もない。少しでも自分を強く見せようという威嚇行為。母が纏う感情は、怯えと恐懼。とてもではないが脅している人間が放つものではない。年端も行かぬ娘に恐怖し、ガタガタと身を震わせる。

 

 プライドも尊厳もなく、見るも哀れな姿を晒す。しかし、少女はそこまで機微を読む力に長けているわけではなかった。


 どうしてそんなことを言うのか。自分はただ電話を持ってこようとしただけなのに。


 少女にとって理不尽とも言える叱咤は、許容できるものではなかった。罵詈雑言を並べられる覚えはないと、少女は母をジッと見つめた。咎めるように。糾弾するように。


 それだけで、母親の忍耐は現界を迎えた。情けなくみっともない悲鳴を上げながら、這々の体で少女から離れる。蛍光灯に彩られた影法師が、道化のように踊り狂う。斯くして、母はリビングからキッチンへと姿を隠してしまった。今も尚、父の意識は戻らず、血が流れ出ているというのに。


 仕方なく、少女は荒れ果てた部屋の中から電話機を探す。携帯でも子機でも、通話が出来るのなら何でも良い。ただ早く救急車を呼ばないと。とだけ考えていた。


 散乱した部屋を整理しながら、少女は電話機を探し求める。その最中に、どたんがたんとキッチンから大きな音が響く。母が冷静になったのだろうかと、期待した目でキッチンへの入り口を見遣れば、ちょうどそこから、のそりと母が出てくるではないか。


 ただし、目は血走り、手には包丁を携えている。意図の通じぬ奇声を発しながら、母は少女に躍りかかった。髪を振り乱し、わけもなく飛沫を撒き散らしながら包丁を振り被る姿は、どう見ても狂気じみていて。少女の不安を煽るには十分過ぎる演出だった。


 危ない、と少女は思った。恐い、とも。

 

 その瞬間、部屋の中を一陣の颶風が駆け抜ける。少女を中心にして迸った風陣は、包丁の刃を切り落とし、テーブルとチェアを斜めに裂き、母に無残な血華を咲かせた。風紋が走った後には、血生臭さだけが残っていた。


 ぐらり、と母は父同様に崩れ落ちる。


 初めに父が血を噴き出す原因を作ったのも少女であった。それに怯えた母は、過剰な自己防衛を働いたに過ぎない。しかし、少女はその事実にあまりにも無自覚であった。自身が成したことを何一つ理解せぬまま、少女は電話機を発見する。


 黒色の折りたたみ式携帯電話を手にし、少女は119番通報をしたのであった。病院へ搬送された両親は、どうにか一命を取り留めた。しかしその後親子は一度も顔を合わせることはなかった。


 少女がどこへ引き取られたかなど、両親は知ろうともしなかった。


 そして娘は――囲われている、と感じていた。何処にも行けないし、何にもなれない。この世はまさに牢獄のようだ。


 その娘の現在は――

 

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